第2話 アラーム

案の定、サトルが送ったデータは目を通されずに忙しい病院では放置されたままだった。

そんな事は予測済みだった為にサトルはひとりで更にその病について調べ続けていた。

その後に判明したのは例のアメーバは強度のストレスを抱えた人間の脳を好むという事だった。

取り分け世の中の刺激にあまり慣れていない子供達や常にストレスに晒されている人間は格好の餌食だった。


先の村で罹患した村人達はどうやら近日中に村が隣町と合併するにあたり、先祖代々大切にしてきた田畑を二束三文で手放さなければならず、挙げ句の果てにはまだ幼い我が子を隣町の町長に嫁がせなければならないという掟に縛られた状況にあった。

町長の年齢は六十代、一家の娘はまだ七歳で十七番夫人にされるという。

そして、その村からはそれ以外にも町と村を繋ぐ道路を造る為に家を取り壊される事が決定したのにも関わらず、何の保証もされず数週間後には家族全員が路頭に迷うであろう別の一家の姿もあった。

またもうひとつの家族は病気の母親を抱えている上に、こちらも幼い愛娘を二人も嫁に出すようにと通達を受けていた。

この家の娘達は八歳と九歳。

更にそのような弱い立場で何も出来ずにいる村長と村役場の人間数名が今回のアメーバの餌食になった事をサトルは突き止めた。

現在は村人達がこの病に蝕まれた事で隣町との合併は白紙になった。

罹患した幼女達も家族と引き離される事はなくなり嫁ぐ事もなく植物状態のままだ。

さて、この現状を見たらこのアメーバ達は正義の味方なのではないのだろうか?

ふと、サトルはそんなふうにも考えた。

しかし、呑気にそんな事を思った数日後にアメーバ達は合併する予定だった隣町をも侵食し始めた。


サトルは自分の送ったデータがいつ閲覧されるのか毎日チェックしつつ、少し気を揉んでいた。

地球の裏側では病院がアメーバに侵された患者達でいっぱいになり崩壊状態に陥りかけている。

そんなある日、ようやく一人の医師がサトルのデータに目を通したのだ。

匿名で送った為に返信はなかったが、後の病院のデータを見る限りどうやらチップの製造に成功したらしい。

そして、早速一人の患者にチップが埋め込まれた。

するとその瞬間にその患者の記憶や体験がサトルの頭の中に一気に流れ込んできた。

これは想定内だ。

サトルの開発したチップは脳に埋め込まれた人間の感情や体験をサトルも知る事が出来るという物だった。

但し製造した者や埋め込んだ医師達もその事実を知らない。

チップの仕組みは良く解らないが、病そのものに対するリサーチが完璧だった為に信憑性のあるデータだと思われて藁をも掴む気持ちで試したのだろう。


このチップを埋め込むと病が完治したように人々は目覚めるのだが、実際この人間の数パーセントを操っているのはサトルだ。

チップを介して本人の意思を強制的に支配すれば身体的な操縦も出来るが、これはあまりしたくない。

サトルが操る部分は、その人間の選択肢の部分だ。

しかも日常的に繰り返される細かい選択肢ではなく、その人間が強度のストレスを感じている時に取る行動や考えのみだ。

チップを埋め込まれた人間が強度のストレスに晒されるとサトルに「おしらせ」のような感覚が届く。

小さなストレスは時に人間の成長に必要なものだという考えもあるくらいなので、強度のストレスを感じなければ取り立ててサトルにアクセスする必要もない。

また、仮に繋がったとしてもサトルの存在には気付かず、これから起こるであろう未来のいくつかの選択肢の中からそれをあたかも自身が選択したかのような錯覚を起こし、後々自分の選択は間違っていなかったのだと胸を撫で下ろす。

実に平和的だ。

また、サトルの方からはアクセスしようと思えば、どの人間のチップにもどのタイミングでも飛べるし、身体を操る事も可能だ。

仮にサトルに支配されている時があったとしても本人は記憶にも残らないのでいつの間にか時が過ぎていた、というような現象が起きる。

数秒間くらいなら占拠されたところで相手にはそれすら気付かれないが、流石にサトルにも時間を操る能力はないので、この相手を占拠するという行為を長時間行うのは些か危険だし、自分の理想に反するものだ。

