第4話 コピー
最近のサトルの興味の対象はチップを埋め込まれた人間の進化と一般的に悪と見なされるものの分析だ。
強烈なアラームが届くと条件にもよるが、その都度発信者とスイッチして二度とそのような事が起こらないように対処してきた。
しかし、一口に悪と言っても条件が変わればそれは悪とは呼べないものがこの世の中には複数存在する為に徹底的な排除は出来ない事も知っている。
サトルは正義の味方やヒーローではないのだから。
ただ、この悪と呼ばれているものはなかなか興味深い。
簡単に例えるとすれば人を殴るという行為を考えてみよう。
嫌がる相手を無理矢理殴ればこれは一般的には悪だ。
但し同じ殴るという行為でも、もしもそれを受ける相手が嫌だと感じずに暴力として捉えていないとしたら?
例えば殴り合うスポーツとか、はたまた何かの趣味とか。
ましてやその行為を当事者達以外の人間が誰も目にする事がなかったとしたら?
これは悪とは呼べないのではないだろうか。
悪の定義は道徳や倫理として人の心の中に存在するがそれらは必ずしも共通項ではないという事だ。
ならばサトルの見てみたいと思う「純粋な悪と呼ばれるものがいない世界」というものは存在しないのではないのだろうか。
いや、それを判断するのにはまだまだ情報が足りない。
純粋な悪とはなんだろう。
人を殺す事か?
自然を破壊する事か?
どれも正解であり不正解だ。
約八千万の人間を自身の頭の中に取り込んだサトルだからこそ最近はこのような事について考えるようになったのかも知れない。
対象者一個人にとっての悪は様々で都度対処可能ではあるが自分にとっての悪というものがイマイチ判断出来ない。
この世にはまだまだ一般的に悪と呼ばれるものは当たり前のように存在している。
チップを埋め込まれた人間達は比較的平和な生活を営んではいるがそうではない人間の方が圧倒的に多いのだから。
ある日、最近めっきり減っていた強烈なアラームが久方振りにサトルに届いた。
飛んだ先は女の子の脳だった。
記憶を見る限り所謂上流家庭の子供らしい。
自宅のプールにてアメーバに寄生されたという経緯が分かった。
アメーバは基本的にはストレスを日々感じている者に寄生しやすいのだがこの子にどんなストレスがあったのだろうか。
更に記憶を読み取る。
何故か歳をとったひとりの女性の顔ばかり出てくる。
どうやらこの子の祖母らしい。
記憶に両親の姿が殆ど出てこない。
父親に至っては玄関から出て行く後ろ姿とモザイクのようなものがかかった顔。
父親の顔が思い出せないようだ。
母親はというとキツイ香水の匂いに派手なワンピースを着てカツカツとハイヒールの足音をさせながらいつも急いで玄関から出て行く後ろ姿が見えた。
こちらの顔にもモザイクがかかっている。
祖母に会った記憶がこの子の中で一番良い思い出のようだ。
それから豪華な家具が置かれた広いリビングにポツンと一人でいる姿。
着替えもろくにしておらず空腹でいる様子、冷蔵庫を開けるが缶ビールが数本入っているだけでそれ以外の食べられそうな物は何も入っていない。
キッチンの低い位置にある戸棚の扉を開けると乾燥パスタが一袋入っていてそれをおもむろに開けて何本か取り出してそのまま一本づつボリボリと食す。
この一袋で何日持つだろうかと不安な気持ちと悲しみでいっぱいだ。
どうやらこの子はネグレクトの被害者のようだ。
恐らく父親は母親に子育ての何もかもを押し付けていて、肝心な母親も少女がまるでそこには居ないように振る舞っている。
母親は化粧に何時間も時間をかけてお洒落をして出掛けて行き、帰宅したかと思いきや見知らぬ男を家の中に連れ込んでいる。
寝室から母親の声がする。
聞いていられなくて耳を塞ぐ。
暫くするとシャワールームの扉の前で下着姿の母親と男のじゃれ合う姿が見える。
一瞬、男と目が合ったが見て見ぬ振りをされた。
男が家を後にしてから母親がリビングにやって来て床に座っている女の子にこう言う。
