第41話 覚悟 その4

 五月の連休初日、早朝の福岡空港は既に多くの人で混雑していた。友達や恋人と旅行に出かける人々や、里帰りをする家族連れがカートに荷物を満載してチェックインカウンターで列を成している。地下の駅に繋がっているエスカレータから小さなスーツケースとリュック、そして手土産てみやげの紙袋を持った俊介が上がってきた。

 身なりは軽装過ぎず、かといってあまりフォーマルでもない。チノパンにジャケットを羽織る程度の格好だ。

 ユウリにはメールで到着時刻を連絡してある。ユウリは空港まで迎えに行きたかったが、俊介が大胆な行動は止めておこうと言ったので、実家で待つことにした。代わりにユウリの兄が実家の最寄り駅まで迎えに来てくれることになっている。

 ユウリに会えるのは嬉しいが、やはり実家に行くという緊張感も強い。飛行機に乗っている間も、ユウリの両親の事ばかりを考えてしまう。『いきなり門前払いをくらったら、どうしよう』色々と考れる限りの状況を思い浮かべ、最悪な事が起きた時のショックを少しでも和らげようとしていた。

 ユウリの実家は空港から電車で四十分ほどのところにある。空港を出発してしばらくは、オフィスビルや大きな電子看板が密集した都会的な街並みが続いたが、徐々に高層マンションが立ち並ぶ住宅街に変わった。さらに川を越え、緑が豊かな公園、そして点々と畑が見え始めた頃に、下車する駅に到着した。ゆっくりと定位置に停車した電車からホームに降り立ち、周りを見渡した。改札口は一つしか無いようだ。電車から降りた人も十数人ほど。人々の一番後ろを、電車の動き出す方向に歩いた。二列しかない改札機を通り、数段の階段の先に小さなロータリーが広がっている。日本の駅で例えると、かろうじて準急が止まるぐらいの駅だろうか。人も車もまばらで、店が並ぶような繁華街はんかがいではない。

 車に寄りかかっていたユウリの兄のジェンは、スーツケースを持って誰かを探しながら改札口の階段を降りる俊介を見て、直ぐに気づいたようだ。この駅にはスーツケースを持った観光客はいない。背の高い男性が俊介に英語で話しかけてきた。

≪俊介さんですか?≫

 ジェンは日本語は話せないが、それなりに英語は話せる。

≪ユウリのお兄さんですか。初めまして城山俊介です≫

 俊介もジェンを見上げるように自己紹介をした。ジェンは俊介のスーツケースを持つと、近くに停めてある車のトランクに入れた。車内でジェンは俊介の緊張をほぐすように、気さくに話かけてくれていた。彼は電気メーカのエンジニアなので、工学部出身の俊介と話が合う。

『お兄さんは、俺の事を歓迎してくれているようだ』

 そう思うと、少し気持ちが楽になる。それでもやはり緊張していたせいか、あまり途中の景色の記憶が無い。長い時間走ったような気もするが実際は十五分ほど走った程度か。

 家を目の前にすると、彼女の実家に来た重みが急にのしかかってきた。『ついに来てしまった』俊介は正直そう思った。家の中から犬の鳴き声がする。鳴き声からして小型犬ではなさそうだ。

『頼むから、噛みついてくるなよ』

 緊張感が集まった指先がスーツケースの取っ手をもむように動いている。ジェンが玄関の扉を開けて中に招いてくれた。人の家の中をあまり見回すのは失礼と思ったがやはり気になってしまう。眼だけを少し動かし、様子をうかがいながら玄関でたたずんでいると、階段からいきおいのいい、それでいて体重の軽さを思わせる足音が聞こえてくる。あの日、空港で別れた時と同じツインテール。でも今日のツインテールは弾んでいた。

「ユウリ……。」

 そう口ずさむ俊介を見て、ジェンは家の奥の方に入って行った。

「すごーい。本当に俊介が来た。私の家にいるなんて夢みたい」

 少し手を延ばせばほほに触れることが出来る距離だ。心の底から喜んでいることが言葉から、わずかな動きから、瞳の潤いから、痛々しいほどに分かる。『こんな笑顔のユウリに、不安で寂しい思いをさせていたのか』そう思うと、

「寂しい思いをさせて、ごめんね」

 一言目に謝った。その言葉にユウリの笑顔も一瞬崩れたが、涙をこらえるように再び笑った。

 ユウリの愛犬はちょっと大きめのシェルティーで名前はシェリー。シェリーにもユウリの気持ちが分かるのか、大喜びで俊介に飛びついてきた。俊介は子供の頃から何故か犬には好かれる。

 ユウリの母チユウが玄関に俊介を出迎えに来ると、娘の幼馴染おさななじみに久しぶりに会ったような笑顔で挨拶をしてくれた。

≪いらっしゃい。疲れたでしょ≫

 ユウリが日本語に訳してくれている。そしてリビングに通してくれたので、『よかった、お母さんも優しそうだ』俊介はさらに気持ちが楽になった。家の間取りや広さは日本の家と同じような感じだ。大きな窓があるリビングは照明がついていなくても明るい。三人掛けのソファーの端に座るとすぐにシェリーが俊介の膝に前足をのせて、何かをせがんでいる。両手で頭を包むように首から耳の後ろまでをでると、長い舌を出したまま目を細めた。

