第29話 海外に行くぞ! その10

 楽屋に戻ると、夏樹は崩れ落ちるように椅子に座り、

「一時はどうなるかと思ったよ」

 顔をしかめて俊介を見た。

「ほんと。あんな質問をされるとは思っていなかった」

 沙友里も夏樹の隣に座り、両腕を机について背中を丸めた。

 俊介は何かを考えるように黙ったまま鏡の方を向いて立っている。しばらくしてスオン達も楽屋に入ってきた。

「みんな、頑張ったね。とても良かったよ」

 スオンはそう言って三人をねぎらうと俊介に近寄り、

「大変な思いをしたね。大丈夫か?」

 と案じたが、俊介は少し不安な表情だ。

「はい。自分は思った通りの事を話しただけですが、あれで良かったのでしょうか……」

 自分の考えを言ったことに後悔は無かったが、ここは日本ではない。こちらの国の人々がどう思ったか気になる。

「少なくとも客席にいた人々は悪い印象を持ってはいない感じだったな。テレビを見ている人たちがどう思っているかは分からないが、君の意見は嘘偽りのない素直なものだから、あまり気にすることは無いと思うよ」

 安堵あんどしたように微笑んだ俊介の素顔を、メークの上からでも感じることが出来る。スオンは自身の言葉に対して自問自答している俊介に好感を抱いているようだ。

「おまえはベストを尽くしたよ」

 徹にも俊介の迷いはよくわかる。

「ありがとな」

 緊張感がほどけ、今回の挑戦が俊介の中でようやく終了した。

「さっ、メークを落として何か食べに行こうぜ」

 徹が気持ちを入れ替えて声をかけると、静かに俊介の話を聞いていた夏樹と沙友里も笑顔で頷き、張り切るように帰り支度じたくを始めた。大仕事を終えた今は、食事が何よりの楽しみだ。しかも初めての海外での食事に心が弾む。


「すんません、メーク落としてもらえますか?」

 俊介はせわしなく荷物をまとめている夏樹に申し訳なさそうに頼んだ。

「なんで? 自分で落とせないの?」

 夏樹は手を止めることなく相手なんかしていられない、と言った感じだ。

「いつもは花咲さんがやってくれたから……」

「そんなの、洗顔フォームつけて、ジャブジャブ洗えばいいのよ」

「お前、適当だなー」

 その言葉に夏樹は手を止め、俊介の方を振り向き、

「『お前』って言った? あんたに、『お前』って言われる筋合いはないわよ」

「俺だって、『あんた』って言われる筋合いは無いよ」

 いつものように言い合いが始まった。そんな二人をただ見ているしかないスオンとリンの表情には不安が感じられる。沙友里が、

「気にしないでくださいね。いつもこんな感じなので」

 スオンとリンの不安を解消するように、軽く頭を下げながら困った笑顔で説明した。結局沙友里に説得された夏樹が俊介のメークを落とすことになった。

 メークを落とし着替えを終えた頃、聞き逃してしまうほどに控えめに扉をノックする音がした。

 スオンは『アシスタントのソンガにしてはやけに戸惑い気味のノックだな』と思いながら扉を開けたが、まったく予期しない来客に思わず言葉を失った。

 扉を少し開けたまま、固まってしまったスオンの向こう側から女性の声がする。

≪突然、ごめんなさい。中に入っても良いですか?≫

≪も、もちろんです≫

 スオンが眼を大きく開けたまま、ゆっくりと扉を開くとサキラの姿が現れた。他の皆も突然のことに、状況がまったく理解出来ていない。靴の音を鳴らして一歩踏み出すサキラの後ろにエミリとユウリの姿も見えた。

『どうしてここにココットがいるの?』

 嬉しさより、ただ驚くばかりだ。

「驚きましたか?」

 サキラが日本語で話しかけた。ココットは日本でも活動をしているだけあって、日本語も話せる。特に日本での活動をいつも楽しみにしているユウリは日本語が上手だった。皆あっけに取られてしまい、言葉が出ない。先に冷静さを取り戻した沙友里が声をかけた。

