第2話 アナタからの贈り物

 翌朝、私が目にしたのは、あの男が私の胸元に残した痣、所謂、キスマークと私の着ていた服の残骸だった。


 ひとしきり泣き、眠った後、夜中に目を覚まし、その場で服を全て脱ぎ捨てた。

部屋の隅にそれらを追いやり、熱いシャワーで全身、隅々まで洗い、スキンケアもせぬまま、ベッドにもぐりこみ、今に至る。


 いつもよりも40分も早く目覚めてしまったが、未だ腫れている目をどうにかする時間としては、足りない程だ。

蒸したタオルと冷たいタオルを目元に当てるのを繰り返している間、行儀が悪いとわかってはいるが、口に菓子パンを放り込み、牛乳で流し込む。もちろん味は、いつもより不味い。この食べ物たちに罪は何一つもない。それらは、すべてあの男のせいだ。


 どうして、私がこうも冷静に事態を受け止め、淡々といつも通りの生活に戻ろうとしているかというと、こうすることで、なかったことにできるのではないかと、思い込みたいからだ。などと私は、思ってみるが、実際、受け止めきれているはずもなく、今も空元気で、手が少し震えている。

 目の腫れは、目立たなくなったが、どうしても赤みは引かなかった。入念にスキンケアをした後、化粧を始める。今日は、コンシーラーを入念に叩き塗ることになりそうだ。



 「おはようございます。」


 いつもの営業スマイルで出社すれば、私の昨日の悲劇など、誰も想像することはない。


 「今日も可愛いね。いつもより肌もぴちぴちしてる。いいことあった?」


 『いいことどころか、最悪だったわよ』

 出社早々、立ち話をしていた目の前のセクハラ上司や同僚にそう愚痴りたい気持ちを抑える。もし私が、「昨日家に知らない人が入ってきて、襲われちゃいました」なんて言えば、即刻警察署へ連れて行かれるのは、常識人なら当然の反応だろう。あんな脅しさえなければ、私だって、今頃、警察で被害届を出している。否、犯人が居なくなった時点で警察を呼んでいるだろう。


 「何にもないですよぉ。ははは」


 引き攣った笑みで答え、そそくさと席に着く。その表情に違和感を覚える者はいない。




 そわそわとした一日を終えたはずなのに、私にとっての魔の時間が始まる。

あの男が現れる時間だ。

 昨日、私は、背後から近づいていたなど全くわからなかった。もう家はバレている。会社周辺でなく、自宅周辺で待ち伏せしているだろうか。

 周囲を見渡しながら、そして、片手にスマホを握りしめ、注意深く歩く。

 近所のスーパーで買い物を手短に済ませ、マンションの入り口に到着する。エントランスホールの扉を解錠するためのパスワードを文字盤に打ち込み、開いたと同時に、体を滑り込ませる。

 扉を通ったのは、私一人だ。次に入ってこようとする人も見当たらない。

エレベーターに乗り、自宅である3階で降りる。廊下に怪しい人物はいないことを確認すると、家の鍵を明け、何よりも先に鍵を閉める。そして、ドアチェーンも忘れない。

 勝った。今日は、あの男に勝った。そう思い、上機嫌で先ほど購入した割引された親子丼をレンジで温め、夕食を済ませる。そして、今から、今朝見て見ぬ振りをした衣服を片付ける。

 引きちぎられたストッキングは、当然ながら捨てた。そして、ホックを引きちぎられたスカートは、複雑な気持ちでもう一度スカートに縫い付けた。幸い、生地ではなく、糸が千切れたので、問題はなかった。皺が寄っていたため、丁寧に畳み、紙袋へ入れた。明日あたりにクリーニングにだそう。そう思ったところで、インターホンが鳴る。家の外から来る者は、脅威でしかない。そう思いモニターを見ると、宅配業者のグレーの制服を着た青年が見える。有名な業者だ。けれども、あの男が成りすましている可能性も少なくともある。


 「はい」


 インターホン越しに答える。


 「藤峰さんにお届け物です」


 普段なら、そこでエントランスの扉を解錠するのだが、昨日の今日だ。易々と人を通すことはできない。


 「誰からですか」


 「えーっと、差出人の名前はありませんね」


 「じゃあ、受け取れません」


 私がきっぱりとそう言うと、青年は、困ったように言う。


 「これ、うちで処分困っちゃうんで、受け取ってもらえたら嬉しいんすけど。あ、ほらここにマジックで『昨日のお詫び』って書いてますよ」


 そう言うと青年は、宝物を見つけた少年のような笑顔でモニターのカメラに文字を見せるよう向ける。あの男が宅配業者を使って、私に何か寄越したのだとすぐに理解した。受け取りたくない気持ちは、山々だったが、この荷物があの男に繋がる手がかりになるならばと、青年を部屋の前まで通す。必ず一人で来るように言って。再びインターホンが鳴る。青年が家の前に来たようだ。

 ドアチェーンをかけたまま、ドアを開け、隙間から除くと、青年は、呆れ顔で「誰も居ませんよ」という。軽々しく言いやがって、と心で思うが、事情を知らない彼は、変な荷物を警戒心の塊の私に届ける羽目になり、むしろ被害者であると言ってもいい。

 


 青年から荷物を受け取ると、すぐに扉を閉め、鍵をかける。青年によって届けられた段ボール箱は、スーパーの買い物かごよりも少し小さいサイズだった。

ドキドキした気持ちで箱を開けていく。中からは、紙袋が出てきた。その横に封筒も入っていた。まず、紙袋を開けてみると、紺色のスーツの上下、白いブラウス、ストッキング、そして、花の形をしたブローチが入っていた。箱に書かれてある『昨日のお詫び』は、このことか。こんな手のかかるお詫びをするくらいなら、最初から押し入らなければいいのに、そう思い、封筒を開き、中に入っていたメッセージカードの文字を読み、絶句する。


 『これからも受け取った方が身のためだ。着なければ、どうなるか、わかっているな。そして、夕食は、ちゃんと作れ』


 先程の出来事を見ていたのだろうか。私は、食事を作ることが多いが、たまに総菜で済ませることもある。そのことを言っているなら、まだわかるが、もし、先ほどのことを見たうえで早速、私に伝えているとすれば、あの男は常に私の近くにいる。宅配業者の青年があの男だった可能性もあるが、あんな何も知らないような顔をした青年が昨日の外道な男であったとは、考えにくい。だが、いくら業者に早く届けるよう依頼しても、数時間で届けることは不可能だろう。あの男は、どうやってこれを私に、様々な疑念が頭を過る。次の接触はいつだろうか、胸に残った痕を見て、私の不安は、大きくなるばかりだった。

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