第5話

 金曜日の放課後、私は彼の最寄り駅に向かった。南口のバスロータリーにあるベンチに腰掛けて、彼ではなく、佳恋を待った。

『この前はごめんなさい。もう一度会って話がしたいです。』

 そうメッセージを送ってから丸1日が経った。返信はなかったけれど、待ち合わせの日時と場所を告げたメッセージに既読マークは付いている。

(急すぎたかな。)

 クリスマスが近いからか、先週来た時よりも辺りは電飾で彩られていた。

 17時40分。待ち合わせの時間を過ぎても佳恋は現れなかった。

制服の上にコートを羽織り、マフラーに手袋をして防寒対策はしてきたが、夕方に30分以上外にいれば体の芯まで凍えた。流石に耐えきれなくなり温かい飲み物でも買おうかと立ち上がった。その時だった。

 遠くに見覚えのある人が立っている。佳恋だ。彼女は私をずっと見つめているけれど、こちらに近づく様子はなくポケットに手を入れたまま突っ立っている。

手を振るのも違うと思い、ただ彼女を見つめた。数秒経って佳恋は徐に歩き始めた。段々と歩くスピードが上がり、彼女の顔にピントが合う。

(死ねよ。)

 その聲が聴こえた瞬間、佳恋のポケットが光った。

 ナイフを持った佳恋が私を目がけて走って来る。スローモーションでその光景を見て、私は死ぬのだとそう自覚した。寒さなのか、恐怖なのか、体が硬直して動かない。罪悪感を超越した動物的本能すら何かに負けた。

 川に落ちた時のあの感覚。プールに落ちた時のあの感覚。音が消えたら光が消え、光が消えたら死がやって来る。今回は痛みもあるかもしれない。私はゆっくり目を閉じた。

「キャー」

 誰かの悲鳴で意識が戻ると、私は地面に倒れていた。刺されたのにまだ生きていることに驚いたが、痛みがない。

(何で?)

 上半身を起こすと、私の近くで誰かが倒れていた。大きいけれど細い背中。見覚えがあり、息が詰まる。私は恐る恐る擦り寄った。

「何で。」

 補聴器を着けた彼は蹲っていた。お腹にナイフが刺さっている。真っ白な額には汗が吹き出し、苦しんでいる。

「何で。」

 頭がフリーズして涙が出る。

「誰か救急車!」

「やばいやばい。」

「逃げろ!」

「警察は!?」

 辺りはパニックになるけれど、誰も彼に近づかない。

(あぁ、無事か。)

 彼は今にも閉じそうな瞼を必死に開いた。

「無事じゃない。何で…何で庇うの?何で助けるの?」

(違う。そんなこと言いたいんじゃない。)

「今、救急車呼ぶから。」

 急いでスマホを取り出すも、手が震えて上手く操作出来ない。すると彼の血の付いた手がスマホの画面を覆った。

(いいから。よく聴いて。)

 死を覚悟した彼の言葉で現実を悟る。

「嫌。嫌だ。そんなの嫌。死なないで。」

 途端に涙が溢れ視界がぼやける。彼の手は今度は私の頬に触れ、涙を拭った。

(僕、君に嘘ついた。本当は苦しくなんかなかったよ。)

(嘘だ。やめてよ。)

 彼は私に罪悪感が残らないように言葉を紡ぐ。

(本当だから。信じてよ。この1か月半、人生で一番幸せだった。)

「やめてってば。」

 彼の瞼が閉じ始める。

(あぁ、もうか。そうだな。あぁ、そうだ。あの日は)

 冷え切った彼の手がぱたんと私の太腿に落ちた。

(いい天気だったよ。)

 意識が消える寸前に聴こえた聲。その意味はわからない。

「は?どういう意味?ねぇ、ねぇ。」

 彼の人体から命が消える。温度も血色も消え、額に残った僅かな水分と地面に沁みた血液だけが彼が生きていたことを証明した。

 何故ここにいるのか。何故私を庇ったのか。最後の言葉の意味は何なのか。聞きたいことは沢山あるけれど、それ以上の喪失感で思考が支配される。

 救急隊が駆けつけて彼は救急車に運ばれると色んな器具が取り付けられた。画面に映し出された心臓の波長は微かに波打っている。

(神様お願いです。彼を助けてください。)

 一緒に乗車した私は救急隊の後ろで手を合わせた。人生で最初にした神頼みは叶わなかったからずっと神様を信じていなかった。けれど、こんな状況で私に出来ることはそれくらいしかなかった。


「ここでお待ちください。」

 手術室の前で私は一人取り残された。お父さんが運ばれた時と同じ場所。そんな運命の悪戯が皮肉に思える。

 手術中のランプを見つめてどれほど時間が経っただろう。数十分のような気もするし、数時間のような気もする。静かすぎる廊下は、現実離れしているように思えてさっきまで見ていたものは全部夢なんじゃないかとすら錯覚させる。

 落ち着きを取り戻したようで、現実が見られない。あの日の母と一緒だ。

私は何かから逃げるように、何かを探すように廊下を歩いた。窓の外に見覚えのある中庭が広がっていた。大きな花壇には花がない。十年前のこの場所で私は彼と出会った。

(いい天気だったよ。)

 あの時ここで確かにそんなことを話した記憶はあるけれど、彼が最後に何故そう言ったのか、分かりそうで分からなかった。外は晴れでも雨でもない曇天だった。

 疲れた私は床に座り、胸まで膝を引き寄せて蹲った。

 全部夢であって欲しい。いっそ全部忘れてしまおう。自己防衛本能が働いたのか、段々眠気がしてきて私は目を閉じた。


「怜ちゃん。」

 誰かの声で目が覚めた。気が付くと目の前に顔見知りの看護師が立っている。

「深山は?」

 看護師は答えなかった。

「こっち。」

 看護師は私をどこかへ案内する。階段を降りて地下へ行く。私はこの道を知っていた。看護師は霊安室と書かれたドアの前で止まった。

「何でこうなるの。」

 まだ寝ぼけているのか頭と心が一致しない。

「2人仲良かったんだね。」

「彼の事知っていたんですか。」

「そりゃあ。あなたと一緒に来たんだから。」

 看護師は「一緒に入る?」と聞いてきたけれど断った。

 二度目の霊安室。簡易的な仏壇の前に、真っ白な布で覆われた物体があった。

(無理だ。)

 近づけない。死体があるという怖さと、それが彼だと確かめなければいけない使命感が入り混じる。

私は覚悟がないまま重い脚を恐る恐る動かし、頭の近くまで行った。

 この布を取ったら、彼の死が現実になってしまう。だけど、確かめないと。

この布を最初に取るのは私でないといけない気がした。

 手を伸ばし、布の端をつまむ。目を閉じて深呼吸をして布を取った。

ゆっくりと開いた瞼のわずかな隙間から彼の顔が入り込む。目を開けると、真っ白な彼がいた。

 思わず後退りをして、体重のバランスが取れなくなり、尻餅をついた。痛みと同時に現実が押し寄せる。

 私は声をあげて泣いた。生まれたての赤ちゃんのように泣いた。

 屋上で彼と話した日々がフラッシュバックする。

 彼の死んだ魚の様な目が。

 生きる希望のない目が。

 死ぬことを恐れていない目が。

 全てを見透かした目が。

 全てを諦めた目が。

 優しい目が。

 彼の笑った顔を思い出す。

 もっと沢山話したかった。

 もっと彼の聲を聴きたかった。

 美月や颯と同じように教室で談笑したかった。

 だけど、それはもう叶わない。

喪失感と悲しみで圧迫された。けれどそこに罪悪感がなかったのは彼がそうさせたのだろう。一緒にいて苦しくなかったと、幸せだったと最後に言われたせいで、自分のせいで彼が死んだと罪の意識を抱けない。今の私は彼に生かされていた。

 気が付くとまた、膝を胸まで引き寄せて蹲っていた。死体に対する恐怖は、それが彼であることを実感し薄れていた。

 逃げ出したい現実が、受け入れられない悲しみが襲い、体が震えて吐き気がする。地面がぐらぐらして宙に浮いているような感覚がし、思わず床に手を着いた。

(受け入れて。乗り越えて。)

