アスタロト
ベルベット・タイム
「あなた、いい加減にしなさい」
強い酒と、何種類もの香水と、葉巻の煙が混ざり合ったえげつない匂いを身体中に染み付かせてあたりに撒き散らしている当の本人は、深い赤の天鵞絨を張ったやわらかいソファの上に靴を履いたまま、無造作に突っ伏していた。事前に約束をしていた通りにアスタロトの邸宅を訪ったベアトリクスはしかし、使用人に主人の所在を訊いても誰もが芳しくない答えを寄越したので、迷うことなく子供部屋へ向かったのだった。子供部屋とはいうものの、歴代のアスタロトも、勿論当代も、自分の子供専用の部屋を作らせたわけではない。便宜上子供に似つかわしいよう部屋を設えさせただけの、使用人用の部屋の一室だ。そして、そこで音も立てずに臥せっている当代のアスタロト自身が、襲名するまでの間使っていた部屋でもある。
手負いの獣が棲家に戻ってくるのとよく似た塩梅で、アスタロトがこの見慣れた子供部屋に潜むのは珍しくないことだった。ソファの上に散らばる、熟れた石榴のような、暗紅色のうねる髪が顔を覆っていて表情は見えない。髪とクッションの隙間から押し出すように低い声が返事をした。
「ベアトリクス……」
「そうよ。自分で約束したことも覚えてないのかしら」
「……」
「ああもう酒臭い。だいぶ飲んだのね?」
「ん……」
オーダーメイドで仕立てた上等な服をぐしゃぐしゃにしてあられもなく寝転がっている様は、例えるなら極彩色の羽根をむしられて寒さに蹲っている惨めな雄鶏のようだ。
「いい男が台無しじゃないの」
「……俺をいい男だと言ってくれるのは貴女だけだな」
「馬鹿ね」
「馬鹿って言うのも貴女だけだ……」
「本当に馬鹿なの?」
呆れてつめたく見下ろしたが、完全に視界を髪で遮っているアスタロトに効果はなかった。成人男性が寝転ぶには大きさの足りないソファから力なくだらりとはみ出た腕を見ながら、彼がこんなになるまで酒を飲んでいるところを見たのは初めてかもしれないとベアトリクスは思った。少なくとも先代が亡くなってから今まで。
アスタロトは寝返りを打って仰向けになると、前髪を軽く払って、形の良い額をあらわにして目を閉じたまま深く息を吐いた。広い胸と浮き出た喉とが、ゆっくりと上下する。酒の強い匂いのわりに、顔はむしろ青ざめていて白かった。
「気分が悪い。吐きそうだ」
「そうでしょうね。ひどい顔してるわ。何杯飲んだの」
「覚えてない。なんだっけ?多分酒じゃないな、なんか全然治らないし……」
恒常性がどれくらい浸透したか試している、と言った。ベアトリクスは大きくため息を吐いて、ソファの向かいに設えられた対の1人掛けの椅子に腰を下ろし、足を組んで頬杖をつきながら、じっとりとアスタロトを睨んだ。
「子供じゃないのよ。こんなになって帰ってきて」
「……」
「最近目に余るわ」
ベアトリクスがアスタロトにこんな風に物を言うのは、初めてだった。本来彼の言動に対して諫言するような立場ではないからだ。ベアトリクスにとってアスタロト公はいわゆるパトロンに過ぎない。自身の予知能力を独占させる代わりに、ありとあらゆる手厚い加護を受ける、そういう対等な契約関係だった。したがって素行に口出しするような気安い間柄でもなかったが、とはいえ、最も優秀な魔女のひとりであるベアトリクスが序列三位に続投を決めたのは、彼女自身の矜持と、先代が存命中から面倒を見てきた彼の危うさに目が離せない所為も多少はあった。
「どうしてこんなやけっぱちみたいなことするの。屋敷中、空気が悪いったら無いわ。誰もがあなたに怯えてる」
アスタロトは自分で自分の顔を覆っていた手を退けて、片方をベアトリクスの方へ差し出した。その行為を訝りながら手を握ってやると、ゆるく引き寄せて、ベアトリクスの指先に口付けた。冷えた肌と乾いた唇の感触がした。それからうっすら目を開けて、ベアトリクスを見やる。薄く開いた瞳の、洩れ出る鮮やかなエメラルドの色彩は、哀切を含んでとろけていた。
「貴女が俺のものになってくれたら、まっとうになれるのに」
「馬鹿おっしゃい」
すげなく一刀両断して手を引っ込めると、アスタロトは再び目を閉じて、ため息をついた。
「本気なんだが」
「ああそう」
「貴女だけだ。本気で愛してるのは」
「素面の時に聞きたかったわ」
「手厳しいな」
彼は大きな獣のように喉を鳴らして、軽く笑った。
「自分の役目のためにまっとうになれないの?先代様が見たら泣くわよ」
ベアトリクスがそう言ったのには答えずに、アスタロトはもぞもぞと背を向けて、クッションの山に埋没しようとする。
「ねえ、アスタロト」
「どうせ貴女も、ヒューさんの方が好きなんだ」
「アスタロト」
「みんな器の俺にしか、興味が無いんだろ?ここには俺のものは何もない。アスタロト公じゃなかったら、誰も俺なんか見てないのに、役目役目……」
「あきれた。本当に子供じゃないの」
「……」
「アスタロト様はお酒を飲んだ時にしか本音が言えないわけ?」
「辛辣だな」
珍しく素の傷ついた声で答えるのを聞いて、ベアトリクスは椅子から立ち上がって、微笑みながら言った。
「素面の時に聞きたかったわ。そしたら、一緒にお酒を飲んであげるわよ」
「ベアトリクス」
「もうちょっと上手に人に甘えられるようにならなきゃだめよ。自棄になって遊びまわるくらい悩んでる癖に抱え込んじゃって。馬鹿ねえ」
アスタロトは再び仰向けになって半身を起こし、ベアトリクスを見上げた。暗紅色の乱れた髪にベアトリクスが指を突っ込んで、わしゃわしゃとかき混ぜると、蒼白だった顔にわずかに赤みがさした。
「ベア……、おい」
「とにかく、湯浴みして服を着替えなさいよ。そんなんじゃ格好つかないでしょう。朝食くらいはつきあってあげる」
「ベアトリクス」
「なあに」
「俺は、本当に貴女が好きなんだって」
「知ってるわよ」
本当にあなたって仕方のない人、と言って、ベアトリクスは華やかに笑った。
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