 ユウリは俊介の隣に座り、シェリーのこと、この街のことを次から次へと身振り手振りで話し始めた。上機嫌な娘につられるように、チユウが軽い足取りで飲み物をトレーに乗せ運んできた。俊介は立ち上がり、

「自分は城山俊介です。突然お伺いしてしまい、申し訳ございません」

 と、礼儀正しくお辞儀じぎをした。ユウリが俊介の挨拶を訳しながら、俊介の真似をして無邪気にお辞儀じぎをしている。

≪楽にしてくださいね≫

 チユウは色々と話をしたかったが、夫が帰って来てからにしようと思い、キッチンの方へ入って行った。ユウリの父は外出しているようだ。

「私の部屋に行こうか」

 ユウリは自分と俊介のカップを持ち、二階の自分の部屋に案内した。俊介もチユウに軽く一礼をし、スーツケースを持って二階に上がって行きながら『ここまでは順調だ……』とすっかり安心している。

 俊介は部屋に入り丁寧にドアを閉め、座る場所を案内されるのを待っている。ユウリは両手に持っているカップを机に置いてから振り向き、突然抱きついてきた。

「ずーと、ずーと会いたかった。本当に来てくれたんだね」

 俊介は今までに女性と付き合ったことが無い。もちろん女性を抱きしめるのも初めてだ。鼻に触れたユウリの髪からリンスをまとったユウリの香りが脳に広がり、記憶されていく。そっと両手をユウリの背中に回し、少し力を入れた。こんなに華奢きゃしゃで壊れてしまいそうな身体からだに今まで触れたことは無い。人の身体からだがこんなに暖かいとは……。初めての感覚だ。


 どれぐらいの力で抱きしめればいいのか……。


 不思議と性欲は全く湧いてこない。ただただ愛しい気持ちだけがユウリを包み込んだ。

 俊介は「実家に行く」と自分で言い出したものの、色々と考えているうちに実家へ行くことに少し気が引けていが、今この瞬間『会いに来てよかった』と心からそう思い、自分の行動力に感謝した。

 俊介は何と話かければいいのか分からなかった。何を言ってもクサいセリフになりそうだったからだ。しかし素直な気持ちをそのまま言葉にした。

「直接会って言いたいことがあった」

 俊介はユウリを抱きしめたまま髪にほほを押し当てそう言うと、

「なに?」

 ユウリが俊介の肩に頭を寄せたまま優しく訊いてきた。

「ユウリが好きだよ」

 言ってから俊介は『まさかこんなセリフを言う時が来るとは』と照れくささが込み上げてくる。

 ユウリが更に力を入れて俊介を抱きしめてきた。それが何よりもの返事だ。ユウリの顔は見えないが、抱きしめた背中が小刻みに震え、泣いていることはすぐにわかる。

 少し正気を取り戻してきた俊介はユウリを抱きしめたまま『この後はどうすればいいのか……』と焦っていたが、その必要はない。ユウリは余計なことをせずに、ただ抱きしめていてくれる俊介に心地よさを感じていた……。


 ユウリは抱きしめていた腕の力を抜いて、俊介の顔を見ると、

「また泣いちゃった」

 軽く涙を拭き、俊介に飲み物の入ったカップを手渡し、二人でベッドに座った。

「そう言えば、私が日本をつとき、どうして会いに来てくれたの?」

 やっとこの事を訊くことが出来た。今までにもメールで訊く機会はいくらでもあったが、あの時の寂しくも幸せな瞬間の出来事に触れると切なくなりそうで、話をすることが出来なかった。

 でも今は目の前に俊介がいる。

「なんでかな。ジッとしていられなかったからかな」

「私が意地悪なメールをしたから?」

「そんな事ないよ」

「本当に? 俊介は優しいな。でもよく時間がわかったね」

「朝四時に夏樹さんに電話して教えてもらった」

「朝四時に? そんな時間に夏樹は起きてたの?」

「寝ていたよ。めちゃくちゃ怒ってた」

「そりゃ、怒るわよ」

 ユウリは楽しそうに俊介の話を聞いている。まさかそんなドラマがあったとは……。

「ユウリも解散して辛かっただろ?」

 ようやく俊介が解散した自分の気持ちを訊いてくれた。

「辛かった。本当に辛かったわ。俊介は話を聞いてくれそうになかったし」

 少しふくれっつらになって俊介をにらんだが、直ぐに口元を緩めて笑った。

「ごめん。そんな時に限って、話を聞いてあげられなくて」

 俊介は申し訳なさそうに自分の膝をさすっている。

「でもそれで良かったの。一人で色々悩んで泣いて考えて。だから今はもう辛くは無いの」

 本当は俊介が会いに来る直前まで辛い気持は残っていたが、俊介に会った瞬間、ユウリの気持ちは前進し、ようやく解散という出来事を受け入れ、思い出となった。

「ユウリは強いんだな」

「ううん。俊介が会いに行くって言ってくれたから、その言葉が私を支えてくれたの」

 俊介は改めて『会いに来て本当によかった』と思った。もし自分がいそがしさを理由に会いに来なかったら、どうなっていただろうか。そう考えると怖くなる。いまは笑顔で話しているが、言葉に出来ないほど辛かったのだろう。そして、そんなユウリの気持ちを分かってあげられなかった事を強く反省した。

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