第4話
部活を終えて帰路につき、駅のホームでいつも通り電車を待っていると、紺色のセーラー服を着る学生が目に入った。南陽高校の制服だ。
『明戸さんも今、南陽だよ。』
彼女は今、どう過ごしているのだろうか。私が自殺未遂をして彼女は変わったのだろうか。そんなことを考えた。
私はずっと自分の死に意味があったのか問い続けている。美月と仲直り出来たり、宇ノ沢の本当の姿を知ることが出来て、意味があったのかもしれないと思った。けれど、ずっと引っかかっている。初めから分かっていた。杏奈が変わっていなければ、私の死は無駄死にだと。
19時21分。ラッシュは過ぎたものの、この時間は学生よりもサラリーマンが多く、車内は満員だった。
「次は…駅。右側のドアが開きます。ご注意ください。」
降りる駅まであと3駅。私は降りる人を避けて左側のドアの前まで来た。ガラス越しに、電車が去って閑散としたホームが見える。
「えっ。」
ホームのベンチに知っている顔があった。杏奈だ。
(何で。)
見慣れないセーラー服を着ているが、紛れもなく杏奈だった。
(本当にいるんだ。)
杏奈の家は私の家と近く、南陽高校も徒歩圏内にあった。生活圏が同じ彼女とばったり会うなんてことは何も不思議ではない。しかし、違和感があった。
(何でホームにいるの?)
彼女は通学で電車を使う必要はないはずだ。
「ドアが閉まります。ご注意ください。」
階段を下った先に、杏奈がいた。ベンチに腰かけて、まっすぐ前を見ている。さっきまで閑散としていたはずの3番線のホームは、私が着いた頃にはまばらだが人出があった。私は気付かれないように、階段を降りてすぐところで電車を待つふりをする。杏奈の背中を遠くから眺めた。
「電車が来ます。危ないですから黄色い線の…」
そんなアナウンスが流れた時、杏奈は持っていたスクールバッグを隣の席に置き、立ち上がった。手には何も持たず、重い脚を交互に動かし、黄色い線に近づく。嫌な予感がした。電車が来ているのを確認する為か、杏奈は一度私の方に顔を向けた。
(今か。)
私は走った。杏奈をめがけて走った。
「危ない!」
男の人の叫び声は、ものすごい勢いで通過した電車にかき消された。
「キャー!」
どこかから悲鳴が聞こえる。線路に飛び込もうとした杏奈を私は抱き寄せた。しかし彼女の体重に私の腕力は叶わなかった。
「痛ったぁ。大丈夫ですか?」
(死ぬかと思った。)
地面に尻餅をついた私の近くで、サラリーマンが私と同じ体勢になっている。
「杏奈は?」
私の足元で倒れている人がいた。彼女は顔をあげ私を見るなり、眼を剝きだした。
(何であんたが?何でいるの?)
杏奈は口をパクパクさせている。
「駅員呼んだ方がいいんじゃない?」
「やば、飛び込みじゃん。」
「ちょ、お前写真撮るなって。」
気がつくと大勢の人が私たちを取り囲んでいた。
「あの、ありがとうございました。それと、すみません。」
「いや、無事でよかったです。よく引き止めましたね。」
(制服違うけど友達なのかな?)
「そちらこそ。あの…本当にありがとうございます。本当に。」
遠くで駅員らしき人が階段を急ぎ足で降りてくる。
「行くよ。早く。」
杏奈の腕と鞄を二つ持ってその場から逃げた。周りが私たちが逃げようとしていると気づく前に人混みから脱出することに成功した。
「待ちなさい!」
遠くから声が聞こえる。私たちは全速力でホームを走り、駅員が来たのとは反対の階段を上り改札に向かった。
「定期は?」
そう杏奈に聞いて思い出した。彼女のスクールバッグにはお揃いで買ったクマのマスコットが付いている。リールを伸ばし、改札機にあてると奇跡的に残高があった。
真っ暗なはずの夜の街は、明るかった。駅前は居酒屋やチェーンの飲食店が立ち並び、制服姿の私たちは浮いて見えた。
人混みを避け、喧騒の死角にある緑地に向かうと、暗闇の中にポツンと立つ街灯が隣にあるベンチを照らしていた。私は魂を抜かれたように足だけを動かす彼女を二人掛けのベンチに座らせ、重い鞄を隣に置いた。犯罪をした訳じゃないのだからもう誰も追ってこないだろう。街灯の明かりで最低限の視界を確保すると、息が上がっている杏奈が泣いていることに気が付いた。
「あ、ちょっと待ってて。」
50メートル程先に、自動販売機を見つけ、私は小走りでスポーツドリンクを二本買った。
「はい、これ。」
杏奈は受け取ろうとしないので、無理やり太腿の上に置く。私はもう一本のペットボトルを開け、スポーツドリンクを口に流し込んだ。乾いた喉が一気に潤うと、微かな塩分が張り付く。
