ケンシロウとの闘い その1
試合後、小幡は一日だけ空けてからジムへ来た。その目に覇気は無く、真面目なのか不真面目なのかは自身でも分からない。
試合翌日はぐうたらと寝ていた。ダラダラと動画サイトを観ていたが、一日中自堕落な生活をしていればすぐに飽きた。実家にいても家族からは疫病神扱いをされるだけだったので、ジムへ来た。安息出来る場所などどこにも無い。
ジムに来てストレッチをすると、軽めのシャドウからゆったりとしたペースでサンドバッグを叩く。
「小幡、グローブをつけろ」
振り返ると大迫がいた。不機嫌そうだった。小幡は愛想の無い声で「はい」と言うと、スパーリング用のグローブを付けにいく。度を超した不仲でも、最低限の会話はしないといけない。練習生が小幡のもとへと集まり、グローブを装着する。
「ありがとうございます」
大迫と比べて十倍の愛情で礼を言う。
リングへと入ると、コーナーポスト付近で大迫がまずいタバコでも食わされたような顔で立っていた。視界にミュートモードをかけて、見えなくする。
もう一人の選手がリングに入る。井上健四郎。ボクシング好きの父親から授かった名前が原因で、幼少期から「名前負け」とイジメられ続けた。名前負けをしていないケンシロウはボクシング界ではまだ一人しかいない。
井上は努力の甲斐もあり、8回戦で闘うA級ボクサーになっていた。世間では当たり前のように日本王者、世界王者の試合ばかりが注目されるが、A級ボクサーになる事自体が並大抵の事ではない。ボクシング界のピラミッドは途轍もなく大きい。
4回戦ごときのスパーリングでわざわざ8回戦の選手をぶつけてくる事自体、いかに大迫が小幡の事を嫌っているかを物語っている。
だが、小幡にとってそれは不思議でも何でもない。そもそもが解散前の黒夢のように不仲なのだ。大迫がスパーリングという形式で小幡を潰しに来ても何ら不思議は無い。
――ゴングが鳴る。リング中央へ行って、グローブを合わせた。
ボクシングの試合では、最終ラウンド以外にはそのようなルールは無い。スパーリングに関しては暗黙の了解のようなものだった。
グローブを合わせると互いにすぐサークリングする。奇襲が無くもないからだ。小幡はやや低めのガードで身体を揺らしながらサイドステップを踏む。堅牢なガードを至上とする、大迫の大嫌いなスタイルだった。
試合とはまるで違う。手抜きの塩漬け試合に比べて、リングの上には緊張感が走っていた。
井上は
小幡がフリッカー気味にジャブを弾く。重さは無いが、キレのある左が井上を威嚇する。井上は動じる事もなく、ガードを固めながら距離を詰めていく。接近して強打を叩き込むつもりのようだった。
小幡は素早く脚を動かし、井上の射線から外へ外へと逃げていく。強打を叩き込むにはある程度接近しないといけないが、プレッシャーに負けずに終始外側を取れば、アウトボクシングをしている方が有利になる。一方的に遠くから攻撃が出来るからだ。
「健四郎、手を出せよ」
大迫がイラついた声で言う。早く小幡を捕まえて叩きのめしてほしいという思いが少しも隠されていなかった。
小幡は内心で笑う。小幡ロキは元天才ボクシング少年だ。それは炎上動画事件があろうが無かろうが関係ない。
小幡は井上よりも幼少期からボクシングをやっていたし、才能もあった。練習自体もそれほど手を抜いているわけではない。ただ、本当の天才になるには何かが足りなかっただけだ。
サイドからサイドへとステップを踏み、踊るような足取りでフリッカーと当てる。鞭のようにしなる拳。遊びながら、距離を測りつつカウンターのタイミングも探る。一見小幡は遊んでいるようにも映るが、頭も使っている。
ボクシングにおいて重要な要素はスピード、距離、タイミングだ。実戦において手を出す事は重要だが、闇雲に手数を出せばスタミナを浪費し、適切な距離感を掴み損ねる。
小幡はペースを握る事自体よりも、距離感やどのような種類のパンチが来るのかを初回で見極めたい思いがあった。
大迫の考えは逆だった。先に手を出していいパンチを当て、そこから距離感やリズムを掴む事こそが勝利の定石。それは自身の現役時代に相手を見過ぎて、ペースを握られた苦い経験からも来ている結論だった。
どちらの考えも間違いではない。だが、日本のボクシング界では、選手と指導者の意見が対立する時、指導者の意見が押し通される事がままある。これは指導者の立場が選手に対して上司めいた立ち位置にある事もその要因の一つとなっている。
どちらかと言うと業界の古い体質の中で育ってきた大迫にとって、指導者に意見をする選手などあってはいけない存在だった。
大迫の指導する選手は全員がガードを高く上げ、堅牢な守備から左を突き、堅実なボクシングで確実に勝つ――それが彼の指導する選手の間にあった不文律だった。
だが、小幡は大迫の指導に真っ向から反発し、おかしいと思えば言い合いも辞さない。大迫からすればかわいがり甲斐の無い選手だった。
一回終了のゴングが鳴った。
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