 何度も、何度もそう自分を鼓舞し、理性のようなものを飲み込んだ。酸味が喉で尾を引く。

 私は床に這いつくばった。

 冷たい床が徐々に体を冷やし、段々と落ち着きを取り戻した。覚悟を決めて、もう一度彼の方を見ると、もっと顔が見たくなり、立ち上がった。

 彼は数分前と同じ真っ白な顔をしていた。まるで彫刻のように固く冷たさを感じる。

枕元には補聴器が置かれていた。いつも耳の中にあったそれは彼の体の一部だ。

 ガチャ

 いきなり部屋のドアが開き、私は咄嗟に補聴器をコートのポケットに突っ込んだ。

「こちらです。」

 廊下から彼の両親らしき人と、弟らしき人が入って来る。三人は私を見るなり同じ顔をした。

「あなたは?」

 母親らしき人が口を開く。

「私は…クラスメイトです。」

 友達でも恋人でもない。この関係に名前が欲しかった。

「そうですか。」

 なんとなく出て行って欲しいと言われている気がして、大人しく廊下に出た。

「怜ちゃんお母さん呼べる?迎えに来てもらったら?」

「何で?」

 もっと中にいたいと駄々をこねた訳じゃない。

「何で驚いてないんですか?何で悲しんでないんですか?普通パニックになって取り乱すでしょ?」

 直接本人にぶつけられなかった言葉を看護師にぶつけてしまった。

 彼の両親は身なりが整っていて、母親はバッチリ化粧をしていた。弟も質のいいコートを身に纏い、気高い三人家族の絵が浮かぶ。

「それは…」

「もういいです。」

 私は急ぎ足で病院を出た。

外に出ると空は薄暗くなっていた。最後に見た夕日と今の朝日は同じようで違う。

スマホの液晶には12月24日6時13分の文字が映し出された。時が進んでいる感覚がずっとなかったけれどそれは私だけみたいだ。

 家まではバスと電車を乗り継いで一人で帰った。なんとなく母に迎えを頼みたくなかった。

「おかえり。どうしたの?」

 母は私を見るなり目を丸くした。

「何があったの?」

 そう聞かれて、答えようとするけれど、声が出ない。まだ彼の死を消化できていないみたいだ。

母は私に駆け寄って背中を擦った。背中から感じる手の温もりが、疲れ切った心を溶かしていく。私はまた泣き崩れた。

もう何度泣けばいいのだろう。そう自分に呆れながらも涙が止まらない。

「同級生が…死んだの。目の前で…刺されて。」

「えっ。」

 母はもう一度、私を抱きしめた。この温もりさえも、彼が私にくれたものだった。


 クリスマスの今日、彼の葬式が行われた。神だと崇められたどっかの誰かの誕生を祝う日に彼の死を弔う。私はアイロンがけされた制服に袖を通した。昨日母が洗ってくれたのだろう。制服にもコートにも血は一切着いていない。

(そういえば。)

 私はブレザーのポケットに手を入れると、案の定探していたものを捉えた。一緒に洗濯されたかもしれないそれをポケットから出すと、そら豆に芽が生えたような形をしていた。

私が彼と一緒にいた証はこれしかない。誰も私たちの事を知らない。

二人だけの秘密にしたかったから誰にも言わなかったのに、もう彼はいない。自分以外の誰かが知っていないと事実さえも疑ってしまう程に地に足が着いていない。秘密を秘密のままにするのは難しいことだった。

「準備できた?」

 ドアの向こうから母の声が聞こえた。

「うん。今行く。」

 助手席に座り、見慣れた景色を眺めた。葬式の会場は彼の家の近くにあった。

「どんな子なの?」

 ハンドルを握る母は、慎重に私に声を掛けた。

どんな子。一言では言い表せられなくて、沈黙が流れた。

(あ、そうだ。)

 母にも伝わる言葉が思いついた。けれど、すぐには言わず、信号で車が止まるのを待った。

「お父さんが助けた子。」

 思った通り、母は驚いた顔を私に向けた。運転中だったら大惨事だ。

母は数秒私を見つめ、ゆっくりと視線を戻した。車がまた走り出す。

「そう。同級生だったのね。」

 母の声は驚きと安堵と悲しみの混ざった色をしていた。そこには決して怒りはなく、彼が私たちに抱いていた感情はやっぱり杞憂だった。

 会場の駐車場に車を止めると母は優しく送り出した。

「落ち着いたらゆっくり聞かせて。」

「わかった。行ってきます。」

 母の目は潤んでいた。


 会場のエントランスホールにはクラスメイトが集められていた。突然のクラスメイトの訃報に驚き怖がっている人もいれば、せっかくのクリスマスを台無しにされて迷惑がる人もいた。

「怜。こっち。」

 神妙な面持ちをした美月が私をクラスメイトの輪に入れる。新井先生がいつもの要領で点呼を初め、私たちは会場へ入った。

色とりどりの花の中に彼の顔写真がある。学生証用に撮ったものだろう。引きつった笑顔はぎこちなく、彼の本当の笑顔ではなかった。

 美月の隣の席に座ると、会場にアナウンスが流れ、式が始まった。しばらくするとお坊さんが御経を唱え始めた。

視界の隅で何かが動く、目をやるとクラスメイトの男子がうとうとして頭をゆっくり振っていた。見渡すと、目を閉じている人やあくびを我慢している人が沢山いた。

親族の席には昨日会った彼の両親と弟がいた。今日も身なりをしっかりと整え気丈過ぎる振る舞いをしている。

 ここには彼の死を悲しんでいる人はいなかった。

“「聴覚障害がある子供が産まれた翌年にもう一人子供を産んだ。分かるでしょ?」

(上書きだよ。別に虐待されてる訳じゃないし、どうでもいいんだけどね。)”

“(そんなに話せるのに、何で学校で話さないの?)

(君が周りに本音を言えないのと一緒だよ。)”

 いつか屋上で悲しそうに、いや悲しさを隠すように言っていた彼を思い出す。

“「びっくりした。ふかやま君だよね。」”

“「松下の次、深山…じゃなくて、森川、ここ読んで。」”

 耳が聞こえない彼に誰も関わろうとしなかった。彼自身も諦めているようだった。だけど、彼がこんな形だけの葬式なんか望んでいない。

『右は聞こえるけど。』

 そうだ。中学で再会して初めて聞いた彼の声。声にしたのは、誰かに聞いて欲しかったからだ。

彼は、自分のせいで人が死んだと自分を責めて、罪を償うように生きていたかもしれない。人と関わることを諦めたのもそのせいかもしれない。けれど、彼だって人間だ。自己犠牲だけで生きることは出来なかったはず。誰かに声を聞いて欲しかったはず。自分の存在を誰かに知って欲しかったはず。