「何であんた、そこに居るの?いつも言ってるけど私の視界に入らないでよ!目障りだからどっか行け!」
その場にあった雑誌を投げ付けられて恐怖と悲しみが襲う。
お腹が空きすぎて手足が痺れて身体に力が入らないが、ゆっくり立ち上がるとトボトボと部屋の隅に行き、いつものようにカーテンの裏側に身を隠す。
「ちょっと!いい加減にしてよ!汚い爪先が見えてるんだよっ!」
その言葉にビクッとなり、更に身を縮める。
数時間後に父親が帰宅するもすぐさま自室に籠り
リビングに顔を出す事はない。
母親は大型テレビの映像を笑い見ながらワインを飲み、美味しそうに何かを食べている。
匂いにつられて思わず近付くと、
「やだっ!何よ!臭い!汚い!あっち行け!!」
と、食べかけのチーズを顔に投げ付けられた。
床に落ちたチーズを急いで拾ってまたカーテンの裏側に身を隠す。
「アハハッ!ハッ、鼠みたい。」
笑う母親の声を背にゆっくりとチーズを少しづつ食べる。
久し振りに味の付いた食べ物を食べて涙が溢れる。
窓の外に見えるプールと広い庭。
身体も自分で分かるくらいに臭いし、あちらこちらが痒い。
冬が近付き寒くなってきたけれど近くプールに入って身体を洗おう。
こうしてまた翌日も同じ毎日が繰り返される。
その翌日も……毎日お腹が空いている。
チーズを食べてから二日後に母親の目を盗んで庭に出た。
ずっと外気に晒されていたプールの水は汚れて冷たくなっているがそれでも身体を洗いたかった。
寒さに耐えながら身体と髪の毛を洗う。
何日も洗っていなかったからか、ゴッソリと髪の毛が抜けて手に絡まる。
プールから出るとそのまま同じ服を着て自分の定位置に戻る。
カーテンが少し水気を吸い取ってくれて温かく感じる。
ひどい記憶をサトルは見た。
家が裕福でもこんな目に会っている子供がいるなんて……。
ネグレクトがどのようなものであるかは知ってはいたが、取り立てて興味を持った事もなく意識を向けて現状を見たのは初めてだ。
しかし、今回の女の子のアラームはこの記憶とは別のものだった。
彼女は何者かに誘拐されたらしい。
目の前に見えるものは広いリビングやカーテンの裏側でもなく暗くて狭く寒い場所だ。
口枷を付けられて後ろ手に手足を拘束されて床に座り、うつ向きじっとしている。
目だけ動かし見上げると見覚えのある男の姿が見えた。
イライラした様子で携帯電話で何かを話している。
「なぁ、これでホントにいいんだよな?」
「あ?何だよ、お前の子供だろ?」
「はぁ?何言ってんだよ!俺はお前がこうしろって言ったから…。あっ、おい!ちょっと!」
電話が切れたらしい。
イライラした男がこちらに向かって来る。
そしてこう言い放った。
「お前、何なんだよ!一文の価値もねーじゃねーか!」
すると男は拘束していた物を全て外し、少女に言った。
「もう、めんどくせーなぁ……。どっか行けよ。なぁ、どっか行けって!」
髪の毛を掴まれて無理矢理立ち上がらせようと引っ張り上げられて身体が宙に浮く。
男を見上げると扉を指差しながらこう言われた。
「ほら、出口はあっちだ。消えろ!」
蹴飛ばされ、出口の方へ追いやられる。
怖くて男の言う通りに出口へ向かい外に出たが、扉の外には見知らぬ風景が広がっている。
何処かの山の中のようだ。
ここから何処へ行けばいいと言うのだろうか。
でも取り敢えず歩き出す。
咄嗟にサトルは今いる場所の情報を瞬時に取り込み、地図を頭の中で開く。
この子の家までは車でおよそ一時間半、とても歩いて帰れる距離ではない。
とにかく歩きながら民家か交番を探そうと地図を検索し始めた次の瞬間、「ドンッ!!」という音と共に背中に大きな衝撃を受け、視界が大きく揺れて地面が迫ってきたと思ったらぐるぐると身体が山の斜面に転がった。
そこでサトルの意識は戻されてしまった。
この飛ばした意識が強制的に戻ってくるという事が何を意味するのかサトルは知っている。
女の子を助けられなかったのだ。
サトルが介入したのにも関わらずサトルの意に反してこのような事が起こるなんて……。
