3.

 あたかもこれが近道であるかのように、そして女の存在などまるで気づいていないかのように、俺は公園をゆっくり横切り始めた。

 視界の隅で女が顔を上げるのが分かった。俺はそのタイミングで足を止めるとベンチに顔を向け、少し驚いた仕草をした。薄く差し込む街灯の明かりに女の顔が晒された。女はすぐに顔を下に向けたが、俺はその前に遠目ながら品定めを終えていた。

 少し思案して、もちろん「ふり」だが、俺は女に近づいた。

 女は肩をこわばらせ、緊張しているのが分かった。俺はある程度の距離をおいて声をかけた。

「あの、大丈夫ですか?」

 近所に住む気のいい青年が具合の悪い人を気にかけている。そんなところだ。

 女は黙っていたが、やがて小さな声で「大丈夫です」と答えた。

「具合が悪そうですけど、救急車呼びましょうか」

 そう言いながら、さらに女に近づいた。救急車というワードがポイントだ。

 女はびくりと顔を上げると慌てて首を振った。

「本当に大丈夫です」

 特に酔っている様子はないし、危ない感じもない。

「本当ですか?」俺は女のすぐ横に立った

「ええ」

 三十歳くらいに見えた。塩顔、とでも言うのか、すっきりした目元に小ぶりな鼻と唇。髪を後ろで結んでいるため、真っ白な首筋がよく見えた。

 俺の心臓は浮きたった。

「そうですか。それならいいんですけど」俺はわざとらしく頭の後ろをさすった。「いやあ、あぶなく救急車呼ぶところでしたよ」

 女は薄い唇をほんの少し緩めると、両手をスカートの上で重ねた。

 俺はその細い指先から太もも、腰、薄めの柔らかな曲線、そして首筋まで視線だけを這わせた。白いうなじはしっとりと濡れていて、ほつれた髪が張り付いている。

「それにしても夜中だってのに暑いですよね」俺は女の胸元を見下ろしながら言った。「こんなとこにいたら、それこそ具合が悪くなりますよ」

 女はそうですね、と言った。

 女の傍らには布製のトートバッグがある。服装と同じくシンプルなデザインのものだが、やけに薄っぺらいのが気になった。

「そうだ」

 俺はコンビニの袋を広げながら、当たり前のように女の隣に腰をおろした。

「熱中症になるといけないから水分補給したほうがいいですよ」そう言って中から缶を取り出して女に差し出した。「これどうぞ。ただ、ハイボールですけど」

 俺は笑顔を作った。女は微笑みながら手の平で押し返すようなジェスチャーをした。

 むせ返りそうな湿気に乗せて女の匂いがした。香水と、その向こうから微かに汗の匂い。

 強い酒を流し込んだ時のように鼓動が早くなり、めまいにも似た感覚におそわれた。

 ハイボールを袋に戻し「この辺の方ですか」と俺は聞いた。

「いいえ」

「そうですか。いくらここら辺が高級住宅街とは言っても、一人でいたら危ないですよ」

 さあ、少しは何か話せよ。

「もう帰りますから」

「駅まで少し遠いから送りましょうか」

 今どき道順など人に聞くまでもない。だがこの女をこのまま帰したくない気がした。

「いえ、道は分かります」

 ということは何度も来たことがあるのか。

「ここらに友達がいるんですか?」

 女の指に力が入るのが分かった。

「そんなところです」

 ふうん。友達に会いに来たわけじゃないよな。男だろう? 今日、その男とどんな夜を過ごしたのか当ててみようか?

「へえ、ちょっとした女子会って感じですか」

「そうですね」

 そう言って女は俺と反対方向に目線を投げた。俺は心の中で舌打ちをした。

 そのとき、むこうを向いた女のうなじを汗が伝った。

 その雫に俺は思わず生唾を飲んだ。

「こんな時間だし、友達のところに泊まったらいいんじゃないですか?」

 俺は粘った。女の匂いと汗が、俺の中で膨張し続けるものにガソリンをぶっかけた。

 この女が欲しい。

「そうもいかないので」

 女は視線をそのままにして答えた。

「そうなんだ。ならタクシー呼んであげましょうか」

 返事はない。

「それと、タクシー代は俺に払わせてください。これも何かの縁だし、あなた美人だし、ぶっちゃけ、めちゃくちゃタイプなんですよ。あっ、俺、金はあるんで気にしないで下さい」

 俺はまくしたてた。まあ特に嘘はない。

 女が俺を見た。その眉間にしわが寄った。文句の一つも言いたそうな顔だったが、もはやその表情すら俺をかき立てた。

「あなたは近くに住んでるの?」女は意外な反応をした。

 俺は言葉の真意をはかりかねたが、通りの向こうにある自分のマンションを指でさした。

「あれですよ」

 女の表情が微妙に変わった。

 いい展開だ。嚙み合ってきたじゃん。やはりあの家を離れる訳にはいかない。

 女は俺の示す先を見つめていた。

「見た目は豪華なんですけど、あそこで寂しく一人暮らし」俺は照れくさそうにして言った。

 やがて女は下を向いた。

 男のことでつらい目にあったんだろ? 今夜は心の隙間を埋めとけよ。俺が手伝うから。

 うつむいた女の唇が湿った音を立てた。

「ね、そうしようよ。タクシーのほうが安全だし、楽だし」

 俺はフレンドリーに言った。少し距離が縮まったと感じるだろ?

 女は何かを考えているようだったが、俺には十分な手応えがあった。今夜はすべてを吐き出してやる。この暑さも、腹の底で膨らみ続ける熟れた欲望も、もはや限界だ。

 そして俺は最後の勝負に出た。

「どうせタクシー呼ぶなら、その前にうちで冷たいものでも飲んでいかない? この暑さ、ちょっと酷いから。ちょうど美味しいシャンパーニュがあるんだ」

 父親からもらった高価な酒だったが、何の問題もない。この女にいくら投資したって構わない。とにかく今夜でなければだめなのだ。

 女は小さく頭を下げた。

 「じゃあそうしよう」

 そう言って俺は女の膝に手を置いた。

 そこに女が自分の手を重ねてきた。

 溜まっていたものの一部が俺の中から間欠泉のように吹き出した。俺は女の肩にゆっくり手を回し、そのままシャツの襟元から手を滑り込ませた。熱く濡れた肌が指に吸いつく。女は少し体を固くしたが嫌がる素振りはなかった。指先が曲線をなぞり下着に触れた。俺はもう欲望を隠す気もなかった。

 女がバッグに手を伸ばすのが見えた。

 そうそう、そいつを持って早く涼しい部屋に行こう。

 俺は夢中で顔を近づけると、女のうなじに残る汗の雫を舐めた。

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