第3話
いつだって学校に行くのは憂鬱だった。けれど、今朝はいつもの比ではない。顔を洗い、朝食を済ませ、歯を磨き、身支度をする。久しぶりの制服は皺ひとつない。ベージュの無地のスカートに、黒のブレザー。右胸のガンパッチは銃を撃つときの衝撃から体を守るためにあるらしい。銃を持たない現代の学生にとってはただの飾りでしかないけれど、今日は私を守ってくれる気がする。
全身鏡に映る制服姿の自分を見つめた。机の引き出しから色付きリップを取り出す。ポンポンと唇に塗ると、顔に血色が宿る。杏奈に合わせるためにしていた化粧も、今日は自分を強く見せる仮面のようだ。
「歯磨きするからちょっと待ってて。」
廊下に出ると、スーツに着替えた母が急ぎ足で洗面所に消えて行った。
「一人で行けるよ。」
「ダメ。送るから。」
口の周りを真っ白にした母が真剣な眼差しを鏡に反射させる。見た目と言葉のコントラストに思わず笑みがこぼれ、子供をあやす様に私が折れた。
一緒に家を出て母の車に乗る。助手席に座るのは何年ぶりだろうか。ふと鏡に映る弁護士バッチが目に入った。母を近寄りがたいものにしていたそれは、昔見た法廷で戦う母を想起させ、誇らしく、そして励まされた。
「何か付いてる?」
「あ、ううん。」
(何よ。)
母は小首を傾げつつもどこか嬉しそうだった。
「帰り何時になりそう?」
「いや、いいよ。一人で帰れる。」
「遠慮しないで。今日は早く上がるから。」
「いいって。そういうの。」
(母親らしくするなってことね。)
「はいはい。わかったよ。」
「…図書館とか寄りたいし。」
「あっそう、色々あるのね。」
(怜なりに考えているのね。)
「だけど、無理はしないでよ。苦しくなったら必ず助けを求めること。これだけは約束して。」
「うん…わかったよ。」
母は母親を辞めて家族になると言いつつも、本能的な母性と社会的な母親という役職の境が分からず、ずっと彷徨っていた。きっとこの先も分からないままなのだろう。けれどそれでいい。
学校の近くにあるコンビニの駐車場に着くと、何人かの生徒がコンビニから出てきた。咄嗟に目が合わないように俯いてしまう。
「大丈夫?校舎まで行こうか?」
一人で行けると啖呵を切っておいてここで甘える訳にも行かず、気持ちが籠っていない声で「大丈夫」と返事をした。
「行ってきます。」
母の不安そうな眼差しを背中で感じながら車を出る。歩き出してもなお車が去って行く音は聞こえなかった。
(大丈夫だから。)
母と自分に言い聞かせ、歩き続けた。
コンビニからまっすぐ5分ほど歩くと、見覚えのある橋が見えてきた。
「えっ。」
近くにいた生徒と目が合う。
(何で岩崎いるの?え、怖。)
彼はクラスメイトの一人だった。
「え、やばくね。」
「あり得ないんだけど。」
辺りから聞こえてくる言葉が、全部自分のことを言っているような気がした。
恐怖と恥ずかしさから私は俯きながら歩き続けた。交互に視界に入る自分のローファーを目で追うことだけに集中した。
暫く歩くと、地面の色が急に濃くなった。思わず顔を上げるとそこは橋の上だった。反射的に足が止まる。左右の手摺りには背の高いフェンスが取り付けられている。道の真ん中で立ち止まる私を何人もの生徒が後ろから追い越し、振り向いて私をチラチラと見てくる。
(何で立ってんの?)
(あれ、あの人って、誰だっけ?)
(邪魔なんだけど。)
(あれって自殺した人?)
沢山の言葉の矢が突き刺さり、悲鳴をあげそうになる。知らない人の聲が、知っている人の聲が、怖い。
(もう無理。)
逃げてしまいたいと、踵を返そうとした時、誰かが私の右肩を叩いた。
「おはよ。」
その声は病院の屋上で聞いた声と似ていた。しかし、視界に入ったのは思っていた顔ではなかった。
(何その残念そうな顔。)
「おはよ。一緒に行く?」
宇ノ沢颯(うのさわそう)。私の知っている彼は、明るくてよく笑うクラスの人気者だった。けれど今目の前にいる彼の目には光りがない。
(俺じゃ嫌かよ。)
「いや、その…久しぶり。」
「うん。ほら歩いて。突っ立ってたら邪魔でしょ。」
彼と話すのはかなり久しぶりだった。並んで歩く私たちはさっきとは別の意味で目立っていた。
(え、何?付き合ってるの?)
