斜陽
太宰治/カクヨム近代文学館
一
朝、食堂でスウプを一さじ、すっと吸ってお母さまが、
「あ。」
と
「
スウプに何か、イヤなものでも入っていたのかしら、と思った。
「いいえ。」
お母さまは、何事も無かったように、またひらりと一さじ、スウプをお口に流し込み、すましてお顔を横に向け、お勝手の窓の、満開の山桜に視線を送り、そうしてお顔を横に向けたまま、またひらりと一さじ、スウプを小さなお
「
スウプのいただきかたにしても、私たちなら、お皿の上にすこしうつむき、そうしてスプウンを横に持ってスウプを
スウプに限らず、お母さまのお食事のいただき方は、
「おむすびが、どうしておいしいのだか、知っていますか。あれはね、人間の指で
とおっしゃった事もある。
本当に、手でたべたら、おいしいだろうな、と私も思う事があるけれど、私のような高等御乞食が、下手に
弟の直治でさえ、ママにはかなわねえ、と言っているが、つくづく私も、お母さまの真似は困難で、絶望みたいなものをさえ感じる事がある。いつか、
「かず子や、お母さまがいま何をなさっているか、あててごらん。」
とおっしゃった。
「お花を折っていらっしゃる。」
と申し上げたら、小さい声を挙げてお笑いになり、
「おしっこよ。」
とおっしゃった。
ちっともしゃがんでいらっしゃらないのには驚いたが、けれども、私などにはとても真似られない、しんから可愛らしい感じがあった。
けさのスウプの事から、ずいぶん
さて、けさは、スウプを一さじお吸いになって、あ、と小さい声をお挙げになったので、髪の毛? とおたずねすると、いいえ、とお答えになる。
「
けさのスウプは、こないだアメリカから配給になった
「お
お母さまは、まじめにそう言い、スウプをすまして、それからお
私は小さい時から、朝ごはんがおいしくなく、十時頃にならなければ、おなかがすかないので、その時も、スウプだけはどうやらすましたけれども、食べるのがたいぎで、おむすびをお皿に
「かず子は、まだ、
とおっしゃった。
「お母さまは? おいしいの?」
「そりゃもう。私はもう病人じゃないもの。」
「かず子だって、病人じゃないわ。」
「だめ、だめ。」
お母さまは、
私は五年前に、肺病という事になって、寝込んだ事があったけれども、あれは、わがまま病だったという事を私は知っている。けれども、お母さまのこないだの御病気は、あれこそ本当に心配な、
「あ。」
と私が言った。
「なに?」
とこんどは、お母さまのほうでたずねる。
顔を見合せ、何か、すっかりわかり合ったものを感じて、うふふと私が笑うと、お母さまも、にっこりお笑いになった。
何か、たまらない
「お母さまも、さっき、何かお思い出しになったのでしょう? どんな事?」
「忘れたわ。」
「私の事?」
「いいえ。」
「直治の事?」
「そう、」
と言いかけて、首をかしげ、
「かも知れないわ。」
とおっしゃった。
弟の直治は大学の中途で
「あきらめてしまったつもりなんだけど、おいしいスウプをいただいて、直治を思って、たまらなくなった。もっと、直治に、よくしてやればよかった。」
直治は高等学校にはいった頃から、いやに文学にこって、ほとんど不良少年みたいな生活をはじめて、どれだけお母さまに御苦労をかけたか、わからないのだ。それだのにお母さまは、スウプを一さじ吸っては直治を思い、あ、とおっしゃる。私はごはんを口に押し込み眼が熱くなった。
「大丈夫よ。直治は、大丈夫よ。直治みたいな悪漢は、なかなか死ぬものじゃないわよ。死ぬひとは、きまって、おとなしくて、
お母さまは笑って、
「それじゃ、かず子さんは早死にのほうかな。」
と私をからかう。
「あら、どうして? 私なんか、悪漢のおデコさんですから、八十歳までは大丈夫よ。」
「そうなの? そんなら、お母さまは、九十歳までは大丈夫ね。」
「ええ、」
