第35話 恋心 その6

 次の朝、ユウリはサキラとエミリの向かいに座り、朝食をとっていた。壁全体がガラス張りになっている窓から差し込む日差しが、眠気の残るユウリの眼を細めさせている。朝食をとるために作られたようなホテルのカフェは、青空の下にいるような明るさだ。窓際やテーブルの近くに置かれた植物の緑もまぶしさを放っていた。遅めの朝食ということもあり、ココット以外に人はいない。サキラとエミリは不思議そうにユウリを見たまま、手だけを動かして朝食を食べている。朝食に手も付けず時折スマホを見ては、また眠るように目を細めるユウリにサキラがごうやした。

≪そんなにスマホばかり見てどうしたの? まさか俊介さんからのメールでも待ってるとか≫

 図星ずぼしだ。

≪今朝メールをしたけど、一時間経っても返事が無いから……≫

 サキラは本当にそうだとは思っていなかったようで、目を大きく開け両肩を上げてエミリの顔を見た。息をはきながら肩を下ろし、またユウリを見ると、

≪メールなんだから、半日ぐらい返事が来なくても不思議じゃないでしょ≫

 さりげなくユウリをさとした。エミリはおっちょこちょいな笑顔で笑っている。

≪私なんか、いつも返信するのを忘れちゃうわ≫

≪そ、それも凄いわね≫

 エミリを見るサキラの顔は引きつっている。

 

「うわっ、やばい!」

 俊介は今起きた。寝間着ねまきに着替えずそのまま寝てしまい、目覚ましをかけ忘れていたのだ。スマホを見ると、自分が起きるはずだった時間に偶然ユウリからメールが届いていた。

(おはよう。もう起きているかな?)

 俊介はしばし寝坊したことを忘れ、とろけるように背中を丸めた。これが「骨抜きになる」という状態か……。

「夢じゃなかった……」

 むしろ夢の途中だ。しかしそのメールが届いてからすでに一時間以上たっている事に気付くと、一気に空気が注入されたように背筋を伸ばし、返事を書いた。

(おはよう。今朝は寝坊して、今起きたよ)

 そして、昨日と同じ服装のまま、朝食も取らずに部屋を飛び出していった。

 

 相変わらずスマホを見ては、ふて腐れるように目を細めるユウリを見て、エミリは心配そうだ。

≪いまからそんなんじゃ、身が持たないわよ≫

 そう言って朝食を食べるようにうながした時、スマホに着信があった。ユウリは眼を見開きスマホをわしづかみした。待ちに待った試験の合格発表でも見るようにメールを読み、スマホを膝元に降ろして穏やかな表情を浮かべた。

≪俊介、寝坊しただけなんだって≫

 その言葉にサキラが顔をしかめて反応した。

≪俊介? もうそういう関係なの?≫

 ユウリは目をらすようにうつむいて首をふったが、サキラもそんなユウリを見て心配になってきた。

≪ユウリ、気持ちは分からないでもないけど、あまり自分一人で浮かれてはだめよ。少しづつ俊介さんの気持ちや考えも確かめて行かないと、傷つくのはあなたよ。楽しいだけでは人を好きにはなれないから≫

 しかしこの時のユウリにはサキラの言っている意味は全く分からない。ただ黙ってうつむいているだけだ。

≪あと、まだココットは解散していないと言うことも忘れないでね≫

 サキラはリーダーらしく釘を刺すと、席を離れ観葉植物の葉を揺らして部屋に戻って行った。エミリはサキラの後姿を眼で追い、そしてユウリを見ると、サキラに怒られたと勘違いして落ち込んでいる彼女の誤解を解こうとした。

≪サキラは怒っているわけじゃないのよ。あなたの事が心配なの。サキラも以前に辛い思いをしているから≫

 ユウリは上目遣うわめづかいでエミリを見たが、どうして自分が心配されているのか分からず、またうつむいた。

 

 コンサート最終日は予想以上に盛り上がり、大成功に終わった。ココットの三人も笑顔ではあるが疲れが顔に出ている。特にユウリは前日あまり寝ていなかったため、食事を簡単に済ませ、自分の部屋に戻り照明もつけず、ベッドに倒れこんだ。しばらくして残っている力を振り絞るように、スタンドの横に置いてあるスマホに手を伸ばした。ホテルを出てから今まで、電源を切ったままだ。電源ボタンを押すと、仰向けになりスマホをひたいに置いて起動するまで目を閉じていた。閉じたまぶたが明るくなるとひたいからスマホを離し、ロックを解除した。暗い室内に浮かび上がった画面上部にメールの着信を示すアイコンが出ている。俊介からのメールだ。

 ユウリは予備電源が入ったように急に起き上がり、目をらして読んだ。

(コンサートは無事に終わった?)