(宇野沢先輩彼女いたんだ。)
(いいなぁ。)
彼は競泳で今年全国1位になり、大会新記録を樹立した選手としてテレビや雑誌に取り上げられるほどの有名人だった。それほどの人間の隣に女子がいれば注目してしまうのは自然なことだ。少なくとも女子生徒は彼に夢中で私の正体には気にも留めていない。幸いなことではあったが、別の恐怖を感じた。
彼がどういう意図で昔の部員に話しかけたのかは、なんとなく分かる。彼の優しさにはいつも裏があった。自分に利益があると判断しないと、彼が誰かに優しくすることはない。今だって、困っている人間を助けた優しい王子だ。
助けてくれていることに代わりはないので、今は素直に感謝することにした。
「あの、ありがとう。じゃあここで。」
内履きに履き替え、彼に別れを告げる。
「何で。クラス一緒じゃん。」
「職員室に行かないといけないから。」
彼は「あぁ」と言ってその場で見送ってくれた。私は足早に職員室に向かう。
大きなドアを前にして、足が止まってしまった。やっぱり付いてきてもらうべきだったかと後悔する。あの日、自分を捨てるため、社会を変えるため開けたこのドアは、他のどんなドアよりも重く大きかった。あの日の情景が鮮明によみがえってくる。震える手を大きく掲げた自分が。
『ナポレオンみたいだった。』
呑気なことを言う人間を思い出した。ふと強張っていた表情が緩み、冷静さを取り戻す。
(今日、全てが終わったらアイスでも買おう。)
私はドアを開けた。
「こっちに。」
部屋中から視線を浴びせられたものの誰も話し掛けてはくれなかったが、棒立ちしているとパーテーションの向こうから男性教師が気怠そうに走って来た。『新井』と書かれた名札をぶら下げ、私をパーテーションの奥に案内する。するとそこには二人のおじさんが座っていて、私と目が合うと同時に立ち上がった。
「こちらが…校長で、こちらが…副校長です。」
名前が聞き取れなかったが、右が新しい校長で左が新しい副校長みたいだ。
「よろしくね。岩崎さん。」
(こいつか。自殺したようには見えないな。)
「また翠蘭に来てくれてありがとう。学校としても全力でサポートするから何でも言ってね。」
(面倒なことになったな。)
顔と名前だけが変わった教師に嫌気が差す。どんなに偉い人だって所詮は人間だ。彼らからしたら、私は厄介者でしかない。
「よろしくお願いします。」
(いいよ。こっちが大人になるから。)
私は口角を上げてみせた。
「私が岩崎さんの担任になった新井です。どうぞ宜しく。」
(ついに来たか。)
新井という担任は、気怠そうに自己紹介をした。まじまじと目を見て思い出した。新井先生は、杏奈が火傷をした時に一番に駆け付けた教師だった。気怠さの裏に正義感を持ち合わせているところが前の担任と似ていてトラウマが蘇る。
その後は、スクールカウンセラーが常駐していることと、特別に補習が受けられるから留年が免れることを説明され、ある程度普通の人生が歩めることを約束された。
「希望であればクラス替えも考えているんだけど、どうかな?」
「大丈夫です。お気遣いありがとうございます。」
二人の顔に安堵が湛える。私はこれ以上、厄介者にならないことにした。
担任と教室に向かう途中で朝礼が始まるチャイムが鳴った。目立たないように朝礼が始まる前に席に座っていたかったのに、それは無理みたいだ。
担任が教室前方のドアに手を掛けと、隙間からクラスメイトの顔が見えてぞっとした。ドアはそのまま開かれると思ったが、何を思ったのか担任はドアから手を放し、教室後方に歩いて行った。そして後方のドアを開ける。
「どうぞ。」
(こっちの方がいいでしょ。)
私は5センチくらい開いたままのドアを横切り、担任が開けたドアへと近づく。
「ありがとうございます。」
私はお礼をして中に入ると、クラスメイト全員の視線を浴びた。
(本当だったんだ。)
(生きてたんだ。)
(よく来れたな。)
言葉の矢が次々と心臓に突き刺さる。私は震える体を抑えながら俯いて自分の席に向かった。窓際の後ろから2番目の席。その3つ前は空席だった。本当に杏奈は転校していた。
「お疲れ。」
後ろの席の宇ノ沢が私の勇姿を称えた。
「席に着け―。」
担任は私と同じドアから教室に入り、席と席の間を身を細めて進み、教卓の前に立った。思い出したかのように自分が5センチだけ開けたドアを閉め、注目を集めるように声をあげる。私以外みんな席に着いていたけれど、注目を集めればそれでよかったのだろう。さりげない優しさから、この大人は信用できる気がした。
「昨日終礼で言ったように、今日からまた岩崎が登校出来るようになった。色々教えてやってくれー。じゃあ朝礼始めます。委員長。」
「起立。」
全員が徐に立ち上がり、礼をして、いつも通りの朝礼が始まった。新井先生が私の事に触れたのは冒頭の一言だけだった。私の1か月はその数秒にまとめられた。その配慮が有難く、同時に虚しくもあった。
(ページ数書いておいた方がいいか。)
朝礼後、休憩を挟むことなく新井先生の担当である英語の授業が始まった。周りに倣って教科書を取り出し、黒板の端に書かれたページを開いた。先生の授業は初めてで新鮮だったが、それは私だけだった。今までどのクラスの担任もしていなかった若い教師がピンチヒッターで担任になったのだろう。周りから押しつけられたに違いない。一見ハズレのクラスだが、まともに機能しているのは新井先生が有能なのかもしれない。
ふと辺りを見渡すと、美月の背中が見えた。彼女は今どんな気持ちなのだろう。あの日どんな気持ちだったのだろう。謝りたいと連絡が来ていたから、罪悪感を覚えているのだろうか、そんなことを考えた。
教室にいるということは、今まで感知していなかったが、深山がいるはずだった。私は視界の中で彼を探すと、一つ前の列の一番廊下側の席に彼を見つけた。彼は授業に参加していて私には気付かない。心の聲が聴こえるのだから、テレパシーが使えてもおかしくないと思い彼に念を送ると、なんとこっちを向いた。
(そんなに熱い視線送らないでくれる?)
(どうせ暇でしょ。)
(節穴なの?)
(耳が?)
(目に決まってるでしょ。笑えないよ。まったくデリカシーが無いんだから。)
(ごめん。でも仕方ないじゃん。思ったことそのまま出ちゃうんだから。それに、あんたは節穴のフリしてるだけでしょ。)
彼は(何にもわかってない。)とため息をついた。
(担任ってどんな人?)
(あぁ、もともと一年の副担任だったらしい。副担任で楽できると思っていたのに、君の一件で担任を任された。本人は乗り気じゃないけど、いい人だよ。)
(詳しいね。聴いたんだ?)
