陽一、暴力について考える
西村陽一の起床は遅い。彼は学校には通っていないし、特定の仕事にも就いていない。いわゆるニートなのである。したがって、普段は昼まで寝ている生活だった。
その日も、陽一は昼過ぎに目を覚ました。
起きると同時に、痛みを感じた。体のあちこちが痛い。顔も腫れているだろう。着ていたシャツは血だらけだ。昨日、不良にボコボコに叩きのめされ、傷だらけの状態である。
にもかかわらず、不思議な高揚感を覚えていた。あの時、公衆便所にいきなり現れたスキンヘッドの男は、一撃で不良少年をぶちのめした。アニメ化されているような漫画やライトノベルで描かれているような格闘シーンなどとは根本的に違う、本物の闘いだ。
そこには一切の虚飾がなかった。あるのは冷酷な現実である。体の大きく鍛え抜かれた強い者が、弱いくせに意気がっている不良を叩きのめす。その光景は、綺麗事と欺瞞に満ちていた陽一のこれまでの人生において、初めて目撃した本当の暴力だ。生々しくも新鮮な刺激であった。
遅い朝食の後、いつものように小説投稿サイトを覗いて見る。相変わらず、自分の投稿した小説は人気がない。昨日のアクセス数は十だった。これでも、陽一の作品にしては多い方なのだ。
しかし、そんなことはどうでもよくなっていた。ふと気づくと、夕べの出来事を思い出している。スキンヘッド男の強さは本物だった。こんな小説の戦闘シーンに登場するようなキャラクターとは、根本から違う。あの男の姿と動きを見たのはほんの一瞬だったが、今も脳裏に焼きついている。全てにおいて無駄がない動き。大柄で筋肉質の体がしなやかに動き、次の瞬間に不良が地上に這わされていた。
気がついてみると、あれだけ毛嫌いしていた異世界転生バトルものに目を通していた。転生した主人公が、魔法でバッタバッタと敵モンスターを倒していく。
思わず、笑みを浮かべていた。以前の陽一なら、すぐに腹を立てて読むのを止めていたはずだ。しかし、今は笑える。そう、以前と感想は同じだ。バカらしいの一言で終わりである。ただ、今は苦笑という反応が出るだけだ。不思議と腹は立たない。
まあ。どうでもいいことだ。リモコンに手を伸ばし、テレビをつけてみる。
いきなり、アナウンサーの神妙な顔がが画面に映った。ワイドショーにて、凄惨かつ猟奇的な事件の特集が組まれているらしい。
「今朝の五時過ぎ、ひとりの男が両手両足をへし折られ、両目を潰された状態で路上に放置されていましたた。たまたま通りかかった人が通報し男は病院に運ばれたものの、精神が錯乱しており支離滅裂な言葉を喚き散らすことしかできない状態だそうです。持ち物などから、男は近くに住む職業不詳の寺門達也さんと判明しました」
アナウンサーの声を聞きながら、陽一は改めて暴力について考えてみた。
暴力は決して肯定できるものではない。だが、確実に存在する。暴力が支配する世界もまた、この社会の闇の部分に存在しているのだ。その餌食となってしまった者が、あの寺門という男なのだろう。本当に恐ろしい話だ。両手両足をへし折り、両目を潰す。そのままの状態で生かしておくとは……殺すより、残酷かもしれない。
陽一の中に、得体の知れない何かが湧き上がってくるのを感じた。恐怖と興奮、そしてドス暗い何か……。
そう、異世界は存在しているのだ。トラックに轢かれなくても行くことができる場所。この世界の裏側に──
ふと思い立ち、サイトのランキングをチェックしてみた。相変わらず、異世界転生作品が上位を占めている。冴えないニートで引きこもりな主人公がトラックに轢かれて死ぬ。しかし神様が現れ、「すまん、間違えて死なせてしまった」などと言って異世界に転生させる。
お前らは、そんなに異世界が好きなのか?
なら、現実にある異世界を僕が教えてやるよ。
トラックに轢かれなくても行くことの出来る、現実の異世界をな。
陽一は立ち上がり、左腕を振る。いや、左のパンチを虚空に放つ。あの不良の、ピアスだらけの顔を思い浮かべ、そこにパンチを放つ。かつて格闘技もののマンガで見た、ボクシングの左ジャブ。拳を顔の前から、素早く前に突き出す。直後、素早く戻す。マンガで覚えた見よう見まねの左ジャブを放ちながら、次の作品について考える。
次の作品では、本物の裏社会に生きる男を描きたい。
あのスキンヘッドの男のような者を描いてみたい。
考えを巡らせながらも、左ジャブを放ち続ける。いつの間にか、体から汗が吹き出す。額から流れ出る汗が、床に滴り落ちた。それでも、一心不乱にパンチを打ち続ける。
汗とともに、心の毒素まで吐き出す。自らの心に芽生え、動き出そうとしている暗い何かを押さえつけるために。
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