正直ショックだった。
まるで自分が死んだような気にすらなる。
あの背中の衝撃は一体何だったのだろうか。
今、何かしらのネットワークに繋がることさえ出来ればそれを知る事は可能だ。
(そうだ、あの男の携帯電話…。)
ここからはサトルの本領発揮といったところか。
この地球上のネットワークの殆どはサトルと繋がっている。
サトルがまだ幼かった頃は特定のサーバーに触れなければ情報を自身に取り込めなかったのだが、年を重ねるに連れてその能力は学習を繰り返しグレードアップしている。
十八歳の今は頭の中のひとつのサーバーからいくつもの別のサーバーを経由して地球上の情報を全て把握出来ていると言っても過言ではない。
男の携帯電話が何処かのサーバーに必ず繋がっている。
コンマ数秒でそれを見つけ出しておよその見当はついていたが、先程の電話の相手が少女の母親である事が確定した。
サトルは母親の携帯電話の情報も読み取る。
彼女は男と共謀して誘拐事件を装い、自身の夫から金銭を巻き上げようとしたのだった。
しかし、計画があまりにも杜撰だった為にそれは見事に失敗した。
そもそも自分の娘に興味がなかったのか夫は妻から娘が誘拐されたと連絡を受けても関心を示さず
「何で俺にそんな事を相談するんだ?そんなに心配ならば警察へ行けばいい。」
そう一言だけ告げるとさっさと電話を切ってしまったのだ。
夫からお金が貰えないと解ると一気に興が覚めてしまったのか、男には
「適当にその辺に捨ててきて構わない。」
そう伝えて電話を切っている。
この近くにネットワークに繋がった監視カメラでもあれば良かったのだが、山奥にそんな物はなかった。
何か他にも情報が欲しい。
ならば母親の携帯電話以外に繋がってみよう。
何かが掴めるかも知れない。
「やっぱりか……。」
サトルは母親の車に搭載されているAI機能にアクセスした。
GPSを探ると以外にも男の携帯電話との距離が近い事も分かった。
母親は男に内緒で現場の山奥まで来ていたのだ。
次は画像認識装置を覗いてみる事にした。
何か写っていてくれたら良いのだが……。
「あ、これだ。」
サトルが見た映像には遠くに見える山小屋に向かって進んだ後に山小屋からおよそ百メートルくらい離れた場所に停車した映像とエンジンを掛けたままの車から何かを手にして降りて歩いて行く母親の姿が見えた。
ここまで解ればあとは簡単だ。
母親は男と遊ぶ金欲しさに偽装誘拐を企て失敗。
ならば娘を亡き者にして掛けられた保険金を手に入れようという魂胆だ。
男にそれを知られると逃げられてしまうのは分かっているので内緒で後を付けてこの山奥までやって来たという訳だ。
自身が男と電話で話した後に男が娘を放置してその場を去る事は百も承知だった。
なので娘が一人になった時がチャンスと考えて案の定そのチャンスを見逃さなかったという訳だ。
母親が手に持っていた物を画像拡大してみると拳銃である事が判明した。
少女が最後に聞いたあの音と衝撃は、それで撃たれた時のものだろう。
そして、また車の画像に戻ると既に何食わぬ顔で鼻歌交じりに車を運転する母親が写っていた。
おまけに道中通ったダムに拳銃を投げ入れる姿も確認した。
「なるほどね……。」
サトルが知りたかった事は十分に確認出来た。
今までのサトルならば知りたい事さえ認知出来れば後はどうでも良かったが、沢山の人間の記憶と感情をストックしている今は別の想いが芽生えていた。
自分の中で悪というものを定義するならば、あの母親は悪だ。
サトルの中で初めて悪の定義が生まれた瞬間だった。
Q.悪の定義が出来たところで何を思う?
A.悪とみなした者に制裁を。
Q.それが自身に降りかかったものではなくても?
A.いや、数パーセントは僕だ。
Q.今までは所詮他人事だっただろう?
A.でも今は違う。
Q.外に出られない君に何が出来る?
A.方法はある。
Q.君は正義の味方か?
A.違う。これは僕の正義であって他人からしたら悪かも知れない。
Q.それでも?