(聞いても教えてくれなさそうだから仕方なく。)
彼はとぼけた顔をした。
(でも担任のほうがやりがいありそうだからいいじゃん。)
(自殺しかけた生徒を立ち直せられたらそりゃあやりがいあるだろうね。)
(デリケートなのに。)
(なるほどデリケートな人ほどデリカシーが無いわけだ。日本語って難しい。いや、これは英語か。じゃあ僕は英語を勉強するよ。)
そう言って彼は授業に戻ってしまった。退屈だ。
彼に見捨てられた私はこっそりとスマホを取り出し、教科書に挟んで電源を入れた。パスワードを打ち込むとメッセージアプリの通知が表示された。
『ひま』
差出人は後ろの席にいる。
『授業中でしょ』
『怜も開いてんじゃん』
宇ノ沢は未だに私を下の名前で呼んでいた。画面を指で擦り、過去の会話を覗くと、『メッセージの送信を取り消しました』という文字の下に、『わかった』という彼のメッセージが表示された。日付は10月14日。私が自殺未遂をした日だった。
(こんなの送られてたっけ。)
母親が見たのかもしれないと思うと簡単なパスワードにしたことを後悔した。
記憶のある中で、宇ノ沢との最後の会話は一年も前になる。彼は私の初恋だった。
中学生の時、競泳部でマネージャーをしていた私は人気者の彼を他の女子と同様に好きになった。当時、彼はまだ日本一になっていなかったけれど、整った顔立ちとその優しい性格でみんなを惹きつけた。しかし、彼の腹黒さを知ってからは段々と恋心は薄れていき、杏奈が彼を好きになったことをきっかけに私の初恋は幕を閉じた。そんな苦い過去を思い出す。結局彼と杏奈は付き合わなかった。
一年前のトーク画面は彼のメッセージで終わっていた。
『この後会える?ふたりで』
言葉の意味を想像して、私は返信しなかった。もしかしたら恋が実るかもしれないと思うと喜びよりも先に恐怖が私を支配したからだ。
『今日一緒に帰らない?』
返信するよりも先に、彼は追加でメッセージを送って来た。
『部活あるでしょ。』
『今日は休み』
『休みなんかないでしょ』
『じゃあ休む』
『お母さん迎えに来るから無理』
彼はウサギが泣きわめくスタンプを送って来た。
杏奈がいない世界。
私は開放された。
自由に生きられる。
普通の女子高校生になって普通に恋愛もできる。自由なんだ。
これが私が望んだ世界。私が、望んだ。
しかし、そこにあったのは純粋な希望でも喜びでもなく、清々しさが入り混じった虚しさだった。ただマイナスがゼロになっただけ。
休み時間になるとクラスメイト達はいくつかのグループに固まって談笑し始めた。いつも見ていた何てことない光景のはずが、今日は違う。至る所から視線の矢が次々と飛んでくる。特に女子のグループは一つに固まっていて隠すことなく特大の矢を放し続けた。
女子の輪の中心には茜がいる。私がこの小さな社会にもたらしたのはただの政権交代だったみたいだ。私が自殺未遂をして杏奈がいなくなった。佐野さんも見る限りでは大人しく、波風たてないように過ごしている。空席となった玉座に茜は何の躊躇もなく座った。そしてきっと杏奈の真似をしているのだろう。クラスの女子が茜に忠実なのは、私の様になりたくないという恐怖故なのかもしれない。結局なにも変わっていない。
「どういうつもりなんだろう。」
「ふつう転校するよね。」
「裏切ったのはそっちなのにね。」
「なんか杏奈が可哀想に思えてきた。」
彼女たちの生の声は蛆虫のように湧き、私の鼓膜に張り付いた。自分に矢が向かないことに安心し、溜めたストレスを一気に放出させているのか、あるいは茜の敵を攻撃することで忠実さをアピールしているのかもしれない。
「お母さんって何時に来るの?」
宇ノ沢が背後から話しかけてきた。彼なりに考えて差し伸べた救いの手が、今は邪魔だった。悪いとは思いながらも、彼の気遣いを有難く頂戴できる余裕がなかった。新井先生も、なぜか深山も居なくなった教室に私の居場所なんてない。けれど逃げ出したら戻って来られなくなることは分かっていた。
私は宇ノ沢を無視して机に突っ伏し、寝たふりをした。震える手を抑えながら。
イヤホンをして外音をシャットアウトし、寝たふりをすることで計3回の休み時間をやり過ごした。そして昼休みのチャイムと同時に教室から脱出し、屋上へと向かった。
人目を気にせず静かに昼食を取れるところはどこか、寝たふりをしながら熟考した結果屋上の階段室に行き着いた。開放されていない屋上に行く人はいないだろう。長い階段を上ると、懐かしい光景が広がった。埃っぽく鬱蒼とした空間。屋上に繋がるドアのすりガラスから入る光だけがこの空間を照らし、昼間なのに薄暗く、幽霊でも出そうな雰囲気がした。1か月前もここに来た。死を決意してここに来た。あの日このドアが開いていたら私はここにいないだろう。しかし、この運命に感謝できるほど私は今幸せではなかった。
階段に腰かけて小さなバッグからお弁当を取り出す。落とさないように二段になっている箱を左右の膝に置いた。お母さんのお弁当。いつも食べていたそれはいつもより美味しく感じた。
(埃っぽいな。掃除してないのかな。)
角にある掃除用具入れは扉が外れかけていた。これから通うことになるなら掃除しておこうかと考えていると、ドアがキシキシと揺れた。強い風が吹いたのだろう。
(帰り寒いかな。迎え頼めばよかった。)
その時だった。
「ヘックション。」
どこかで誰かがくしゃみをした。辺りを見渡すがもちろん誰もいない。考えられるのは、
(屋上?)