「何で。」
杏奈は俯いたまま口を開いた。暗さもあり、聲を聴くことは出来そうにない。立ちっぱなしで疲れた私は、かばんを杏奈に押し付けて無理やり座った。そんなこと、今まで一度もしたことがない。
「何が?」
「何で生きてるの?」
震えた声には恐怖と怒りが込められていた。
「たまたまかな。不死身らしい。」
杏奈は呆れた様に「意味わかんない」と呟いた。
「恨んでるんじゃないの?何で助けるわけ?」
「恨んでるよ。殺されたんだから。」
「じゃあ何で。」
自殺に追い込んだ人間が苦しんでいるか確かめたかった。死んだら確かめられない。
「死んで償えると思うな。加害者がいなくなったら、被害者は被害者じゃなくなる。傷ついたまま、被害者にもなれない。」
私も加害者だ。加害者なのに逃げようとした。杏奈に向けて発した言葉は昔の自分への言葉でもあった。
「杏奈が死んだら、私は一生十字架を背負って生きなきゃいけない。そんなのごめんだわ。」
私は自分の為に杏奈を助けた。
「何で死のうとしたの?罪悪感?」
「罪悪感?あぁ…あれね。」
杏奈は覚えたての言葉を復唱した。
「そう、だね。罪悪感もあるかもしれない。償おうって言って死んでいった怜を見て、それだけの事なんだって知って、後悔した。それが罪悪感?」
杏奈は顔を上げて助けを乞うように私を見つめた。街灯の明かりで薄っすら彼女の表情を捉えることができた。魂が抜かれた様に生気がなく、涙と鼻水が混ざったみっともない顔。彼女はもう限界だった。
(私、人間じゃないんだよ。一番じゃないと気が済まない。口を開けば誰かの悪口。ずっとイライラして、誰かが苦しむとそれが和らぐ。)
杏奈は誰かを攻撃する時と同じように、自分を蔑んだ。
「分からないの。ね、生きる価値ないでしょ?」
(怜がいないところで、勝手に死ぬよ。)
いつも強気な杏奈が弱く小さく見えた。
「うん。生きる価値ないね。みんなを苦しめたんだから。」
私は彼女をわざと傷つけた。変わり果てた杏奈をみて、私の死は無駄死にではなかったと思った。けれど、どうしてだろう。虚しさが消えない。杏奈が何も変わっていなくて、何事もなかったかのようにのうのうと生きていたらどうだろうか。一生彼女を恨んで、自分の無力さに落胆して、そうしたら…気持ちが晴れる?
(そんな訳ない。)
杏奈がどう生きようが、死んでいようが彼女に自殺に追い込まれた事実は変わらない。私の苦しみが消えることはない。杏奈は私の人生をめちゃくちゃにした。
「杏奈はどうしてあんなことしたの?」
「…覚えてない。」
(昔は自分がおかしいって分かってはいた。だけど、蓋をして分からないようにしたら本当に分からなくなった。)
そうだった。杏奈は最初からこうではない。みんなと仲が良い人気者が暴君になったのは、彼女の意志ではなかったのかもしれない。だけど、だとしても、杏奈を許すことはできない。
「人をいじめるの楽しかった?」
(楽しい…?人が苦しむのを見たらイライラは収まるけど、楽しくはない。)
彼女は何も言わなかった。
「あの時、何で笑ったの?」
(あの時?)
杏奈の脳内に橋の手摺りの上で倒れる私の姿が浮かぶ。
(私、笑ってたんだ。)
その聲で、全てを悟った。杏奈はみんなに操られていた。あのクラスにいい人はいない。みんな誰かに不満を持って生きている。だけど、その不満は自分が悪者になりたくないという思いから行き場を失い、次第に杏奈の元に集まってしまった。そこには無自覚に、杏奈ならこの不満を解消してくれるかもしれないという期待もあったはずだ。杏奈は誰かを攻撃することが誰かを助けることだと思い込み、一種の正義感で動いていたかもしれない。しかし、四方八方から集まった負の感情は次第に誰が誰に抱いたものか分からなくなり、杏奈が自分から生み出したものに見えた。彼女自身さえも自分の感情か誰かの感情か区別がつかなくなったのだろう。
「…ごめん。」
ふと、謝罪の言葉が出た。あの時と一緒だ。あの時も、この怪物をつくったのは自分だとそう思った。
「何で謝るの?」
(許せない相手に何で謝るわけ?)
自分でも分からなかった。私は杏奈を許せない。杏奈がどう生きようが、死んでいようが彼女に自殺に追い込まれた事実は変わらないから。橋から落ちる私の目に入った彼女の笑顔を変えることは出来ないから。だけど、だけど、その笑顔が彼女の素顔でないとしたら?理由があったとしたら?悲しい笑顔だったとしたら?
やっと分かった。被害者に必要なのは、加害者の死ではない。それは謝罪であり、反省であり、真実だった。それらは、苦しみを消すことは出来ないけれど、苦しみを和らげることは出来る。
「許せないけど、杏奈が可哀想だから。」
(可哀想か。一番言われたくなかった。)
私が死んだ原因は、杏奈がいじめっ子になった原因は、きっと社会にあるのだろう。だけど、社会は責任を取ってくれない。無責任な人間の集合体だから。
(誰か、責任取ってよ。昔の杏奈を返して。)
私もまた、無責任な生き物だ。
「もう戻れないの?昔みたいに。」
出会った頃の、一人ぼっちの私を救ったヒーローに戻って欲しかった。
「無理だよ。変われない。あっち側に行くくらいなら死んだ方がまし。」
時を得て客観的な視点を持ち合わせ、自分の罪を頭では理解していても、杏奈は怪物のままだ。
「だから、助けないでよ。助ける義理なんてないでしょ?」
(もう死にたい。)
私には「生きたい」と聞こえた。
「死にたいなら死ねばいい。だけど、私は死にたくなかったよ。死にたくなかったけど、死んだ。」
(私のせいだ。)
「死んだら、今まで聞こえなかった声が聞こえた。聞きたくなかったものの方が多いけど、聞き逃していた声が聞けた。捨てられたと思っていた人は不器用なだけだったし、友達になりたいと心から思ってくれる人もいた。醜さを隠している人の本当の美しさも知れた。」
過去がフラッシュバックする。
「私、死んだ意味があったのかずっと探してた。ここ何日も、色んな人が自分の為に泣いてくれて、きっと本当に死んでいたら、私の葬式は自分が思っている以上に沢山の人が泣いてくれたかもしれないって嬉しくもなった。」
(怜はいいね。)
「だけど、本当に死んでいたら、自分の葬式なんて観られない。」
目が覚めてから1か月半、私が見ていた世界は本来観られなかったはずだった。その世界で、生きる意味を探すために死んだ意味を探して、それらしいものが見つかった。けれど、そんなものはただの虚像だ。
「死んだ意味なんてなかった。」
私の死は無意味だった。私には生きる意味も死ぬ意味も何もない。あの日、私が出した勇気さえも自分にとって何の意味も持たなかった。無力でちっぽけで、誰かの景色でしかないことを自覚し、途端に虚しくなる。
そんなことを思った時、いつかの校舎の屋上を思い出した。
「意味ねぇ。みんなすぐ意味を求めたがるよね。生きる意味とか死ぬ意味とか。そんなに意味がないと生きちゃだめなのかな。」
「あんたは考えたことないの?自分が生きる意味。」
「考えたこともあるけど、僕にとって生きることは手段じゃなくて目的だから。」
(意味がなくても生きていいんだ。)
負の感情の新芽が根からもぎ取られていく。
「杏奈は本当に死にたいの?」
「うん。死にたいよ。」
考える素振りもなく即答だった。自分に言い聞かせているように。
「怜と違って私の葬式は誰も泣かない。むしろ私が生きている方が泣くんじゃない。」
杏奈の周りには沢山人がいたのに、いつも孤独だった。私もかつてはそうだった。杏奈が隣にいたのに孤独だった。だけど、再スタートした人生では大切な人ができた。お母さんも、美月も、颯も、彼も、もっと早く本音で話していたら、私が自殺することはなかったかもしれないと思う程の存在になった。けれど、今私が生きているのは彼らの為だけじゃない。
「色んな人の心の声を聞いて分かったことがある。私が一番聞きたかったのは、自分の声だってこと。自分のことなんて興味なかったから将来の夢もないし、今まで自分のために生きられなかった。でも、誰かの本音を聞いたら自分も本音が言えて、自分の声が聞こえた。」
気がつけば、私は私の為に生きていた。彼が生きることを手段ではなく、目的だと言ったことがようやく分かった気がする。目的にすれば、自分の為に生きられる。
「だから杏奈も自分の為に生きてよ。」
「自分の為に生きた結果だよ。」
「違う。杏奈は自分の為に生きてない。」
杏奈の目から大粒の涙が零れた。生まれたての赤ちゃんみたいに声をあげて泣いた。恥ずかしくなったのか蹲って顔を隠すと、ベンチの上で体育座りをして、声を自分の中に閉じ込めた。叫びのような、悲鳴のような声は彼女の中で反芻する。
話し相手がいなくなり、私は空を見上げた。夜空には欠けた月が浮かんでいる。
(ありがとう。)
ここにはいない誰かへ感謝をした。
「何で励ましてんの?」
まだ啜り泣きをしていた杏奈がそう呟く。彼女なりに思考を整理する中でそんな疑問が出てきたのだろう。
「確かにね。不本意だわ。」
どんなに無責任な社会が悪くても、自分の行動は自分で責任を取らなきゃいけないし、それに私はもう無責任になりたくなかった。だから、社会の一部になって作り上げた杏奈の中の怪物を私もやっつけないといけない。
「杏奈が後悔している事って何?今、苦しんでいるものだよ。あぁ、私を自殺させたことなら、奇跡的な生命力のお陰で苦しくなくなったでしょ。」
杏奈が顔を上げる。
「そんなの、山ほどあるよ。」
(佳恋のこととか。)
倉科佳恋。彼女の名前を久しぶりに聞いた。
「手伝うよ。一緒に謝ろう。」
(佳恋に謝れば、生きられるのかな。)
杏奈は捨てられた子犬のように小さかった。
「もう帰ろ。言いたい事言えたし、もう9時過ぎてる。」
私は腰を上げてリュックを背負うが、杏奈が立ち上がる気配はない。
「ほら、帰ろ。何してんの?」
横を見ると、杏奈はベンチの上で正座をしていた。そして頭を座面に付けた。
「ごめんなさい。」
そうだ。まだ謝ってもらってなかった。
土下座をする杏奈の左腕から白い何かが覗く。セーラー服の下からはみ出たのは包帯だった。
「分かったから、早く帰ろ。」
家に着いたのは10時前だったけれど、お母さんはまだ帰っていなかった。連絡もせず夜遅くに帰ったことは何度もあったが、お母さんが知る由もなく、怒られることもなかった。昔は怒られないことに傷ついたけれど、今は冷蔵庫にある自分の晩御飯に感謝することができた。
(成長したんだなぁ。)
今日の自分は今までで一番好きかもしれない。
「佳恋覚えてる?」
ホットドックのソーセージが噛み切れなくて戸惑っている彼に、昨日の出来事を全部話した。彼は諦めてソーセージを全部頬張る。
「うん、あぁ覚えへぇるよ。」
今日は冬になりつつあっても今日は天気がいいし、温かい。
「小学校一緒でしょ?」
「うん。よく知ってるね。」
「なら家分かる?」
彼は詰まりかけて咽た。
「分からないけど、同じ校区だから近いとは思う。え、行くの?」
(なんだ知らないんだ。)
「だってアカウント消えてるし、連絡手段ないから。」
「だとしても、いきなり会って話せるの?」
(無理かも。)
「でも…話すしかないじゃん。」
「もしかして、明戸さんも連れて行く気?」
「うん。そのつもり。」
「だとしたらもうちょっと待ったら?君には武器があるけど、明戸さんは手ぶらでしょ?」
(君が進もうとするのはいいことだけど、それを誰かに強いるのは違うと思うよ。)
(分かってるよ。だけど、)
「じゃあいつまで待てばいいの?」
「そんな小学生みたいなこと言わないで。」
(何をそんなに生き急いでるの?)
「早く自由になりたいし、一回でも逃げたら、二度と立ち向かえないから。」
(自分の弱さは自分が良く分かってる。)
「そっか。なら止めないよ。」
私はただならぬ使命感に駆られていた。
午前練が終わってから、私はいつもとは反対方向の電車に乗って彼の家の最寄り駅に着いた。小さな駅で改札はひとつしかなく、出てすぐの所にあるドーナツ屋で張り込むことにした。ドーナツ2つとサイドメニューの具なしラーメンを頼んで、改札が見やすい窓際のカウンター席に座る。
(会えるかな。)
佳恋とは一年以上会っていない。喧騒もガラス越しじゃ聞こえない。けれど私の耳には嫌という程、聲が聴こえた。佳恋からはどんな聲が聴こえるだろうか。あの頃の彼女は何を思っていたのだろうか。視界で彼女を探しつつも、意識は過去にタイムスリップしていく。
佳恋は高校からこの学校に入学した。クラスメイトの半数が外部受験で入って来たから、彼女が特別目立っていた訳ではない。けれど三年間で作られたクラスの輪の中に入るにはそれなりの審査があって、そのリーダーはもちろん杏奈だった。そして佳恋は審査に引っかかった。
「見てこれ、佳恋だって。別人じゃん。」
休み時間に杏奈が見せたスマホの中には太っている女子小学生がいた。卒業アルバムの個人写真の下には『倉科佳恋』とある。佳恋は中学生まで太っていたがダイエットに成功し、別人になった。そんな彼女を面白く思ったのか、同じ小学校だった女子が杏奈に情報提供した。いとも簡単に過去を白日の下に晒された訳だけど、彼女は平然としていた。
「気にしていない」とそう思わせたかったのかもしれない。「言わないで」って人に媚びを売りたくなかったのかもしれない。とにかく彼女は平然を装っていた。しかしその態度が悪い方向に進んでしまった。恥ずかしい過去をバラしてもダメージを喰らわないのなら、何を言っても傷つかないとそう周りの思考がエスカレートしてしまった。
誰かが彼女を臭いと言った。誰かが彼女がおじさんと付き合っていると言った。誰かが彼女が万引きをしたと言った。そんな虚言のせいで彼女はクラスで孤立し、ばい菌扱いされるようになった。
私も話したことのない彼女を避けた。悪口を言って笑う杏奈と一緒になって笑った。高校生最初の夏休みが終わっても彼女が学校に来ることはなかった。そしてその時ようやく気付いた。彼女も人間なんだと。だけど、気付いただけだった。
「汁そばなのに、汁がなかったらそばじゃん。」
後から聞こえてきた声は馴染みのあるものだった。彼が両手で持つトレーにはドーナツが3つ並んでいる。
「何でいるの?」
言葉とは裏腹に、どこかで彼に会える気がしていたせいか驚かなかった。
「よく食べるね。」
人混みを凝視していたせいで、いつの間にか運ばれていたお昼ご飯に気が付かなかった。ラーメンはメニューに載っていた写真の3倍はある。
「何で制服なの?」
私のトレーの隣に彼のトレーが並ぶ。解放された手でリュックを椅子の背に掛けると、重みで後ろに倒れそうになった。咄嗟に椅子を押さえると慎重に椅子にお尻を乗せる。温泉に浸かったみたいな安堵の表情を浮かべる彼は、私の問いに「僕だって色々あるんだよ。」とはぐらかした。
「で、見つかった?」
大きな口でドーナツにかぶりついたかと思えば、聞かなくても分かる問いをぶつけてくる。食べながら喋ったせいで粉砂糖が舞っている。
「見つかってたらここにいないよ。」
私は伸びきった麺をすすった。
「明戸さんは?一人で会うの?」
「返信なくて。」
本当は杏奈も誘っていた。あの日から頻繁に連絡を取っていた。佳恋に謝りたいとも言っていた。けれど、昨日の夜から返信が途絶えた。
「逃げただけかもしれないし、それか、また死のうとしてるのかも。」
彼は興味がなさそうに「ふーん」と相槌を打つ。
「もし死んでたら、私がしたことって杏奈を苦しめただけなのかな。」
「ネガティブだなぁ。延命だよ。明戸さんは君のお陰で何食かおいしいご飯が食べられたってこと。」
彼は2つ目のドーナツに手を伸ばす。ポロポロと黄色のチョコレートのコーティングが剥がれトレーに散らばっていく。
「でも、逃げたって考える方が君にとっては辛いかもね。」
「どうだろう。自分が逃げるより誰かに逃げられる方がましな気がする。」
自分も佳恋をいじめていたことを自覚しても、逃げて忘れようとした。佳恋だけじゃない。自分の番が回ってこないように何度も誰かを仲間外れにしては、その責任から逃げた。沢山逃げたから逃げることの苦しさが痛いほどわかる。
「じゃあ倉科さんに会いに行こうか。」
「は?」
彼はスマホの画面を私に見せた。SNSのアカウントの画面には『KAREN』とある。
「え、知ってたの?何で教えてくれないの。」
彼に腹が立つ。2時間を無駄にした。
「今どき人を探すならネットでしょ。すぐに出てきたよ。君ってアナログなところあるよね。」
彼は呆れながらスマホをタッチし、私に佳恋のアカウントのリンクを送って来た。
「僕は見つけただけ。会いたいなら君から連絡しなよ。」
彼はあくまでも私に選択を委ねる。そうだ。彼はいつだって強制しない。2時間の苦労が無駄だったといっても、すぐに連絡をとることは出来なかった。いざとなると心の準備が必要で、いつでも連絡できるという便利さは私に逃げる口実を与える。これだからネットはと思うところ、私は彼の言う通りアナログ人間なのだろう。
「もう帰るね。」
「待って。今日絶対に会うから。」
怠惰な人間は制限がないと動けない。アカウントページのメッセージボタンを押す。
『久しぶり。岩崎怜です。突然なんだけど、会えませんか?』
「唐突すぎるかな?」
「いいんじゃない。だけど君のニュース知ってたら心霊現象かと思うかも。」
彼はまだギリギリふざけていた。追加で飲み物を注文しても、佳恋から返信がくるどころか既読にもならなかった。
「あ、これ見て。」
鍵が掛かっていて佳恋の投稿は見られなかったから、二人がかりで彼女のフォロワーの投稿から情報取集をした。彼が見せてきた動画にはレンタルビデオショップで棚にDVDを陳列している佳恋が写っていた。エプロンをしているからバイトしているのだろう。撮影者は棚の隙間から佳恋を盗撮しているようだ。低い笑い声が入っていて、『倉科いたw』の文字が表示されている。
「どこか分かる?」
「ここら辺には一か所しかないね。」
(行くんでしょ?)
(うん。)
この時期の16時の空はオレンジ色に染まる準備をしていた。何色も混ざり合っているのに灰色にならない。レンタルビデオ店に入った私たちは、二手に分かれて佳恋を探した。等間隔に配置された棚は無限に連なって見え、迷路のようだ。
(こっち。)
入ってすぐに、彼はそう言ってきた。
(見つけたの?)
(うん。)
いとも簡単に見つけてしまった。彼に近づくと中腰になって棚の隙間から遠くを覗いていた。ストーカーみたいな姿を俯瞰で見て嫌になる。
「どこ?」
「ほら、あそこ。」
覗くことに集中して自分がどんな体勢でいるか理解していない彼は私が引いていることには気付いていない。躊躇しつつも私も覗いた。
佳恋は動画で見た時と同じようにせっせとDVDを並べていた。まだ一年しか経っていないのに、別人に見えた。当時の彼女は美月に似ていた。強がりで自分を持っている様に見えた。けれど、今の彼女に当時の面影はなく、目に光がない。
(あーだる。帰りたい。何なんだよあのエロじじい。きっしょ。)
彼女の心は荒れていた。
「今日は止めたら?」
「…いや、行くよ。」
彼は覗くのを止めて背筋を正した。
「僕もいた方がいい?」
私も彼に倣って背筋を正す。
「いや、一人で行ける。」
(もう子供じゃないから。)
(そっか。じゃあ僕は漫画でも読んでるね。)
彼は心配する様子もなく立ち去った。残された私はゆっくりと佳恋に近づいた。彼女は大きなカートを押している。
「すみませ…。」
(え?…怜?)
左右が棚で塞がれた狭い空間に飛び込み、カートの行く手を阻んだ。自分が進むために。
「何でいるの?」
(死んだんじゃなかったの?)
佳恋は私の自殺を知っていた。
「佳恋に会いたくて。」
(何それ。ムカつく。)
「今さら何?」
「ごめんなさい。」
私は頭を下げた。佳恋の聲は聴こえない。
「ずっと謝りたかった。佳恋をいじめたこと後悔してる。」
佳恋は何も言わなかった。恐る恐る顔を上げる。
(謝って済むこと?何自分だけスッキリしようとしてんの?謝られたところで私は何も変わらない。人生狂ったまま。どういう神経してんだよ。お前も苦しめよ。一生苦しめよ。)
「…ごめん。」
彼女の聲に圧倒され、そんな言葉しか出てこなかった。
(この偽善者が。杏奈よりお前の方がタチ悪かったわ。自分も被害者です、仕方ないんですみたいな顔しやがって。)
心臓の鼓動が早くなる。私がしていたことは偽善だった。昔も今も変わってない。
どうして無神経に会ってしまったんだろう。一度でも佳恋の気持ちを考えただろうか。いや、私は自分の事しか考えていなかった。消したい記憶、忘れたい過去、他人がゆっくりと時間をかけて消化していったそれを私は勝手に蒸し返してしまった。
『君が進もうとするのはいいことだけど、それを誰かに強いるのは違うと思うよ。』
彼は忠告してくれたのに、無視をした。
「…ごめん。」
最低だ。発すれば発するほど追い詰められるのに謝罪が零れる。
(人に謝る自分に酔ってんの?あーあれか、自殺したけど助かったから人生やり直そうみたいなやつか。通りで清々しい顔してる訳だ。)
「別にいいよ。気にしてないから。」
(もう関わんなよ。)
嘘だった。彼女は本音を言わずに私を遠ざけた。本当の事を言って欲しい。本気で怒りをぶつけて欲しい。けれど、それも私のエゴだ。自分が許されたいからだ。
過去の苦しみを取り除くためには過去と向き合うしかないと思っていた。だけど実際それができるのは強い人だけだ。私だってこんな能力持ってなかったら向き合えない。分かっていたはずなのに、いつの間にか忘れていた。私がしていることはブランド品を見せびらかす大人と一緒だ。これ以上いたらまた彼女を苦しめる。何を言っても偽善になる。もう、だめだ。
「すいませんでした。」
私は走って逃げた。お店から出て大通りを走った。無心で走った。涙が風で流れていく。
「ちょっと待って。」
後ろから声が聞こえてやっと我に返った。足を止めて振り返ると彼がいた。
「置いて行かないで。」
私も彼も呼吸が荒い。
「どうしよう。」
(最低だよ。)
(大丈夫だから。)
自己嫌悪の言葉が脳を支配する。
「こっち。ちょっと歩こう。」
彼は私の手を取った。大通りから一本外れると住宅街が広がっていた。私たちは無言で歩き続ける。私の右手は彼の冷たい左手の中にあるけれど、握り返さなかった。
「あんたの言う通りだった。いい気になってた。」
彼は全部聴いていた気がした。
「みんな、弱いだけなんだよ。周りが弱いから君が強く見える。」
弱いのに、強くなった気になって、気付いたら強さをひけらかしていた。愚かだ。
「偽善者って悪者より悪いんだね。」
「そんなことないよ。偽りだろうが…善は善だよ。」
彼の歩くスピードが段々速くなっていく。
「ねぇ…これどこに向かってるの?」
彼は答えない。だけど、その足取りは目的地があるように迷いがない。
「ここ左。」
さっきとは別の大通りに出た。左折する彼に連れられ歩道を歩く。道幅が広く、整備された並木通り。地面には落ち葉が広がっているが、今朝雨が降ったせいか濡れていて風情に欠ける。
「ここだよ。」
彼は横断歩道の前で足を止めた。
「渡るの?」
信号は赤だった。
「違うよ。ここだよ。」
彼は握っていた手を放した。右手が行き場を失う。
「ここが何?」
(覚えてないの?)
ここに来た記憶はない。
「来たことあるっけ?」
思えば彼とは学校と病院以外で会ったことはないはずだ。一体何のことをいっているのだろうか。
「小学一年生。」
その単語を聞いて、思い出すのはただ一つ。
「君のお父さんが亡くなった場所。」
そうだ。確かこんな場所だった。綺麗に舗装されているせいで分からなかった。けれど…
「何でそれ、知ってるの?」
言いながら、ひとつの可能性が浮かび上がった。
(もしかして、あんたが?)
彼はいつも通りの無表情のまま、まっすぐ私を見つめた。
「うん。僕だよ。君のお父さんは僕のせいで死んだ。」
頭から言葉が消えた。
驚いているはずなのに、やっぱりそうかと納得している自分がいる。
別に、彼がお父さんが助けた人かもしれないと思っていた訳ではない。けれど、何故だろう。初めて彼と話した時、初めてだとは思えなかった。超能力のせいだと思っていたけれど、ずっと昔に会っていたと言われ腑に落ちた。
「そっか。」
「驚かないの?」
「驚いてるよ。」
「その割には取り乱さないね。」
(初めて心の聲を聴いた時も君は驚かなかった。)
(信じ切れていないからね。)
(まだ信じてなかったんだ。)
「僕が憎い?」
「どうして?」
「君のお父さんは僕のせいで死んだから。」
彼はもう一度同じ言葉を口にした。言葉には感情がなく、自分が悪者になるような言い方だ。
「違うよ。お父さんはあんたの為に死んだんだよ。」
「同じことだよ。」
「違うよ。」
彼はどうしても自分を悪くしたいらしい。
「どうしてそこまで言い切るの?僕に優しくされたから?僕が君の味方だから?」
彼は急に高圧的な態度をとる。
「ちが…。」
(わないか。)
「全部計算だよ。僕は君に許されたくて、君に近づいて味方になった。」
(傷付いた?)
(うん。)
全部仕組まれていて、計算だった。彼が私の味方だったのは後ろめたさがあったからだ。
「倉科さんが君を許さないなら、君も僕を許しちゃだめだよ。」
「何で。」
「僕も偽善者だから。」
彼は横断歩道のボタンを押した。
彼は私に嫌われようとしている。許してはいけないと壁をつくり、私を遠ざけた。対等であったはずの関係は彼が自分を卑下したことで崩れた。
もう前には戻れない。前みたいに優しい言葉を貰っても、余計な感情が不随してくる。
横断歩道の信号が青になった。
彼は何も言わず、横断歩道を渡った。
帰りの電車の中で忘れていた昔の記憶を思い出した。
あの日はお父さんの誕生日だった。それなのにお父さんの急な仕事のせいで楽しみにしていた外出が中止になり、母と私は家にいた。二人きりの空間に慣れていなかった私は自分の部屋にいたところ、急に母がドアを開け、深刻な表情で「お父さんが事故に遭った。」と言い放った。その時は、まだ二人とも現実を理解出来ていなかったが、タクシーで病院に向かう道中で徐々に冷静さを取り戻した。事故に遭った。死ぬかもしれないと。けれど冷静になってもまだ、本当に死ぬとは思っていなかった。お父さんがいない世界が想像できなかった。
手術室の前にあったベンチに腰かけて、魂が抜かれた様に俯いたままの母の隣で大人しく出来たのは三十分が限界で、院内を探検していると、廊下の窓越しに拓けた中庭を見つけた。大きな花壇には雨が勢いよく降り注ぎ、耐えきれなかったのか至る所に花びらが散らばっていた。
「いい天気。」
お父さんはよく「雨が降るお陰で地球は上手く回っているのだからいい天気なんだよ」と言っていた。
「え、雨だけど。」
気が付くと近くに同い年くらいの男の子がいた。父を想って発した言葉が思わぬところに届いてしまった。
「雨だからだよ。」
彼は分かったようでわかっていない顔をした。
「怜ちゃん?お母さん探してたよ。」
その後、看護師に連れられた部屋には、動かなくなったお父さんがいた。道路に飛び出した男の子を助けようとしてお父さんは轢かれたらしい。
(会ってたんだ。)
思い出さないように閉じていた記憶も、開けてしまえば鮮明に蘇った。彼は大きな十字架を背負い、罪滅ぼしのつもりで私といたのだろう。だけど、彼を頼り切っている私に別の罪悪感を抱き、私が彼に好意を抱く前に断ち切ろうとしたのかもしれない。
朝から雨が降っていた。ビニール傘を差し、駅から学校までは歩いて向かう。
「あっ。」
ふと、視界に彼の姿が入った。車道を挟んで反対側の歩道をとぼとぼ歩いている。私は彼の歩くスピードに合わせて歩いた。そして横断歩道で彼を待ち伏せる。
信号に従って止まった彼は対岸にいる私に気が付いた。
(何?もう会わないと思ってたよ。)
(何で遠ざけるの?)
(僕はただ君の近くにいるべき人間じゃないから。)
(私の意志は関係ないの?)
(うん。君の意志は僕が操ったものだから。)
(それでもいいって私が思っていても?)
(うん。)
突き放された。もう会わないと言われている様だった。
(もうお別れなの?)
(僕たち付き合ってるんだっけ?)
(違うけど。)
そうだ。彼は友達でも恋人でもない。
(私が良くても、あんたは一緒にいてくれないんだね。)
(うん。)
(私といて、あんたは楽しかった?)
(ううん。苦しかったよ。)
大型トラックが私たちを遮る。
私はずっと彼を苦しめ続けていた。私が感じた幸福は彼にとっては苦痛だったのだろう。
彼は罪悪感を堪えながら優しい言葉を吐き続けた。
(そっか。じゃあ自由になっていいよ。)
トラックが通過し、再び現れた彼にそう言葉を送って学校へ向かった。
授業中も、休み時間も、昼休みも、彼の聲は聴けなかった。要らない雑音だけが耳に入る。
「今日顧問来ないから部活サボろうよ。」
後ろの席からそんな声が飛んでくる。
「あんたは真面目に行かないと。サボるのは私だけいいよ。」
「ずるくね?」
今日は部活に行けるメンタルじゃない。気分でサボるほど生半可な気持ちのマネージャーは未だにみんなから嫌われている。
その日から彼は一度も声を発することも目を合わせることもなかった。
「最近元気ないよね?」
教室の隅で机をくっつけて美月とお昼ごはんを食べていると、いきなりそんなことを言われた。
「そう?」
(宇ノ沢と何かあったのかな?)
「うん。元々元気ないけど。」
「じゃあいつも通りじゃん。」
「ううん。いつもはもうちょっと元気だよ。食欲もなさそうだし、何かあった?」
未だに美月には彼の事を言っていない。誰にも。
真っ直ぐな美月の目は誤魔化しがきかない。納得できる理由を告げるまで彼女は問い続けるだろう。
「まだ、進路の紙書いてなくて。明日までには出さないと。」
「そっかぁ。もう冬休みだしね。」
もうすぐ冬休みが始まる。長い間彼と会うことがなければこの気持ちも収まるのだろうか。
「とりあえず適当に出しちゃえば?私だってまだ美大って書いてないし。」
「そうなの?」
「うん。親に言ったら反対されちゃって私自身もまだ迷ってる。」
美月は「17年しか生きてないのに決められないよ。」と独り言のように呟いた。
「でもさ、怜が将来のことを考えてるだけで私は嬉しい。」
(よく立ち直ったね。)
「親なの?」
「そうかもしれない。」
美月はクスクスと笑った。
「でも不思議なんだよね。怜は目が覚めてから、人が変わったみたいに強くなってるから、何か変なものでも食べたのかなって。」
(何か隠してるんだろうな。)
小さく切った卵焼きを口に入れようとしたところで箸が止まった。私が変わった理由など一つしかない。
「麻薬ってこと?」
「それだけは止めてね。進路どころじゃなくなるから。」
また、美月はクスクスと笑った。
「まだ食ってんの?早くどいて。」
颯が近づいてきて自分の席に座る美月をどかそうとする。
「出た、颯爽と現れた、水泳界の…何だっけ。」
「ニューヒーロー。」
「それだ。」
美月は颯が中学生の時に記者に付けられたキャッチコピーを口にした。
「やめろよ。恥ずいって。」
「懐かしいね。」
颯は満更でもない。
笑い合う二人を見て、彼がいない世界が現実を帯び始めた。このまま彼と話すことがなければ、ただのクラスメイトになって、卒業して、他人なる。嫌だけど、彼の為に私はこの生活に慣れるしかないのだろう。
先生の声が耳に入ってこない授業中も私は彼のことを考えた。いっそ嫌いになれば、彼のせいでお父さんが死んだと思うことが出来れば、私も気が晴れるのだろうか。もちろんお父さんを亡くしたことは私の人生で一番の悲しみだった。お父さんを轢いた運転手を今でも憎んでいる。
(だからか。)
憎む相手が別にいるから彼を憎めないのだろうか。あの日の、あの場所を想像してみた。
難聴の男の子が横断歩道を渡ろうとしている。そしてそこに猛スピードで車が向かってきた。あの日は雨が降っていたから傘を差していたかもしれない。雨の音。限られた視界。彼は車に気付かない。そこに近くを歩いていたお父さんが彼に気付いた。「危ない!」と叫んでも彼には届かない。いや、叫ぶ余裕もなかったかもしれない。お父さんは車道に飛び込んで彼を突き飛ばした。
突然誰かに突き飛ばされた彼は、目の前の光景を見て絶望しただろう。自分を庇った誰かが血を流して横たわっている。雨のせいで辺りは真っ赤な海となり、罪悪感とともに彼の元まで押し寄せた。
運転手が悪いと、世間も法律もそう言った。自分は悪くない。人は誰だって真っ先に自分を守るから、いくら彼でもそう思ったはずだ。けれど彼は、私と再会してしまった。思い出したくなくても思い出す。常に罪悪感が纏わりつく。そんな日々を何年も過ごしていたら、私が自殺をした。彼とは無関係なところで絶望の窮地に立った私が自殺をした。彼はどう思っただろう。私が消えて、罪悪感も消えただろうか。それとも罪悪感は大きくなっただろうか。どちらにせよ私が生き返ったことで、最終的にそれは肥大した。
彼は奇跡的に生きていた私と偶然病院で会った。奇跡、偶然。本当にそうだろうか。
『全部計算だよ。僕は君に許されたくて、君に近づいて味方になった。』
彼は確かにそう言った。肥大した罪悪感を消すために私に近づいたのだから、あの日病院の屋上で会ったのは偶然ではないかもしれない。
(じゃあ、この超能力は何?)
分かるはずのないものは考えないことにする。先に進もう。
彼は計画通り、私の心の拠り所になった。けれど、私が彼に近づけば近づくほどまた罪悪感が顔を出す。罪悪感を消すために近づいたのにさらなる罪悪感が生まれる。そんな負の連鎖に彼は苦しめられた。だから、この関係を終わらせたのだろう。
彼のこれまでの人生が私の頭の中で再生された。けれどその物語はまだ続いている。
「松下の次、深山…じゃなくて、森川、ここ読んで。」
(私に何ができる?)
彼に近づけば彼が苦しむ。だけど、いなくなったところで彼の苦しみが完全に消える訳じゃない。
(彼が笑うためには…)
笑った彼を思い出す。ふと涙が出そうになった。
(あの笑顔は偽物なの?)
そんなはずないと、自分で答えを出した。罪悪感を覚えるのは優しい証拠だといつか彼が言っていた。だから彼は紛れもなく優しい人間だ。私が自分の過去と向き合えば褒めてくれて、後悔を消せたら一緒になって喜んだ。私が報われれば彼も報われるのだとしても、彼が私の幸せを願い喜んだことは本物だ。
(偽善も善か。)
彼の偽善は私の中では善だった。でもいくらそうだと言っても彼は受け入れない。
どうしたら受け入れてくれるだろうか。
どうしたら彼を解放できるだろうか。
思いついたのは偽善が善であることの証明だった。
私はスマホを取り出した。
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