「怜?行くよ?」

 気が付けば御経は終わっていて、ぞろぞろと焼香を上げに行く列が出来ていた。私も美月に付いていく。

「おまえ先行けよ。」

「右からだっけ?」

「先にお辞儀?」

「前の人の見ておこう。」

 コソコソと前後の人が作法の確認をする。自分が恥をかかない為に必死だ。

「もう嫌だ。」

「ん?怜、何か言った?」

 いよいよ前に人がいなくなり、私と美月の番がくる。彼の家族と対面すると、三人は私に気付き、躊躇いがちにお辞儀をする。腹が立った。

 近くで見る彼の遺影はやっぱり変な顔をしていて、なんだか無性に腹が立つ。

「怜。」

 美月が小声で私の名前を呼ぶ。「こうやってやるんだよ」と見本を見せるように焼香を上げてみせた。なんだか、美月にさえ腹が立つ。

「怜。」

 また、美月が小声で私の名前を呼んだ。「怜の番だよ」と言うように。

 焼香の壺のすぐ奥に棺桶があった。もう少し覗き込めば中が見えそうで、背伸びをした。

彼は見えなかったけれど、中にも色とりどりの花が敷かれているのが見えた。昨日見た彼の真っ白な顔は、この鮮やかな花にも負けているのだろう。

 彼にとって日常となってしまった不憫さに腹が立つ。拳が震えた。

 空っぽな、温度のない、形だけの葬式。それが彼の人生であったと言っているようで、嫌だった。

 彼は透明人間なんかじゃない。

 みんなにとってそうだったと言うなら、だったら、私が、

「ぶっ壊してやるよ。」

 焼香の壺を持ち上げて遺影を目がけて投げた。ガラスと陶器がぶつかる音は耳を塞ぎたくなる音だった。遺影は射的の景品のように打たれて消えた。

静かな会場には悲鳴や怒号で一気に騒がしくなったけれど私には聞こえない。

私は誰かに止められる前に壺が置いてあった机に土足で上り、綺麗に整えられた花祭壇を踏みつけた。

「止めなさい!」

「何をしてる!」

 近くで太い声が聞こえる。自分でも自分の行動に驚いている。ただ、滅茶苦茶にしたかった。綺麗なだけの花なんて彼には似合わない。

 しかし、暴れられたのは束の間で、彼の元に行く前に私は呆気なく図体のいい大人に抱きかかえられた。

 ちらりと、ほんの一瞬だけ、彼の顔が見えた。


 会場の外に連れ出された私はエントランスのソファの上で開放された。

「自分が何をしたか分かっているのか?」

 スーツ姿の知らない男の人に怒鳴られると、すぐにその後ろから校長や副校長が駆けてきた。二人はスーツの男の人に頭を下げる。やれやれと厄介者に視線を移すと分かりやすく怪訝な目をした。

「すみません。私から言っておくので。」

 三人の後ろから今度は新井先生が駆けてきた。その後ろに美月と颯もいる。元いた三人は私を睨むなり撤退していく。これ以上の厄介事は御免らしい。

「ちょっと話そうか。」

 美月と颯は驚きを隠せていないけれど、新井先生は案外冷静だった。美月は私の隣に座り、肩を擦った。颯と新井先生も向かいのソファに腰かける。

「怜って深山君と仲良かったの?」

 一番に口火を切ったのは美月だった。

「うん。」

「じゃあ、深山君の事故と怜って関係あるの?」

「ん?事故?」

 美月は彼が刺されたことを事故だと思っているのだろうか。

「事故じゃないでしょ。あれは、佳恋が深山を刺して、」

「ん?」

「ん?」

「刺した?」

 全員の頭にはてなマークが浮かぶ。

「深山君が亡くなったのって交通事故が原因だよね?」

 美月の言葉の意味が分からなかった。

「違うよ。昨日、いや一昨日か、私の目の前で刺されたの。私のせいで。」

 三人が互いに目を合わせる。そして代表するように美月が口を開いた。

「深山君が亡くなったのは2か月前の交通事故が原因だよ。怜が川に飛び込んだ時に深山君も事故に遭ったの。」

「は?」

 何故そんな見え透いた嘘を付くのか分からなかった。

「意味わかんない。何の為の嘘?」

「嘘じゃない。事実だ。」

 今度は新井先生が口を開いた。真剣な眼差しで私を見つめる。

「は?だって、2か月前って、何?ずっと一緒にいたじゃん。」

「は?怖い怖い。何?」

 颯が脅える。

「深山は2か月前に事故に遭って、それからずっと昏睡状態だった。」

 脳が追い付かない。彼はずっと眠っていた…?

「何の冗談?ドッキリ?この状況で?」

 ありえなかった。だから三人が嘘を付いていないと分かった。分かったけれど、信じられない。私が見ていたものは何だったのだろうか。幽霊とでも言うのだろうか。

(教室にいたよね?屋上にいたよね?)

 そう聞こうとしてやめた。確かめようにも3人と彼の接点はない。

「何を言ってるの?怜は何を見てたの?」

「分かんない。」

「深山君がいたの?」

 私は頷いた。確かに彼はいた。生きていた。

「幽霊…じゃないか。生霊…になるのかな?」

「いや、ありえないよ。怜、勘違いとかじゃないの?」

「違う。勘違いじゃない。だって、だって…。」

 証拠を探した。彼が生きていた証拠を。

「あっそうだ。」

 私はポケットに手を入れた。探していたそれは確かにあった。よかった。

 三人に補聴器を見せるとみんな目を丸くした。

「これはどういう…。」

「昨日の朝、霊安室で彼の枕元に置いてあった。」

 言ってから、これが何の証拠にもなっていないと悟った。彼は昨日亡くなった。つまり、あの病院は現実だった。

(どこまでが幻で、どこからが現実?)

「昨日、亡くなる前に手術はしてた?」

「いや、自分の病室で亡くなった。」

 手術室のランプは偽物だった。ということはあの時だ。廊下で寝落ちしたあの時に何かが変わった。

「幻覚を見ていたのかもな。頭を強く打ったわけだし。」

 幻覚。それと幻聴もきこえた。幻聴…。

私は咄嗟に目の前の先生を見つめた。必死に瞳を凝視する。

「聴こえない…。」

(いつから?)

 いつからか聲が聴こえなくなっていた。彼の死が大きすぎて今更その事に気が付いた。

知らないところで点と点が繋がる。けれどその線が何を示しているのか分からない。

 息が荒くなる。次第に呼吸の仕方が分からなくなった。美月が背中を軽く叩き、呼吸のリズムを先導した。

「大丈夫?」

 自分の身に何が起きたか分からない。けれど、彼が幽霊とか幻だったと言われて、そうかもしれないと納得してしまう自分がいた。

私の知る彼はいつだって私の味方になってくれた。自己犠牲を厭わず私を助けてくれた。だけど、彼以外にそんな人間はいなかった。いる訳ないのかもしれない。

何より、人の心の聲が聴こえるという現実ではあり得ない現象が、彼が普通の人間ではないことを証明していた。

(幻?)

彼は私が作り上げた虚像だった。

精神的に不安定になった私は、自分だけで生きることが出来なくなり、彼を生み出した。自分を肯定し、鼓舞する存在を作ることで、自分を守った。それが、きっと現実だ。

彼の死んだ魚の様な目が、笑った顔が消えていく。

私は彼の何者でもない。彼の中に私はいない。それが絶望なのか分からない。けれどぽっかりと大きな穴が開いた。

(赤の他人なの?)

 彼がお父さんが助けた少年だったというのも嘘なのだろうか。

私は勝手に赤の他人の顔を覆っていた布を取り、形見のような補聴器を盗み、葬式を滅茶苦茶にしたのだろうか。

途端に自分の行動を恥じた。

「私、帰ります。」

 頭がぐちゃぐちゃでおかしくなりそうだ。

「送るよ。」

 私は新井先生の背中を追った。


 後部座席に乗り込み、運転席のドアが閉まっても車が発車する様子はない。新井先生は深呼吸をして自分を落ち着かせているようだ。

(落ち着きたいのはこっちだよ。)

車内はエンジン音だけが沈黙を埋めた。

「本当だったんだな。」

 言葉の真意を探る。

「何がですか?」

本当…私が幻を見ていたことに対してだろうか。

 先生と鏡越しで目が合う。気まずくなり逸らそうとしたけれど、先生にその様子はない。真っ直ぐな真剣な目が、何かを物語っているが、私にはもう何も聴こえない。だけど、何かを言っている。何かを知っている。