と言いかけて、少し困った。悪漢は長生きする。綺麗なひとは早く死ぬ。お母さまは、お綺麗だ。けれども、長生きしてもらいたい。私は
「意地わるね!」
と言ったら、
子供たちは、
「
と言い張った。私はあの竹藪に蝮が十匹も生れては、うっかりお庭にも降りられないと思ったので、
「焼いちゃおう。」
と言うと、子供たちはおどり上って喜び、私のあとからついて来る。
竹藪の近くに、木の葉や
下の農家の娘さんが、垣根の外から、
「何をしていらっしゃるのですか?」
と笑いながらたずねた。
「蝮の卵を燃やしているのです。蝮が出ると、こわいんですもの。」
「大きさは、どれくらいですか?」
「うずらの卵くらいで、真白なんです。」
「それじゃ、ただの蛇の卵ですわ。蝮の卵じゃないでしょう。
娘さんは、さも
三十分ばかり火を燃やしていたのだけれども、どうしても卵は燃えないので、子供たちに卵を火の中から拾わせて、梅の木の下に
「さあ、みんな、拝むのよ。」
私がしゃがんで
「
とおっしゃった。
「蝮かと思ったら、ただの蛇だったの。だけど、ちゃんと
とは言ったものの、こりゃお母さまに見られて、まずかったなと思った。
お母さまは決して
けれども、そのお父上の亡くなられた日の夕方、お庭の池のはたの、木という木に蛇がのぼっていた事は、私も実際に見て知っている。私は二十九のばあちゃんだから、十年前のお父上の
けれども、この二つの蛇の事件が、それ以来お母さまを、ひどい蛇ぎらいにさせたのは事実であった。蛇ぎらいというよりは、蛇をあがめ、おそれる、つまり
蛇の卵を焼いたのを、お母さまに見つけられ、お母さまはきっと何かひどく
そうして、その日、私はお庭で
夕方ちかく、お母さまと
お母さまもそれを見つけ、
「あの蛇は?」
とおっしゃるなり立ち上って私のほうに走り寄り、私の手をとったまま立ちすくんでおしまいになった。そう言われて、私も、はっと思い当り、
「卵の母親?」
と口に出して言ってしまった。
「そう、そうよ。」
お母さまのお声は、かすれていた。
私たちは手をとり合って、息をつめ、
「けさから、お庭を歩きまわっていたのよ。」
と私が小声で申し上げたら、お母さまは、
「そうでしょう? 卵を
と
私は仕方なく、ふふと笑った。
夕日がお母さまのお顔に当って、お母さまのお眼が青いくらいに光って見えて、その
私はお母さまの
私たちが、東京の西片町のお家を捨て、
十一月の末に叔父さまから速達が来て、
「お母さま、おいでなさる?」
と私がたずねると、
「だって、お願いしていたのだもの。」
と、とてもたまらなく
「きめましたよ。」
かず子のお部屋へはいって来て、かず子の机に手をついてそのまま
「きめたって、何を?」
「全部。」
「だって、」
と私はおどろき、
「どんなお家だか、見もしないうちに、……」
お母さまは机の上に
「和田の叔父さまが、いい所だとおっしゃるのだもの。私は、このまま、眼をつぶってそのお家へ移って行っても、いいような気がする。」
とおっしゃってお顔を挙げて、かすかにお笑いになった。そのお顔は、少しやつれて、美しかった。
「そうね。」
と私も、お母さまの和田の叔父さまに対する信頼心の美しさに負けて、
「それでは、かず子も眼をつぶるわ。」
二人で声を立てて笑ったけれども、笑ったあとが、すごく淋しくなった。
それから毎日、お家へ人夫が来て、引越しの荷ごしらえがはじまった。和田の叔父さまも、やって来られて、売り
「どうなさったの? 伊豆へ行きたくなくなったの?」
と思い切って、少しきつくお
「いいえ。」
とぼんやりしたお顔でお答えになるだけであった。
十日ばかりして、整理が出来上った。私は、夕方お君と二人で、紙くずや
「お母さま! お顔色がお悪いわ。」
と
「なんでもないの。」
とおっしゃって、そっとまたお部屋におはいりになった。
その夜、お
お母さまは、おや? と思ったくらいに