A.そうしたい。
サトルは自身の中で悪とみなすものに制裁を下すことにした。
八年前の仇討ちとは別の感情だ。
方法も既に考え付いている。
その方法とはチップを埋め込まれた人間を使うというものだ。
現在でも植物状態の者は僅かではあるがこの国の中にもいて、それを埋め込まれてから数分間で目覚める者もいれば数日後か個人差とも呼べる多少のタイムラグが発生する。
このラグはせいぜい五日程だ。
チップを埋め込まれはしたが、まだ目覚めていない植物状態の人間は世の中に常に存在する。
サトルはその中から一人の男を選んだ。
本来ならばサトルが操るのは他者の脳の数パーセントだが、この男に関しては百パーセントを操る事にして自身のコピーを造った。
彼には外に出られないサトルの代わりに動いてもらう。
それからチップを埋め込んだ人間全てにサトルの考える悪の定義を上書きした。
これで約八千万人がサトルの思う悪を見つけ出す監視人になったのだ。
まずは罪もなく望んでもおらず、抵抗も出来ない者を自身の欲やストレス発散の為にいたぶり、苦しめる者、人が大切にしているものを自身の欲を満たすために平気で奪う者。
これらはサトルの中では悪とみなした。
そしてこれらの悪が見付かった時にはサトル本人が監視者にスイッチして対象の悪を洗脳してこの世から消去する。
スイッチされた人間には記憶も残らないので結局の所それはサトルだけが知っている真実だ。
また、サトルの情報網に掛かりはしたがチップを埋め込まれた人間が対象悪の近くにいない場合もある。
そんな時はコピーの出番だ。
身体能力が生来高かったコピーはその能力をそのまま進化させている。
今のコピーは高層ビルの屋上から飛び降りても傷一つ追わない。
サトルの持つ洗脳の技術を使う前に万が一にも相手に襲い掛かられた場合にはコピーの圧倒的な攻撃力と防御力が非常に有効だった。
サトルは簡単に人を殺す。
そこには取り立てて罪の意識もない。
全ては完全にそして誰も罪に問われない行為が繰り返されていく。
これを続ける事によって今まで放置されていた悪が次々と消え、おかげでこの年は地球上での自殺者が過去類を見ない数にまで膨れ上がった。
あのネグレクトの母親の周りにはチップを埋め込まれた人間が居なかった為にコピーを接触させる事にした。
少女がこの世から消えて数週間後に少女の家の前まで行き、門の前でうずくまるとそのまま横向きの姿勢でゴロンと倒れる。
家の中から監視カメラで若い男が倒れるのを見た母親はすぐさま門の前まで駆け付けて来た。
その様子を自室からハイロを膝に乗せて背中を撫でながらサトルも自身の頭の中で見ている。
近付いて来た母親はコピーの若くて美しい容姿に心を踊らせた様子でありながらも、白々しくコピーの身体を揺すって話し掛けてくる。
「もしもし?ちょっとあなた、大丈夫?」
優しい女を演じる母親の姿を見てコピーはこう言った。
「あぁ、すみません。貧血気味で…。」
「えっ、それは大変ね。こんなに寒いと風邪を引いてしまうわ。家で休んで行って。」
「そんな…僕みたいな見知らぬ人間を……。悪いですよ…御迷惑になってしまいます。」
「いいの、家は大丈夫だから。私、貴方みたいな人を放っておけないの。さぁ、入って!」
「すみません……。」
母親の肩を借り、薄い黄土色の冬の芝が敷き詰められた庭の横の小道を歩く。
少し先に見える玄関横の駐車スペースには見覚えのある車が停車している。
少し歩くと左手にプールが見えた。
(あぁ、あの子はこんな所で身体を洗っていたのか……。)
広い玄関に入り、小上がりの所に腰を掛ける。
「ちょっと待っててね。今、リビングを片付けてくるから。」
「あぁ、そんな……。お気遣いなく……すみません……。」
十数分後に母親が玄関へと戻って来た。
何故か先程とは違い、着替えをして化粧もしている。
「お待たせしたわね、どうぞ。さ、上がって。」
親切気取りで話す母親の顔が何故かウキウキしているのが分かる。
まるで小動物を狙うハイエナか何かのようだ。
「御親切にどうも。」
リビングに通される。
女の子の頭の中から覗いた時よりも全体が見渡せる。
四十畳はあるだろうか、大きな窓の両端に光沢のある重厚そうな生地のカーテンが見えた。
「さぁ、座って。お水でも飲んで落ち着いてね。」
コピーがソファーに座ると持ってきたコップの水をテーブルの上に置き、彼女は向かい側のソファーには座らず何故か斜め前辺りの床に座り、コピーの膝くらいの高さのリビングテーブルに両肘を付き、顎を両手で支えて見るからに随分と不自然な体勢を取っている。
大きく開いたシャツの胸の谷間が丸見えで、わざわざそれをコピーに見せ付けているのが分かった。
すると母親はコピーの体調を心配するどころか、こんな事を言い始めた。
「ねぇ、貴方。ここら辺ではあまり見掛けない顔よね?」
「えぇ、まぁ……。」
「そうよね、モデルか俳優さん?貴方みたいな男の子この辺にいたら目立つわ。」
「……。」
「あっ!やだ、あたしったらつい…。ねぇ、どう、気分は少し良くなったかしら?」
「あぁ、ありがとうございます。少し落ち着きました。」
猫撫で声でベラベラと話し掛けてくる母親にコピーが言う。
「ここ、随分と大きなお屋敷ですね…。お一人で住まわれている訳じゃないですよね?」
「えぇ、まぁ。旦那と二人暮らしなの。あっ、旦那なら今仕事で留守にしてるから安心してね。」
何が安心なのだろう。
サトルは部屋の中や玄関、その他の場所に防犯カメラがないかコピーの目を通して探す。
家の中にはない事が判明すると先程見た玄関前と門の前の防犯カメラの映像を数分前に遡り、消去してから機能を停止する。
タイミングはいつが良いだろう?