「またお会いできて光栄です」

「私達も、会えて嬉しいです」

 エミリが沙友里に微笑みかけた。

『なんかこの二人雰囲気が似てるな』

 徹は沙友里とエミリを見比べるように交互に目線を動かしている。

「メークを落とすと、完全に男の人なんですね」

 サキラはメークを落とした俊介に歩み寄った。落ち着いた笑みを見せるサキラに話しかけられると、まるで姉に話しかけられているような感覚になる。俊介は思わず気が動転し、

「はい、ごく普通の男子です」

 と自分でもよくわからない回答をした。

 ユウリは両手を後ろで握り、扉に貼りつくように立ったまま黙っている。

 しかし何故ココットがわざわざ自分たちの楽屋に来たのか、徹は不思議に思っていた。エミリがユウリに軽く手を差し出して、前に来るように促している。サキラもうつむいているユウリを見ながら、何かを待っているような感じだ。

『ユウリさんがここに来たいって言ったのかな』

 三人のその様子から、徹はそう思った。

 ユウリはゆっくりと扉から離れ、少し俊介に視線を向けた。

「あの……、凄いですね。自分の考えをハッキリと言えて」

 どうやら、ステージで俊介が出演者の男性の質問に、答えたことを言っているようだ。

「いえ、自分でも良かったのか、少し不安です」

 俊介は素直に自分の気持ちを話すと、ユウリは首をふって、

「そんなことないです。私はとても元気が出たというか……。ごめんなさい、上手く言えませんが……」

 あの時、自分が受けた衝撃と感動を、自分もハッキリと伝えたい。しかしココットの現在置かれた状況を話すことは出来ない。口を固く閉ざし、目元をわずかに震わせながら俊介を見つめるユウリの眼差しからサキラは気持ちをみ、補足した。

「私たちは色々な事情があって、とても落ち込んでいました。それこそ今日の番組に出演できないぐらいに。でもあなた達を見て励まされ、勇気を持つことが出来たのです。ユウリがどうしてもあなた達にお礼が言いたいと言うので、ここに来ました」

「そんなに辛いことがあったんですか?」

 傷口に触れるような慎重さで尋ねる夏樹に、エミリは笑みを浮かべて答えた。

「そうですね。でも今はまだ話せないの。ごめんなさいね」

「少しでもお力になれたのなら、本当に良かったです」

 エミリの柔らかい言葉に安心した夏樹は、ココットが喜んでくれたことが嬉しくてたまらない。事情なんて知らなくても満足だ。調子づいてきた夏樹はいつもながらの図々しさと言うか、人なつっこい性格が出てきたのか、ここに来るまでの事を色々と喋り出した。俊介がメンバーに加わったきっかけが女装ダンスコンテストであることや、沙友里と徹が付き合っていること、衣装は俊介の姉が選んでくれたことまで、余計なことを身振り手振りを交え、声のトーンまで巧みに変えて話した。子供のように目を輝かせて一生懸命話す夏樹の姿は見ているだけでも楽しくなってくる。ココットの三人とスオン、リンも話術の魅力に引き込まれ夏樹を取り巻くように聞いていた。

