第7話 友達
レアの家を出てから駅まで歩く途中にタツキは気になった事をハヤトに打ち明ける。
「あのさ、ハヤト。レアの事なんだけど……。」
「ん?」
「ハヤトだから言うけどさ…。」
「なんだ、気付いちゃったか?」
「えっ?」
「いや、待て。俺が今思ってる事とお前が言いたい事、同じ事か分からないのにごめん。俺、先走ったわ。今の忘れてくれ。それよか何だ?」
「うん。レアの声が出ないのはさ、精神的なものだろ?」
「あぁ、レアの親父さんはそう言ってたな。」
「ハヤト、もしかして気付いてる?さっきの御見舞いの時にレアの足が全く動いてなかったんだ。」
「あぁ、やっぱり俺が言おうとした事だったわ。」
「って事は…。ハヤト、知ってたんだね。」
「あぁ。あの火事の直後クラブからコンビニまでは俺がレアをおぶって運んだんだ。その時はただレアが腰を抜かしてるだけだと思ったよ。それから救急車にも俺が運んだだろ?だから火事が起こってからレアは一歩も歩いていないんだよ。」
「そっか……。」
「なぁ、タイキ。お前、さっき医者の知り合い多いって言ってたよな?」
「あぁ、うん。」
「別にレアの親父さんを疑うとかじゃなくてさ、他の医者にもレアを診てもらった方がいいんじゃないかって思うんだ。なぁ、タイキの知り合いに誰かいないか?」
「うーん。でもレアをどこかで診てもらうって言っても…レアは歩けないのにどうやって……。」
「俺が連れて行くよ。あ、何もおぶって行く訳じゃなくてさ。方法は色々あるだろ?車椅子もレアの診療所にはあるんだし。」
「そっか……。少し時間が欲しいな。また僕から連絡するよ。」
「あぁ。悪りぃな。」
正直なところ、タイキの口を借りてサトルがレアを診るのが一番手っ取り早いだろう。
サトルの脳はとりわけ医学の知識に特化している。
さっきレアに会った時も言える立場ならば色々と言いたい事はあった。
でも、医者でもないタイキがそれをペラペラと話すのは不自然だ。
もし仮に話したとしても勘の良いハヤトや本物の医師であるレアの母親に何かツッコミを入れられたらそれに対して瞬時に返せる自信がない。
サトルは上手な嘘やその場しのぎの言い訳が下手くそなのだ。
さて、タイキを仲介に立たせて違和感を持たれずにレアに会うためにはどのようなやり方が一番なのだろう。
いっそ思いきってハヤトとレアの目の前にサトル本人が医者の振りをして登場してみるか?
数時間の外出なら許されるだろう。
但し問題は場所だ。
ハヤトとレアを連れて行ける適当な医療施設をサトルは知らない。
茶番劇の為にハヤトとレアをわざわざ何処かへ呼び出すのも申し訳ない。
そうなるとサトルが二人の前に姿を見せるのは適切ではない事に気付く。
そこでサトルは国内でチップを埋め込まれた人間の中に医師がいないかリサーチをかけた。
すると、タイキが住んでいるマンションの近くにエボリューターの医師がいる事が判明した。
通常は医療従事者にチップが埋め込まれるような事はほぼない。
何故なら彼らは日頃から自己管理や衛生面が徹底しているし、新種の病気に対して情報を取得するのも対処も早い。
また、アメーバの好物とされるストレスにおいても彼らは一般人より比較的ストレスの逃がし方を熟知している場合が多いからだ。
「ふーん、面白いね……。」
サトルはこの医者を見つけた時に思わず呟いた。
今まで医者の脳を覗く事はなかったが、今回の件で初めてその脳を覗き見た。
彼には産まれながらにして医師としての道しか定められていなかった。
父親も医者で母親も医療従事者という家庭に生まれ、曾祖父の代から医師の家系だ。
どうやら本人は学生時代にスポーツにのめり込んで国の代表選手にまで上り詰めた過去があった。
しかし、いずれは代々続く病院を継がなくてはならなかった為に大学入試の年に両親の猛反対を受けて泣く泣く医大へ進まざるを得なかった。
