ばいぶす様

 アミは少し驚いたように目を見開いてから、強張っていた顔を崩して笑った。

「やっぱり、ダメだったんだね、キョウヤは逃げたんだ」

 諦めを握りつぶしたようなその顔に、胸が締め付けられた。

「教えてあげる。ここはトロピカル因習アイランド。もうこの島には名前が無いから、こう呼ぶしかないの、許してね。じゃあ、急ぐから、またね」

 そういうと、アミはアロハ集団が向かった方角へと歩き始めていた。あまりにも余裕のない僕は、ただその後を追った。ふざけた名前に関しては、何かを言うこともできなかった。アミは僕が付いてくることを確認してから、すこし大きめな声で語りだした。

「ばいぶす様も、多分違う名前だった。自分の名前ごと、神様は食べちゃったんだと思う。島にいた人たちの、姿も形も思い出も全部。私はこんな道を知らないし、こんな家も知らない。変な髪型の人たちも、一度も見たことがない。あなたの中にあるイメージを、キョウヤが無理やり引き出してるんだと思う。綺麗なワンピース、ありがとう。こんな服、一回も着たことなかったんだ、私」

 振り返ったアミの目からは、もう涙は流れていなかった。その姿がとてもきれいだと思った。

「だから、気づいちゃったんだ、私。しゃべり方だって、違う。海だって、こんなに澄んでなかったし、浜辺だってもっと黒かった。あんなヤシの木みたいな植物、本でしか見たことないもの」

 海辺を歩いていたはずの僕らは、いつの間にか山の中にいた。濛々と茂った木々の隙間、雑草を踏み固めただけの道の先に、小さな社があった。社の周りには、ドレッドアロハたちが背筋を伸ばして整列している。社の中には、何かがぎゅうぎゅうに押し込まれていた。それはキョウヤと呼ばれた男だった。白衣に短パン、髪は天然パーマで、妙に頼りないその姿は、僕のゼミの教授にそっくりだった。

「てんあげの日、キョウヤは祠を壊したの。多分、多分ね。自分が犠牲になるって思ってたのもあるんだろうけど、そんなの、あるわけがないのに。島の伝承を調べている間に、キョウヤはおかしくなっていった」

 祠の前、三方の上には、鶏肉と豚肉と牛肉らしきものが、生のまま供えられていた。焼肉の三種盛りにしか見えなかった。おそらくこれが僕の中にある精一杯のお供え物のイメージなのだ。

「形だけの儀礼だもの、旅人を神に供えるなんてこと、大昔ならやってたかもしれないけど、もうそんな時代じゃない。キョウヤが祠を壊したことで大変な騒ぎになってさ。みんな怒っちゃって、キョウヤを納屋に場所に閉じ込めたの。村の子が悪いことをしたときにやるみたいに。祠を壊しても何にもなんないよって大体、わたし、やめて欲しいって言ってたのに」

 ドレッドアロハたちは、それぞれの肉に焼肉のたれのような何かをかけ、バターをのせ、そこに火をつけた。肉が焼けていく。

「だけど、本当にばいぶす様は居たの、祠の中に閉じ込められていた。ずっとずっと昔から、封印を解こうとしてたみたい。なのに私たち、島の守り神だって、お祭りもあったんだよ。なんか、馬鹿みたいだね」

 肉の焼ける匂いが強くなるにつれ、キョウヤの姿が少しずつ歪んでいく。髪が伸び、目が膨らみ、手足の爪が鋭くなる。姿形が変わっていくにつれ、それが何なのか僕にもわかり始めてきた。あれがばいぶす様なのだ。ばいぶす様は、アミだけを見つめてる。僕のほうが近くにいるはずなのに、少しも目線をそらさない。

「最初にキョウヤにばいぶす様のこと教えたの、私なんだよね。伝承も、そう。荒魂、とかいってたっけな。なーんか全部ぶっ壊す神様なんだよって、祀ってるから。災いを壊してくれるんだよって。こんな島、なくなっちゃえばいいやって思ってた。どこか別の場所に生まれてたらって。それなら、きっともっと、綺麗な服を着たり、おいしいものを食べたり、雪だって、見れたかもしれないのに」

 ばいぶす様は祠を破壊した。ドレッドアロハたちをつかんで、一人ずつ食べ始めている。近くで生い茂っていた木々はもうどこにもない。祠の残骸と、ドレッドアロハと、アミと僕。アミの手にはいつの間にか小さな包丁が握られていた。

「ごめんね、こんなことにつき合わせちゃって。もしかすると君は、この子のことが好きなのかもしれない。私も、キョウヤのことが好きだった。でも、キョウヤはよそ者で、それも、研究のためだけにここに来てたんだって。駄目だよね、本当に。駄目な恋だった。島を丸ごと壊すような、本当に駄目な恋だった。きみからも、私と同じ匂いがする。良くない相手を好きになるの、やめた方がいいよ」

 アミは包丁を手渡した。それはこの間、唐沢に盗まれた包丁にそっくりだった。

「私がばいぶす様に食べられたら、次はきみの番だと思う。その前に逃げて。きみがそれで血を流せば多分、この世界は濁るから。そんな確信があるの。自分で食べないと、ばいぶす様はちゃんと残れないはずだから。探しても探しても、こんなものしか無かったの。だからこれで、お願い」

 言い終わると同時に、アミはばいぶす様に吸い込まれた。僕は急いで渡された包丁の刃をぎゅっと握った。予想していたよりもはるかに小さな痛みがあり、僕の視界は暗転した。最後の最後に見えたのは、こちらへと手を伸ばしているばいぶす様の顔だった。なぜだか少し、安堵しているように見えた。

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