第36話 恋心 その7
ユウリの期待通り、俊介はモヤモヤしていた。全く眠れない。気を
『途中まで良い感じだと思ったんだけど。なんで?』
それは俊介の思い過ごしで、全然『良い感じ』ではない……。布団に潜りうずくまったが、暗くなると余計にユウリのメールが鮮明に蘇ってしまう。
「あー、なんで……」
もだえるように手足で布団を締め付けた。
結局俊介は眠れず、静かに時計を眺めていた。デジタル時計の表示は三時五十九分。何かを待っているようだ。
『よし、四時を過ぎた』
なんの
夏樹は布団に埋もれるように、幼い寝顔で熟睡している。突然スマホの着信音がけたたましく鳴った。布団の中で溺れるように手足を動かし、頭だけを上げると、
「あれ、朝? お母さん、朝?」
寝ぼけて訳の分からないことを言っている。暗闇で光を放っているスマホを見て、ようやく電話がかかってきていることに気付いた。スマホの画面には俊介の名前、そして表示されている時間は四時一分。
俊介は脚を揺すりながら顔をしかめた。
『いつまで寝てるんだ……。早く起きろ』
呼び出し音が止まり、電話に出たようだ。息を吸って話をしようと思った瞬間、
「何時だと思ってるのよ!! このバカ!!」
夏樹の声が右耳から左耳に突き抜けたが、今の俊介には全くこたえない。
「もう四時だ。朝だ」
俊介の中では深夜と朝の境目は四時らしい。
「だから四時に電話してくるな!!」
夏樹の
「ユウリのフライトスケジュールを教えてくれ」
夏樹ならユウリが何時の飛行機で出発するか知っていると思っていた。夏樹はユウリの名前を聞いて、一気に目が覚めた。
「えっ、ユウリがどうしたの。何かあったの?」
「別になにもないけど」
平然とした声で答えた俊介に、さらに腹がたつ。
「何もないのに、どうしてこんな時間に電話してくるのよ!」
「いいから、出発時間を教えてくれ」
「まさか空港まで会いに行く気? 会えるわけ無いでしょ。あんた、バカなの?」
夏樹はスマホに噛みつくように俊介を
「お願いだからユウリを悲しませるような無茶はしないで」
「分かっている。俺もそこまでバカじゃない」
俊介にそう言われ、夏樹は頭を
「頼む、教えてくれ」
今度は
「九時二十分発の飛行機……」
「わかった。じゃあ寝てくれ」
そう言うと、俊介は電話を切ってしまった。そしてスマホと財布を持ち。コートを羽織って、部屋を飛び出した。夏樹はあまりにも自分勝手な俊介の行動に、怒りが収まらない。
部屋を出てすぐに夏樹からメールが届いた。
(バカバカバカバカバカバカーカ)
怒りのメールを送って布団の中で荒く息をしていると、俊介から返信があった。
(最後「バカーカ」になってるぞ)
そのメールを見て、小さい声で叫びながら両手で髪を
ユウリ達は朝早くにスタッフの運転するミニバンでホテルを発っていた。昨日の朝はスマホを握りしめていたユウリが今日はスマホを鞄にしまい込んで、清々しい顔で車窓を眺めている。太陽の光がビルの壁や大きな看板を照らし始めていた。
≪今日は、スマホ君はいいの?≫
サキラが少し振り向き三列目に座っているユウリに訊いた。
≪いいの。少しはモヤモヤさせたほうが≫
ユウリは肩を上げ無邪気に笑っている。サキラが隣のエミリと目を合わせると、エミリが軽く首を傾けた。
≪あまり意地悪すると、後悔するわよ≫
サキラは深くシートにもたれ、軽く忠告した。
俊介に起こされた後、夏樹も眠れず、枕を抱えたまま時計を眺めていた。
『よし、七時になったわ』
そして沙友里に電話した。夏樹にとっては電話をかけても良い常識的な時間は七時のようだ。しかし沙友里はまだベッドの中で寝ている。突然電話の着信音が鳴り、慌てた沙友里は間違えて目覚まし時計を手にとってアラームを止めようとしていた。
『まだ七時……』
そう思い、鳴っているのが電話であることに気付いた。