そもそもアメーバを殲滅したいという欲求で作ったチップな訳で別に他人を支配したくてチップを開発した訳じゃない。

あくまでもついでに自分の知らない世界を知りたいだけだ。


故にチップを埋め込まれた人間もサトルという存在が自分の頭の中に住み着いた事も知らず、病が完治したと思い込んでいる。

まぁ、事実治ったようなものだ。

サトルの感覚としてはアメーバの代わりに自分が寄生したといった所か。

因みにサトルが死に至った場合、予測ではこの人間達も同時に死を迎えるか、一命を取り留めたとしても脳死状態に戻ってしまうだろう。

ここからはアメーバの侵食がどれだけ広がるか、自分がどれだけの人間に寄生するようになるのか、天のみぞ知る事となる。


ある日、サトルの研究所に一人の男がやって来てサトルとの面会を希望してきた。

ゲストルームと呼ばれる部屋に足を運ぶと身体の大きな南米系の男性が立っていた。

「はじめまして。あなたがサトルさんですね。」

「はい。」

「私はあなたの作成したデータを拝見した者です。すみません、突然押し掛けて…。」

「いえ、でもどうして僕だと分かったのですか?」

「いや、こちらもあなたを探すのに一苦労しましたよ。あなたのデータ、色々なサーバーを経由していましたからね。それだけあなたが私達に身元を隠したかった理由もこの施設に来て納得が出来ました。あなたはエーアイシンプトンだったのですね。しかも脳の。」

「はい。」

「今回はあなたのおかげで奇妙な病から大勢の人を救う事が出来ました。一度お会いして是非ともお礼が言いたくて…。」

「いえ、そんな…。お礼だなんて結構です。」

「それとあなたにひとつ御提案がありまして……。」

お礼と言うよりは今から言おうとしている話が恐らく本題なのだろう。

「なんでしょう?」

「私共の研究チームにあなたをお迎えしたいのです。」

「あ…でも僕は……。この国から…ましてやこの施設からもまともに出られないのですが……。」

「承知しております。ですから私共の政府を通してこの国の政府の人間と話をしようと考えています。ですが、まずは何よりあなたの意思を確認したいのです。如何ですか?サトルさん。」

