そして、不仲は始まった

 二試合目。またどこの馬の骨かも分からない選手と試合が組まれた。ジャブを当て、フルラウンド流し続けた。悪夢のリピート。辞書の見本に出来そうな塩試合だった。


 無傷で控え室に帰ると、担当の大迫トレーナーが苦言を呈した。


「お前の試合からは感じるものが何も無いんだよ」


 試合には勝ったのに、大迫の顔には怒りが浮かんでいた。小幡は意味が分からなかった。だから素直に「意味が分かりません」と言った。


 空気が凍る。大迫の顔が一瞬だけ怒りで燃え滾り、ふいに寂しそうになった。


「分かった。それなら体で分からせるしかないな。試合明けの休みが終わったらすぐジムに来いよ」


 それだけ言って、大迫は返事も待たずに去って行った。


「クソ野郎」


 小声で呟く。他の選手は聞こえないフリをした。


 小幡と大迫の不仲はジム内で有名だった。


 大迫は元々A級ボクサーで、才能豊かなボクサーファイターだった。日本王者ぐらいにはなれるだろうと言われていた。


 だが、これからランキングを駆け上がろうという時に眼疾で引退を余儀なくされた。才能のある選手にありがちな悲劇。大迫は成功を掴む事無く、トレーナーに転身した。


 小幡は大迫の担当になった。センス溢れる小幡と、理詰めの大迫が組めば化学反応で大化けするかもしれない――そんな期待を込めて会長がコンビを組ませた。


 蓋をあけてみれば、二人は決して混ぜてはいけない化学薬品である事が分かった。


 幼少期より自身のボクシングを構築してきた小幡は、縦系の動きで前後へ素早く動く事でペースを握るタイプだった。


 剣道のように前後へ動き、バックステップを頻繁に使う。ギリギリ拳の届かないところまでステップで下がり、すぐに踏み込んでストレートを当てる。小幡はその戦法で勝ちを重ねてきた。


 だが、大迫の指導方針としてはバックステップは禁止だった。「パンチはすべて前で捌け」と言われた。パーリングやウィービング、固いガードで強打を防ぎ、相手がバランスを崩したところで得意のパンチを打ち込む。そういったスタイルを構築するための指導法だった。


 当然、この指導は小幡が今までやって来たボクシングとはまったく別種のものだった。小幡はバックステップで攻撃を外すのは得意だったが、パーリングやガードしながらのカウンターは得意ではなかった。必要が無かったからだ。


 思わずバックステップを使うと怒号が飛んだ。「前で捌け」と、多くのプロや練習生がいる前で怒鳴られた。意味が分からなかった。


 スウェーバックを使えば、まるで犯罪者のように口汚く罵られた。大迫の価値観によれば、パーネル・ウィテカーやフロイド・メイウェザーは極悪人に見えるのかもしれない。


 ともあれ、会長が望んでいたのとは真逆の化学変化が起きた。まるで混ぜてはいけないトイレの洗剤だった。


 毒ガスが発生し、息苦しさに関係者の方がやられている。小幡と大迫はしだいに口も利かなくなり、目も合わせなくなった。解散前の黒夢のようだった。


 死ぬほど仲が悪いのにどちらかからコンビを解消する話をする事はなかった。それを自分からすれば負けたようなものだとお互いが思っている節があった。

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