ケンシロウとの闘い その2

 小幡は大迫に背を向け、反対側のコーナーにもたれかかる。向こうで井上に水を飲ませる大迫がものすごい顔で睨んでいた。小幡は表情を変えずに、練習生が持ってきたペットボトルで水を飲む。


「手を出せよ。に舐められてるじゃねえかよ」


 聞えよがしの叱責。小幡の見尻がわずかに吊り上がる。


 大迫が情けない教え子へ叱るように指示を出している。謝るように頷く井上。


 ――そうやってお前の教え子は委縮してきた。


 小幡は冷ややかな視線でそのさまを見ている。


 デジタル式のタイマーが、インターバルが残り僅かである事を示す。ペットボトルを練習生に渡す。二回目のゴングが鳴った。


 リング中央へと飛び出す。


 ふいに大迫の指導が間違いであると証明してやりたくなった。今までに溜まりまくった鬱憤うっぷん――それを晴らすためには、大迫が手塩にかけて育てた選手を*おもちゃ*にして遊ぶしかない。


 小幡は膝を柔らかくして、クネクネと踊るようにステップを踏んだ。重心は低く、先ほどに比べるといつでも強いパンチが打てるように微調整している。


 井上も先ほどのラウンドを反省したのか、身体を揺らしながら左を突いてプレッシャーをかけてくる。先ほどのラウンドに比べると、足を使って逃げると捕まりそうな気配があった。


 小幡は素早くジャブを放つ。先ほどとは違い、強いジャブで井上のガードを割り、その頭を撥ね上げる。上を向かされた井上が、慌てて体勢を戻す。


「はい、ビビんないで前に出て」


 大迫が不機嫌そうに指示を出す。害虫を見る眼。視線を感じると、小幡の心が泡立った。


 サイドへ回り、長いジャブを放つ。それは何度も当たり、井上の顔を撥ね上げた。


 右をチラつかせる。フェイントで、また左を突く。当たる。苦しまぎれのリターン・ブロー。外して、左フックからボディーへとダブルで繋ぐ。


「何やってんだよ!」


 大迫が後ろから怒鳴る。


 生意気な4回戦ボクサーの鼻っ柱をへし折るはずが、逆に自信をつけさせようとしている――大迫のイラ立ちは時間が進むごとに増していった。誰が見ても小幡の健闘を祈っていない。


 小幡は冷静に状況を見ていた。サイドに立ちながらも縦系の動きで移動しながら、フェンシングのような距離感でカウンターを狙う。


 距離は小幡が支配した。フェイントをチラつかせてカウンターを誘うと、わずかなバックステップでストレートを外してから一気に踏み込む。


 パンチの戻し際にストレートのカウンターをかぶせる。当たった。キレのある音。ダメージを与えた。


 井上が喰らいながらも強引に突き進んでくる。相打ちで一太刀を入れようと、右を全力で振ってくる。


 刹那、ジム内に銃声のような轟音が二発鳴り響いた。


 リングの周囲でスパーリングの行く末を見守っていた選手達がどよめく。


 キャンバスの中央で、井上が驚愕の表情を浮かべたまま四つん這いになっていた。


 ――カウンター。


 小幡は強引に距離を詰めてきた井上に、下がりながら左のフックとアッパーをダブルで打ち込んでいた。


 攻撃ばかりに気が行っていた井上は、死角から迫る左フックが見えていなかった。驚いている内に、ヒジの内側にねじ込まれた拳が無防備な顎を打ち抜いた。


 膝に力が入らなくなり、たまらずキャンバスに崩れ落ちた。短い時間で一気に勝負の流れが変わった。


 ニュートラルコーナーへ下がる小幡。あっけに取られていた大迫がはっとしたようにリングの外からカウントを始める。屈辱と怒りを含有する苦虫を思い切り噛み潰したような顔だった。


 井上がしばらく正座のような体勢で落ち着きを取り戻し、ゆっくりと立ち上がった。大迫はダメージも確かめずに「はい再開」とそっけなく言う。井上は地面へ視線を遣り、大迫を見ないようにしていた。


 大迫も含めた怖いもの見たさでこのスパーリングを見ていたプロや練習生達は、無言で視線を交わし合う。そのやり取りには言外に「止めないんですか?」という含みがあった。


 通常の場合、スパーリングは深いダメージを負わないよう、出稽古でジムの威信が懸かっているような例外を除き、ダメージを感じさせるダウンがあればすぐに止める。ボクシングは殺し合いではないし、試合に向けた練習でダメージを蓄積させていたら、選手がすぐに壊れてしまうからだ。


 だが、大迫は井上に白旗を揚げさせる事を許さなかった。井上は大迫が小幡をシメるために放った刺客だ。それを返り討ちにされるという事は、顔に泥を塗られるに等しい。そのような事はあってはいけない事だった。


「小幡、お前もパンチが来た時に反ってんじゃねえよ。前で捌け、前で」


「はい」


 小幡が覇気の無い声で答える。絶対に聞いていない。

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