スポーツにおいては何かしら結果を出せばその道を絶たれる事はないと信じて努力を重ね、結果も出したというのに家柄というものの為にいとも容易くスポーツの世界から身を引く羽目になる。
その後は気乗りしないまま、一応医師になるべく勉強は一通りして免許も取得した。
普通は医師免許なんて簡単には手に出来ない筈なのに、彼の父親が医師会の中で役員を務めていた事から裏口でその免許を取得している。
そして大学病院で少しの研修期間を終えると、すぐさま自身の父親が経営する病院に医師として身を置いた。
それからも毎日のように父親から色々な事を叩き込まれるも身が入らず怒られ続け、母親にも毎日愚痴を言われていた。
彼の唯一の楽しみであるはずのスポーツもニュースで話題を目にする度に「あのポジションについていたのは俺だったはずだ。」とか、「あのチームに俺がスカウトされていたら…。」などといつまで経っても未練が拭えず、医者になった後も人を診なくてはならないはずなのにそれもおざなりで、それよりも夜間や週末に行われる社会人スポーツ大会の練習に力を入れる始末だった。
当然の如く患者達からは父親と比べられ、先代の方が優秀だと酷評されて更なるストレスで酒に溺れては休診する事も多かった。
常日頃から様々なストレスを抱え込んでいた彼は医師でありながらもアメーバの餌食になったのだ。
さて、こんな評判の悪い医者の所へレアを連れて行こうとしたらハヤトになんて言われてしまうだろう……。
いや、実際はサトルが診るのだからそこはタイキに上手く説明させて納得してもらうしかない。
数日後にサトルはタイキの携帯電話でハヤトに連絡を入れた。
「もしもし、ハヤト?」
「よぅ、タイキ。」
「うん、元気だった?」
「あぁ、俺なら変わりないよ。」
「レアは?」
「うーん、レアも残念ながら変わりはないよ。」
「そっか……。あのさ、この前の話しなんだけどさ…。」
「あぁ、どうなった?なんか俺、無理言ったかもなって思ってたんだ。」
「その事なら目星は付いたよ。」
「マジか。」
「うん。でも少しクセのある先生なんだ…。でも腕は良いよ。僕が保証する。」
「そっか、ありがとうな!んで、いつ頃レアを診てくれるんだ?」
ハヤトの声に元気が戻る。
「ちょっと、ハヤト。その前にこの事レアには言った?レアの御両親は?」
「それならレアにはもう話してある。んで、おじさんとおばさんには言わないでおこうって……。」
「そっか。」
「レアを外に連れ出すのも問題ないと思う。気分転換に散歩に行くとか何とか言ってさ。」
「そっか、問題ないなら早い方が良いね。じゃあ、先生のスケジュールを聞いてみるよ。それがわかったらすぐに連絡するよ。」
「あぁ、頼んだよ。タイキ、ありがとうな。」
エボリューターの医師のスケジュールをサトルが確認してレアを診る日を決めた。
当日は医師の脳をサトルが乗っ取るわけだが、それに費やせる時間は長くても数分くらいだろう。
それ以上に支配する時間が長いと後々問題が生じる可能性がある。
乗っ取られる側の記憶喪失時間が長ければ長い程、現実とのつじつまが合わなくなるからだ。
予定日と時刻と場所の地図をハヤトに送り、サトルは眠りに着いた。
診察当日はタイキも同行する。
レアの家からは電車でおよそ五十分の距離だ。
最寄りの駅で待ち合わせをして二人を待っているとレアを車椅子に乗せたハヤトが現れた。
「レア、久し振りだね。」
ニコリと大きく頷くレア。
「よろしくな!タイキ。」
「あぁ、うん。それじゃ、行こうか。」
車椅子を押しながらハヤトが言う。
「レア、きっと良くなるからな。」
後ろ向きにハヤトの顔を見上げてレアが頷く。
病院に着くと難なく受付をクリアしてレアの診察が始まった。
サトルは既に医師にスイッチしている。