 が、俊介と徹と沙友里は気が気ではない。

『余計なことをペラペラ話して……』

 何とかして夏樹を止めようと、話を終わらせるタイミングを見計らっている。

「俊介さんにはお姉さんがいるんですね」

 ユウリが両手を口の前で合わせ控えめに訊くと、夏樹が俊介より先に、

「素敵なお姉様なんです。そう言えばサキラさんに何となく雰囲気が似ているかも」

 身を乗り出すように答えた。サキラは自分を指さして、

「え、私に?」

 と嬉しそうに笑っている。

「失礼なこと言うなよ。サキラさんのほうがよっぽど素敵だよ」

 俊介が夏樹を黙らせるように顔をしかめると、

「そんなこと言うと、お姉さんに叱られますよ」

 ユウリが少し肩を上げて笑った。

「そーだよ。お姉様に言っちゃお」

 夏樹も調子に乗って同調すると、夏樹とユウリは顔を合わせて嬉しそうに頭を揺らしている。どうやら夏樹とユウリは気が合うようだ。

 沙友里は夏樹の暴走が恥ずかしくて、耳を真っ赤にしながら今にもべそ・・をかきそうな顔をしている。エミリが、

「ごめんなさいね。ユウリもはしゃぎだすと止まらないから」

 優しく沙友里の肩に手を当てた。

「そろそろ私達は行かないと」

 話を切り上げるサキラの言葉に、心から笑っていたユウリが夏樹達の顔を目に焼き付けるようにゆっくりと見てお礼をした。

「本当に楽しかったです。ありがとう」

 夏樹もこんなに楽しく話せたのに、もう二度と話せないかもしれないと思うと、残念でならない。無理を承知で思い切って聞いてみた。

「あの……。連絡先を交換することは出来ますか?」

 そこにいる誰もが、それは無理だと思った。しかしユウリも夏樹と同じ気持ちだ。しばらく夏樹を見つめていたユウリは頼み込むような眼差しでサキラを見ると、サキラがかすかな笑みを浮かべ、頷いてくれた。

 ユウリは再び夏樹に視線を戻し、

「良いですよ」

 握っていたスマホをほほの近くで振った。まさかの返答に聞いた夏樹が一番驚いている。さらにいきおいで、

「沙友里も良いですか?」

 と勝手に言った。あまりにも図々しい夏樹に沙友里は慌てて、

「ちょっと、無理を言っちゃだめよ」

 そう止めつつも、少し期待をしながらユウリを横目で見た。

「もちろん良いですよ」

 ユウリは沙友里にも笑顔を向けた。俊介は『次は俺か……』と夏樹の更なる図々しさを待っていたが、

「あなたは男子だから駄目ね」

 夏樹は俊介に向って舌を出した。俊介は無表情で夏樹を見ていたが、連絡先を聞いたところでどんなメールを書けばいいかもわからない。それに夏樹と沙友里が繋がっていればいいか、と思っていた。