あまりにも熱く語る大男に分かりきった答えをすぐに出すのが可哀想に思えた。

「少し考えさせて下さい。」

嘘をついた。

「勿論です。あなたから御返事を頂けるまで私はここのホテルに滞在しますので是非、前向きな御返事お待ちしていますよ。」

ホテルのカードと自身のネームカードをサトルに渡すと男は施設を後にした。


サトルは自分がこの国から出られない事を知っている。

だからこそ、たまたまではあるがあの奇病を利用して自身を世界にばら蒔いたのだ。

こんな地球の裏側にまでわざわざ足を運んでくれた男の申し出は有り難かったのだが、無理なものは仕方がない。

サトルがいくらこの国から出たいと思っても政府がそれを許さないのだ。

それくらいサトルという存在は危険且つこの国の至宝とも言える。


男が帰った後、言葉の通じなかった施設の人間達から何があって何を言われたのか質問責めにあった。

施設の人間には経緯は一切話さずにサトルという名前の人間を探していたようだが、どうやら人間違いでここに来たらしい、とだけ告げた。

そしてあたかも数日間考え抜いたように時間が経ってから男に連絡を入れて有難い申し出だがと丁寧に断り、また何かあったら次は隠れず真摯に対応させて貰うと告げた。

男に言うつもりも当然なかったが、今のサトルの頭の中は既に現地にいつでも飛べるし、手に取るように世界中の様相を把握できるのだ。

最近では他人の脳を介して現地の音楽を耳にしたり、食事の味や雰囲気を楽しんだりしていたくらいだ。

今現在チップの普及率は数千人程度だが、アメーバの侵食は留まる事を知らずじわりじわりと世界を蝕んでいる。

まるでいたちごっこのようにサトルのチップは更なる普及を見せていた。


とある研究所では、当然と言えば当然だがチップの信憑性を疑われ、動物実験に用いる所もあった。

強制的に植物状態にされたネズミ、猿にこのチップが埋め込まれると彼等の言葉がサトルには理解出来るようになってしまった。

これは予想もしなかった副産物だったが、猫のハイロの言葉は相変わらず解らなかった。

おまけに彼等は常に強度のストレスに晒されている為にサトルへのアクセス回数が異常で、これは申し訳ないがサトルの方からシャットダウンせざるを得なかった。

このシャットダウンという行為の意味は作ったサトルが一番良く解っている。

シャットダウンされた者はそう長くは生きられない。

この結果を元にそこではチップはやはり危険な物であると判断しつつも、いざ人間の被験体に埋め込むと非常に有効である事が明らかとなった。

サトルがシャットダウンをしていないのだから当然である。


それから数ヶ月が経ち、地球の裏側から始まったアメーバの侵食はサトルの住むこの国にもやってきた。

今現在サトルと繋がっている人間の数は数万人。

しかし、初めてこのニュースを見た時に予想した人数よりもかなり少なく被害が抑えられているのは

チップが早めに普及された事によって人から人への感染が防げているのが理由だ。

それでもまだアメーバ達はあの手この手でどうにか人間に寄生しようとしている。

アメーバも生き延びようと必死なのだ。

しかし、サトルも負けてはいない。

寄生された人間の記憶と体験を全て自身に詰め込んでもまだまだサトルには空き容量がある。

実際にチップを埋め込まれた人間が増えれば増える程、人々の記憶と体験もサトルが意識を向けなければ見えないレベルになっている。


サトル自身に何か変化があったかと言えば今まで見た試しがなかった夢というものを就寝時によく見るようになった。

これはサトルにとっては夢と認識するものだが、実際には夢を見ている人間の脳からそれを覗き垣間見ているに過ぎない。

サトル自身の夢ではない事も知っているが、この体験も非常に興味深いものだ。

それから人間の色々な立場と関係性から生まれる様々な感情。

友達、家族、恋人、学校に職場…。

人間には色々なコミュニティがあって人は様々な経験を重ね続けて生きている事が分かった。

友人や家族に恋人を大切に思う気持ちや関わり合いで生まれるもの。

どれもサトルが今まで体験したくても出来なかったものばかりだ。

疑似的ではあるが全く知らなかったものを垣間見るのは自身の成長にもなるのだと確信している。

また、ポジティブな体験や感情ばかりではなく、ネガティブなものも見て知るようになった。

但し、他人を介している為にいまいち理解出来ない感情も多かった。

これも自身が経験している訳ではないので、夢と同様に見て知るという所でストップしてしまう。

あとはサトルがいかに想像出来るかだ。

自身の知らない感情を垣間見る度にサトルは、なんて人間臭いのだと滑稽に思うのと同時にその想いの複雑さに感心した。