二日酔いのせいかこの身体はだるく、食道と胃の辺りがムカムカする。
気を取り直してまずは問診を行う。
会話の出来ないレアに紙とペンを渡し、何か聞きたい事があったらそれに書くように指示する。
次にレアの喉の辺りを重点的に診る。
火傷は既に完治しつつある。
声が出ないのはやはり精神的なものだ。
この辺りの見立てはレアの父親と変わらない。
さて、お次は足だ。
レントゲンの後に触診をする。
こちらも異常は特にみられない。
結果、今の現状は全てレアの精神的ショックによるものだと判断した。
サトルは医師の口を借りてレアに話しかける。
「急に歩けなくなったり、話しが出来ないのは辛いでしょう?早く治したい気持ちはわかります。でも、焦らないで大丈夫ですよ。」
即座に頭を縦に振るかと思いきや、レアは何やら考え込んでいる。
「これに書けますか?」
そう言ってまた紙を渡す。
するとレアは意外な事を書いて見せた。
『こんな風になって今まで気付かなかった事に気付けるようになりました。もし、このままだと言われても受け入れる覚悟はあります。でも、努力して治るなら話したい。歩きたい。出来る事はなんでもします。』
レアはもしもこのままだったら…という事まで考えて覚悟していたのだ。
最悪の事態を考えながらも前向きな強い人間の姿を見たサトルはなんと言ったらいいのか……何か大切な事を学んだような……つまり心を打たれたのだ。
これもサトルの知らない人間の一面だった。
そして、サトルはレアにこう言った。
「安心して下さい。今日、三日間分の薬を処方します。それを食後にきちんと飲んで下さい。それからもし不安になった時の為のお薬も出しておきますね。じきに歩けるように話せるようになりますよ。」
薬はいわゆる偽薬というやつだ。
今の数分間でサトルはレアのストレスや精神的ショックを取り除くべく洗脳をした。
これで間違いなくレアは三日後、遅くても四日後には歩いて話しも出来るようになる。
そして、レアを診察室の外に出すとサトルはレアがここに来た証拠となるデータを全て消去した。
十分程サトルにスイッチされていた医師は二日酔いのダルさを引きずって何事もなかったかのように次の患者の診察を始めた。
ただの問診だけだった事にハヤトは不満げだったが、帰りの道すがらタイキはハヤトに言った。
「あの先生がそう言ったなら大丈夫だよ。腕は確かなんだ。」
四日後にタイキの携帯電話が鳴るとすぐに耳に当てて返答する。
ハヤトからだ。
「もしもし、ハヤト?」
「あぁ、タイキの紹介してくれた先生の言った通り、昨日からレアが喋れるようになったんだよ!」
「そっか、良かった。足は?」
「うん、そっちも問題ない。けど少しの間とはいえレアの奴、歩いてなかったから筋力が落ちてるみたいでトレーニングは必要みたいだな。」
予測通りだったとは言え、実際にハヤトから報告をもらうと嬉しくなる。
「そっか…じゃあ、クラブで会うのはもう少しお預けだね。次は何処のクラブで集まるつもり?」
「それなんだけどさ…。」
「ん?何?」
「あの火事の真相ってやつ、解ったかもしれないんだ。」
「えっ?どういう事?だってニュースでは厨房から出火した事故だって……。」
「まぁ、それは合っている。ただ、ニュースにはなっていない変な噂話を聞いたんだよ。それを聞いたらさ、そっちの噂話の方が真実なんじゃねぇかなって思ってさ……。」
「どういう噂話?」
「そうだな…電話で言うのもなんだな……。タイキ、今から外に出て来られるか?」
「うん、大丈夫だよ。」
「じゃあさ、駅前のカフェの前で待ち合わせな。」
「うん。じゃあ、あとで!」
「おう、じゃあな。」
着替えながら火事の後の情報を探る。
サトルの脳内の情報網にも引っ掛からない噂話なんて信じる方がナンセンスだ。
