第9話 「Host」
街の様子が昼から夜へと変わり、街を歩く人達も昼間の顔とは別の顔を見せる時間帯にアイはいつも通り高級スーツに身を包み夜の街中を歩いていた。
自分が働く店まであと数メートルの所で後ろから何者かに声を掛けられた。
「こんばんは、アイさん。」
振り返るとそこには先週、新規で来店したあの元歌手だと言う四十代半ばの女性が立っていた。
「あぁ、こんばんは。先日はありがとうございました。これから何方へ?」
「偶然ね、ちょうど良かったわ。これから貴方のお店に行こうとしていたの。」
「そうですか。それはありがとうございます。僕で宜しければエスコートしますよ?」
「あら、ありがとう。今日は貴方を御指名出来るかしら?」
さて、困った。
今日は出勤後すぐに先約がある。
それでも
「ええ、勿論。ありがとうございます。でも今日は先約がありまして…。少しお待たせするかも知れませんが……。」
正直なのもアイがお客様に好かれる理由のひとつだ。
「あら、そう。貴方が席にいらしてくれるまで時間があるのね…。どうしようかしら…御食事も済ませてしまったし…。」
「少し、慌ただしく感じられるかも知れませんがそれもほんの1時間程の事ですし、他に楽しい話し相手もいますから宜しければ是非。」
「うーん…、そうね…。」
「それに他所のお店からまた移動するのも疲れませんか?」
「それもそうね。」
はい、じゃあ決まりと言わんばかりにアイは彼女に手を差し出す。
一瞬、何事かと少し驚いた様子の彼女にこう言う。
「お荷物、お持ちしましょう。」
「あら、嬉しいわ。ありがとう。」
彼女のバッグを手に取り、並んで店に入る。
「いらっしゃいま…」
驚いて言葉が止まった代表と目が合い、小さく頷く。
そのまま席へ彼女を通し、
「少々、お待ち下さいね。」
そう言って代表の元へ向かった。
「おはよう、アイ。どういう事だ?」
「あぁ、おはようっす。偶然店の前で彼女に声を掛けられて…そのまま御来店って流れですよ。」
「そうか。やっぱり俺の勘は当たったな!」
「うーん。俺が誘わなかったら来なかったかも知れないと考えれば…。その勘は半分当たりかな。」
そして再度、代表と二人で彼女に接客をする。
暫くするとアイの先約客が来たのでアイは席を外した。
「少し、お待ち下さい。すぐに戻ります。」
すると代表が彼女に言う。
「アイが席を外す間、もう一人付けますよ。店内で気になるホストはいますか?」
「そうねぇ…。」
そんなやり取りを背に今日の予約客の席へアイは移動した。
「いらっしゃい、☓☓さん。」
「ねぇー、アイ〜。あの客、誰〜?あんまり見かけない顔だけど…。」
「☓☓さん、他の席の事は気にしちゃダメだよ。」
「え〜、だって気になるじゃん〜。私より先に来店してアイと代表を独り占めしてるの〜。」
「まぁまぁ、良いじゃない。こうして今ここに居るんだから。それに他の席の人を気にする子って俺はあまり好きじゃないんだ…。さぁ、飲もう!」
女の嫉妬なんて自分に取っては嬉しいご褒美だと思う。
今日の予約客はまだ若い風俗嬢だ。
彼女の母親くらいの年齢の女性に嫉妬するなんて可愛らしいものだ。
ホストクラブに集う客の中には風俗嬢も多く、折角身を削って稼いだ大金をここで湯水のように使ってしまう彼女達をアイは切なく思う時がある。
しかし、そうも言ってはいられない。
こちらも仕事だ。
「他の席の事は気にしちゃダメだよ。」と先程彼女には言ったが、実はこの言葉にはちょっとした『仕掛け』がある。
そしてここからがアイの本領発揮だ。
アイが連れて来たあの元歌手の席を少しだけ彼女に意識させるように誘導する。
やり方は簡単だ。
トイレに行くとか、ちょっとグラスを取ってくる等と理由を付けてほんの二〜三分だけ元歌手の席へ顔を出し、風俗嬢に見せ付けるのだ。
そしてすぐさま風俗嬢の席へ戻る。
彼女は他の席のお客の事を再度アイに言いたくてももう言えない。
何故なら「他の席の人を気にする子は好きじゃない」そうアイに先程の会話で釘を刺されているからだ。
アイに嫌われたくない彼女は代表の背中越しに見える元歌手の女性をチラチラと気にしている。
そろそろか……。
アイが腕時計に目をやると向こうから代表の大きな声がする。
「○○様からドン・ペリニヨン、頂きました〜!」
ホスト恒例のシャンパンコールが始まろうとしている。
「ちょっと、ごめんね。」
この時ばかりは指名も無効だ。
シャンパン一本のせいで大好きなアイが向こうの席へ行ってしまう。
それが僅か数分間の出来事でも会話の腰骨を折られ、急に引き剥がされると腹が立つ。
アイは代表の横に立ち、シャンパングラスを手に取っている。
アイの笑顔が遠くに見える。
でもその笑顔は自分に向けられてはいない。
アイを取られた気分だ。
派手な演出が一通り終わると何事もなかったように風俗嬢の席へアイが帰って来た。
次の瞬間、彼女が口を開く。
「ねぇアイ、私にもシャンパンメニュー見せて!」
はい、これで一丁上がり。
その後、風俗嬢の彼女は自分の母親とそう歳の変わらないであろう女性相手に勝手にライバル心を燃やし、負けじとシャンパンを三本空けて泥酔して帰って行った。
その後アイが元歌手の女性の席へ戻ってから数分経ったか経たないかくらいで一緒に席に着く代表に向かって彼女がこう言った。
「お願いがあるのだけれど…彼(アイ)と二人にして貰えないかしら?」
一時間半程、彼女の相手をしていた代表は最初から分かっていましたと言わんばかりに
「承知致しました。御馳走様です。またお話しが出来て嬉しかったです。」
と笑顔で立ち上がる。
「ありがとう。楽しかったわ。」
代表が席を外れ、アイと二人きりになると突然彼女がこう切り出してきた。
「あの…、驚かないでね。貴方、エーアイシンプトンよね?」
何故知っているのだろう?
近所に住んでいる訳でもないだろうに…。
アイがエーアイシンプトンだという事は自宅の近隣住民や職場の人間には通達の義務があるが、客にまで知らせる義務はない。
店内スタッフの誰かがこの女性に言ったのか?
いや、彼女は今日で来店二度目だし代表やスタッフがそんな事を言うはずもない。
一度目の来店時に彼女に接触したのは自分と代表だけだ。
不思議に思って少し身構えると彼女は続けてこう言った。
「ごめんなさいね、少しだけ貴方の事を調べさせて貰ったの。」
(何の為に?)
不審に思っているのが顔に出ないようにニッコリ笑って切り返す。
「そうですね。仰る通り、僕はエーアイシンプトンです。でも何故?」
「失礼な真似して本当にごめんなさいね。実はうちの息子もエーアイシンプトンなの。」
(だから?なんなんだよ)
本心ではそう言っていても口からは別の言葉が飛び出す。
「そうなんですね。奇遇というか…。わざわざお調べ頂いて僕に何か?」
「あの…、率直に言うわね。貴方、今のお仕事に満足している?」
「はい?」
それから彼女は夫と自らが宗教団体を立ち上げている事、数週間後に芸能界デビューする息子の事を話し出した。
普通に聞いていたら可笑しな話しだ。
アイも馬鹿じゃない。
話しの大筋を聞いて大体、察しはついた。
「もしかして、僕を次の教祖にしようとお考えになっています?」
「駄目かしら?」
振り返って考えたらこの目の前の女の方がアイより一枚上手だったようだ。
初めて合った日の事も今日偶然を装って店の前でアイに声を掛けてきたのも全てはこの為だったのだ。
(なるほどね。)
理由が分かればあとはこちらが彼女の上を行くのみだ。
「興味がないと言えば嘘になります。宗教はお金になるって昔から言われていますし…。」
「あら、じゃあ…。」
「いや、まだ僕は貴女の事を何も知らない。僕が知っているのは貴女が昔歌手だったという事と現在は宗教団体を立ち上げていらっしゃるという事だけです。」
「他に何か貴方に知らせる事はあるかしら?」
「そうですね…。旦那様は他に何か事業をなさっていますか?」
「それは言えないわ。でも怪しい者ではないのよ。」
「そうですか…、少し考えさせて下さい。来週にはお返事出来るかと思います。」
「明るい返事を期待しているわね。」
「はい。」
さて、これからどうする?
正直言うと宗教団体にはさらさら興味がない。
そして、アイはホストを辞めようなんて微塵も考えていない。
それよりも彼女を自分の太客にする方法を考え始める。
旦那の仕事内容を言えない彼女は間違いなく富裕層の人間だ。
そうだな…。
もし、今回の誘いをキッパリと断ったら彼女はもう見切りを付けてこの店へ足を運ぶ事は二度とないだろう。
だからといって返事を先延ばしにして引っ張り続けるのには限界があるしすぐに見透かされてしまう。
ならば何か別の理由で彼女をこちらに惹き付ける必要がある。
取り敢えず来週にはもう一度彼女と会う約束はしたし、その日に勝負を仕掛けよう。
約束の日はあっという間にやってきた。
その日は店で落ち合うのではなく、元歌手の彼女と同伴出勤をした。
一緒に食事を取りながら色々と会話を弾ませる。
食事中は周囲の目もあってか宗教団体の話しは彼女の口からは一切出なかった。
店に到着して食後の乾杯をしてから暫くすると彼女が言う。
「ねぇ、アイ君。この前の話しだけれど…、考えてくれたかしら?」
「はい、考えましたよ。」
「で、どうかしら?」
「○○さん、今日はお時間ありますか?」
「えぇ。どうして?」
「ありがとうございます。でしたら僕は今日いつもより早く店を上がるので落ち着いた場所でその事を話すのはどうでしょうか?」
「構わないわよ。」
店を出てアイが勝負の時に利用する高級バーへ彼女を連れて行く。
落ち着いた店内で例の話しをする。
「率直に申し上げますね、僕には教祖は難しいと思います。」
「何故かしら?」
「僕はホストの仕事に誇りがあります。なので折角のお誘いに乗ることは出来ないんです。」
「あら、そう……、残念だわ。」
ここで話しも終わり、彼女とも二度と会えなくなるだろう。
しかし、駄目元で彼女にこう言う。
「御断りしておいてあつかましく思われても仕方がないのですが、僕はこの先も○○さんとはお付き合いしていきたいと思っています。お会い出来たのも何かの御縁だと思いますし…。今後もこうして時折、同じ時間を過ごして頂けないでしょうか?」
正直過ぎるアイの言葉に思わずプッと彼女が噴き出す。
「貴方は本当に正直なのね。そうね、息子とたいして歳も変わらない貴方のお願いなら…。たまにはこうして飲むのも悪くはないわね。」
それから毎週とまではいかないが、二ヶ月に一度はアイの顔を見に彼女は来店してくれるようになった。
彼女がアイの太客になってから暫くして息子が初のコンサートを開催すると聞いた。
どうやら息子は今、世間で話題のシロガネというアーティストだという。
アイも勿論、シロガネの存在を知ってはいたがこの目の前の女性がシロガネの母親だというのは話し半分で聞いていた。
ホストクラブに来る客の中には虚言癖とも言えるレベルの嘘をつく客も多いからだ。
コンサートを観に来ないか誘われたが、その日は別の客と同伴予定があったので次回は必ず行くので是非、声を掛けて欲しいと丁重に御断りをした。
それとは別に相変わらず旦那が何をしているのか彼女は言わなかったが、そんな事はもうどうでもいい。
彼女が自分のお客様になってくれたのだから。
ホストクラブという所は面白い。
まぁ、これは水商売全般に言える事でもあるが…。
その店の中に居る間は誰もが平等に男と女なだけなのだ。
そこには職業や私生活といった現実は必要ない。
とある客は目の前のホストとの結婚を夢見て…、また別の客は自分のステータスを誇示する為に…。
また別の客は癒やしを求めて…、更に別の客は自身のストレス発散の為に…。
色々な目的や、欲望が溢れている。
アイはこの空間が好きだ。
こうして色々な客と話しをしていると自身がエーアイシンプトンだという事を忘れられるし、日々昨日とは違う客が来て違う話しをするのはとても刺激的だ。
ただひとつ、この職業に就いて残念に思うのは女性というものに幻想を抱けなくなった自分がいる事に気付いてしまった事だ。
それでも毎日楽しみながら仕事が出来るのは幸せなのだと思う。
ある日、代表がアイに言った。
「な、アイ。言っただろ?俺の勘は当たるんだって。」
「そうっすね。じゃあ、次に来る新規客はどうなのか勘が働いたらまた俺に教えて下さいよ。賭けしましょう!」
「お、いいね。何を賭ける?」
「メシでしょ。」
「ん〜、まいっか。んじゃメシを賭けて。な!」
仕事が終わり、朝方の街を歩く。
もうじき太陽が登ってくる時間だ。
「ふぁ〜、ねみ〜。」
タクシーを拾って帰宅する。
今日はさほど酔ってはいないから起きたらジムにでも行くか…。
タクシーに乗りながらアイは軽く目を閉じた。
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