これらを垣間見て最近のサトルはますます人間らしく?なってきたのかも知れない。


世の中には色々な人間がいるもので植物状態から目覚めた後も強度のストレスに晒され続けている人間もいる。

そんな時、本人達は気付かずに嫌でもサトルが意識せざるを得ないレベルでアクセスしてしまう。

この現象をサトルは自身の中でアラームと名付けていた。

サトルが眠っている間でもアラームは探知し続け、その都度次に取る行動の選択肢をサトルが指揮する。

これはサトルにとっては一瞬以下の選択なのでちっとも負担にはならなかった。

また、サトルの選択は基本的に平和的で一般的に納得度の高いものだった。

おかげでチップを埋め込まれた者が属するコミュニティでは、激しい口論や喧嘩に万引きやスリ、痴漢や迷惑行為といったものはこの病気が蔓延するのと同時に減っていった。


それでも時折、強烈なアラームがサトルの元に届く場合もある。

こんなに強烈なアラームはどういう時のものかというと、対象者が死に直面していると感じるレベルのストレスを感じる時だ。

咄嗟の事故や瞬間的に選択が出来ない程の早さのものに限ってはアラームも意味がない。

しかし、犯罪に巻き込まれている最中や犯罪を犯そうとしている最中などは対処が可能だ。

この日は強烈なアラームを感知し、小さな男の子の頭の中にサトルは飛んでいた。


目の前の景色はと言えば、ここは随分と物が散らかっている部屋の中らしい。

だが、男の子の視界がおかしい。

頭が動かない。

どうやら五~六十センチ四方の小さな檻の中に閉じ込められているようだ。

ちょうど膝を抱えてしゃがみ込むような体制をしている。

いつからこんな所に閉じ込められているのだろう。

酷い空腹なのも伝わってくる。

死を意識しているのはこのせいか…。

はたまた身体の自由が利かない事により、あちらこちらの感覚が麻痺しているからなのか…。

部屋に誰かが入って来る。

だが、誰なのかは下を向いた状態で固定されている為に近づく足元しか見えない。

大きな靴が見える。

急に恐怖の感情が男の子に襲いかかる。

そして彼の心臓が凄い早さで鼓動しているのが分かる。

檻の上部にロックがかかっている造りになっているようで、それが蓋のように開くと同時に首をゆっくりと持ち上げる。

長時間同じ体勢だった為に首の筋肉が固まっていて痛みが生じているようだ。

それを堪えながら左右をゆっくり見渡し、上を見上げた次の瞬間、大きな拳がガツンと顔面に降ってきた。

痛みも想像出来る。

その後、すぐさま衣服の後ろ首の辺りを捕まれ持ち上げられると身体が宙に浮く。

鼻血が床にボタボタと落ちるのが見える。

痛いだろうに、苦しいだろうに……。

痺れてあまり動かない手足をバタつかせて必死に抵抗するもまるで歯が立たない。

そのまま固い床に投げ付けられると何故か逃げようというよりも諦めのような感情を感じる。

そして、相手が右手に持った分厚いガラス製のウイスキーのボトルが容赦なく頭や身体のあちらこちらに打ち付けられてガードもままならずにだんだん身体に力が入らなくなっていくのが分かる。

辛いという気持ちが何度もサトルに伝わる。

もしもこの分厚いガラス製のボトルが割れでもしたら……。

小さな男の子は打撲程度の怪我だけでは済まないだろう。


これは所謂、虐待というやつだ。

相手はこの男の子の父親。

男の子のアラームが前からあった事は知ってはいたが、探知したかと思えばすぐさま消えてを時折繰り返していた。

今日のアラームは決定的な現場を押さえたといったところか。

声を殺して泣いている男の子にサトルはスイッチする。

スイッチとは、対象者を一時的に占拠して本人と入れ替わり、サトルが対象者の脳の主導権を握る行為を差す。

可哀想に男の子の脳は長年の暴力のせいで同い年くらいの子供の脳よりもかなり萎縮している。

スイッチという行為を普段サトルは殆どしないようにしているが今回ばかりは見逃せない。

スイッチしたおかげで痛みも伝わり始める。

顔面や頭、身体中のあちらこちらが痛む。

小さな男の子には耐え難い痛みと恐怖だ。


数秒、時が流れると床に伏して泣いていた我が子が急にピタリと泣き止み、ムクリと立ち上がって自身を睨み付けてくる様子を見てギョッとする。

「親を睨み付けてくるなんて、なんてクソガキだ!許せねぇ。」

この生意気なガキに更に制裁を加えてやろうと拳をを振り挙げた次の瞬間に我が子の口から聞いた事もない怪音と言葉が混ざったようなものが響き渡り、その声を聞いた父親は急にウイスキーのボトルを床に叩きつけ、割れたボトルの上半分を自身の脳天に突き刺してバタンと倒れた。