でも、あの声の様子からすると少なくともハヤトはその噂話とやらを信じているようだった。
タイキは携帯電話をジーンズの後ろポケットに差し込んで駅前に向かった。
ハヤトに会うのは四日振りだ。
「よぅ、タイキ。この前はありがとうな!」
「良かったね。レアが話せるようになってさ。」
「あぁ。ま、取り敢えずコーヒーでも飲みながらさっきの話しの続きでもするか。」
「あぁ、うん。」
駅前のカフェに入ると二人で飲み物を手に取り、二階席に移動した。
周りに人がいないテーブルを見つけてハヤトがそこに座った。
タイキもハヤトの目の前に座る。
「んで……さっきの噂話って何?」
「あぁ、それな。あの火事が単なる事故じゃないっていう噂話なんだよ。」
「どういう事?」
「俺も聞いた話しだからどこまでホントかって思うんだけど、俺らが行ってたクラブな、オーナーが結構ヤバい奴だったって……。」
「ヤバい奴?どういう事?」
「なんかさ、あのクラブってそんなに古い訳じゃないんだけど過去に女性従業員が次々と自殺してるんだってよ。」
「何?オカルトの話し?」
「違うよ。むしろ人間臭い話だよ。」
「?」
「あのクラブな、フロントに女の人がいつも居ただろ?」
「あぁ。」
「あれ、実はオーナーの嫁さんだったらしいんだ。それでさ、オーナーの女癖の悪さに悩んでいたとか……。」
「で?」
「あの火事な、その嫁さんの仕業だっていう噂なんだよ。なんでもキッチンスタッフの中に若い女が居たらしくて、そのスタッフがオーナーの子供を妊娠したとか……。んで、それを知った嫁さんが逆上してキッチンに殴り込んで大暴れして偶然ガス管が壊れたんだってさ。厨房なんて常に火を使っているからさ…それでドカン。」
「何だよ、それ。」
「だろ?下らないよな。だから犯人がいないというか……いや、いるっちゃいるんだけど、オーナーも自分のせいで暴れた嫁さんを流石に警察には付き出せなくて事故という事で警察に届けを出したから真相は闇の中ってわけ。」
「ふーん。じゃあ、さっき言ってた過去の自殺者っていうのは?」
「あぁ、オーナーに手ぇ付けられた女性スタッフ達だってさ。」
「本当に自殺なのかな?」
「それもどーなんだかな……。そうじゃなかったら相当エグい話だぞ。」
「ふーん。」
「ま、今回は俺ら、とんだとばっちりを受けたって事だ。レアなんか一生声が出ない、歩けないかもって紙に書いてピーピー泣いてたのにさ。」
このハヤトの語る真相がどこまで真実なのか、流石にサトルでも分からない。
サトルが知っている事というのは、あくまでネットワークシステムに上がってくる情報か、もしくはチップを埋め込まれた人間の情報なのでこのようなネットを調べても出てこない男女の裏話や、ましてやそれに関わるノーマル人間の感情等は知り得ないのだ。
ネット世界やエボリューターの感情の情報しか知らないという事は何でも知っているのではなく、それ以外の事は全くと言ってもいい程知らない井の中の蛙だという事に気付かされる。
話しが終わると二人はカフェを出た。
タイキが駅に足を向けるとハヤトが言った。
「な、タイキ。もう少し時間あるか?」
「あぁ、うん。」
ハヤトが医者を紹介してくれたお礼に食事を奢ってくれると言う。
今日ハヤトがタイキを呼び出した本当の理由もこれだったのだ。
他人に食事を奢ってもらうなんて初めての経験だ。
駅から商店街へ向かって歩くハヤトにタイキは言う。
「ハヤト、お礼に奢るなんて別にいいよ。僕ら友達だろ?」
「なに言ってんだよ、友達だから奢るんだろ?」
ハヤトのこの言葉を聞いて嬉しくなった。
そして、ハヤトのお気に入りだという店に入った。
「な、タイキ。ここのは何食べても旨いんだ。」
「あぁ、うん。」
メニューを見ながら戸惑う。
こういう時は何をチョイスするのが適当なのか…。
頭の中で情報を探って考え込んでいるとハヤトが言った。