 嬉しい気持ちと同時に、『もう少し長い文書がよかったな』という我儘わがままな気持ちも出てきた。

(いま部屋に戻ってきたよ。俊介は授業に間に合った?)

 本当は今から会いたかったが、そんなこと出来るはずもなかった。解散間際に軽はずみなことをして、サキラやエミリに迷惑をかけるわけにはいかない。ユウリと俊介の間には、あまりにも制約が多い。そう思うと、徐々に不安な気持ちが膨らんできた。照明のスイッチを入れると暖かい間接照明に照らされたユウリの姿が窓の夜景に浮かび上がった。窓辺に寄り、小さく流れる車の光を見ながら今朝サキラに言われたことを思い返していると、スマホの着信音が鳴った。

(今日は卒業論文の発表だったよ。なんとか間に合った)

 息を切らして大学にたどり着く俊介の様子を思い浮かべ、微笑んだ。

(俊介はどんな論文を書いたの?)

(電気工学に関する論文だよ)

(なんか難しそうだね。凄いな)

(そんな事ないよ)

(発表は無事に終わったの?)

(何とか終わったよ)

(俊介はもうご飯食べた?)

(食べたよ)

(何を食べたのかな?)

(コンビニのお弁当)

 ごく自然な会話だ。しかし俊介のメールは、自分の質問に淡々と答えているだけのように思えた。本当はもっと自分の事を聞いて欲しい……。窓ガラスに映っている自分に手の平を重ね、

≪わたし、一人で浮かれているのかな……。本当のところ、俊介はどう思っているのだろう……≫

 と呟いた。ユウリは恋愛をしたことがない。ただただ感情のままに流されている。ましてや恋の駆け引きがどういうものかなんて知るわけが無い。自分一人の気持ちだけで進むことのできない「恋」と言う物へのじれったさと疲れのせいで、負のスパイラルに落ちて行った。

 メールを送信したあと、俊介はスマホを机に置き腕を組んで考えていた。

『普通ならこの後は、会ったり、何処か遊びに誘ったりするのだろうけど、ユウリの場合、そういうわけにはいかないよな』

 今後、どうしていけば良いのかを、冷静に考えていた。

『ここは、強行突破で会いに行くか……』

『いやいや、そんなうかつな行動をしたら、全てが台無しになるかもしれない』

『この後はどうすればいいのか……』

 俊介は時間を忘れて考えている。

「そう言えば、返信が来ないな。もう寝ちゃったかな」

 更に色々と考え、何となく考えがまとまってきたころ、ユウリからメールが来た。今夜のユウリは不安に支配されてしまっているようだ。ユウリの若い理性は恋の前ではあまりにも無力で、感情の暴走を抑えきれない。昨夜メールで親しくなったばかりの俊介に、つい本音を漏らしてしまった。

(俊介、今度いつ会えるんだろう。会える時がくるのかな)

 しかし俊介にはユウリのそんな不安を感じ取れるだけの経験値など有ろうはずがない。単に「今度いつあえるのだろう」というユウリの問いかけに答えなければという思があるだけだ。ただその答えはちょうど今、俊介が考えていたことだった。

『よし、この方法しかない』そう意を決すると俊介はメールを書いた。

(ユウリ、俺なりにこれからの事を考えた)

 ユウリは俊介から慰めの言葉が並んだ優しいメールが来ると期待していた。しかしそんな言葉は一つも見当たらない。文書を見て『これからの事? どう言うことよ』と思っていると次のメールが届いた。

(正直、どう考えても会うのが難しい)

 文面を見た瞬間、ユウリは別れ話だと思った。まだ付き合ってもいないのに……。寄り目になるほどにスマホの画面を顔に近づけ、指を上下左右に滑らせるように文字を並べた。

(もう会えないってこと?)

 今にも泣きだしそうだ。

(ごめん、誤解させ)

 途中で途切れたメールが届いた。『ごめん』って……、そんなに簡単に言われて、ユウリの心は引き裂けそうだ。立て続けにメールが届いたが、眼が涙でにじみ文字がぼやけている。

(慌ててメールを書いていたら、途中で送信しちゃった)

 窓ガラスに、涙を手の甲で拭いて怒りながらスマホを両手で小さく振るユウリが映っている。

(俊介、まぎらわしいよ。これからの事ってなに?)

