幕ひらく

 君、思い違いしちゃいけない。僕は、ちっとも、しょげてはいないのだ。君からあんな、なぐさめの手紙をもらって、僕はまごついて、それから何だか恥ずかしくて赤面しました。妙に落ちつかない気持でした。こんな事を言うと、君は怒るかも知れないけれど、僕は君の手紙を読んで、「古いな」と思いました。君、もうすでに新しい幕がひらかれてしまっているのです。しかも、われらの先祖のいちども経験しなかった全然あたらしい幕が。

 古い気取りはよそうじゃないか。それはもうたいてい、ウソなのだから。僕は、いま、自分のこの胸の病気にいても、ちっとも気にしてはいない。病気の事なんか、忘れてしまった。病気の事だけじゃない。何でもみんな忘れてしまった。僕がこの健康道場にはいったのは、戦争がすんで急に命がしくなって、これから丈夫なからだになり、何とかして一つ立身出世、なんて事のためではもちろんないし、また、早く病気をなおしてお父さんに安心させたい、お母さんを喜ばせたいなどという涙ぐましいようなしゆしような孝心からでも無かったのだ。しかし、また、へんなやけくそを起してこんなへんな場所へ来てしまったというわけでも無いんだ。ひとの行為にいちいち説明をつけるのが既に古い「思想」のあやまりではなかろうか。無理な説明は、しばしばウソのこじつけに終っている事が多い。理論の遊戯はもうたくさんだ。概念のすべてが言い尽されて来たじゃないか。僕がこの健康道場にはいったのには、だから何も理由なんか無いと言いたい。或る日、或る時、聖霊が胸に忍び込み、涙がほおを洗い流れて、そうしてひとりでずいぶん泣いて、そのうちに、すっとからだが軽くなり、頭脳がすずしく透明になった感じで、その時から僕は、ちがう男になったのだ。それまで隠していたのだが、僕はすぐに、

かつけつした。」

 とお母さんに言って、お父さんは、僕のためにこの山腹の健康道場を選んでくれた。本当にもう、それだけの事だ。或る日、或る時とは、どんな事か。それは君にもおわかりだろう。あの日だよ。あの日の正午だよ。ほとんどせきの、天来の御声に泣いておわびを申し上げたあの時だよ。

 あの日以来、僕は何だか、新造の大きい船にでも乗せられているような気持だ。この船はいったいどこへ行くのか。それは僕にもわからない。未だ、まるで夢見心地だ。船は、するする岸を離れる。この航路は、世界の誰も経験した事のない全く新しい処女航路らしい、という事だけは、おぼろげながら予感できるが、しかし、いまのところ、ただ新しい大きな船の出迎えを受けて、天のしおのまにまに素直に進んでいるという具合いなのだ。

 しかし、君、誤解してはいけない。僕は決して、絶望の末の虚無みたいなものになっているわけではない。船の出帆は、それはどんな性質な出帆であっても、必ず何かしらのかすかな期待を感じさせるものだ。それは大昔から変りのない人間性の一つだ。君はギリシャ神話のパンドラのはこという物語をご存じだろう。あけてはならぬ匣をあけたばかりに、病苦、悲哀、しつどんよくさい、陰険、ぞうなど、あらゆる不吉の虫がい出し、空を覆ってぶんぶん飛び廻り、それ以来、人間は永遠に不幸にもだえなければならなくなったが、しかし、その匣のすみに、けしつぶほどの小さい光る石が残っていて、その石に幽かに「希望」という字が書かれていたという話。

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