「そんなに悩むか?」
「うん、どれも美味しそうで……。」
「うーん、そうだな……。じゃ、今日は取り敢えず俺と同じ物にしとくか?」
「うん。」
目の前に豚の生姜焼定食が運ばれてきた。
「おー、これこれ!これがさ、旨いんだよ。いっただきまーす!」
割り箸が不格好に割れても気にせずにガツガツ食べ始めるハヤトはどこか子供っぽくて見ていて微笑ましい。
「ん?どした?タイキも冷めないうちに食えよ。」
「あぁ、うん。いただきます。」
一口食べると肉の脂と濃いめのタレの旨味が口いっぱいに広がり、白米が欲しくなる。
すかさず目の前の白米を口に入れるとまたタレの絡んだ豚肉が食べたくなる。
箸が止まらない。
なんでだろう、いつもの食事の数倍も美味しく感じる。
そんなタイキの様子を見て笑顔のハヤトが言う。
「な、旨いだろ?」
「うん。旨い!」
タイキも笑顔になる。
いままで約二万回近く食事をしてきたが、食事だけでこんなにも幸福感を得られるなんて凄い事だとサトルは思った。
そして、誰かと一緒に食事をするのはとても楽しい事なのだとハヤトが教えてくれた。
こんなにも楽しいならば次はサトルがハヤトに奢りたいと思った。
そうだ、あの海の見えるテラス席…。
あそこにハヤトとレアを連れて行こう。
想像しただけでワクワクする。
ハヤトはほんのお礼だと言ったが、この日はサトルにとって大収穫の一日だった。
数週間が過ぎた頃にレアからタツキに連絡が来た。
「もしもし。」
「あ、タイキ君?あたし、レア。久し振り~!」
「うん。久し振りだね、レア。調子はどう?」
「うん、もうバッチリ!あの時はありがとうね。タイキ君に紹介された先生のおかげだね。うちのパパが驚いてたの。」
「なんで?」
「なんか、パパはあの時、私には言わなかったけど、私の声と足が治るのにはもっと時間が掛かるって思ってたんだって。」
「そうなんだね。」
「でね、タイキ君の紹介してくれた先生の所に行ってから三日後に本当に声も足も嘘みたいに治ったでしょ?あまりに急だったからパパが何かあったのか?って。」
「レアは何て言ったの?」
「うん、他の先生に診てもらったなんてパパには言えないからハヤトに海に連れてってもらったって嘘ついちゃった。でもパパはその気分転換が良かったんだろうって納得してたよ。」
「ふーん。そっか、なら良かったよ。」
「ところでね。今週末って何か予定ある?」
「いや、ないけど…。」
「じゃあ、良かったー。ハヤトが見つけた新しいクラブで私の快気祝いしようって話なの。タイキ君も来て!」
「うん、勿論行くよ!」
「ありがとう~、嬉しいな。」
喜ぶレアにタイキは言う。
「あ、でも待って。そのクラブ行く前に二人とも少し時間あるかな?」
「ん?大丈夫だけど……。」
「ハヤトはどうかな?」
「ハヤトもその日は何もないって言ってたよ。」
「よし、じゃあクラブの前に三人で食事はどう?」
「うん、いいね!」
「場所と時間と地図を後で送るよ。当日はその店で待ち合わせしよう!」
「うん。ハヤトにも言っておくね!」
待ち合わせの当日、サトルは期待感を持ってタイキをいつもより少しだけお洒落にした。
昨晩は楽しみで色々と想像が膨らみ、あまり眠れなかった。
レストランの予約もしたし、早くハヤトとレアにあのテラスから見える景色を見てもらいたい。
待ち合わせの時刻より少し早めにレストランに到着したサトルは予約したテラス席に座る。
真冬になるとテラスの数ヶ所にストーブが置かれていて前回来たときよりもむしろ温かく感じる。
渡された膝掛けを広げて足に敷いた。
向こうに冬の海がキラキラと光る。
鼻からゆっくりと空気を吸い込むと潮の香りがした。
背中越しに声がする。
「タイキ君~、お待たせー。」
小柄なせいか歩く姿がいつもせわしなく見えるレアがこちらに向かって来る。