(これからの作戦だよ)

 またもや思ってもみない言葉に、≪作戦?≫と呟きながら顔をしかめた。そして『恋愛ってこういうものなの?』と思っていた。いや、そういうものではない。ただこの男が恋愛というものから相当離れたところにいるだけだ。

(冷静に考えると今会うのは危険だ。ユウリだけではなくサキラさんやエミリさんにも辛い思いをさせてしまうかもしれない)

 自分が期待している優しい言葉は一向に送られてこない。それどころか「冷静」という言葉を見ると、『どうして冷静なのよ』と取り残されたような心細さを感じ、

(俊介はいつも冷静なんだね。私一人、浮かれちゃっているのかも)

 と皮肉っぽいメールを送った。

(冷静じゃないよ。ユウリ以上に俺は浮かれていると思う)

 自分の事を気づかっている俊介のメールを見て、優しさより寂しさを感じた。

(解散する日までは、会うのは止めておこう。ユウリもそう思うだろ)

 俊介の言うことは正論だ。頭ではわかっているけど、認めたくない。今は理屈より気持ちを分かって欲しい。だから素直に「はい」とは言いたくない。そんな思いから、駄々だだっ子のようなメールを書いた。

(解散した後も、きっと会えないわ。俊介はとりあえずそう言っているだけ。どうやって会うっていうの?)

 ユウリは送信してからもう一度自分の書いたメールを読んだ。あまりにも感情まかせの内容だ。今すぐにでもこのメールを消したいがどうすることも出来ず、足早に窓際により、おでこ・・・をガラスに当てた。ガラスの冷たさが、おでこ・・・の熱を吸い取っていく。俊介が何とかしてくれるのではないか、そういう微かな期待が出てきた。

 しかし返信がなかなか来ない。待っている時間が長く感じる。『どうしてすぐに返事をくれないの……』また顔が熱くなり始めた。ユウリの手の中でスマホが振動した。


(ユウリの実家に会いに行く)


『??……』

『実家……?』

『えっ、どういうこと?』


 ユウリは俊介が何を言っているのか分からず、とりあえずベッドに座りしばらく考えた。連続ドラマの途中の数話を飛ばして最終回を観ているような感じで、途中の色んな事が抜けているような気がする。俊介お得意の突然意外なことを言うパターンだ。

(実家に?)

 ユウリは短い返信をした。

(何処で会ってもリスクがある。ユウリの実家で会うのが一番いいと思う)

 確かに外で会って誰かに見つかった場合、騒がれて良い方向に向かわない可能性が高い。しかし実家なら誰かに見つかりにくいし、見つかっても真剣交際と言うことで、悪い方向には行かないだろう。

 しかしユウリは素直に喜ぶ気持ちが湧いてこない。どちらかと言うと「困る」という感情に近い。言葉を選び遠回しに本音を書いた。

(いきなり実家に来るのは、どうなのかな……)

 さすがの俊介も無理もないと思った。連絡先を交換してまだ一日しか経っていない。そんな男に「実家に行く」と言われて戸惑うのは当然だ。そう思うと少し申し訳ない気持になった。しかし二人には何度も会って、恋をはぐくむ時間は無い。徐々にではなく、事あることに一気に進展させていく必要がある。俊介は直観的にそう感じていた。そしてユウリの戸惑いを取り除くためには、気持ちをはっきり伝える必要があると思った。実際は戸惑っているというより、困っているのだが……。


(本当は次に会った時に言うつもりだったが、それまで待てない。俺はユウリの事が好きだよ)


 メールを読んだとき、驚きとか感動とかは湧いてこなかった。あまりのあっけなさに感情がまったくついてこない。

 ユウリは内心、『えっ、こういうものなの?』と拍子ひょうしが抜けた。きっとこの男だけだろう。先ほどまで我を失っていたユウリだが、急に冷静になった。もちろん俊介の告白は嬉しいし、自分も同じ気持ちだ。でもユウリにとって『好き』という言葉は、とても大切な言葉だ。簡単に『自分も好きです』と言うのが勿体もったいない。軽く言ってしまうとあっけなく消えてしまいそうな感じがして、

(告白って、もっとロマンチックなのかと思ってた(笑))

 と、ちょっとからかうように返信した。

 てっきり、盛り上がった状態でユウリからも「好きです」と言ってもらえると思っていただけに、『早まったか』と少し後悔し、俊介は慌てて返信を書いた。

(急に言ってしまってゴメン。でもユウリの気持ちも教えて欲しい)

 しょんぼりとしている俊介の姿が目に浮かんだが、やはり勿体もったいなくて自分の気持ちを簡単には教えたくない。

(どうしようかな。また明日ね。じゃあ、おやすみ)

 そのメールを見て俊介は、

(そんな……)

 と返信したが、ユウリからの返事は無かった。

 ユウリは幸せな気持ちで、枕を強く抱きしめた。俊介が「好き」と言ってくれたこと、会う方法を考えてくれたこと、どれも自分が不安に感じていたことだ。それを吹き飛ばしてくれた。そしてなにより、恋愛では自分が優位に立っていることが何となく満足だった。『一晩、モヤモヤしていてね』そんな小悪魔な事を思いながら、いつの間にか寝息を立てて眠り込んでしまった。

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