そこしかなかった。お弁当に蓋をして、バッグに突っ込み、三段ほど階段を上る。ドアノブを握ると、冷たさが体の芯まで伝染した。ゆっくりと手首を捻ると、ドアノブは何の抵抗もなく回り、扉が開いた。
屋上の真ん中に誰かが大の字になって寝ていた。くしゃみが聞こえた時に、すぐに誰がいるか想像がついていたが、その通りだった。
「死んでる?」
近づくと補聴器を着けた彼が目を瞑ったまま寝ていた。近くに菓子パンと炭酸飲料の入ったペットボトルが転がっていた。
「ねぇ。」
呼びかけに何の反応も示さないので軽く脚を蹴った。
「生きてるよ。」
彼はまだ目を開けない。
「何でいるの?」
「それはこっちの台詞。」
彼は眩しそうに目を開けて、面倒くさそうに起き上がった。胡坐をかいて伸びをする。
「何で屋上開いてるの?」
「それは教えられないよ。プライバシーの問題だからね。」
(新井先生に怒られちゃう。)
これ以上問うのは止めた。
「何でもいいけど、私もここで食べていい?」
「何で?」
(教室居づらいから。)
「あぁ、いいよ。」
私は最高の基地を手に入れた。彼の隣に腰を下ろし、食べかけのお弁当を開ける。
「それ手作り?」
「うん。」
「いいね。」
「そっちは菓子パン?甘いものばっかり。」
(体に悪そう。)
「いいんだよ。もう悪いから。」
そう言って彼はメロンパンを頬張った。
「ねぇコーラ倒したでしょ?」
「倒してないよ。発見したときから倒れてた。」
彼は不服そうにまたむしゃむしゃとメロンパンを食べる。
「それで、どう?死後の世界は。」
「うーん。微妙かな。いや、最悪。」
「ははは。それはそうだろうね。死んどけば見ずに済んだんだから。」
「死んだ世界が観られるのは得って言ってなかったっけ?」
彼はそんなこと言ったっけと責任を放棄した。
「それで得してたの?」
一度死んで生き返った私は、杏奈がいない世界を知れた。前よりも少しだけ優しい世界に触れることもできた。だけど得をしたのはほんの少しで、プラスしてマイナスした結果はマイナスだった。死んでいたら、杏奈がいた玉座に茜がいる姿を見なくて済んだ。自殺未遂をした人として変な注目を浴びずに済んだ。自分が死んだ意味がないことを知らずに済んだ。社会の為に犠牲になったと自分を美化して死ねた。
「得してない。」
死んでいたほうがよかった。見たくないものを見ずに、聞きたくない声を聞かずに、無に帰したかった。なのに、私は助かってしまった。
「そっか。でもまだ結論出すのはまだ早いかもよ。まだ登校して半日も経ってないし、全てを知った訳じゃないでしょ?」
「そうだけど。」
(怖いんだよ。また自分の死に意味がないことを知るのが。もうお腹いっぱい。)
「意味ねぇ。みんなすぐ意味を求めたがるよね。生きる意味とか死ぬ意味とか。そんなに意味がないと生きちゃだめなのかな。」
「あんたは考えたことないの?自分が生きる意味。」
「考えたこともあるけど、僕にとって生きることは手段じゃなくて目的だから。」
なんとなく、彼らしいなと思った。彼は何かの為に生きるのではなく、生きる為に何かをしているみたいだ。人間が何の為に生まれてきたのか誰も答えを出せないのは、そもそも問題が間違っているからなのだろうか。
生きることを目的と言う彼は、誰よりも命を大切にしているように思える。けれど、彼がそこまで命に執着している様には見えなかった。
「目的にするほど大事なら、何であの時、一緒に飛び降りようとしたの?」
初めて病院の屋上で会ったとき、自殺しようとしている私をみて、彼は躊躇なくフェンスを越えた。
彼は暫く考え込んでから「あぁあの時か。」と呟いた。
「別に、本気で死のうとした訳じゃないよ。君と同じで。」
「そっか…。」
彼は菓子パンにかじりついた。前髪が邪魔で目が見ないせいで聲を聴くことは出来なかった。彼はきっと嘘をついている。あの時、彼は私が飛べば飛んでいた。そんな気がする。あの日の彼は死ぬきっかけを探しているようだった。
「私は、目的にできないかな。生きることにも、死ぬことにも意味が欲しい。」
「人間らしいね。」
彼は自分が人間じゃないみたいに言う。
「そこまで意味が欲しいなら協力するよ。君の死の意味を一緒に探そう。」
(怖いよ。きっとないんだもん。)
「大丈夫。すぐに見つかるから。」
無責任な言葉のはずなのに、何故だか信用してしまった。
私の死の意味を一緒に探すと言っておきながら、彼が具体的な策を講じることはなく、教室の隅で寝たふりをして昼休みに屋上に行く生活が何日も続いた。
この日はあいにくの雨で、階段室の中で昼食を取った。彼はいつも通り、甘いパンを食べていた。
授業の前にトイレに行き、個室から出ようとした時、聞きたくない声が壁越しに聞こえてきた。
「見た?今日のあいつ、あれ絶対寝たふりだよね。」
「思った。宇ノ沢が筆箱落とした時、めっちゃ驚いてたし。」
私の陰口だ。
誰だって近くで筆箱が落下したら寝ていてもびっくりするだろう。
「何か先生も過敏になってるし、ほんと迷惑なんだけど。」
「来年クラス替えするらしいよ。」
「え、それ噂でしょ。」
「本当らしい。」
「えー最悪じゃん。なんかあいつだけ贔屓されててうざいんだけど。」
再び登校をしてから数日間、嫌というほどこんな会話を聞いた。声でも、聲でも。流石に自殺未遂をした人間をいじめる人はいなかったが、それと同等の悪口だった。
いじめられるのが嫌で、悪口を言われるのが嫌で、一人ぼっちになるのが嫌で、私は死を選択した。こんな声を聞くのが嫌だったから。だけど、何故だろう。壁越しに聞こえてくる声に、私はそんなに傷ついていない。杏奈じゃないからなのだろうか。美月じゃないからだろうか。一度も好きになったことのない人間からの悪口には、さほど威力がないのだろうか。
