干される小幡

 昨今の流れは変わりつつあるが、ボクシングの世界にはいまだに古い体質が残っている。


 その内の一つとして、自分の担当であるトレーナーや会長に逆らうと選手としての未来が閉ざされるというものがある。誰の目に見ても、小幡が大迫からのは明らかだった。


 大迫の発言力はジム内でも強かった。これまでに強豪選手を多数輩出してきた実績もあり、現役時代の強さも有名だった。いまだに大迫より早く走れない選手がいるほどだった。


 気難しい部分があるとはいえ、ストイックさで尊敬を獲得してきた大迫は、多少理不尽な制裁を選手に科しても咎められる立場になかった。


 何人もの選手達が大迫と衝突しては干され、ジムを去る者もいれば現役を引退せざるをえない者もいた。


 誰もが幸せなピリオドを打てるわけではないが、大迫の担当した選手は日本ランキング入りでもしなければ、恨み節を吐いて去って行く者が多かった。


 大迫は才能の無い選手が嫌いだった。才能のある選手でも、自分の至上とするボクシングを継承しないボクサーは徹底的に嫌った。


 才能があり、大迫の教え方が合う選手はどんどん強くなった。その中には日本王者になった者もいた。


 だが、合わない者は徹底的に合わなかった。


 持ち味を否定され、常時委縮気味で、得意の武器も掻き消された確信とともにその威力を失っていく。


 選手の中には考える事を放棄し、ロボットのようになった者もいた。


 野次馬と化した選手達はその歴史を見てきた。だから小幡も干されるか否定を浴びせられまくって壊れていくであろう事は明白だった。誰の目にも。


 翌日から、小幡が話しかけても大迫はすべてのコミュニケーションを無視した。最初こそ何度も話しかけようとした小幡だったが、それが何日にも、何ヶ月にも及ぶと怒りを通り越して諦めの境地へと入っていく。


 こうした積み重ねで小幡と大迫は口も利かず、目も合わさない解散前の黒夢状態壊滅的な不仲になった。

(※作者注 黒夢という有名バンドは一度解散になる前、目も合わさず口も利かず、リハーサルもレコーディングも打ち上げも別というこれ以上無い不仲になっていた。ちなみに、のちに不仲は解消して再結成した。)


 小幡は次第にジムへと来なくなってきた。来ても意味が無いからだ。スパーリングは担当ではないトレーナー経由で頼んだ。


 それを見ると大迫は小幡を怒鳴りつけたが、小幡も小幡で大迫の言葉を無視して何も聞こえないかのような態度を取っていた。ジムの空気が凍り付く。


 その後、二人の冷戦は何ヶ月も続き、一年を超えた。


 お互いが何に対してか分からない意地を張り続けていた。


 時々大迫の方から「お前には才能が無いからさっさと引退してまともな仕事に就け」という辛辣な言葉が投げかけられた。小幡は耳が聞こえないかのように何も反応しない。


 そういった言葉に反応する事自体が無駄だと理解していたし、何よりも大迫と一秒でも長く関わりたくなかった。そんな小幡を見て、大迫の方もさらに敵意を募らせた。


 大迫が手塩にかけているトップボクサーですら居心地が悪そうにしていた。この二人は誰よりもジムの空気を乱し、士気を下げていた。


 だが、誰一人としてこの二人に物申せる人間がいなかった。お互いが相手の名前を聞いただけで憎悪を剥き出しにして、今にも噛みつきそうな顔になる。ジム史上でここまで不仲のまま変わらない師弟もいなかった。大概は選手の方が嫌になって去って行く。


 小幡は忍耐強い方ではなかったが、大迫に負けるぐらいなら腹を切ってやると思っていた。


 大迫が手掛ける選手とのスパーリングがあれば過剰なほど闘争本能を剥き出しにした。大迫のすべてを否定してやりたかったからだ。


 ――お前が捨てた選手は、一番お前が大事にしないといけない選手だった。


 それを体現するように小幡はリング上で対戦相手を血祭りに上げて、恐怖を精神に刻み込んでから試合へと送った。


 自信も誇りも砕かれた対戦者達は、試合前からすでに壊されていた。その結果は調べるまでもなかった。大迫の育てた選手はいいところ無く惨敗する選手が半数ほどになった。


 大迫が大人気なくミドル級の選手をスパーリングでぶつけた事もあった。十キロを優に超える体重差。ボクシングではありえない対格差だった。


 それでも小幡は左右へと動き回り、連打で滅多打ちにしてリングからその巨体を落とした。その選手は翌日からジムへ来なくなった。


 小幡は試合を干されたままだった。反抗とばかりにやった塩試合二戦が痛かった。観客を完全に無視した選手に、もはや誰一人として金を払いたいとは思っていなかった。

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