そして、彼は背を向けた

 ――試合当日、小幡はデビュー三戦目に快勝した。


 前二試合とは打って変わって、生き生きとした動きでリングの上をサークリングすると、追い足の無い対戦相手をピラニアのように縦横から喰い尽くした。


 不用意に出したジャブに右クロスを合わせると、凄まじい勢いで踏み込んで左右のフックとアッパーで滅多打ちにした。短い時間に十発近い連打を受けた相手は、ガードを固めたまま崩れ落ちる。レフリーは問答無用で試合をストップさせた。


 会場にどよめきが起きた。


 数秒前までは無名の4回戦ボーイだった選手が、途轍もない輝きを持った原石に見える。誰が見ても、埋もれた天才がその姿を現した瞬間だった。


 小幡は上機嫌だった。


 少しは褒めてくれるだろうかと、浮かれた風に自陣のコーナーへと戻る。大迫は目を合わせずにすれ違い、相手陣営に抑揚の無い声で挨拶をしていた。


 塩対応を超えた冷遇は今に始まった事ではない。だが、言いようのない寂しさを一瞬だけ憶えて、サブセコンドを務めた同僚のボクサーとハイタッチした。大迫はすでに控室まで歩いているところだった。


 控室まで戻ると、大迫はすでにいなかった。他の関係者に訊いたら、申し訳無さそうに帰ったと言った。どうやら骨の髄まで嫌われているらしい。大して驚く事も無く、シャワーを浴びて帰り支度を整えた。


 荷物を回収すると、観客席へと移った。オバターのファンとして知られるもの好き達がチケットを購入してくれていたので、そのお礼に歩き回った。


 ボクシングを会場で初めて見るファンが結構な割合でいたが、冷やかし程度のつもりで来た試合が快勝だったので多くは喜んでいた。この後に祝勝会があるわけでもないが、小幡は「人のために闘うのも悪くない」と思った。


 ボクシングは勝てば天国。負けたら地獄のスポーツである。


 どれだけ努力しても、序盤で倒されれば{記録|レコード}には1ラウンドKO負けとしか残らない。今まで努力してきた事をすべてを否定されたような気分になる事もままある。だからこそ勝った時の喜びは他のスポーツに比べて格段に大きい。


 ゆえにボクシングはしばしば麻薬のような中毒性を持ち、一度始めたらなかなかやめられない性質を持つ。小幡は4回戦とはいえ、やりたい事をすべてやって勝った試合で、その麻薬の味を初めて知ったところだった。


 プロの試合ではまったく無名の選手でも、いい試合をすれば観客は拍手という形で応えてくれる。センス溢れる小幡の試合は、観客達にを見つけたような幻想を与えた。その報酬は身分不相応の拍手だった。


 チヤホヤされたい性格もあり、今回の快勝と賞賛のセットで味わった快感は脳裡のうりに深く刻みつけられた。


 平たく言えば、小幡は調子に乗った。先ほどの大迫が見せた塩対応などすっかり忘れ去り、この勝利を動画でいかに発表しようかと承認欲求に満ちた妄想を膨らませていた。

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