ケンシロウとの闘い その3

 スパーリングが再開すると、調子に乗った小幡が身体を揺らしながら、アメンボのようなフットワークでリングを旋回する。追い足の無い井上は不器用に追いかけ回すも、小幡を捕まえる事は出来ずにジャブで狙い撃ちされた。


「腹だ、腹! 腹打って止めろ!」


 イラ立った大迫が怒鳴って指示を飛ばす。「前で攻撃を捌け」というは第三者から見ても足を使わせないためのパワハラ的な指示だったが、そのような隠された意図はその場にいる選手であれば漏れなくお見通しだった。


 小幡は大迫の指示とはまったく無関係に、遠い距離から鋭いリードパンチで井上を狙い打ちにしている。


 井上が焦り気味に身体を振る。だが、真面目な性格が裏目に出てか、リズムが規則正し過ぎる。それは迎え撃つ側からすればメトロノームで打ち返すタイミングを教えているようなものだ。


 左フックで飛び込もうとしたその刹那、長く速いジャブが井上の頭を撥ね上げる。カウンターのタイミングで入った左は、ストレート並みの威力を持っていた。


 フェイントをかけ合う。いくぞいくぞと相手を誘い、反撃を外してからそこにカウンターを叩き込む。リングの上に、重い静寂が訪れた。


 細かい脚の動き――わずかな移動で、有利なポジションを取り合う静かな闘い。


「手を出せ!」


 沈黙を破る声。大迫――ジムで一番うるさかった。井上がガードを固めたまま突っ込む。接近して乱打戦に持ち込む気だ。


 小幡はまたカウンターの左を打つべく踏み出す。


 刹那、井上がジャブの軌道から外れ、右を思いっ切り振ってくる。


 ――オーバーハンドの右。それは小幡のジャブにかぶさるように襲いかかる。


 鈍い音。時間差で井上の身体が崩れ落ちる。勢いよくキャンバスに倒れ込んだ。


 どよめき。リングを囲んでいたプロや練習生が目を見合わせる。リングの中央では、飄々とした小幡が井上を見下ろしていた。


 ――大振りの右は小幡の鼻先をかすめただけだった。


 右を振りながら下へと向かった井上の顔面は、フェイントから振り上げられた左アッパーと正面から衝突した。交通事故のような衝撃を受けて、井上の意識は遮断された。


 見下ろす小幡。井上のダメージを推し量っているようだった。


「はーい。終わり」


 大迫が気の抜けた声でスパーリングの終了を告げる。その言葉とは裏腹に、表情には隠しきれない憎悪が浮かんでいた。


「よし」


 小幡は小声で呟くと、小さくガッツポーズをした。4回戦ボクサーがA級ボクサーを明白に倒したのは大きい。アマチュアエリートに近しい立場とはいえ、素直に嬉しかった。


 ――これで大迫トレーナーの考えも変わるかもしれない。


 コーナーの椅子に座る井上に、水を飲ませる大迫の背中を見つめた。珍しく期待が湧いてきた。


 小幡はおおよそやりたい事を出し切って勝利した。大迫がタブー視していた技術にも有用性がある事を身をもって証明した。バックステップは犯罪でも無ければ非人道的な行為でもないのだ。


 音楽性ならぬ拳闘性の違いでぎくしゃくしてきた大迫とも、この一戦をきっかけに和解出来るかもしれない。そんな思いも出てきた。


 だが――


 振り返った大迫は眉間にシワを寄せ、額に大量の血管を浮かばせながら憎悪を剥き出しにしていた。まるで兄弟のタマを取られたヤクザのような形相だった。その様態に、ジム全体が凍り付いた。


「おい、小幡よ」


「……はい」


「だからお前はダメなんだよ」


「え?」


 大迫は険しい顔でリングを降りた。そのままロッカールームへと向かって行く。肩で風を切り、手に持ったタオルをサンドバッグに叩きつけながら歩き去った。


 ――静寂。残された者達は誰一人として口を開かない。野次馬根性丸出しだったプロや練習生も、気まずそうに視線を合わせてから、示し合わせたように自分の練習へと戻っていく。


 誰一人口には出さなかったが、これだけははっきりしていた。


 ――小幡は終わった。

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