電話口から、いつもの沙友里とは思えないほどの低い声が聞こえてくる。
「もしもし……、どうしたの……」
思わずスマホから耳を離してしまう程の声で夏樹が話し始めた。
「沙友里、聞いてよー」
夏樹は四時に俊介が電話してきたことから全てを話すと、
「どうしよう。ユウリに教えたほうが良いかな?」
興奮気味に意見を求めた。沙友里は眠るように目を閉じしばらく考え、力の抜けた声で、
「もうさ、二人の運命にまかせて、私たちは余計なことをしないほうが良いんじゃないかな」
そう言うと夏樹は、
「だよね。私もそう思う」
と明るく答えた。
「ならそれでいいじゃない」
呆れるように言って電話を切り、また布団に潜った。しかし今度は目覚まし時計のアラームが鳴った。
「あー、目覚めの悪い朝だな……」
いつも以上に気だるさを感じていた。そんな沙友里とは対照的に、外は突き抜けるような青空が広がっている。
空港に着いた俊介は、チャンスがあるとすれば手荷物検査を行う出国エリアだと思い、まっしぐらに向かっていた。ユウリを見つけられる可能性は極めて低い。見つけたところでどうするのか、何も考えていなかった。
その頃、キャップを深くかぶりメガネをかけたユウリはチェックインを済ませ、手荷物検査の列にいた。そして小さなカバンとブレスレットなどをトレーに置いて、金属探知機のゲートをくぐった。サキラも自分の手荷物や腕時計をトレーに置きながら、何気なくロビーの方を見て、目を疑った。そこには誰かを探している俊介がいる。すぐさまユウリの方を向いたが、ユウリは俊介に気付いていないようだ。ここでユウリの名前を呼ぶわけにもいかない。サキラはとっさにトレーに置いた自分の腕時計を掴むとポケットに入れ、金属探知機のゲートをくぐった。
「ピ、ピ、ピ、ピ」
金属探知機が反応し、大きな音が鳴っている。俊介は並んでいる人々の隙間から音の鳴るほうに顔を向けると、視界にユウリが入ってきた。キャップとメガネで顔を隠していたが、直ぐにユウリと分かった。ユウリはメガネの奥の瞳を真っすぐこちらに向け、信じられないという様子で立ち尽くしている。『ユウリ、見つけたよ』俊介は心でそう呼びかけた。
『俊介……』ユウリは後悔の念に
(私も大好きだよ。待っているから)
(必ず会いに行く)
二人はスマホから顔をあげ、見つめ合った。二人の間に、距離は無い。手を延ばせばすぐに触れ合えるような空間に感じた。ユウリはゆっくりとメガネを外し寂しくも幸せそうに微笑むと、サキラとエミリの後を付いていくようにツインテールを揺らしながら去っていった。
俊介はユウリが心の奥に置いていったその微笑みに全ての感情が奪われ、ただユウリの後姿を見つめている。
展望デッキに行こうと思ったが、止めた。ユウリが「大好き」と言ってくれた。でもその瞬間に別れなければならない、追いかけることも出来ない。嬉しさと寂しさが同時に沸き起こり、優しさに似たような感情となって心を切なくしていく。そんな切なさから逃れるように、足早に電車の駅に向かった。いまは一刻も早く空港を離れたい。
駅のホームは日本に到着した人々で賑わっている。観光で楽しそうに騒いでいる人、ビジネスで来た人、色々な人々が……。
ホームに入って来た電車の風圧が髪の毛をなびかせた時、電話が鳴った。徹からだ。
「で、会えたのか?」
「もうお前にまで話が行ったのか」
「ああ、沙友里経由でクレームが来た」
徹は笑っている。俊介もその声に気持ちが落ち着いた。
「少しだけど、会えた……」
「そうか、良かったな。でもあまり無茶はするなよ」
「そうだな。沙友里さん経由でお礼を言っておいてよ」
そう言って電話を切ると、電車に乗り込んだ。乗車口のドアに寄りかかり、青空に吸い込まれていく飛行機を眺めていた。
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