「何か…知っているんですか?」

「あぁ。」

 先生はあっさりと返事する。

「いや、厳密に言えばまだ知らない。だけど、知る方法は知ってる。」

 彼が幻だったとしても、疑問は残っていた。彼はなぜ、事故に遭ったのだろうか。

真実を探るのは気持ちに整理が着いてからにしようとしていたが、目の前にそれがあるのなら、自分の気持ちなんてどうでもいい。

「教えてください。」

「お前、入院してた時の荷物は全部家か?」

「はい?」

 的外れな問いに間抜けな声が出た。

「あいつは恐らくそこに隠した。」

「分かるように言ってください。」

「分かった。まず俺が知っている事を話す。だけど、その代わりって訳じゃないが、俺にも教えてくれ。」

「分かりました。」

 真実が知れると言うのなら飲まない他ない。



 俺が深山慎樹という生徒と初めて話したのは、二学期中間試験のテストが終わった数日後だった。

「ここも禁煙ですよ。」

 俺は校舎裏でいつも通りタバコを吸っていた。文化祭の準備の為生徒が校舎を自由にうろついていることを忘れていた。

目の前に立つ生徒に教員人生の終焉をみた。

「安心してください。誰にも言わないんで。」

 その生徒は右耳に補聴器をつけていたが、流暢に話す様子を見るに音を拾えてはいるのだろう。

「ただ、一つお願いがあります。」

 頭のいい子供は、ただでは取引してくれないらしい。

「何だ。」

 俺は承諾も拒否もせず慎重に質問を重ねた。

「屋上の合鍵をください。」

「何に使うんだ?」

 奴は不気味に笑う。

「教室って息詰まるんですよね。窒息しそうなくらい。あそこ景色良さそうじゃないですか。」

 それが本心じゃないことくらい小学生でも分かるが、つまりはこれ以上聞くなということだった。

「大丈夫です。迷惑かけるようなことはしませんから。」

 奴は俺の不安を見透かしていた。その言葉を信じてはいなかったが、他に選択肢はなくやむを得ず要求を呑んだ。

 それからは注意深く奴を監視した。だが、特に危ないことをするわけでもなく、学校行事に興奮する生徒をよそに、一人静かに寝っ転がりに行くだけだった。あれは嘘じゃなかったかもしれないと半分安心していたが、文化祭前日、予想外のことが起きた。

「あれ、誰か屋上の鍵使いました?」

 朝礼後の職員室で後輩教師の野上が大声で言った。鍵が保管されている戸棚に数人の教師が集まり、冷や汗が出た。

「どうした?ないのか?」

「いや、二つともあるんですけど、さっき鍵が掛かっているから開けてくれって生徒会の子に言われて。誰か閉めたのかなって思たんですけど、貸出記録に何もないんで。」

「今日って屋上開けるんでしたっけ。」

「生徒会が横断幕張るから終日開放って。」

 教員たちの会話をしっかりと聞き、自分の無実の証明と事件解決策を考える。

「あ、すみません。俺です。開いていたんで閉めないとって思って。使ったの一瞬だったんで書き忘れました。」

 流暢に嘘を付ける程に俺は大人に染まっていた。

「何だ、新井先生ですか。ちゃんと書いてくださいよ。」

「はい。すみません。」

 職員室に鍵は二本ともある。三本目を持っている奴は何をしようとしているのだろうか。

俺は奴を探すために職員室を出た。

 文化祭準備の見回りをしているフリをして、奴を探した。教室にもグラウンドにも校庭にも体育館にもその姿は見当たらなかった。しかし、職員室に戻ろうとしていた最中廊下で奴とすれ違った。道を間違えたフリをして踵を返し、奴を追う。足取りは早く、迷いがなかった。

 角を曲がると廊下の奥で奴が立ち止まっていた。慌てて角に身を隠し、様子を窺う。奴は教室の中を見ているようだ。あそこは、確か、調理室だ。

 調理室に何かあんのか?

 屋上を施錠したことと関係あんのか?

 いくら思考を巡らせても辿り着かない。情報が少なすぎだ。

 気付けば奴はいなくなっていた。考えている間に見失ってしまった。ゆっくりと廊下を歩き、調理室に近づいた。そこに何かがあるはずだ。

「キャー」

 調理室に着く前に、廊下の奥から悲鳴が上がった。間違いない、あそこだ。俺は走って迷うことなく、ドアを開けた。

 中には、生徒が4人いた。床に段ボールが転がり、何か液体が飛び散っている。

「何があった?」

俺の問いかけに誰も答えない。俺は状況を理解するよりも先に、蹲っている生徒に駆け寄った。女子生徒の腕は赤く爛れていて、急いで水道の蛇口をひねった。静かな空間に、生徒がすすり泣く声と水が流れる音が響く。異様な空気だった。友達が火傷をしているのに誰も助けようとせず、茫然と眺める。一人はそこに押し倒されたように、崩れた段ボールの山の中で座っていた。

「何があった?」

 名札を確認する。岩崎という生徒は何か言いたそうに口を震わせるが、声が出ない。

「岩崎さんがやりました。ペットボトルを油の中に投げ入れたんです。」

 隣に立っていた生徒が口を開く。到底、岩崎がやったようには見えなかった。岩崎が加害者で、この火傷をしている生徒が被害者。岩崎が被害者なら?

「明戸、本当か?」

 名札にそう書かれている生徒は何度も首を縦に振った。嘘を付いている。そう思った。

 背後に息を殺すようにもう一人、生徒がいる。

「お前も見てたのか?どうなんだ。」

 佐野という生徒は岩崎よりも体を震わせていた。何かに脅え、何かに取り憑かれているようだ。

「佐野、どうなんだ。」

 落ち着かせるように、もう一度質問する。間違えるなよ。

「…い…岩崎さんがやりました。」

 佐野は真っ直ぐ俺をみた。その決断はやめておけと言ったところで聞かないのだろう。

「…何で?」

小さく、岩崎の声が聞こえた。

「とりあえず、保健室に運ぶから、3人は教室で待機していなさい。」

 俺に出来ることは何もない。


 明戸は保健室に着くや否やすぐに病院へ向かった。

「新井。何があった?」

 職員室の前で大山に呼び止められた。

「大山先生のクラスですか。」

「あぁ。」

 大山は同い年だが2年先輩の教師で、同い年でも後輩をこき使って楽をしようとするから昔から嫌いだった。

「明戸さんが火傷しました。喧嘩か…いじめがあったみたいです。」

 「いじめ」という言葉に大山は動揺を隠せずにいた。

「それはこっちが判断するから。詳細を教えてくれ。」

 部外者は口を挟むなと俺を睨んだ。

俺は自分が見たことを全て話した。深山のこと以外。

「ということは、岩崎が明戸に火傷させたのか?」

「分かりません。周りが言っただけですから。」

「周りが言ったならそうだろ。」

「仮に岩崎さんがしたとしても、それはいじめではないと思います。むしろ、逆かと。」

「逆?」

「岩崎さんが明戸さんにいじめられていたのでは?」

「…分かった。ありがとう。」

 その返事を俺は鵜呑みにしてしまった。大山がそこまで腐っているとは知らずに。

 その後、火傷の件で2年の先生が集められ、そっちはそっちで解決すると思い、俺は自分が本来追っていた件を解決することにした。

 俺は再び、深山を探すことにした。会ったらもうコソコソ後を付けずに、正面から問い詰めようと思っていた。

あいつは調理室で起きることを知っていた。俺をわざと調理室に誘導した気がしてならない。

 俺が再び奴を見つけたのは、2,3時間後のことだった。火傷の件で2年の担任の分の仕事が回ってきて、思う存分奴を探せなかったが、合間を縫って校内を徘徊した。

廊下を歩いていると、後ろから奴が猛スピードで俺を抜かして走って行った。また何かあると焦った俺は、すぐさま追いかけた。

廊下をまっすぐ進み、右に曲がれば職員室があるが無視して目先の階段を上る。ぐるぐると3周すると、辿り着いた先は屋上だった。奴が開けた屋上のドアは、俺が着いたタイミングで閉まってしまう。

「くそ。」

 俺は諦めて出てくるのを待つことにした。バレないように踊り場にある掃除用具入れの陰に身を隠す。問い詰める気でいたのにまた隠れている自分に嫌気が差した。

 数十秒待っていると、下の階から誰かの足音がした。音は段々大きくなり、かなり早いリズムを刻んでいる。そして下から女子生徒が現れた。彼女は迷わず屋上のドアに手を掛けると、開かないドアに落胆し、踵を返していった。

 彼女の顔は見えなかった。だけど、後ろ姿から岩崎のような気がした。

 彼女が行った後、すぐにドアが開いた。奴は警戒しながら彼女を追うように階段を降りて行く。鬼ごっこのような妙な状況に、何が起きているのか突き止めずにはいられなくなり、俺もまた奴を追った。

 深山は校舎を出てグラウンドを横断し、裏門から外に出た。歩道を走って正門の方に回り、正門から続く橋と、道路がぶつかる交差点に差し掛かった所で足を止めた。

荒い息を整えながら遠くから奴を観察していると、次の瞬間、衝撃的な光景が目に飛び込んだ。

 深山は車道の信号が青なのに、猛スピードの車の前に飛び出した。急ブレーキの音と、クラクションが数十メートル離れている俺の耳の奥にまで響き渡る。

深山は路上で倒れている。轢いた車の運転手が、青ざめた顔で降りてきたのが遠くからでも分かった。俺は奴の意図が理解できないまま、教員としての行動をとった。

「救急車を呼んでください。」

 運転手ではなく近くにいた歩行者に声をかけた。

「深山、聞こえるか?深山、深山…」

 倒れている深山に駆け寄り、歩道に移動させ、ハンカチで頭を押さえ声をかけた。後頭部から血が出ているが、目は半分開いている。意識はまだあるようだ。

「い…さき…を。」

「ん?」

「いわ…さきれ…を…助けてください。」

「岩崎?」

 奴はうなずく。

「岩崎が何なんだ?どうして岩崎を」

「僕は…いいから…れいを。」

「もういい、喋るな。」

 深山はそれでも必死に岩崎の名前を口にした。

「先生!」

 正門の方から見知らぬ生徒が走ってきた。

「来てください!岩崎が川に飛び込んだんです。」

 岩崎が?飛び込んだ?

