修復不可能な仲たがい

「お前、この試合で負けたら引退な」


 大迫が険のある顔で言う。小幡は答えずに、眉間にシワを寄せた。


 試合が決まった選手に対して、開口一番でそのような事を言うトレーナーはいない。大迫がどれだけ小幡を嫌っているかがよく分かる一言だった。


「いいですよ」


 小幡はさして動揺も見せずに言った。その態度が大迫の神経をますます逆撫でした。


 そっけない返事が終わると、小幡はさっさと練習に戻った。シャドウボクシングのキレも、サンドバッグを打つ時の迫力も、日頃の練習と比べるといくらか増していた。やはり目標を得た方が人間は真面目に物事へ取り組むようだった。


 大迫は小幡の練習風景を、まるで親の仇のように見ていた。隠しきれない憎悪。こめかみには怒りで血管が浮かんでいる。


 大迫は練習を見ながら、絶対に小幡を勝たせないようなマッチメイキングを考えていた。小幡はまだ4回戦ボーイなので、いきなりA級ボクサーをぶつける事は出来ない。


 可能であればチャレンジマッチと称して、日本ランカーをぶつけて速攻で潰しているところだが、ボクシングの制度上、8回戦のボクサーを4回戦と闘わせる事は難しい。


 頭の中にインプットされたコネクションをフルに検索して、まだ4回戦ボクサーであるアマチュア出身の強豪選手をぶつけてやろうと思っていた。


 アマチュアボクシング出身の選手には、未知の強豪がいくらでもいる。小幡のように不祥事で消えた選手もいれば、天才と言われながら、その上を行く天才と予選トーナメントの序盤で当たり姿を消した者もいる。


 ボクシングという競技そのものがサッカーや野球のように幼少期から慣れ親しんでいなければトッププロになるのが難しい競技になりつつある。探せばうまくいかなかった亀田三兄弟もどきはいくらでもいるのだろう。


 試合の決まった小幡は絶好調だった。練習試合やスパーリング大会など、公式の記録になっていないキャリアであればトッププロ並みか、その上を行く場数を踏んでいる。相性が最悪の大迫と組んでいなければ、今頃は脅威の新人として注目されていたに違いない。


 小幡は自分の担当ではないトレーナーに直訴して、8回戦ボクサーの胸を借りてスパーリングをした。小幡に合わせて4ラウンドのスパーリングとなるが、内容は終始小幡が圧倒していた。


 小幡のファイトスタイルは、縦系でフェンシングのように前後へ動いてストレート系のパンチを打ち込んでいくシンプルなものだったが、そのスピードが異常に速かったので、A級ボクサーでも追えないばかりかパンチを打とうとした瞬間に後の先でクロスカウンターを打ち込んでくる。


 カウンターを警戒してガードを固めていると、その隙間を異常なスピードのパンチが潜り抜けてくる。


 守勢に回ると動きが固くなるが、超攻撃型スタイルが本分の小幡は持ち味を出せば攻撃が最大の防御といったタイプの選手だった。固いディフェンスから攻撃への活路を見つけるスタイルの大迫流とはあまりにも方向性が違った。運命の女神が二人を巡り合わせた日に二日酔いだったとしか思えない。


 大迫は小幡のスパーリングを見ようともしなかった。つまらなそうな顔で、他の選手のミットを持っていた。


 スパーリングを頼まれたトレーナーは、大迫を見て一瞬だけ苦笑いした。大迫は今後も小幡のミットを持つ事は無い。永遠に。


 ――誰が見ても、そう確信出来る風景だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る