第8話 「Debut」
数日前、シロガネは自分の人生を左右するであろう大きな出来事に遭遇していた。
それは大学から自宅に帰る時に起きた。
いつもなら迎えの車が大学の正門まで来るのだが、
その日は家の全ての車が出払っていて自力で帰宅を強いられた日の事だった。
慣れない電車に乗る。
でも普段はなかなかこのような経験も出来ないのでこの状況をシロガネは楽しんでいた。
駅のホームからホームへ乗り換えをする。
気のせいか誰かに見られているような感じがした。
(いや、きっと気のせいだ。僕は随分と自信過剰になったものだな。いけない、いけない。)
乗り換えの車両に乗り込み席に座る。
すると斜め前辺りに座っていた女性と一瞬目が合った。
知らない女性だったので気にも止めずにバッグの中から小説を取り出し読み始める。
自宅最寄り駅まではまだ少しある。
(乗り過ごさないようにしないと…)
数駅過ぎた辺りでそろそろ降りる準備をする。
(本を閉まってと…あれ?パスは何処に入れたっけ?)
バッグの中を探り、パスを見つける。
ちょうど良いタイミングで電車が目当てのホームに到着した。
駅から自宅までは徒歩十五分程かかるが、
せっかくなのでタクシーやバスには乗らずに今日は散歩がてら歩いてみる事にした。
駅前の雑踏から閑静な住宅街へと歩いて行く。
(たまにはこういうのもいいな。)
歩きながら他所の家の庭に咲く花を愛でたり、空を見上げたりとシロガネの散歩はゆったりと続く。
すると、自分の背後から誰かの足音がしている事に気が付いた。
これもまた気のせいか…とわざとゆっくり歩く。
不審者でなければ自分を追い越して行くだろう。
しかし、結構ゆっくり歩いているのにその足音は消える事もなく、むしろシロガネと同じくらいのペースでずっと付いて来る。
少し足を早める。
後ろの足音も早くなる。
軽めの足音…女性か、中学生男子くらいの体重の人間の足音。
何かおかしい。
暫く歩いてから思い切って振り返るとそこには先程電車内で目が合った女性が立っていた。
さすがに何か気味が悪い。
「あの…勘違いだったらすみません。僕に何か御用ですか?」
「あっ!あの…はい。あの、突然こんな事言ったら驚かれるかも知れないんですけど…あなた、芸能界に興味はありますか?」
「?」
「あ、なんか急にごめんなさい!あなたがあまりにも格好良すぎて…こんな後を付けるような真似してごめんなさい!」
「芸能?」
「そうなんです。申し遅れました。私、こういう者です。」
彼女はガサガサとバッグの中から一枚の名刺を取り出してシロガネに渡してきた。
名刺には○○芸能事務所と書かれており、裏面には関連会社の名前がびっしりと書かれている。
その中には音楽事務所や出版社、諸々の社名があった。
中にはシロガネも知っている会社名もあった。
名刺を見ているシロガネに彼女は言った。
「あの、突然なのは承知しておりますので一度御自宅に戻られてから御両親にお話しされて…その後で構いません。是非、御一報下さい。あ、興味があればですが…。」
「わかりました。ありがとうございます。」
話しが終わるとその足音は走るように駅の方へ去って行った。
「ふーん。」
正直、興味がないと言えば嘘になる。
シロガネは歌を歌うのが好きだし、ジャンルというか世界は違うかも知れないが自分が生まれる前の母親の話しが好きだった。
しかし、色々と考える事もある。
大学を辞める気はないし、宗教団体はどうする?
教祖を続けながらの芸能界デビューは恐らく無理だろう。
取り敢えず自宅に到着すると母親に先程自分の身に起きた事を全て話した。
「それで、貴方はどうしたいの?」
母親にそう言われると
「うーん。急な事でまだ分からないんだ。少し考えてみるよ。」
そう答えた。
「ねぇ、その名刺もう一度私に見せてちょうだい。」
そう言われ母親に渡すと
「これ、少し預かってもいいかしら?お父様に相談しましょう。」
「そうだね。」
「それまで貴方は自分がどうしたいのか、もう少し考えてね。」
すぐに答えを出せないとしてもまずは今日、父親が帰宅するまでこの話しは中断となった。
その後、父親が帰宅して暫くしてから夕食の時間になり、親子三人でテーブルを囲んでいる時に夕方の話しの続きが始まった。
まずは母親から事情を聞いた父親が言う。
「母さんから聞いたよ。芸能事務所にスカウトされたんだって?」
「そうなんだ。」
「で、お前はどうしたいと考えているんだ?」
「うーん…。興味はあるよ。でも、教団の事もあるし…。」
「なぁ、母さんと私はお前が一番幸せに思える方法を取りたいんだ。興味があるなら私達は全力でお前を応援するつもりだ。だから、教団の事は気にするな。」
「うん。ありがとう、父さん。」
母親が口を開く。
「で、貴方はどうしたい?今はどう思っている?」
「まだ、少し迷っているんだ。」
「そうね。なら、ゆっくり考えなさい。」
「あぁ。」
夕食が済み自室へ戻りベッドの上に仰向けになり、高い天井を眺めながら考える。
芸能界…。
一口に言っても色々な仕事がある。
自分は演技がやりたいのか、歌を歌いたいのか。
はたまた声を活かして声優とか…。
それ以外にタレントやモデルという選択肢もある。
僕がもし、芸能界にデビューするなら何がしたい?