「佐野もさ、自分は被害者みたいな顔してるけど、怜のこと殺したのあいつだよね。」
バタン
気が付けば個室のドアを力いっぱい押していた。
ドアは壁に叩き付けられると跳ね返って戻って来た。今度はそのドアをゆっくりと開ける。手洗い場には、茜と2人のクラスメイトがいた。名前は…何だっけ。
3人は私の奇行に呆気に取られ目を丸くしていたが、次第に強気な目に戻っていった。
(え、聞かれてたの。)
(いたんだ。)
(何こいつ。)
何て言葉を放とうか、思考を巡らせたが、とうとう思いつかなかった。私は3人に近づく。
「何?聞いてたの?べ、別に、いいけど。てか、盗み聞きするなよ。」
動揺を隠せない茜が情けなく思った。彼女に近づくと後ずさりして、道を開けてくれた。
私は茜が使っていた手洗い台の蛇口を捻り、手を洗った。そして、彼女らに視線を合わせることなく、トイレから出た。
ハンカチの中の冷たく濡れた手は震えていた。けれど、心は清々しく達成感でいっぱいだった。
(よくやった。)
そう自分を褒め称えた。
(何かあったの?)
そうだった。ここは教室だった。トイレから教室に戻ると、まだ休み時間だからかみんな思い思いに過ごしているせいで、黒板の前で私が立ち止まっていても誰も見向きもしない。ただ、その中で一人だけ私に視線を向ける人物がいた。
(やってやったよ。一人でね。)
お利口に自席に座る彼の頭に、大きなはてなマークが浮かぶ。
(よく分かんないけど、おめでとう。よく頑張ったね。)
彼はやはり一番欲しい言葉をくれた。
席に着いたタイミングで茜を含めた3人も教室に戻って来た。一瞬だけ目が合う。
(うわ、こわ。)
(いるじゃん。)
(勝った気になんなよ。)
私に向けられる聲は、以前と大して変わっていない。けれど、その中に私に対する恐怖があった。近寄りたくない、関わりたくないそんな感情が彼女たちに芽生えていた。
茜は、杏奈の傍に居たくないのに居る私が嫌いだっただろう。一人じゃ何もできない私が。川に飛び込むまでは実際そうだった。だけど私は生まれ変わった。大きな武器を持って生まれ変わった。
(無敵じゃん。)
授業が始まるのを待つ彼は、正面を見ながら微笑んでいる様に見えた。
下校時間になっても雨は降り続けていた。私はビニール傘を広げ、校門へと向かう。白色雑音のせいで誰の声も聞こえない。傘のせいで顔が見えず、誰の聲も聴こえない。
(やっと来た。)
私はその聲で足を止めた。校門の前にずぶ濡れの女子生徒が立っていた。私は思わず彼女のものへと駆け寄った。
「こんな所で何してんの?」
私は美月を自分の傘の中に入れた。
(ごめん。ごめん。)
彼女はずっと謝り続けていた。
「とりあえず戻ろう。」
返事はなかったが、私は無理やり彼女の手を取り、校舎へと引き連れた。暖かくて、誰もいない場所を脳内で探すと、相談室がヒットした。私の為に常駐するカウンセラーは私が行かないせいで早く帰っている。
開いているか分からない相談室のドアを引くと、待っていたように呆気なく開いた。さっきまで誰かいたのだろうか、中は少し暖かい。
相談室といっても元々は保健室だったのだろうか、カーテンレールの付いたベットが2つ並んでいる。ベッドの足元側には壁一面に本棚が取り付けられているが、空っぽの段の方が多く、本自体もボロボロなものばかりで、歴史書や小説、絵本などジャンルもまばらだった。図書室に置けない、行き場のない本が集まってきたようだ。ここでどうやってカウンセリングをするのだろう。椅子も、机もない。
美月は相談室に入ってもなお立ち尽くしていた。スカートの裾からは水滴がぽたぽたと垂れている。私は入口に置かれたストーブの電源を入れて、リュックからジャージを取り出し、美月に差し出した。
「着替えて。これ使ってないから。」
体育の授業があったから一応持ってきたが、案の定、先生は見学させてくれた。
「…何で。」
「風邪引くでしょ。ほら。」
無理やり美月の腕を引っ張り、ベッドへと連れて行く。そして、カーテンを閉めて美月を一人にした。
「ちゃんと着替えてね。」
着替える音がしない。
「何で。」
「何が。」
「何で助けるの?」
「風邪ひくじゃん。」
「私は助けなかった。」
彼女の罪悪感はきっと私の比じゃない。けれど、私が美月の立場でもきっと同じことをしていた。
「知ってる。でも私も、美月を助けなかった。お互い様。」
私はストーブを美月の方へと移動させた。
「お互い様?そんな訳ない。お互い様な訳ない。」
美月の声が震える。泣いているようだ。
私はもう一つのベッドに腰かけ、美月の方を向いた。
「そう思いたかったよ。実際そう思ったし。」
「うん。」
「でも、あんなことされたら、お互い様じゃ済まされない。」
「ごめんね。」
美月は泣いた。ベッドに顔を押し付けているのだろうか、籠った泣き声が聞こえる。この1か月間、自分のせいで人が死んだ恐怖を彼女はずっと味わい続けていた。私が本当に死んでいたら、それは一生続いたのだろう。ずっと泣き続けて、責め続けていたかもしれない。
『罪悪感を覚えるのは君が優しい証拠。』
いつか彼が言った言葉を思い出した。
「美月は優しいね。」
「優しくなんか…」
「罪悪感を覚えない人間もいるらしい。罪を自覚せずにのうのうと生きている人間が。」
彼からもらった言葉を今度は美月に送った。
「でも美月は泣いてくれた。ありがとう。死なないでよかったよ。」
あの日、彼女に裏切られたとそう感じた。けれど、彼女を嫌いにはならなかった。私と同じ、弱い人間だから。
「あ、メッセージ見たよ。あの日気付いていればよかった。」
そうしたら運命は変っていたかもしれない。
「美月は最善のことをしたでしょ。」
美月はゆっくりと、カーテンを開けた。
(何でそんなに慰めるの?憎くないの?)