サトルがそんな事を考えていたら母親が話し掛けてきた。
「ねぇ、貴方お名前は何て言うの?」
「あ、すみません。名乗っていませんでしたね。僕はサトルといいます。」
「サトルさんね。どう?御気分は…。」
「あぁ、すっかり良くなりました。ありがとうございます。後日、改めてお礼に参りますね。そろそろ行かなくちゃ……。」
立ち上がって玄関に向かおうとするコピーを母親が追いかけて来る。
コピーの言葉を聞いたのにも関わらず二度目はないと踏んだのか慌てた様子でこう言った。
「ねぇ、ちょっと待って。せっかくだし、もう少しゆっくりしていってもいいのよ?うちは全然平気なんだから。あ、そうだ。貴方、随分若そうだけどお酒は飲める?」
「すみません、僕は未成年です。御親切にどうも…それじゃ…。」
「あっ!待って。ところで、あなたは年上の女性とか人妻って興味ない?」
コピーを逃がすまいと必死に引き留める浅ましい姿はもう滑稽としか言いようがない。
そこでコピーは言った。
「お子さん……いましたよね?」
「えっ?」
「お子さんは今何処に?」
「えっ、やだー。そんなにおばさんに見える?私は子供なんか産んだ事もないわよ。」
平気で嘘をつくこの目の前の人間に怒りが込み上がってくる。
この女にとって子供とは一体何だったのだろうか。
もはや文字通り、ひとでなし=人で無しだ。
そこで本題に入る事にした。
「僕は知っていますよ。あなたが殺したでしょ?」
「ちょっと。あなた、何を言ってるの?」
「僕は何でも知っているんだ。」
「はぁ?」
「山奥で拳銃で撃ち殺して放置、そのあと拳銃はダムに捨てた。」
「なっ!何なのよ!あんた!」
慌てふためく母親に最後、こう言い放つ。
「あなたは最低、最悪だよ。この世の中に生きるに値しない。」
その場で呆然と立ち尽くす母親を尻目にコピーは玄関を出た。
これだけの会話をすれば十分に洗脳は完了している。
そして門の内側から電子キーを掛け直して防犯カメラの映像内に違和感がないよう修正してから自身は二メートル近くもある門を片足でヒョイとジャンプして飛び越え、何事もなかったように街中へ消えていった。
その後の事は言うまでもないだろうが、一応記しておく。
母親は自身の罪を遺書として書き残し自殺を図ったが失敗、意識は戻ったものの目以外何処も動かない話す事も出来ない行動不能の廃人になった。
そんな妻を家の中で発見した夫も毎日の妻の下の世話や食事の世話に時間とお金が予想以上に掛かる事を知ると妻を簡単に捨てて家を売りに出し、そこは空き家になった。
母親の遺書だったものを元に警察が山の中を散策すると案の定小さな遺体が見付かり、数日後サトルはそれをニュースで知った。
女の子を助けられなかった事は今でも悔やまれるが、仮に一般的な言い方をすればこれで少しは女の子の魂も浮かばれたのだろうか。
サトルのコピーはとても優秀だった。
まぁ、サトルが選んだのだから当然と言えば当然なのだが……。
年齢はサトルとほぼ変わらず、十九歳。
彼自身に身寄りはなく何故かアメーバに寄生される前もどこのコミュニティにも属していなかった為に彼が消えても誰も気付かずに気にも止められていない不思議な男だった。
この男にも過去はあっただろう。
しかし、サトルが記憶を辿ろうにも何故かこの男には途切れ途切れの曖昧な記憶しかなく、植物状態で病院に運ばれた時には今どき珍しくIDすら持っていなかったのである。
あまりにも謎な存在であるのは危険だと思ったサトルはこの男の事を別の角度から探る事にした。
サトルの能力を持ってしてもこの男の身元がハッキリするのに数日を要した。
ノーマルだと思っていた男はエーアイシンプトンだったのだ。
どこのエーアイシンプトンかと聞かれたら非常にお粗末だった。
彼は右手の薬指と小指だけの珍しいエーアイシンプトンだった。
ごく普通の家庭に産まれたが、右手の指が二本動かなかった為に一応エーアイシンプトンとしての検査を受けるとそれが判明した。