その時の我が子が発した怪音は

「もう、全て終わりだ。」

そう言ったようにも聞こえた。


サトルのスイッチはここまで。

元に戻った瞬間、父親を目の前に何が起きたのか全く解っていない男の子は酷い有り様で倒れている父親の身体を数回揺すってみる。

しかし、反応がない事に気が付くと慌てて部屋を飛び出した。

向かった先には電話機が置いてある。

暫くしてから救急隊員と警察が部屋に来て父親の遺体を運び出していく。

その場に呆然と立ち尽くす男の子だったが、父親が亡くなったというのに何処か安堵の表情を浮かべていた。

サトルには男の子の痛みや気持ちが全て伝わっている。

虚しいという気持ちとどこか晴れやかな気持ちがごっちゃになった複雑な感情だ。

父親の死因は頭部からの失血死。

脳に修復不可能なダメージを与えた。

サトルが殺したのだ。

やり方は八年前と同じ。

相手を洗脳したのだ。

洗脳された相手は得も云われぬ恐怖を感じた後に急に死にたいと思い、それがコンマ数秒後には死ななくてはならないと思うようになる。

そうして起こした行動によってある者は死に至り、またある者は一生行動不能の廃人と化して生地獄を味わう。


サトルは命の大切さを知ってはいるが、更正の余地のない人間を殺す事には躊躇いがない。

計算上、この父親をあと数年間でも男の子の傍に置いておくと男の子が死ぬ確率は85%以上。

また、男の子が仮に生きていたとしても精神疾患を抱えてそのまま大人になれば破滅型の人間になる可能性は99%という答えが算出されたからだ。

そしてこの子は虐待被害者として警察にバレた以上、今後グリーンリストに名前が登録されるだろう。

何も殺さなくても…他に方法があるだろう。

別々に暮らすとか。

あと何年かしたら何かがきっかけでこの父親が善人になるかも知れないじゃないか。

そんな意見もあるかも知れないが、過去に暴力を受け続けた男の子はこの先、父親がどんなに更正しようが記憶に刻まれた恐怖と過去は変えられない。


グリーンリストとはこの社会では何処の国にもある名簿の事だ。

エーアイシンプトンや犯罪加害者のリストがあるように犯罪被害者にもリストがある。

このリストに名前が乗ってしまうと本人の知らない所で公的な力が働き守られるどころか犯罪予備軍として認識され、その後の人生が色々な場面で不利になる。

当然、グリーンリストの存在を一般人は知る由もなく、これはサトルだからこそ知っている事実だったが選択肢は間違ってはいない。

この男の子はこの先も一生父親から受けた暴力のトラウマと向き合わなければならないし、これ以上トラウマが増えると男の子の精神が持たなかったという現状に加え、父親が自身のストレス発散の為に意地でも男の子を手放す気がない様子を踏まえれば、たとえグリーンリストに名前が乗ってしまうという結果になろうともサトルの選択肢ではこうするのが最善策であるという答えが出ただけだった。


また別の日、サトルは不思議なアラームをキャッチした。

アラームが届くという事は相当強度なストレスなのだが…。

取り敢えず発信者の元へ飛んで様子を見る。

何処かの倉庫内のようだが何かがおかしい。

死を意識した強烈なアラームなのに高揚感のようなものもある。

何か興奮剤のようなものを接種しているらしく、クスリのせいか脳が正常な働きをしていない。

対象者は若い女性。

水着姿で身体を上から見下ろすと自身の足元も見えないくらいの大きな胸が目に飛び込んできた。

そこ以外は細く華奢なスタイルをしているので、いかにもといった不自然な体型をしている。

そして何故か手足に大きな鉄製の枷が付けられていて枷から伸びた鎖によって四肢が繋がっている。

稼働範囲はそこそこあるが、かなり不自由だ。


何かの会場なのだろうか?

スポットライトに照らされた高さ一メートルくらいのステージ上に彼女は立っていて目の前には深さ四メートル程の巨大な透明のアクリル張りの水槽が置いてあり、なみなみと水が入っている。

両サイドには登るための梯子と身長二メートル近い筋骨隆々な大男がひとりづつ梯子の横で後ろ手を組んで立っている。

彼女の手には普段あまり目にする事のない刀のような形状の刃物が握られている。

これは一体どういう状況なのだろうか。

目を凝らすも水槽が大きい為によく見えないが、反対側にも薄っすらと人影が見える。

「お待たせ致しました!本日のメインイベントです!!」

会場内に男の声でアナウンスが流れた。

特設会場といった雰囲気のこの場所で皆ニヤつきながら彼女達と水槽を目の前にしてパイプ椅子に座っている。

水槽と観客との距離はおよそ七メートル程。

四方を囲むように椅子が設置されているので人数は百人くらいだろうか。

観客よりも更に奥の方を見ると他にも何かをやっているらしく、そこにもここ程ではないが小さな人だかりが出来ている。

各々ブースのようになっていて簡易的な看板が見えた。

他のブースでは五メートル四方のテントがあって中に何があるのかは見えないが、入口前には一回十万円と看板に書いてある。

そして時折何処からか叫び声のような声も聞こえる。

それからパッと見えたのは一回千円と書かれた看板の横で全裸に口枷を付け、背面を上にして長椅子に寝そべった格好で椅子の各脚と自身の四肢を手錠で繋がれ、背面焦げだらけの男が何者かに焼き印を入れられて口枷越しに泡を吹いている姿だった。