「早くしないと…って、え?こっちは何が起きているんですか?」

「事故だ。そっちは何だ?」

「分からないです。岩崎さんが川に飛び込んで、今、颯が助けに行ってます。」

「助けにって、川にか?」

「はい。」

「クソガキが。そいつまで溺れたらどうするんだ。」

「でも…」

「ここ押さえてもらえますか?」

 俺は救急車を呼んでくれた女性に深山を任せて、呼びに来た生徒と川の方に向かった。川には生徒が二人、女子生徒が男子生徒に陸の方に引っ張られていた。女子生徒の体は動いてなさそうだ。

 俺は河川敷を走り、女子生徒を陸に引き上げた。彼女は間違いなく、調理室で見た顔だった。

「どうなってんだ。」

前に講習でやった通りに、人工呼吸の手順を正確に踏む。

「そのまま代わります。」

「生徒にさせるわけには」

「救急です。」

「えっ。」

 突然現れた救急隊員に驚きつつも、すぐに彼女を任せ、びしょ濡れの男子生徒に近寄った。

「君は…あ、宇ノ沢か。」

 こいつを知らない教師も生徒もいない。

「はい。」

「いくら泳げるからと言って、子供が助けに行くな。お前まで溺れたらどうするんだ。」

「でも…」

「もういい、着替えて教室で待ってろ。」

「颯、行こう。岩崎さんはきっと大丈夫だから。」

 救急隊は担架に岩崎を乗せ、道路の方へ運んでいく。一緒に付いて行くと、彼女が乗るはずの救急車にはすでに深山が運び込まれていた。

「どうしますか?もう一台呼びますか?」

 救急隊の会話が聞こえる。

「一人って聞いていたんだが、二人とも危ないな。一緒に運ぼう。」

 彼女を乗せた担架は深山の隣に入れられた。

「教員の方ですね?乗ってください。」

「いやでも、邪魔じゃないですか?」

 ただでさえキャパオーバーな救急車に隊員は分かりやすく焦った。

「えっと、まぁ…」

「車で向かいます。」

「すみません。」

 俺は急いで駐車場に行き、教えられた病院へ直行した。


 学校に電話を入れ、二人の手術が終わるのを待った。

 なぜ深山を調理室の前にいたのか。

なぜ深山は道路に飛び出し、岩崎は川に飛び込んだのか。

なぜ深山は岩崎がこうなるのを知っていたのか。

分かりそうで分からない。

「新井先生!」

 待合室のベンチに座っていると野上が来た。俺の一つ年下で、教員の中で唯一気を許している。

「お前が何で?」

 野上は迷うことなく俺の隣に座った。

「大山は?校長も来るべきだろ。」

「大山先生ね。新井先生聞いてないですか?2年2組のいじめの話。」

「いじめ?岩崎か?」

「あぁ知ってるんですね。今日調理室で生徒が火傷する事故があったんですよ。」

「それなら、俺もいたけど。」

「えっいたんですか?」

「たまたま現場に居合わせて、それから大山に引き継いだ。」

「そうだったんですね。あれ実は、火傷した生徒がいじめの加害者だったんです。だけど、被害者の方が加害者になっちゃって。」

 野上から聞かされた話は、岩崎がいじめの罪を着せられ、退学に追い込まれたという耳を疑う内容だった。

「大山に言ったのに。あいつ分かったって。」

 大山は何も分かっていなかった。違うか、分かっていたけど、知らないフリをした。こんなことになるなら、俺が直接校長に言うべきだった。いや、俺も本心は厄介ごとに巻き込まれたくなかったのかもしれない。大山に伝わってないと分かっていたのに見過ごしたのかもしれない。

「聞きます?これ。」

 野上はスマホを取り出した。

「録音したのか?」

「やるでしょ?中に入れなかったんで、机の中にスマホ入れておいたんです。」

 再生ボタンを押すと少女の悲痛な叫びが流れた。

『どうして信じてくれないんですか?どうして杏奈の意見だけを信じるんですか?』

「修羅場だな。」

「他が平和なだけですよ。それにしても俺たちもどうなっちゃうんでしょうね。もし死んだりでもしたら…」

「おい、それ以上言うなよ。」

「すみません。」

 野上はあっと何かを思い出した。

「そう言えば、もう一人の子はどうしたんですか?助けに行ったとかですか?」

「それが…違うんだよ。」

「え?」

「もう一人は交通事故。」

「え?交通事故?」

「岩崎とは別で、たまたま。」

 たまたまな訳がない。

「たまたま?そんなことあります?ありえないでしょ。」

「だよな。」

「ていうか、新井先生はなんであそこにいたんですか?」

 あそこというのがどこか分からない。調理室か?事故現場か?事故の話をしていたから後者だろう。偶然2か所とも俺がいたと気づけば怪しまれそうだ。

「…忘れ物。車にファイル取りに行こうとしてたまたま。」

「たまたまなんてあり得ませんよ。どうせこれでしょ。」

 野上はタバコを吸う真似をした。

「違うよ。」

「はいはい。忘れ物ってことでいいですよ。今度奢ってくださいね。」

 安堵が違う形で伝わる。

「やだよ。」

 野上はあの緊迫した現場を見ていないから、こんなに能天気にいられるのだろう。生徒が死ぬなんて微塵も思っていない。でももしかしたら、どっちかは、いや、二人とも死んでしまって、俺の疑問は永遠に解決しないかもしれない。

「録音したやつ、俺に送っておいて。」

「えー悪用厳禁ですよ。裁判の証拠なんですから。」

「一応俺らは学校側だろ。被告側。」

「分かってますよ。でも俺はクビになっても世間の敵にはなりたくないです。」

「お前なら転職先いくらでもありそうだな。」

「新井先生だって、ほんとは教師嫌なんでしょ?なら一緒に戦いましょうよ。」

「よく言うよ。」

 俺は自分のスマホに通知が来たのを確認して、手術が終えるまで野上と話した。奴の能天気さが、緊張と罪悪感と疑問が渦巻く脳を紛らわせた。


「怜…怜…れ…い…」

 岩崎の母親だろう。まだ暑いのに長袖のパンツスーツを身に纏い、おぼつかない足取りでヒールを鳴らす。働く女性のモデルの様な容姿なのにその顔には血色がなく、涙でメイクが落ちている。

俺たちは立ち上がり、会釈をした。

「担任の先生ですか?」

「いえ、私は」

 ドサッ

 岩崎の母親は力が抜けたように崩れ落ちた。清潔なスーツの胸元に弁護士バッチが光る。

「ここ座ってください。」

 野上は飲み物を買ってくると言い残し、その場を去った。

「保護者の方ですか?」

「はい。…母親です。あの、何があったのでしょうか。」

 教員という立場が、出かけた言葉を止めた。

「…私も詳しいことは。」

「そうですか。」

 岩崎の母親は落胆し、俯いた。

 しばらく経って手術中のランプが消えた。ドアが開いてナースが出て来る。

「ご家族の方はこちらへ。」

「はい。」

 岩崎さんはゆっくりと立ち上がり、重い足取りでナースの後を追い、俺たちはそれ眺めた。

「深山は?」

「まだみたいです。」

「保護者には連絡したのか?」

「しましたよ。仕事で来れないそうです。」

「は?子供が事故に遭ったのに?」

「通っている病院だから、直接連絡するって。」

 野上は「ほら。」と自分の耳を指さした。

「なんだよそれ。」

「訳アリですかね。」



 深山の手術は何時間も続いたが、次の日には意識を取り戻したらしい。

 俺が深山と再会したのは一週間後のことだった。その間、俺なりに事故の日の事を整理した。

 岩崎怜という女子生徒はクラスメイトの明戸杏奈に火傷を負わせ、学年中の教員の前で取り調べが行われた。証言台に立たされた岩崎は無罪を主張するも、明戸が岩崎がやったと証言した為、有罪となった。