「私は昔も今も、美月と友達になりたい。」
美月の目から大粒の涙がこぼれた。
(私だってそうだよ。)
目が覚めてから、初めて生きていてよかったと思った。これが死んでいたら見ることが出来なかった景色なのだろう。
しかし一方で、自殺未遂をしていなかったら美月と友達になれなかったかもしれないとも思った。そんなことを考えているうちに、これが私が死んだ意味なのかと、彼が無責任に「すぐに見つかる」と言った理由を悟った。彼は美月の聲を聴いていたのかもしれない。
「何でずぶ濡れになったの?」
ベッドのフレームに美月の制服を干し、私たちはそれぞれの布団に包まった。病室と似た光景だが、隣のベッドには美月がいる。ジャージ姿の彼女は、正面の本棚を眺めながら呟いた。
「今日の昼休み、私もトイレにいたんだ。」
「えっ、そうだったんだ。」
「うん。杉野さんたちの声が聞こえて、出るタイミングなくて困ってたら大きな音が鳴って、私と同じ人がいたんだって思ったら、杉野さんがすごく脅えた声で話し掛けていたから、怜ちゃんだってすぐに分かった。」
「うん。それ私。」
「ずっと謝らなきゃって思っていたのに勇気出なくて隠れてて、でも怜ちゃんは私が杉野さんに悪く言われた瞬間に出て行った。自分がすごく情けなくなって、今日絶対謝ろうって思って。」
「そうだったんだ。」
自分でも気付いていなかった。あの時私がドアを開けたのは、自分の悪口を言われたことよりも、茜を懲らしめようという思いよりも、美月を悪く言われたことが許せなかったからだ。
「だとしても、濡れる必要はないけどね。」
美月は「傘持ってなかったから。」と微笑んだ。彼女もなかなかの奇行に走っている。
「あの日のこと、すごく後悔してる。」
あの日。美月は私が来るより前から料理室にいた。
「私が来るまでに何があったの?」
「聞いてない?」
「うん。」
美月は深呼吸をした。
「どこまで覚えてる?あの日、賞を横取りされたことは覚えてる?」
「うん。」
「私、それが悔しくて、どうしても我慢できなかった。」
美月はゆっくりとあの日起きたことを話してくれた。
「何?何か用?」
調理室に杏奈と茜の姿を見つけた私は、怒りに身を任せて単身で乗り込んだ。
「何であなたが表彰されるわけ?」
「は?実行委員なんだから当然でしょ?」
「でも作ってないじゃん。」
「だから?あーそういうことか。私に嫉妬してるんだ?」
「嫉妬?あなたが羨ましいって思ったことなんて一度もない。ただ、嘘をつかないで。自分は作ってない、サボってましたって言いなよ。」
「は?言ってもいいけど、言ったところで何も変わんないよ?あんたがみんなから称賛される訳じゃない。味方なんていないんだから。」
勝ち誇ったように笑う杏奈を見て、自分の中で何かがプツンと切れ、秘密にすると決めていたことを話してしまった。
「…いるよ。」
「誰が?」
「怜ちゃん。」
「は?何で怜が出てくるわけ?」
「友達だから。」
「あーそう。」
信じていない杏奈に切り札を突きつける。
「怜ちゃんはカンニングペーパーを取って、私を守ってくれた。」
杏奈の顔から笑みが消えた。私を睨み、怒りに震える。
杏奈は自分のエプロンを床に叩きつけた。
「本当に助けてくれたって思ってるわけ?」
「…え?」
予想外の言葉を投げかけられ動揺した。
「言っとくけど、全部怜が私に指示してるんだよ。んー指示っていうか直接言わずに仕向けてくるの。」
「そんなわけない。」
「どうして?いつもの事なのに。怜はね、調子乗ってるあんたを懲らしめるために、カンニングさせたら?って杏奈に言ってきたの。まぁ、誰かに紙を取られて失敗に終わったけど、それも怜なんだね。うちらはめられたんだよ。」
怜ちゃんがそんなことをするはずない。
「嘘だ。」
「ほんとだよ。今までも今回のも全部怜の指示。杏奈が自分からやった訳じゃない。」
「嘘。」
「怜はうちらを悪者にして、いろんな人に手を貸すふりをして最後に裏切るんだよ。人の心を弄んで楽しんでるの。」
「サイコパスじゃん。」
杏奈と茜は顔を見合わせて笑った。そして茜は調理室から出て行った。
「そんなの信じない。」
「信じなくてもいいけど事実だから。佳恋だってあいつのせいだからね。」
クラスメイトの倉科佳恋(くらしなかれん)は、杏奈からのいじめが原因で去年不登校になり転校した。佳恋とは仲が良かった訳じゃないけれど、体育でペアになることが多く、何度か話したことがあった。その何度かの会話の中で、彼女は杏奈ではなく怜ちゃんの悪口を言っていた。当時は杏奈が怖いから怜ちゃんの事を悪く言っているのかと思っていた。けれど、そうじゃないとしたら…。