 ココットが去った後の楽屋には夏樹の鼻歌だけが流れている。沙友里はあまりの夏樹の暴走ぶりに参ってしまい、後片付けの手が止まっていた。そしてスオンとリンに近寄り、

「すみません、なんか騒いでしまって」

 夏樹に代わって、おびをした。スオンとリンにも沙友里の気苦労はよくわかるようで、

「あなたも、お疲れさま」

 と、優しくねぎらった。

 連絡先を教えてもらい、一人浮かれている夏樹を見かねた俊介が注意をした。

「お前、ちょっと調子に乗りすぎだ」

「また『お前』って言った。ちゃんと『夏樹さん』って言ってよね」

 と、なおも浮かれた様子で反発すると、

「夏樹さん。お前、調子に乗りすぎだ」

 俊介が言い直した。

「『夏樹さん』を付ければいいってわけじゃないでしょ」

 夏樹が俊介を睨んで文句を言った時、うんざりして聞いていた沙友里の堪忍袋かんにんぶくろが切れた。

「どっちでもいいわよ! 少し黙ってなさい!」

 鬼の気迫きはくが夏樹と俊介をつらぬき、二人は炎を消されたように大人しくなった。

『怒ったところ初めて見たな……』

 唖然あぜんとした徹の目線に気付いた沙友里は急に笑顔を取り戻し、

「徹もお疲れ様」

 と、今の出来事が無かったかのように平然としている。徹はその変わりように顔を引きつらせながら、荷物の整理を手伝った。

≪沙友里さんも怒るんだな≫

 スオンが呟くと、

≪いつも優しくておしとやかな子ほど、怒ると怖いんですよ≫

 冗談めかしながらリンは笑った。


 テレビ局の玄関で俊介達はスオンとリンに丁寧なお礼をし、タクシーに乗り込んだ。

 タクシーの中では皆黙り込んでいる。沙友里はまだ機嫌が悪いようだ。

「沙友里、ごめんね……」

 気まずい雰囲気に耐えかねたのか、夏樹は謝り、真ん中に座っている俊介の腕をひじで突いて、沙友里に謝るように催促した。

「ご、ごめんなさい」

 俊介がコクリと頭を下げて謝ると、沙友里が窓の外を見ながら不機嫌そうな低い声で話し出した。

「夏樹はすぐに暴走しちゃうから、気を付けたほうが良いよ」

「ごめん。これから気を付けるよ」

 俊介は沙友里が夏樹の行動で怒っていると思い安堵あんどするようにシートにもたれたが、沙友里がさらに小言をつづけた。

「俊介君も決めるときはちゃんと決めるけど、普段も大人っぽくした方がいいよ」

 と珍しく俊介に注意をした。

「は、はい。これから気を付けます」

 思わず背筋を伸ばし、またコクリと頭を下げた。助手席に座っていた徹が肩をすぼめ、顔を少しこっちに向けながら、申し訳なさそうにしている。

 一通り文句を言った沙友里がそのままの声のトーンで俊介に尋ねた。

「お腹空いた。何処に食べに連れて行ってくれるの?」

 怒っている沙友里に急に訊かれた俊介は小さく縮こまり、膝の間に両手を入れ、

「何処と言っても、いつも行っている小さなお店しか知らないけど……」

 と自信なさそうに首をひねった。

「そういう行きつけのお店が良いのよ」

 夏樹が狭い後部座席で俊介の方に身体を向けると、

「そうそう、そのお店に行こう」

 沙友里も俊介越しに夏樹と顔を合わせた。

 夜も少し遅い時間だったので店にはあまり客がいない。十五人も入ると満員になってしまうぐらいの店で、ごく普通の地元の料理店といった感じだ。店に入り片手で四本の指を見せると、店主も四本の指を見せて頷き、奥の席を指した。俊介がいつも食べている料理と日本ではなかなか食べられない料理を頼んだ。どれもこちらでは普通の料理だが、四人には忘れられない思い出の料理となった。

 俊介がこの店に通っている理由もよくわかる。どの料理も日本の味付けとは違うものの、とても美味しい。しかも値段もお手頃だ。

「なんか今日の朝、日本にいたのが信じられないな」

 徹がせわしく小皿に料理を取っている。

「一日って、結構長いのね」

 沙友里もしみじみとそう感じていた。追加の料理を注文した時、夏樹と沙友里のスマホが同時に鳴った。スマホに表示されている送信者の名前に、二人はお互いの顔を見合わせた。

「ユウリさんからだ」

 そう、ユウリからメールが届いた。

(今日はありがとうございます。夕食は食べましたか?)

 日本語でそう書いてある。まさかユウリからメールをくれるとは思っていなかった。しかもこんなに早く。

 ユウリは事務所のスタッフが運転する車の中でこのメールを送信した。自分から送信しようか迷ったが、思い切って送信してみた。でもどんな返事が返ってくるか不安だ。ましてや返事が来なかったらどうしようかと考えるとスマホを握る手にも力が入ってしまう。気持ちを紛らわそうと窓を流れる夜景に眼を向けた時、着信音が鳴った。なかなか反応しないスマホの画面を連打すると、楽しそうに食事をしている四人の写真が開いた。

(美味しそうですね。俊介さんは約束を守ってくれたんですね)

 自然と笑みがこぼれてしまう。返信はすぐに来た。

(ユウリさんのおかげです。ありがとうございます)

 ユウリはまた窓の夜景に眼を向けた。美しい夜の光が彼女の瞳の中で輝きを増している。このメールと写真は彼女の宝物だ。この晩、ユウリはメールの文面と写真を何度も何度も見ていた。


つづく……

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