エーアイシンプトンが家族に一人でもいると義務付けられている多額の保証金の支払いが毎月家計を苦しめる。
彼の家族も例外ではなく、たったの指二本されど指二本の為に彼を手放す事になる。
施設でも他のエーアイシンプトンの子供達に比べ、これといった特化した能力がないために馴染めず十八歳になると就職先も決まっていないのに施設から追い出された。
その後、自分一人で就職活動を始めたがエーアイシンプトンである事の告知義務から面接の際にそれを告げると
「で?君に何が出来るの?」
と面接官に馬鹿にされて何処にも雇って貰えずに住む所もなく、路上で生活を送っていたという訳だ。
ある日公園で飲みかけの瓶に入ったウイスキーを拾ってそれを飲んで酔っ払いながら道路をフラフラ歩いていた所を車に跳ねられ轢き逃げされて記憶喪失になっていた事も判明した。
記憶が途切れているのはこの為だろう。
しかし生来の身体能力のおかげで運が良かったのか悪かったのか、車に跳ねられても脳に多少のダメージを受けはしたが、特に身体に異常がなかった為に警察にも気付かれず病院送りにもならずに漂うように路上生活を続けていた。
そんな生活をしていれば雨にも晒されるだろうし、公園の水道水を直飲みしたりしてこの男がアメーバに寄生される要因はいくつでもあった。
だが、今の彼は今までとは違う。
自身の脳は百パーセントコンピューター化したようなもので、身体能力も進化した為に運動能力の低いサトル本人よりも完璧な存在になったのだった。
但し本人としての意識はなく、可哀想な事に自身が生まれ変わったことすら知る由もないのだが……。
サトルはコピーと常に情報共有している為に今まで以上に知りたかった事を色々と体験出来るようになり、コピーの身体で自由に外出も可能になった。
また、他人の脳を介して見るものよりもコピーの目で見るものの方がリアリティーがあって感動した。
それから、自分が二人いることによって日々の作業効率が上がっただけではなく、サトル本人の頭の中の容量も二倍になった為に様々な情報の整理もしやすくなったのだ。
サトルにはあまり必要ないものだが、コピーには電子マネーを持たせた。
コピーも睡眠と食事を取らなければ死んでしまうからだ。
お金はいくらでもある。
何故ならサトルは様々なデータを他者に知られる事なく改ざん出来る。
コピーには美味しい物を食べてもらい、買い物を楽しんだり、ジムで身体を動かしたり、普段のサトルには出来ない普通の若者達が理想とする暮らしが出来るようにした。
また、いつまでもコピーと呼ぶのは何だか不憫だったので、「タイキ」と名付けた。
名前なんて記号に過ぎないと思っているサトルがこの名前を付けた理由はいつも窓の外に見える空を見ての事だった。
そして、今までのタイキの生きてきた痕跡を全て消去して新しい戸籍を作った。
役所のサーバーに入り込み、書類上の記録を改ざんするなんてサトルにはお手のものだ。
タイキをこの世に誕生させてから、いよいよサトルはチップが埋め込まれた人々の本格的な進化計画に着手した。
進化の結果はタイキで検証済みだ。
定期的にチップを介して微弱な電波を送り脳の一部を活性化する。
これで急激にではなく、ゆるゆると不自然ではない程度に短期間での進化が可能だ。
彼等が一斉に進化してしまうと世間が混乱するのは百も承知なのでランダムに時間差を設ける。
すると数ヶ月で約八千万の進化した人間が当たり前のように存在する世の中になった。
今までは生まれついての格差によってどう足掻いてもそれ以上にはなれない未来しか辿る事の出来なかった者達に様々な希望やチャンスが巡って来るようになったのだ。
その代わりに元々恵まれた環境に産まれ、そこにあぐらを掻いていた者達にとっては少々厳しい時代がやって来たのであった。
サトルが寄生した者達、約八千万人は自身の才能を存分に発揮する事によって世の中の様々なシーンで活躍し始めたのである。
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