声のトーンもいつも通りで足にも問題がなさそうだ。
レアの後ろにハヤトの姿も見えた。
「よぅ、タイキ。」
ニカッと笑い、左手を軽く挙げている。
いつものレアとハヤトだ。
「二人とも元気?少し寒いかもだけど、席はここで良いかな?」
タイキが尋ねるとテーブルを挟んだ反対側の席に着席しながらレアが言う。
「全然寒くないよ。ストーブ近いし。それよりタイキ君、ここ凄い雰囲気良いねー。海も見えて……。タイキ君っていいレストラン知ってるんだねー。」
ハヤトは心なしか緊張気味で辺りをキョロキョロ見回し、タイキに何故か小声で話しかける。
「なぁ、タイキ……。お前よくここに来るのか?」
「よくは来ないよ。この前初めて来て気に入ったんだ。」
「そっか、なんかスゲーな。」
テーブルに置かれたメニューを広げ、何を注文するか三人で迷う。
するとレアが言った。
「どうしよう……あれもこれも食べたい。全部美味しそうー。そうだ!ねぇ、食べたい物ひとつづつ選んでシェアしようよ!」
「おっ、いいね。それなら色々食べられるしな!タイキはどうだ?」
「勿論!そうしよう!ひとつと言わず好きなだけ頼もう!」
「二人とも残すなよ?ま、食いきれなかったら俺が何とかしてやるよ!」
笑いながらハヤトが言った。
いつだったか誰かの脳の中で見た一つのテーブルを囲んで皆で食事をしている風景……。
それを自分も体験出来るなんて夢だと思っていたが今から起ころうとしている。
暫く海を眺めながら三人で雑談をしていると料理が運ばれてきた。
肉料理に魚料理とパスタにピザ。
サイドメニューにサラダとスープ。
パンとライスもサービスで付いてきた。
皆で一つのお皿の物を分け合い、話しをしながら楽しく食事をする。
味も勿論だったが、食事というものがこんなにも楽しいなんて……。
何より複数人と会話をしながらの食事を初めてしたサトルは幸福感に包まれた。
それから暫くすると手洗いに行く振りをして会計を済ませた。
テーブルに戻ると食事の締め括りのデザートと温かい紅茶が湯気を立ててテーブルに並んでいた。
紅茶をゆっくり飲みながらタイキは言った。
「今日は二人とも、ありがとう。僕はこんなにも楽しい食事は初めてだよ。」
「なに言ってんだよ。初めてだなんて大袈裟だなー、タイキは。」
「うん、そうそう。でも、ここのレストラン本当美味しいね。このケーキも最高!お持ち帰り出来ないかなー。」
二人の喜んでいる姿が見られて本当に良かった。
テーブルから立ち上がり店を出ようと扉の前まで足を進め、フロントで足を止めている二人に言った。
「お会計なら済ませたよ。今日は僕の奢り。」
それを聞いて慌てる二人。
「今日はレアの快気祝いだし、友達なんだから当たり前だろ?あ、あと二人に一つリクエストがあるんだけど……。」
「何?」、「何だ?」
レアとハヤトがシンクロする。
「さっき見えてた海。あそこでバーベキューが出来るみたいなんだ。もう少し暖かくなったら人数を増やしてバーベキューがしたいんだ。」
「いいねー!」
「おう、やろう!」
言ったところで断られたらどうしようかとも考えたが思い切って言って良かったとサトルは思った。
駅に向かい、これから行った事のないクラブへと三人で電車に乗った。
お腹いっぱいのレアはハヤトの肩を借りて眠り込んでいる。
レアを起こさないようにハヤトが小声で言った。
「タイキ、御馳走様。ありがとうな、レアが凄い喜んでたよ。」
「うん、ハヤトは?」
「勿論、俺もだよ。生姜焼のお礼にしては随分豪華だったな。ありがとうな。」
「いいよ。二人が喜んでくれて良かったよ。僕も満足したよ。」
「そっかー。んでさ、これから行くクラブなんだけどさ……。」
ハヤトの言葉を遮るようにサトルの頭の中で声がする。
(サトル!聞こえるか?サトル!)