「ちょっと待ってよ。じゃああなたが怜ちゃんに従う理由はなに?」
「んーまぁ口封じかな。色々知られちゃってるからさ。例えば…んー、あ、この前のタバコの事とか。」
前に学校でタバコの吸い殻が見つかって全員の荷物検査が行われたことがあったけれど、結局誰のものか分からず終いだった。
「怜はあんたに近づくために私をはめたんだよ。でもあいつはあんたのことも裏切るよ。」
杏奈は急に立ち上がった。
「お願い私を助けて。もう誰もいじめたくない。」
吸い込まれるような、呪われているような、そんな瞳だった。
「その後に怜ちゃんが来たの。」
あの日、自分がいないところで起きたことに衝撃が隠せなかった。どうしたらそんな嘘が思いつくのか、怒りを超越して感心する自分がいた。
「完全に信じていた訳じゃない。でもちょっとだけ信じちゃって、そこに明戸さんへの恐怖とか、色んな感情でぐちゃぐちゃになって、だから…その…。」
「もういいよ。十分。話してくれてありがとう。」
美月は申し訳なさそうに感謝を受け取った。
翌日からお昼ご飯は美月と食べることになった。彼に謝ると「そもそも約束してないから。」と冷たい返事が返って来た。
「前から言っている通り、今日から面談を始める。遅れないように。」
朝礼に新井先生がそう言い放つと生徒からブーイングの声が上がった。
「今回は出席番号後ろからいくぞ。」
その言葉でクラスメイト全員が理由を悟った。私とは最後の方に話したいのだろう。
「えー何でですか。」
茜がわざとらしく聞く。
「俺が、書類を逆さまに置いたからだ。以上。」
先生は紙の束をポンポン叩く。
(バレバレか。)
先生は強行突破した。
この日は1限目から自習となり、クラスメイト40人が順番に面談を受けた。高校2年生のこの時期になればみんな大体の進路を決めている。特にうちの高校は付属だから内部進学をする人が多く、面談もスムーズに進んだ。
(将来か。)
ついこの間まで将来がなかった私にとって、それを考えることは難しいことだった。自殺未遂をする前は漠然と付属の大学の法学部を選んでいた。弁護士になりたい訳ではない。母の姿を見て、私には無理だろうなとも思っていた。ただ選択をすることが嫌で身近なものを選んだ。
学校から配布された進路の本には『可能性は無限大』と書かれている。選択肢は確かに無限にあるだろう。けれど、一つ選択してしまえば、後戻りできないそんな恐怖が不随している。一度自殺という選択をした私だったが、選択する前の状況に戻されたことにより、以前よりも後戻りできないことへの恐怖が強くなったように思う。私が今普通の生活を送れているのは奇跡なんだと実感した。
(みんなすごいな。)
弁護士の母も、教師の新井先生も、私と同じようにここで人生の選択をした。先延ばしになんてできない。
(私も決めないといけないのか。)
そんな余裕どこにもない。今を生きるのが精一杯。けれど時は進む。人生何度でもやり直せると大人は言うし、やり直した人はそれを美談にする。けれどやり直せなくて後悔している人の方が多いはずだ。そしてきっと私も後者になる。
(やっぱり、どうでもいいや。)
捨ててよかった。要らなかった。自分の人生どうなってもよかった。ならば別に、これからだってどうでもいい。死なない程度に生きればいいや。
『僕にとって生きることは手段じゃなくて目的だから。』
呑気な人がもう一人いた。
「失礼します。」
私の番が回って来た時にはもう放課後になっていた。次の人は明日すると言っていたが、これも先生の計算通りなのかもしれない。
「はい、どうぞ。」
(来たか。)
面談用に使われている空き教室の真ん中に机が四つくっついて並べられ、私は先生の正面に座った。
「進路希望調査の時は休んでいたから、これから書いて欲しい。提出期間は設けないよ。」
私の前に一枚の紙が差し出された。
「いつでもいいってことですか?」
「あぁ。」
(すぐには出せないだろう。)
配慮してもらえるのはありがたかった。しかし同時に、苦しさもあった。
「今日は遠い未来の事じゃなくて、これからの事を話したい。上手くやれてるか?」
(そんな訳ないか。)
「はい。上手くやれてます。」
(棒読みだな。)
「そうか。毎日ちゃんと来てくれてありがとう。」
厄介者にならないようにした私はお利口だ。
「ひとつ、言っておきたいことがある。」
(宇ノ沢ごめんな。)
「宇ノ沢が退部届をだした。」
「…え?」
ここ最近、宇ノ沢が部活に行っている様子はなかった。けれどサボっているだけだと思っていた。
「何でですか?」
(何て言えばいいかな。ちょっと待て、こいつ、知らないんだっけ。)
「私のせいですか?」
「そういう訳じゃ。」
(知らないのか?)