「かず子がいるから、かず子がいてくれるから、私は伊豆へ行くのですよ。かず子がいてくれるから。」
と意外な事をおっしゃった。
私は、どきんとして、
「かず子がいなかったら?」
と思わずたずねた。
お母さまは、急にお泣きになって、
「死んだほうがよいのです。お父さまの亡くなったこの家で、お母さまも、死んでしまいたいのよ。」
と、とぎれとぎれにおっしゃって、いよいよはげしくお泣きになった。
お母さまは、今まで私に向って一度だってこんな弱音をおっしゃった事が無かったし、また、こんなに
汽車は割に
「お母さま、思ったよりもいい所ね。」
と私は息をはずませて言った。
「そうね。」
とお母さまも、山荘の
「だいいち、空気がいい。
と叔父さまは、ご
「本当に、」
とお母さまは
「おいしい。ここの空気は、おいしい。」
とおっしゃった。
そうして、三人で笑った。
玄関にはいってみると、もう東京からのお荷物が着いていて、玄関からお部屋からお荷物で一ぱいになっていた。
「次には、お
叔父さまは浮かれて、私たちをお座敷に引っぱって行って
午後の三時頃で、冬の日が、お庭の
「やわらかな景色ねえ。」
とお母さまは、もの
「空気のせいかしら。
と私は、はしゃいで言った。
叔父さまは、この部落でたった
「すこし、このまま寝かして。」
と小さい声でおっしゃった。
私がお荷物の中からお
叔父さまもおどろいたご様子で、とにかく下の村まで、お医者を捜しに出かけられた。
「お母さま!」
とお呼びしても、ただ、うとうとしていらっしゃる。
私はお母さまの小さいお手を
二時間ほどして叔父さまが、村の先生を連れて来られた。村の先生は、もうだいぶおとし寄りのようで、そうして
ご診察が終って、
「
と、何だかたより無い事をおっしゃって、注射をして下さって帰られた。
翌る日になっても、お母さまのお熱は、さがらなかった。和田の叔父さまは、私に二千円お
私はお荷物の中から最少限の必要な
お昼すこし前に、下の村の先生がまた見えられた。こんどはお袴は着けていなかったが、白足袋は、やはりはいておられた。
「入院したほうが、……」
と私が申し上げたら、
「いや、その必要は、ございませんでしょう。きょうは一つ、強いお注射をしてさし上げますから、お熱もさがる事でしょう。」
と、相変らずたより無いようなお返事で、そうして、
けれども、その強い注射が
「名医かも知れないわ。」
とおっしゃった。
熱は七度にさがっていた。私はうれしく、この村にたった一軒の宿屋に走って行き、そこのおかみさんに
あくる日、村の名医が、また白足袋をはいてお見えになり、私が昨日の強い注射の御礼を申し上げたら、
「大奥さまは、もはや御病気ではございません。でございますから、これからは、何をおあがりになっても、何をなさってもよろしゅうございます。」
と、やはり、へんな言いかたをなさるので、私は
先生を玄関までお送りして、お座敷に引返して来て見ると、お母さまは、お
「本当に名医だわ。私は、もう、病気じゃない。」
と、とても楽しそうなお顔をして、うっとりとひとりごとのようにおっしゃった。
「お母さま、障子をあけましょうか。雪が降っているのよ。」
花びらのような大きい
「もう病気じゃない。」
と、お母さまは、またひとりごとのようにおっしゃって、
「こうして坐っていると、以前の事が、皆ゆめだったような気がする。私は本当は、引越し
それから、きょうまで、私たち二人きりの
ああ、何も一つも包みかくさず、はっきり書きたい。この山荘の安穏は、全部いつわりの、見せかけに過ぎないと、私はひそかに思う時さえあるのだ。これが私たち親子が神さまからいただいた短い休息の期間であったとしても、もうすでにこの平和には、何か
恋、と書いたら、あと、書けなくなった。
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