声の主はアイだった。
すぐさま返事をする。
(うん、アイ。聞こえているよ。何かあったの?)
(なんか、マズイことになっている……。)
(えっ?何?)
(あぁっ!マズイ!!)
明らかに様子がおかしい。
(アイ、今何処にいるの?)
(……。……。……。)
(アイ!聞こえる?アイ!)
サトルは即座にアイの携帯電話のGPSを頼りに居場所の特定を急ぐ。
おおよその場所を見付けた。
今乗っている電車の進行方向とは真逆の位置だ。
次の駅まであと数秒になった時にタイキはおもむろに立ち上がった。
「ごめん、ハヤト。急用を思い出したんだ。」
「えっ?マジか、なんか急だな。」
「うん、本当にごめん。クラブは次回で良いかな?レアと楽しんできて。」
突然のタイキの申し出に勘の良いハヤトが言う。
「あぁ、俺らは全然構わない。でも、どうしたんだ?何かヤバい事か?」
「ううん、ヤバい事じゃない。でもちょっと行かなくちゃいけない所があったのを忘れてて……。」
レアは相変わらず眠っている。
「ハヤト、レアにも宜しく伝えておいて。それから、ごめんって。」
「あぁ、分かった。でもな、タイキ……。何かあったらすぐに俺に連絡くれよな。」
「うん、ありがとう。」
電車の扉が開くと同時にホームに飛び出し、階段を駆け上がる。
ロータリーでタクシーを拾ってアイがいるであろう場所を目指す。
何があった?
何か情報はないか?
サトルはタクシーの中で情報を探るが、何も出て来ない。
アイから連絡があった場所まであと少しと言うところでタクシーが急に停車した。
「お客さん、すみません。なんだか随分と道が混んでいるみたいで…。」
「そうですか。急げませんか?裏道でも何でもいいんで…。」
ソワソワしているタイキに気づいた運転手が独り言のように言った。
「おかしいな……。いつもはこんなに混んでいないんですよ、この道…。」
「わかりました。じゃあ、ここで降ります。」
「えっ?でも目的地まではもう少しありますよ?」
「構いません。急ぎなので取り敢えず降ります。」
タクシーを降りてタイキは走る。
横を見ると車が渋滞している。
この先に何があるというのだろう……。
アイに何かあったのではないか不安がよぎる。
五分以上は走っただろう。
目的地に近付くに連れて街の様子がおかしい事に気が付いた。
いつもより歩行者が圧倒的に少ないのだ。
交差点近辺の各信号機に警察官が立ち、信号機を無視して手信号で交通整理をしていたり、所々で別の警察官が慌ただしく走り回っている。
この先にいつもは人で賑わっている大きな交差点があるのだが、そこへ近付こうとしたタイキの目の前に両手を広げた警察官が立ちはだかる。
「お兄さん!危険だから、この先には行かないで!」
「えっ?何かあったんですか?」
そう言いながら制止された警察官の背中の遥か向こうにある衝撃的な光景を目にする。
交差点のあちらこちらで人が倒れているのだ。
倒れた人に数人の人間が群がり、心臓マッサージをしていたり、抱き抱えて何かを叫ぶ人や倒れたまま放置されている人が見えた。
倒れている人間の数はおよそ二十名程。
地面にはあちらこちら血溜まりが見える。
サトルは目の前の警察官に言った。
「僕には医療の知識があります。お役に立てるかも知れない。向こうに行ってもいいですか?」
「いや、駄目だ。何か身分証明書はありますか?」
「そんな場合じゃないでしょ、あれが見えないんですか?」
「何か証明書は?君が医療従事者として証明出来なければここを通す訳には行きません。」
タイキにそんな身分証明書はない。