一番真っ先に思い付くのはやはり歌を唄う事だった。
歌手になった自分を思い描くとなんだか心がワクワクする。
そんな事を考えているうちにシロガネはいつの間にか眠っていた。
朝になって朝食を親子三人で摂る。
両親共に昨晩の話しはしてこなかった。
いつも通りの朝、シロガネは大学へ行く。
キャンパスに着いてからも友人達にはスカウトの話しはしなかった。
まだ、デビューするのかも決まっていないのに、
そんな話しをするのは何か違うと思ったからだ。
それから数週間、色々考えた結果を両親に告白する事にした。
夕食に皆でテーブルを囲んでいる時、シロガネは言う。
「ねぇ、父さん母さん。考えたんだけれど僕は歌手になろうと思う。」
「そうか。」
言葉少なめな父親に反して母親は喜びを隠せない様子で
「あら、決めたのね。あなたがやりたいなら私達は全力で応援するわよ。」
と嬉しそうに言った。
後日、貰った名刺の連絡先に電話を架けた。
名刺の女性が電話に出て事務所まで一度来て欲しいと言われ事務所へ行く日取りを決める。
そしてその際に身分証明書の持参を促された。
ここからは話しが早かった。
事務所へ出向くとまずは事務所の社長に挨拶をして俳優になりたいのか、モデル志望なのかアーティストになりたいのか訪ねられた。
シロガネは迷わず
「僕は歌手になりたいです。」
と答えた。
事務所の社長はシロガネの両親が何者なのか身分証明書を見てすぐに気付いたようで是非とも両親に挨拶がしたいと申し出てきた。
事務所へ初めて行った二日後には今度はシロガネが自宅に社長とスカウトの女性を招く事になった。
緊張している社長に両親を紹介する。
両親は息子を宜しくお願い致しますと深々と頭を下げた。
有名な大手の芸能事務所から二十歳のエーアイシンプトンの大型新人がデビューするというニュースと共にシロガネは華々しく芸能界デビューを果たす。
勿論、そこにはシロガネの両親の大きな協力があった事をシロガネは知らない。
これはその数週間前に話しは遡る。
息子の芸能界デビュー決定において、ここでひとつ問題が浮上する。
それはシロガネが十年に渡って君臨し続けた宗教団体の件だ。
エーアイシンプトンを神格化しているこの団体は世間の目から見ればカルトに近い。
その教祖の青年が芸能界デビューとなると上手く行くものもそうでなくなる可能性がある。
まだ、あまり世間に広く知られていないのがせめてもの救いか…。
取り敢えずシロガネを教祖の座から外そうと両親は決めた。
しかし、だからと言ってこの団体をみすみす解散させようとは思ってはいなかった。
むしろ、より強固で大きな団体にしようと考えている。
シロガネのデビュー前に集会でシロガネが教祖の座から降りる事が信者達に伝えられた。
ざわつく信者達にシロガネの母親が言う。
「皆様、御安心なされよ。時期教祖は決定しています。次期教祖もエーアイシンプトンです。いずれ皆様の目の前に御降臨なされます。」
「おぉ…素晴らしい。」
結局の所、この信者達はエーアイシンプトンならば誰でもいいのだ。
この集会をもってあっけなくシロガネの肩書きは教祖から普通の大学生になった。
話しは現在に戻り、デビューしてからすぐにシロガネはまず、ワイドショーで引っ張りだこになる。
エーアイシンプトンの彼の歌声は素晴らしいと世間に刷り込まれ、デビュー曲が発売されると瞬く間に音楽チャートの一位を総ナメにした。
ここでもシロガネの知らぬ所で両親の力と事務所の力が大きく働いていたのだが…。
結果としてシロガネは凄い早さで著名人となったのである。
シロガネの生活は一変したが、本人の希望もあり大学生活は続けていた。
以前に比べると講義を受けられる時間も減ってしまいはしたが、それでも変わらず友人達との交流も大切にしている。
教団から離れてある意味、肩の荷が降りたシロガネの新しい人生が始まった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます