私に化かされたんだよ

「いいかい、心して聞くがいい。君は私に化かされたんだよ」

 いつの間にか僕は唐沢の部屋の中にいた。手がざらつく。僕は玄関先にへたり込んでいたのだ。星の砂の感触が、やけに少なく感じた。

「君は、毎度のことながら、運悪く私の研究を邪魔したんだ。何度でもいうがね、そうやって無視していたところで、私の気が晴れることはない、それは君もわかっているところだろう」

 ドレッドヘアーでグラサンの不審者が、唐沢の声で僕を叱りつけてくる。なんだこいつと思いながら見ていると、すっとグラサンを取り、髪の塊を頭から外していた。いつもの唐沢美香がそこにいた。不審者はこいつだったのだ。

「この注意をするのも何度目かわからないがね、鍵が開いてたからと言って、家主の返答もなしに部屋に入るのは失礼にあたるんだよ君。それでも許す私の寛大さに感謝したまえ、君。もし私が優しくなかったら、今頃君の意識は本の世界から帰ってこれないまま揺蕩い続けるしかなかったんだからね」

 世の理を説くかのように、平然と妙なことを口走る姿を見ると、謎の安心感があった。今目の前にいるのは紛れもなく唐沢だ。理解できない言葉が飛び出てきても、こいつがおかしいだけであるという事実は、自分の正気を担保してくれているみたいで心地が良かった。

「最初に君が部屋に来た時だってそうだ。もう少し待てというのに、一時間も待たないで戸を開けて入ってきただろう。今回の件も、悪いのは君だ。そこをはき違えないでもらいたいね」

 びしっと僕の鼻を指してくる。柑橘系のきついにおいがした。

「くっせぇ」

「おやおやおや、意識が回復したか。思いのほか早いな。これならもしかしたら、演奏を止めるだけでよかったのかもしれないが、もう換気も終わった後なんだ。全部片づけてしまった。再現性の検証すらできない。まったく、何もかも全部君が悪い。ちなみに君が臭いといったのは、シークァーサーだ。柑橘系のいい香りがするはずなんだが、君には早すぎたかな」

 それだけ言うと唐沢は、指を丹念に拭いてから、机の上に置いてあった果汁らしき何かを流しに捨て、机の上のでかいコントローラーを壁に立てかけた。他に立てかけてあるものが、スキー板、スノーボード、練習用の小型サーフなのを鑑みても、明らかに部屋の中で存在が浮いていた。

「このDJコントローラーがいくらしたと思う?ふふ、他に使い道もないのに、このためだけに買ったんだよ。スクラッチだって練習した。こう、手首のスナップやら、コツがあるのかとかいろいろと調べたりもしたんだよ。それがなんだ、せっかく罠にかかる人間を探していたというのに、これだから遠慮を知らない後輩というやつは厄介なんだ。今日日真っ暗な部屋の中に勝手に入るなんてこと、大家でもしないぞ。いや、うちの大家はするな、うん」

「さっきから何言ってんですか、先輩のせいで俺は危うく、危うく」

 言葉が続かなかった。抗議するだけの何かが僕の中でくすぶってはいたけれど、それをうまく言い表せなかったし、何よりそれを言ってしまえばすべてが台無しになる気がした。言えないままにしておく方がいい、悔しいけれど、そのはずなんだ。

「ああ、いい、その先は分かってる。大体、持って行かれそうにでもなったんだろう。君は分かりやすく催眠にかかりやすいからね。南の島にでも行ってたんだろうさ。私がスクラッチを投げ出さなければ、今頃どうなっていたか。知っているかい君、ユタやシャーマンは、時に瞑想から復帰できずにそのまま神になった例もあるそうだよ。あのまま放置しておけば、私は神の誕生の瞬間を目撃できたかもしれない。まあ、現世での肉体は、意味の分からない挙動を繰り返すらしいがね」

 ばっと両の手を広げ、普段からやってる決めポーズらしき姿勢を取ってから、こういった。

「だが、分かったことがある。必要なのはそう、情念のこもった手記とクラブサウンドだ。偶然手に入れた本からヒントを得てね。特にハウスサウンドくらいのBPMがちょうどいいらしいんだ。トランス状態への導入に使われていた民謡は、どれもこれも今の音楽と大差ない速さでリズムを刻んでいた。アップテンポなビートが誘う高揚感が決め手だったんだろうというのが私の推論だ。問題は、臨床例をどれだけ盛れるかだな。うまくいってしまうと最悪消えてしまうみたいだからね」

「いや、待って、ちょっと待ってください。いったん落ち着いて」

「ところで君、時間は大丈夫なのかい?」

 畳みかける唐沢の謎の話に頭が追い付かない。どうにか理解できたのは最後の時間の確認だけだった。時計を見ると、時刻は22時を回っていた。急がないと。

「あーくそ、そこの、パソコン置いてある机の上の本、全部貸してください。すぐに返すんで」

「あー、いいよいいよ、持って行きたまえ。ついでに図書館に返却までしてくれると助かる。そうすれば君がまたうちにきて罠にかかるなんて間抜けなことは起こらないだろううし」

 それは願ってもない提案ではあったが、なんか癪に障った。そもそも不審者であれば何をしてもよいというのも甚だおかしい話で、いや、まずもって承諾を得ないまま実験とやらに巻き込むつもりで鍵を開けているのは不用心を通り越して恐怖でしかない。

 頭の中では、どうにかしてこいつをやり込めたい気持ちが渦巻いて、苛立っていたが、そんなことを言い出したら明日に響く。ここら近辺には泊まれるような場所はないのだ。大学に行ったところで空いているのは工学系くらいだろう。実験の邪魔をするのも忍びないし、近場に泊まらせてくれるような相手はいない。最悪、言い争った後に、ばつの悪いままこいつに今晩泊めてくれと頼みこむことになる。それだけは避けたかった。

「いいですか、今後は、変なことをするのなら扉の前に張り紙でもしておいてください」

「わかったわかった、開くなら自己責任って張り紙を張っておこう。急ぎたまえ。ついでにこのカツラとサングラス、処分してくれないか?」

 急いで本をリュックに詰め、最後の提案をきっちりと無視してから、僕は駅へと急いだ。改札を通る頃になって、先に電話をかけておけばよかったと思った。今後はそうしよう。何度かけたところで、今日みたいな日には一切出ないだろうが、最悪の事態は避けられただろうから。

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