「あれ、まだいたんすか。」

 一人だけだった職員室に野上が入って来た。窓の外はもう真っ暗だ。

「うん。まぁ。」

「新井先生、最近なんか変わりましたよね。」

 ジャージ姿の野上は缶コーヒーを開けながら自分の席に着いた。部活後だろうか。

「俺?変わったのは学校だろ。」

 自殺騒ぎで学校は世間から批判の的となった。校長、副校長、学年主任、担任は責任を取って辞職したが、風当たりの強さは変わらず、残された職員は後処理に追われている。

「自分から残業するタイプじゃなかったでしょ。なのに、自分から仕事引き受けているじゃないですか。」

 コーヒーを一口飲んでから野上は言った。

「なんで警察に俺が盗聴したやつ渡したんすか。」

 岩崎が病院に運ばれた後、警察と教育委員会が学校に来た。あの取り調べが適正だったのか判断しにきたのだろう。結果はグレーに近い白だった。生徒が生徒に火傷を負わせたから、事情を聞き、被害者生徒が、「この子にされた」と言えばそれを真実と誰もが思う。さらに加害者生徒は「自分がやった」と最後は認めた。

 文脈だけを見れば学校側に落ち度はなかった。教育委員会も、取り調べに参加した教員の数が適正じゃなかったという点だけ指摘し、生徒間の問題と結論づけた。

 だけど、納得がいかなかった。野上に貰った音声ファイルから聞こえた声は紛れもなく、大人に脅された少女の叫びだった。これを聞けば誰もが学校に責任があると言うだろう。

「そんなに正義感強かったですっけ。」

「それはお前だろ。お前は何で盗聴したんだ?」

「好奇心ですよ。あんなに先生が集められたんだから、何があったか知りたいでしょ。」

 野次馬の割には口が堅い。野上は俺が警察にリークしたことを誰にもバラさなかった。

「お前っていい奴だな。」

「今さらですか。」

 野上はコーヒーを全部流し込んで、俺が増やした仕事をし始めた。俺も自分のパソコン画面のメモを見つめる。ミーティングで聞かされた情報と自分が見たものを書き連ねた。ここに真実があるのだろうか。

 二学期中間試験から、いやもっと前から明戸のいじめは始まっていたが、当時岩崎は明戸と同じグループにいた。それが、仲間割れだろうか、岩崎は明戸を裏切って佐野を守った。だが岩崎はあの調理室で佐野に見捨てられる。

『深山は調理室で起きていることを知らせるために俺を誘導した?』

 パソコン上のメモに文字を打ち込む。

あの日、あまりにもタイミングよく俺は調理室に導かれた。奴は俺が後を付けていることを知っていたに違いない。

深山が調理室の前に姿を現した後、明戸が火傷を負い、岩崎の取り調べが行われた。有罪を言い渡された彼女は一旦学校から去ったらしいが、学校を訴えると脅す為、再び職員室に姿を現した。そしてその後、彼女は屋上に向かった。

屋上から岩崎は飛び降りるつもりだったのだろう。だが、深山がドアを閉めたせいで岩崎は屋上に行けず、代わりに川に飛び込んだ。

『岩崎が屋上から飛び降り自殺するのを阻止』

 深山は岩崎が屋上から去って行くと、その後を追いかけるように階段を下ったが、向かった先は裏門だった。裏門を出てぐるっと正門の方へ向かい、道路に飛び出した。

 フリーハンドで学校の見取り図を描く。

横長の校舎は、東西にあるふたつのグラウンドを繋ぐような位置にあり、正門は南に位置し、校舎と並行に川が流れている。西側のグラウンドの淵にある裏門からグラウンドの淵をぐるりとなぞり、正門近くまで線を引く。途中で川を跨いでいる曲線は正門から直結する橋の終わりで途切れる。

『深山交通事故→救急車が来る→岩崎と乗る』

 深山は岩崎を助けるために事故に遭ったのだろう。だけど、深山は岩崎が川に飛び込む光景を見ていないはずだ。

『あらかじめ岩崎が自殺することを知っていた?』

 自殺をするとしたら、屋上というのは想像つくが、それが出来なければ川に飛び込むと考えるだろうか。

 その前に自殺することを本人から聞いていたとしたら、自殺を止める方法なんていくらでもあったのではないだろうか。

 何で、本人と接触することなく、止めようとしたのだろうか。

「だめだ。全然わからん。」

 結局深山に聞かないことには埒が明かない。

「今日はもう帰ってください。」

 業務外と言えば業務外の気もするが、これは俺の仕事のような気がする。



事故から一週間後の今日、俺は深山の見舞いに来た。

「お前は何でこんなことをした?」

「薄情ですね。もうちょっと怪我人を気遣った方が教師として箔が付きますよ。」

 深山は病室のベッドの上で、上半身を起こして食べ辛そうにリンゴをかじっている。脚の骨と肋骨を折り、頭も強く打ち付けた割に一週間も経てば普段通り喋っていた。

「あ、鍵、返しますね。」

 包帯でグルグルの腕を伸ばし、引き出しを開けようとする。

「取るよ。」

「ありがとうございます。」

 引き出しには鍵とその下にノートがあった。俺は鍵だけ手に取り、引き出しを閉める。

「聞かせてくれるか?」

 何のことかは分かっているはずだ。

「いいですけど、条件があります。」

「何だよ。」

「2年2組の担任になって下さい。」

「は?」

 予想外の条件に困惑する。辞職した教員の代わりに2人の教員が来たが、学年主任と担任は現職の教員から選出されることになっていた。

「俺が決められる訳じゃない。」

「でも、誰も就きたくないポジションに立候補すれば、通るんじゃないんですか?」

「だとしても…何で俺に担任をして欲しいんだ?」

「彼女には新井先生が必要だからです。」

 深山の言葉に迷いも躊躇いもない。

「どういう意味だ?彼女って岩崎か?」

「はい。」

「まだ意識が戻ってないって聞いたけど。」

「戻ります。」

 その言葉にも迷いがない。

「その根拠は?」

「条件をのんで貰えるってことでいいですか?」

 少し考えて「分かった」と返事をした。

「僕は予知夢が見れます。」

「…は?」

 テンポよく会話のラリーが続いていたのに突如スマッシュを決められた。

 特技のように言う奴の言葉が上手く飲み込めない。

「…予知夢?」

「はい。」

「ふざけてんのか?」

「あれ?そう言ったら、先生の疑問は解決すると思ったのに。」

 その顔は、無表情のようにも大人を弄んでいるようにも見えた。

『あらかじめ岩崎が自殺することを知っていた?』

 いつか自分がパソコンに打ち込んだ文字が脳内に浮かび上がる。

俺は自分が知り得る限りを尽くし思考を巡らせて、深山が岩崎の自殺を予見していたと結論付けた。だけどそれは、二人は恋人か何かで、岩崎が屋上から飛び降りられなかったら、川に飛び込むと深山が理解できるほどの間柄で、だけど深山は直接引き留められない事情があったからで…それってなんだよ。

予見じゃなくて、予知だったと言うのだろうか。

「おい、真面目に話せ。」

「僕はいたって真面目ですよ。」

奴は顔色一つ変えない。

「信じられるとでも?」

「はい。先生は信じます。」

 預言者のように奴は言う。

 こっちが問い詰めていたはずなのに、いつの間にか追い詰められている。

「話していいですか?」

奴は俺を待ってはくれない。ここで足踏みするのは頭が固い大人な気がして―それは自分が一番嫌いな存在だ―受け入れるフリをした。

「わかった。話を続けてくれ。」

 俺は信じない。だから、奴がどんな嘘を話すのか興味があった。

 奴は気味の悪い笑みを浮かべた。

「僕は3回彼女の葬式の夢を見ました。どこで歯車が狂ったのか分かりませんが。最初の夢で、彼女は佐野さんに刺されて亡くなりました。」

「何で佐野が岩崎を?」

「彼女は自分はカンニングペーパーを取っていないと嘘を付いたからです。」

 別の世界では、岩崎は嘘を付いた。佐野ではなく、明戸の味方をした。

「彼女に裏切られた佐野さんはショックのあまりパニックになって、近くにあった包丁を手に取りました。」

 あの事件の後、一度佐野と話をした。あの時佐野は、岩崎が明戸に指示していたと聞かされ、怒りの矛先が岩崎に向き、彼女を裏切ったと言っていた。嘘ではないと思うが、岩崎を裏切って明戸の味方になればクラスから浮かないという策略もあっただろう。

 だが、もし岩崎が明戸の味方をすれば、佐野は本当に明戸の敵となり、いじめられる。佐野は強く見えて弱い子供だ。深山が言うように人道を外すこともあり得ない話ではないのかもしれない。

「それで、数日後、また歯車が狂ったのでしょう。2回目の夢を見ました。その夢では彼女は嘘を付かず、自分がカンニングペーパーを取ったと白状し、明戸さんを逆上させます。その後は先生の知っての通りですが、彼女は屋上から飛び降りたんです。」

「だから、屋上の鍵を欲しがっていたのか?」

「はい。鍵を手に入れたら、3回目の夢が見られました。でも、彼女は川に飛び込み、結局亡くなります。」

「え、終わり?じゃあ成功せずに当日になったのか?」

「はい。知っての通り現実では成功します。だけど、念には念を入れ過ぎて、とにかく滅茶苦茶でした。夢では直前に鍵を掛けたのに、当日は朝一番に鍵を掛けました。良かれと思ってしたのに、誰かに鍵を開けられてしまって」

「鍵を開けられた?」

「はい。」

『さっき鍵が掛かっているから開けてくれって生徒会の子に言われて。』

 野上だ。職員室で野上に屋上が閉まっていることを指摘され、深山が閉めたことを悟った。だから俺は奴を探し、後を付けたんだった。恐らく野上はあの後、開けに行ったのだろう。

 人を守るための行動は何も知らない大人に台無しにされていた。

「屋上が施錠されていないことを直前に知りました。急いで鍵を掛けに行ったら、彼女がすぐ後ろまで来ていて、ドアを押さえることしか出来ませんでした。」

「だから、あんなに走っていたのか。」

「はい。後を付けていたなら分かりますよね。」

 不意を突かれ、どきっとする。やっぱりこいつは気付いていた。

「僕は屋上で救急車を呼びました。彼女が川に飛び込むと同時に救急車が到着すれば助かるかもしれないと思ったからです。だけど、呼べませんでした。」

「何で?」

 奴は不甲斐ない顔をした。

「僕、高音が聞き聞き取りづらいんです。」

 言われて初めて深山が聴覚障害を持っていることを実感した。

「女性の声だったのでしょう。何も聞き取れず、ただ一方的に川に人が飛び込んだと連呼しました。」

 もしかしたら、あの時来た救急車は俺が呼んだものではなかったのかもしれない。

「伝わったか分からなくて、居ても立っても居られなくなり川へ向かいました。あとは知っての通りです。」

「じゃあ、救急車を呼ぶために道路に飛び出したのか?」

「はい。」

 自分を犠牲にすることに抵抗がないことは、あの日現場にいた俺が一番知っている。だからこそ奴が怖い。

「もしかして、宇ノ沢がいたのも偶然じゃないのか?」

「はい。彼には悪いことをしたと思っています。」

 宇ノ沢颯はあの日以来部活に参加していないと野上から聞いた。

「僕の話は以上です。」

「嘘にしては…よく出来ているな。」

「まだ信じてなかったんですね。」

 奴の嘘はあまりにも辻褄が合っていた。

あの日の奴の行動は、あらかじめ岩崎の自殺を知っていないと説明がつかないことは分かっていて、予知夢を見たと言われてそんな訳ないと拒絶する反面、腑に落ちた自分がいた。

満身創痍な奴の目は、嘘をついているようには見えず、嘘をつくメリットもない。さらには、奴は予知夢が孕む異常性が煩わしいという態度だ。

「嘘じゃないとは…思う。だけど、俺は天気予報も信じられないんだ。」

「可愛いところありますね。」

 深山は笑った。

「そんなに岩崎が好きなのか?」

 教師が生徒にする質問じゃなかったが、子供に弄ばれている気がして対抗してしまった。

「はい。初恋なんで。」

 深山は恥ずかしげなく答えた。聞いたこっちが恥ずかしくなり、また一本取られた。

「そうか。」

「知りたいのはこれだけですか?」

 深山はまだ何か隠しているようだ。

「岩崎の意識は戻るのか?」

「はい。」

 それも夢で見たということだろう。

「俺に担任になって欲しいっていうのも、岩崎の為なんだな。」

「はい。」

「俺は担任になるのか?」

「はい。ありがとうございます。」

 迷いのない答えが俺を追い詰める。

「どうして俺なんだ?」

「彼女の未来には先生が必要なんです。一度自殺未遂をした人はまたするかもしれないでしょ。」

「だったらまた、お前が止めてやればいいじゃないか。」

 饒舌だった深山の口が止まる。

 手遅れだが口に出さない方が良かった気がする。

 自殺を予見できた理由が予知夢だったとしてもそうじゃなかったとしても、奴が間接的にしか岩崎に関わらない理由が分からなかった。

 温度のない奴の表情を見て、野暮な質問だったと後悔する。俺はただの野次馬でしかなかった。

「いないんで、僕。」

 無理やり創り出された笑みにはやはり温度がなかった。

「それは…どういう。」

 深山は口を噤んだ。

「いないってどういう意味だ?」

 答える気はなさそうだ。

「何だよ。教えない気か?」

「…僕を止めないって約束できますか?」

 ここまで来て奴はまた条件を提示してくる。ここは約束をしないでおいた。

「何をする気だ。」

 答えを聞くのが怖い。人の為に自分が死ぬことを厭わない目の前の人間が途端に怖くなった。

「僕は死にます。クリスマスイブに。」

 違う言葉が欲しかった。だが、そんな言葉を聞かされる気がしていた。

「それは…もしかして、見たのか?」

「まぁそんなところです。」

 目の前の傷だらけの少年はもうすぐ消えてしまう。信じられないのに、目頭が熱くなった。

「いつの夢だ。3回だけなんだろ?」

「生涯で言えばもっとです。夢は運命が変わると見られます。」

「いつ運命を変えたんだ。」

 言ってから気付いた。

「見ての通りです。」

 包帯で覆われた体は運命に抗った証だった。

「じゃあ、事故に遭った時、岩崎が助かって自分が死ぬ夢を見たのか?」

「まぁそんなところです。」

 深山は言葉を濁した。俺はまだ奴にとって味方ではないらしい。

「でもお前は助かってる。…ん?クリスマスって言った?」

 頭が爆発しそうだ。

「クリスマスイブに死ぬ夢を見たんです。だから僕は死にます。」

「どうやって死ぬんだ?細かく話せ。」

「嫌です。止められたら困るんで。」

 奴は俺が止めようとすると悟り、ひどく警戒していた。

「助かるかもしれないのに?」

「僕が助かったら彼女が死ぬでしょ。」

「二人とも助かる方法があるかもしれないだろ?」

「ないです。」

 奴は断言した。もう死を覚悟した人間にしか見えなくなった。

「本当にもう一回死のうとしているのか?」

「はい。リベンジです。」

「お前。」

 軽々しく言い放つ奴に苛立ち、勢いよく立ち上がる。座っていたパイプ椅子はバランスを崩して痛々しく床に衝突した。だが、奴がその音に驚く様子はない。聞こえているみたいだが。

「どうして怒ってるんですか?」

「命の重さが分からない子供が嫌いだからだ。」

 深山は「教師みたい」と茶化した。

「僕が生きて何のメリットがありますか?」

「は?」

「僕に生きる意味はありますか?」

 手が出そうになったが、教師という肩書がそれを阻止した。

「僕には自分を好いてくれる人がいません。友達はいないし、家族もクラスメイトも僕を透明人間だと思っています。そんな人間が生きる意味って何ですか?」

 奴の目に生気がない理由はこれか。

「僕はずっと自分を守って生きてきました。裏切られたり傷つくのが嫌で何も聞こえないフリをしました。ひとりは楽だし、それなりに幸せでしたけど、周りのクラスメイトを見ると、虚しさでいっぱいになります。自分は何のために生まれたんだろうって。」

 教室の端でひとり息を潜めている画が想像できた。聴覚障害のせいで限られた嗜好品に奴を魅了するものはなかったようだ。

 俺は床に横たわった椅子を元に戻し、腰を掛けた。

「いいか。何のために生まれたのかっていうのは質問が間違ってる。生きることは手段じゃない。目的だよ。」

 深山は呆然と俺を見つめた。

「いい言葉ですね。手段じゃなくて目的って。」

「だから、死ぬな。」

「それを彼女に言ってあげてください。」

「お前」

「僕は生きることを手段にして、彼女を救うことを目的にしたいです。」

 皮肉にも真っ黒な瞳に光が差し込んだ。

「本当に二人とも助かる方法はないのか?」

 奴は口を噤んだが、何かを決断しゆっくりと口を開けた。

「どっちかなんです。夢の中で僕は透明人間になって葬式の会場にいました。遺影が映し出された遺影は、僕になったり、彼女になったり。僕の葬式には彼女がいるし、彼女の葬式には僕がいます。だからきっと神様がどちらにしようかなってやっているんです。」

 気を許した奴の口調は穏やかだった。だが、内容は絶望しかない。

 俺の脳では二人を助けられない。自分の無力さに嫌気が差す。

俺はまた生徒を見殺しにしなくてはいけないのだろうか。

返す言葉が見つからず、俺は生気のない目を見つめた。奴は本当に死ぬ気だ。

「なんで…なんであの時、直接岩崎を助けなかったんだ?川に飛び込むのを無理やりでも止めればこんなことには。」

「ヒーローになりたい訳じゃないので。」

「じゃあコソコソかっこつける理由はなんだ。岩崎に好かれたい訳じゃないってことか?片思いでいいのか?」

「おじさんは他人の恋愛に口出さないでください。」

 こんな状況でも奴はとぼける。

「なぁ、流石に…岩崎はお前のこと知ってるよな?」

「どうでしょう。」

 岩崎は深山慎樹を知らない。知られなくても助けたい。謙虚すぎるのか、草食すぎるのか、どちらにせよ異常だ。

 だが、それ以上二人の関係を深堀する事はできなかった。

「お前が何と言おうと俺はお前を助けるからな。」

「やめてください。彼女を殺さないでください。」

 俺を人殺しみたいに言って深山を助けることに罪悪感を植え付けようとしているが無駄だ。俺は深山を死なすわけにはいかない。死なせたくない。

 柄にもなく熱くなった自分が恥ずかしくなり、自分の行動を正当化できる理由を探した。

「俺はただ生徒の自殺を止めるだけだ。岩崎を助けるのは医者がする。」

 教師という肩書が初めて役に立った気がずる。

「医学で彼女は救えないです。」

「俺はまだ予知夢を信じてないからな。」

「そうでしたね。それでいいですよ。全部嘘なので。全部僕の作り話。予知夢なんて見られる訳ないでしょ。」

 俺は奴の敵みたいだ。



 気がつけば涙が出ていた。

 彼は私の幻想の中で佳恋から私を守っただけでなく、現実でも私を守っていた。

予知夢が見られた彼は、死ぬはずだった私を助けるために道路に飛び出した。

 嘘みたいな話。

何も飲み込めていない。

信じられるはずない。

 予知夢なんてと冷静な自分は目の前の大人と同じことを思った。

だけど、それは現実だ。

人の心の聲が聴こえてから、常識など崩壊していた。きっと、彼が見えたのも心の聲が聴こえたのも、彼の夢と関係があるのだろう。

「彼は事故に遭ってからずっと昏睡状態だったわけではないんですね。」

「あぁ。家族以外には交通事故が原因で昏睡状態になって昨日亡くなったことになっているが、実際は違う。交通事故は大事に至るほどじゃなかった。」

「じゃあ。」

「深山はお前が目覚める少し前に、病院の屋上から飛び降りた。そこからずっと昏睡状態だった。」

「あの時…。」

 あの時は確か雨が降っていた。

「…いい天気。」

「ん?」

「いや。じゃあ、彼は私を助ける為に自殺をしたと?」

「あぁ。てっきりクリスマスイブにするのかと思っていたから、油断したんだ。」

 彼が眠ると、私が目覚めた。

 彼が眠ったから私は目覚めた。

「お前は疑わないんだな。」

「え?」

「いや、予知夢とか俺は未だに信じられないけど、岩崎は信じてるみたいだから。」

「信じられないですよ。でも、私にも信じられないことが起きていて、だから、信じちゃうというか…信じるしかないというか。」

「そうだな。信じるしかない…俺も一緒だ。」

「先生は、その後のことは何も知らないですか?」

「その後?」

「彼が自殺をした後です。」

「あぁ。岩崎は目が覚めてから今までずっと深山が見えたんだよな?」

「…はい。」

「それも信じるしかなさそうだな。」

「はい。それで彼は何か言ってましたか?」

「いや、何も聞かされてない。」

 先生は一番の問いの解は持っていない。

「じゃあ、やっぱり私が見ていた彼は自分が生み出した虚像というか、幻なんですかね。」

「どうだろうな。」

 あっさりと流された。

 先生はきっと予知夢だとか超常現象に興味があって、私が彼を見ていたこともその類いで、私と彼の関係だとかには興味がないのだろう。

だけど、私は超常現象のほうが興味がない。私が知りたいのは彼の中に彼と私が過ごした日々があったかどうかだ。

「予知夢が見れたなら、彼が自殺した後の事も夢で見ていた可能性ありますよね。」

「あぁ、確かに。自分の葬式の夢を見たって言ってたから、葬式でお前が暴れるのは知っていたかもしれないな。」

 そうだ。彼は自分の葬式、つまり今日の夢を見ている。だったら、何で私が自分の葬式をめちゃくちゃにしたのか知りたいだろう。だけど先生には何も言っていない。ということは、彼は私が葬式で暴れることに疑問を持たなかった。

彼はあの日々を夢で見ていたのだろうか。

真相は分からない。

「じゃあもう、何も分からないままなんですね。」

「いや、まだ手掛かりがある。」

 先生は鞄から一枚の封筒を取り出した。

「それって。」

「遺書ってところかな。だけどこれは俺宛てだよ。」

「読んでもいいですか?」

「あぁ。」

 封筒には宛名も何も書かれていなかった。中には便箋が一枚入っている。

『新井先生へ

 死んですみません。

 自分の選択を後悔してないですけど、死ぬなって言われた時は嬉しかったです。

 先生は僕が初めて好きになった大人です。本当ですよ。

煙草はやめて、目の前の生徒を助けてあげてください。お願いします。

 あと、先生に彼女への遺書を渡そうと思って、途中でやめました。絶対見られるので。生徒の色恋に首を突っ込まないでください。 深山』

 遺書と言うには短い文章だった。

「これって、私への手紙もあるってことですか?」

「あぁ。恐らく。」

「どこに?」

「深山は事故に遭ってからずっと病院にいた。となれば、」

「病院ですか?」

「いや、あいつの荷物はもうないし、誰にも見られなくないものを自分の荷物の中には残さないだろう。」

「じゃあどこに?」

「俺だったら、お前への手紙なんだからお前に渡すよ。同じ病院にいた訳だし。」

「じゃあ、私はもう受け取ってる?」

「入院してた時の荷物は家だよな?」

「はい。」

「じゃあ。行こうか。」

 先生はサイドブレーキを降ろした。

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