こうなったら強硬手段を取るしかないとサトルは目の前の警察官を洗脳した。
一瞬、ボーッとなった警察官の横をすり抜けて倒れている女性に駆け寄る。
駄目だ、もう亡くなっている。
顔を上げると向こうにも女性が倒れている。
そこに駆け寄り、意識は朦朧としているがまだ生きている事がわかると声を掛けた。
「大丈夫ですか?しっかりして!今から救急車が来ます。それまで頑張って!」
腰の辺りから出血しているらしく、見る見るうちに地面に血が流れていく。
止血をしながら動けそうな人間に声をかける。
「こっちにも誰か来て下さい!」
タイキの声掛けに走り寄ってきた女性が言う。
「私は看護師です。何かお手伝い出来ますか?」
「助かります。じゃあ、ここを押さえてこの人に声を掛け続けて下さい!」
「はい!」
タイキは別の人間に駆け寄る。
この男性は太股の裏から出血して歩けなくなっているが、意識はハッキリとしている。
「大丈夫ですか?!」
「うぅ……はい……。」
「痛むのは足だけですか?他にはどこか痛い所はありますか?」
「いえ……よく分かりません。多分……足だけです。でも……痛い……。」
少しパニック状態なのだろう。
ようやく遠くの方からサイレンが聞こえてくる。
「もう少しの辛抱です。救急車が近くまで来ています!太股の裏側以外は今のところ異常は見られませんから、深呼吸をして落ち着いて下さい。」
タイキは一度上着を脱いでから自身のシャツの両袖を引きちぎった。
それを二つ繋げて男性の腿の付け根に巻き付けて強く締め上げる。
「ぐあっ!!」
「痛いけど我慢して!!救急車がすぐに来ます!」
上着を再度羽織ると相手の上半身を持ち上げ、そのまま寄り掛かれるように電柱まで引きずる。
痛みを堪えている男性にそこで初めてこの質問をする。
「何があったんですか?」
「僕にもよく分かりません。でも、後ろから何かがぶつかって来たと思ったら急に立てなくなりました。それから足が痛み出して……。触ると手に血が沢山付いていました。」
「周りの状況を覚えていますか?」
「僕が動けなくなってすぐに目の前を歩いていた人達が数人次々に倒れていきました。皆、フードを被った人にやられたんです。それに気付いた女性がキャーって声をあげると交差点中がパニックになって……。」
「わかりました。話してくれてありがとう。ここでじっとしてあまり足を動かさないようにして下さい。救急車がすぐに来ますから。」
何が起きたかのかはわかった。
通り魔事件がこの交差点で起きたのだ。
サトルは最悪の事態も想定しつつ、アイを探す。
交差点内を一周し終える頃には上空でヘリコプターがバタバタと五月蝿い音を立てていた。
この交差点内にアイの姿はなかった。
アイは何処へ行ったのだろうか。
ここで通り魔事件発生のニュースが今更サトルの頭の中に流れ込んでくる。
リアルのサトルは施設の電話を借りてアイの携帯に連絡を入れるが、いつまで経っても通話中のままだ。
アイの携帯電話のGPS機能を頭の中で辿ると先程迄は移動を続けていたが、現在は一つの場所に留まっている。
地図と照らし合わせるとある病院だという事だけはわかった。
こんな事になるならアイのピアスにサトルの方からも連絡が出来るようにしておけば良かったと後悔する。
アイの姿がないのにこれ以上ここに居留まっている必要はなく、今度はタイキが警察官から事情聴取を受けたりと面倒事に巻き込まれてしまう。
タイキをひとまず帰宅させる為に急ぎ現場から離れてタクシーに乗り込んだ。
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