小豆沢家

 二十八年前の五月、暖かな春の日だった。私と薫子(かおるこ)の間に初めての子供が産まれた。長女でもあるため「凜とした」女性になるようにと「凛」と名付けた。

「お父さーん?」

 小説家の凛は基本的にずっと家にいる。だからか色白で、小さい文字をたくさん目にするからか眼が悪く、随分とお洒落な眼鏡をかけている。

「お母さんてさ、何色が好きだった?」

 突然そんなことを言うので驚いた。

「青…か紫だったかなぁ、花が好きでな。それ

 はよく覚えてる」

 最近、記憶力の低下が著しい。

「あ、そうだね。花だね。好きだったイメージ

 ある」

 そう言いながら彼女は自分のバッグの中身を整理しているようだった。

 二十六年前の二月、雪降る夜だった。凛の妹となる第二子が産まれた。「ふつうであり唯一無二である」という願いを込めて「唯」と名付けた。

「お父さん?」

 中学校教諭となって約四年、年々忙しくなっているように見える。最近は悩みを話せる人もいるらしく、心より安心している。

「お母さんの好きな食べ物ってなんだっけ?」

 凛が買い物に出ている中、そう言った。

「あー、なんだったかなぁ」

 たくさん料理を作ってもらってきたけど、私が料理を振る舞ったという記憶はあまりない」

「え、分かんないの?若い頃とか、どっか食べ

 に行ったりしたでしょ?」

 唯は幼いころから母想いだった。

「ごめんごめん。去年は、なに食べたんだっけ

 か?」

 彼女は頬を膨らませながら、手元の写真アルバムを整理しているようだった。

 二十四年前の八月、今年一番の猛暑と謳われる日だった。唯の妹であり、我が家の末っ子となる第三子が産まれた。「かわいらしくも強い」女性になるように「鈴」と名付けた。

「充さーん」

 県内の大学院生である彼女は才色兼備との呼び声も高く、モテるらしい。当の本人は興味がないというように冷たい感じすらする。

「見てこれ」

 いきなりスマホの画面を見せられ、そこにあったのは一枚の絵画だった。

「すまんな、ちょっと老眼でな。あまりよくは

 見えないが…」

 鈴は笑いながら言う。

「お母さん、絵が好きだったんでしょ?」

 確かに好きだった。ピーテル・プリューゲルの美術展に行ったことも覚えている。

「絵、買ってみようかな」

 いたずらっぽく笑顔をつくり、本音と虚言との間のテンションで言った。

 二十年前、私の妻であり三人の母親の薫子は三十八歳の若さでこの世を去った。当時、凛は小学生、唯と鈴は幼稚園児だった。鈴を産んでから一年ほどした時、彼女は体調を崩しがちになった。病院で検査をし、がんであると分かった。何度か手術もしたが、退院し最期を家で過ごす準備に入った。私も彼女も覚悟を決めた。それからの日々は一瞬で過ぎ去っていった。凛の学校の役員の話、先生たち、仲の良いママ友、唯と鈴の幼稚園の集会、お弁当のつくりかた、へそくりの場所。彼女は全てを私に教えてくれた。それを完璧には覚えられないうちに逝ってしまった。

「お父さん!食べよ」

 仏壇の前で固まっていた私を鈴が呼びにきてくれた。

「ごめんごめん、今行く」

 腰を上げると紫色の花が目に入る。リビングでは鍋が煮えているようだ。

「去年も鍋だったよね?」

 台所から唯がそう言ったので「うん」と返事をした。たぶん鍋だったと思う。四人と薫子で食卓を囲むと凛が口を開く。

「じゃあ、いただきます」

 私も唯も鈴も「いただきます」と声を揃えた。

 今日は妻の誕生日である。

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