ステージ上の水槽の向こうに見えるボンヤリとした人影に視線を戻してから本人の記憶を見る。

彼女は見せ物として少しでも観客達を喜ばせ、気に入ってもらう為に借金をしてまで美容整形手術を顔と身体に施していた。

「準備はいいですかぁ~?レディー、ゴーッ!!」

急に何者かに背中を押されたかのように急いで刃物を口に咥えて水槽の横に立て掛けられた梯子を登る。

ジャラジャラと鎖が音を立て重そうだ。

見ると水槽の向こう側の人間も同じように梯子を登って来ている。

登りきったところでお互い水槽の縁に立ち、目が合う。

登ってきた梯子を大男達が同時に取り外し小脇に抱える姿が視界の端に見えた。

口に咥えていた刃物を手に持ち替えて握りしめる。

相手も自分と同じような若い女だ。

彼女の手にも大きな刃物が握られている。

ゴクリと息を飲み、口から大きく空気を吸い込むと何の躊躇いも無しに水槽の中に飛び込んだ。

相手もほぼ同時に飛び込む。

手足の枷や鎖が重石の役目を果たし浮上する事が出来ない。

息が持つ間に相手を殺さなくては自分が殺される。

躊躇していたらお互い溺れ死ぬ。

これは正真正銘のデスゲームだ。

観客達はどちらが勝つのか大金を懸けている。

このゲームに勝てば今まで自分や家族を苦しめてきた莫大な借金がチャラになるだけではなく、運が良ければこの裕福な観客達の中の誰かが自分の将来を安泰にしてくれる可能性も無きにしもあらずだ。


但し残念ながらこの悪趣味な観客達が彼女達個人のスポンサーになる気が誰一人としていない事を彼女達は知らない。

状況を把握したサトルは彼女のこの次の選択をコントロールするのをやめた。

あまりにも馬鹿げている。

また、彼女がここに至る迄の選択肢をサトルがとやかく言う筋合いもない。

つまりサトルはここにいる一観客の如く彼女を見守る事にしたのだ。

平和な世の中は理想だが、どんな理由があっても命をゲームに投じるような人間をサトルは助けない。


波打つ水槽の上部から水がバシャバシャと時折外に飛び出す。

手足の鎖も武器にして相手の首を絞めたり重たい枷で相手の顔面を殴る。

刃物も水圧で上手く振るえないが、とにかく相手をひたすら攻撃する。

そして、数分と経たないうちに勝敗は決した。

真っ赤に染まった水槽の中でアラームを発した女の胸部に刃物が突き立てられており、斬られたあちらこちらから血を流しユラユラと枷の重さで下に沈んでゆく。

せっかく植物状態から目覚めたのにこんな所で命を粗末に扱うなんて…。

対峙していた相手は自力で水槽の中から出られずに

溺れ掛けている。

すると梯子を持って待機していた大男によって鎖を引っ張られてズルりと水槽の外へ引きずり出された。

ガボガボと水を吐き出しながら咳き込み、傷だらけの彼女もその場に倒れ込む。

「ウォーッ!!」

歓声と拍手が倉庫内に響きわたる。

その後の事は分からない。

飛ばした意識が強制的にサトルの頭の中に戻って来たからだ。

これはアラームを発した人間の死を意味する。


サトルは考える。

あの空間は一体何だったのだろう。

アラームが届いた時の彼女の恐怖と高揚感は何だったのだろうかと。

そのような感情を味わう事が今後のサトルの人生にやって来るのだろうか?

新たに人間の持つ狂気や残虐性というものを垣間見た瞬間だった。

今後もこのような多種多様なアラームはサトルと繋がる人間が増えれば増えるほどそれに比例するだろう。

いくらアラーム全てに対応可能だとしても今回のケースのようなものもあるだろうし、今後は更なる情報の見極めも必要になってくる。

でも大丈夫。

サトルの脳にはまだまだ膨大な空き容量があるし、さして面倒事でもないのだから。

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