一郎、事情聴取を受ける

 仁美一郎ヒトミ イチロウは、ごくごく平凡な二十五歳の独身男性だ。彼に欲はなく、今のままで満足だった。

 今の生活は、単純そのものだ。朝起きてバスと電車を乗り継ぎ、仕事に行く。定時には仕事を終えて家に帰る。プライベートにおいて付き合いのある友人知人は、ただのひとりもいない。一郎の生活は規則正しいものだった。




 しかし今夜は違う。帰って来たのは十一時過ぎだ。聞いた話だと、シャブ中の運転する車が道路を猛スピードで暴走し、護送車と正面衝突した。運転手は即死だったらしい。

 結果、護送されていた容疑者が脱走したのだという。警察は周囲に警戒線を張り巡らせた。その範囲内に、一郎の乗るバスもあった。警察はご丁寧にもバスを止め、全員に話を聞いてまわった。

 挙げ句、全く無関係の一郎が目を付けられてしまったのだ。


「名前は仁美一郎です。両親は亡くなりました。いつ死んだのかは覚えていません。現在、サラリーマンをしています」


 何気なく発した言葉である。すると制服警官は顔色を変え、無線で何やら連絡する。

 その後、一郎はパトカーに乗せられ警察署に連れていかれた。「任意で」とのことだったが、断ると脅したりなだめすかしたりしてくる。面倒くさくなった一郎は、取り調べに同意したのだ。


 午後十時過ぎ、ようやく解放された。

 警察署にいる間、なぜか刑事は、一郎の身元を徹底的に調べた。また、執拗に両親のことを聞いてきたのだ。

 

「両親がいつ死んだのか、よくは覚えていません。確か五年くらい前に、交通事故で死んだはずです。別に悲しくはありませんでした。人はいつか死ぬ、と聞いていたので、遅いか早いかの違いです。それよりも、葬式が嫌でしたね。面倒くさかったもので」


 一郎のその言葉を聞き、取り調べに当たった中年の刑事は露骨に不快な表情を浮かべた。

 ややあって、刑事はため息をつく。


「俺の名は高山裕司タカヤマ ユウジだ。また話を聞くかもしれないが、今日のところは帰っていいよ。あと、ひとつ忠告する。君は一度、病院に行った方がいい」


 不思議な話だ。自分は至って健康である。なのに、なぜ病院に行く必要があるのだ? そもそも、自分の両親が死んだことと護送中の容疑者が逃げたことと、何の関係があるのだろう? あの刑事の言っていることは、全くもって理解不能だ。あんな者に日本の平和と安全を任せておいて大丈夫なのだろうか。

 まあ、いい。自分の知ったことではない。

 帰宅してから洗濯などの用事を片付けているうちに、気がついたら零時になってしまっていた。昼から何も食べていない。取り調べでカツ丼でも食べさせてくれるかと思ったが、結局は何も出なかった。

 ちゃぶ台をセットし、夕食を食べ始める。とは言っても、カップラーメンと食パンという寂しいメニューだ。もっとも、一郎は食事にはこだわらない。どこそこの店の何が美味しい、などと言う話には全く興味がない。どんな物を食べようが、最後には排泄されるだけだ。そんな事にこだわるのは時間と金の無駄だとしか思えなかった。

 この性格は、部屋にも表れている。生活に必要な最低限の物しか置かれていない。まるで刑務所の独房のごとき殺風景な部屋である。

 食事を終えると、一郎は布団を敷いた。そして立ち上がり、電気を消す。その時、窓から妙なものが見えた。

 街灯に照らし出された道路を、傷だらけの少年がヨロヨロしながら歩いている。ここからでは顔はよく見えない。しかし、着ているシャツは血まみれなのははっきりとわかる。

 一郎は考えた。護送車の事故は、ここからかなり遠い場所で起きている。しかし、車を使えば来られない距離ではない。もしや、あの少年が脱走犯なのだろうか? 

 いや、それはないだろう。そんなことはわかっている。

 しかし、一郎は目を離すことができなかった。あの少年が脱走犯であろうがなかろうが、そんなことは自分には何の関係もない。にもかかわらず、一郎はじっと彼を見つめていた。

 そういえば昔、あんな血まみれの人を見た記憶がある……。






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