「教えてください。」
「その、岩崎はどこまで知ってる?」
「どこまで?」
「お前が助かった理由。」
「え?」
そういえば誰も教えてくれなかった。警察も医者も救急車が早く来たことしか教えてくれなかった。
「宇ノ沢が助けた事、聞いてないか?」
「宇ノ沢が?」
(知らなかったのか。)
「あの日、川に飛び込んだお前を宇ノ沢が泳いで助けたんだ。」
「えっ。」
(それがトラウマになったなんて言えないな。)
久しぶりに登校した私を、彼は助けてくれた。いつも通りの彼だった。人気者の自分に酔っている、そんないつも通りの彼だった。彼の自尊心の中心にあるのは、競泳部のエースであることだった。周りからの羨望の眼差しが、自分をすごい人間だと思い込ませ、それが努力へと直結した。しかし、今の彼には背骨がない。それでも私の前では立ってみせた。私が抜いたのに。彼の笑顔が心臓に突き刺さった。
「じゃあ、彼が部活に行かないのは私のせいなんですね。」
(否定したら嘘になるか。)
「まぁ、そうだ。」
先生はオブラートに包むことを諦めた。
「だから、あいつを元に戻せるのも、岩崎だ。」
先生は責任を取れと言ってくる。
「トラウマなんですよね。」
「あぁ、水が怖いらしい。」
地上の方が似合わない彼が、水を怖がる姿が想像つかない。想像できなくて、涙が出た。彼はもう、泳げない。私のせいで。
「無理じゃないですか。水が怖かったら、泳げないじゃないですか。」
「あぁ。」
「どうやって元に戻すんですか?」
(宇ノ沢はお前が好きなんだろ?)
「それは、俺にも分からないよ。」
彼は私が好き。そんな恋心を利用して、私は助かってしまった。
「これ、お前から返してくれ。競泳部の顧問から渡されたんだが、俺も無理だ。」
進路希望調査の紙の上に、退部届が置かれた。彼の署名もある。
「酷なことをしているのは分かってる。だけど、頼んだ。」
(間違ってるって分かってるよ。)
先生の目は真剣だった。
誰もいない教室に戻ると、補聴器を着けた彼がいた。
「何でいるの?」
「忘れ物。」
前にもこんなことがあった気がする。
「泣いた?」
「干渉しないで。」
「無理だよ。したくなくてもしちゃうんだもん。」
「あっそ。」
私は手に持っていた紙をファイルに挟んでリュックにしまった。
「ねぇ、もしかして知ってた?」
「宇ノ沢君のことだとしたら、答えはイエスだね。僕に知らないことはないと思う。」
彼の態度が鼻に付く。
「私のせいなんでしょ?」
「うん。」
正直者が多すぎる。
「どうすればいい?謝って解決するものじゃない。解決しようがない。もう、本当に泳げないのかな。」
「僕に聞くことじゃないよ。解決法は本人にしか分からないんじゃない?」
(そうだよね。)
「君は何で彼を遠ざけるの?」
宇ノ沢が私の初恋だということを彼は知っているのだろう。
「宇ノ沢君は君の事…。」
(言わない方がいいかな?)
昔好きだった人が、今、私を好きだと言う。他に好きな人がいるわけじゃない。けれど私が彼を素直に好きになれないのは、眩しいからだ。容姿が良くて、人気者で、腹黒い部分があるけれど優しくて、何でも持っている彼が眩しかった。だから、彼といると自分が惨めになる。
(ぐちゃぐちゃだよ。)
眩しくて嫌だった彼には光がなくなった。けれど、それが嬉しい訳がない。
「話してみなよ。君には立ち向かう勇気があるから大丈夫だよ。」
(佐野さんとも仲直りしたでしょ。)
学校に来てから無茶ばっかりさせてくる。彼も、先生も。
『今日の放課後時間ある?』
自分から連絡をするのはかなり久しぶりだった。
『うん。どうしたの?』
『話がある。』
別れ話をする恋人同士みたいな会話だが色はない。
「ここってまだあったんだ。」
宇ノ沢は金網のドアを開けると、伸びをしながら向かってくる。私は彼を中学生の時に使っていた屋外プールに呼び出した。屋内プールが出来てからは、中学生の体育の時間しか使われていない。
「うん。懐かしいでしょ。」
秋の空に冷たい風が吹いた。プールの水面には落ち葉がぷかぷかと浮かんでいる。
「話しって何?」
(告白じゃなさそうだけど。)
彼は歩きながらそう問いかけた。
「これを渡そうって思って。」
私は一枚の紙を彼に差し出す。彼はそれが何か悟り、歩くのを止めた。
「何で持ってるの?」
(コーチか?いや、新井か?)
彼とは数メートルの距離があった。
「何で部活辞めるの?」
理由なんて分かっている。
(聞いたんだな。)
「聞いたの?」
彼も知っていて問いかける。
「うん。全部聞いた。」
「そっか。なら、それ渡しといてよ。」
「辞めないで。」
声が震えた。目が熱くなる。
「私のせいだって分かってる。私が颯から夢を奪ったって分かってる。だけど…」
思わず昔の名残で下の名前で呼んでしまった。
「辞めないで。」
(ずるいよ。)
宇ノ沢は私に近づいた。
「怜ってさ、俺の事好きじゃないでしょ?」
「…」
(正直だな。)
「やっぱり。分かるよ。」
彼の想いを知っておきながら、許しを請う私は悪い女だ。
「だから、好きになったんだと思う。」
「え?」
予想外の言葉に困惑した。
「俺知ってるよ。怜が俺に失望した瞬間。」
「何のこと?」
「明戸をフッた時でしょ?」
中学一年生の時、私は彼が好きだった。彼はみんなに優しい太陽の様だったが、何となく彼はいつも他人を利用している様に見えた。自分が任せられた面倒なことを「これ得意だよね。」と他人に押し付けていた。けれど、誰も彼に押し付けられているとは知らず、頼りにされていると錯覚していた。そんな一種の洗脳が私だけ解け始め、完全に解けたのは確かに杏奈が彼に告白した時だ。誰がどう見ても、彼と杏奈はお似合いだった。杏奈よりも先に、彼の方が杏奈へアタックしていた。
『怜、お願い。付いてきて。』
頬を薄紅色に染めた杏奈は宇ノ沢に告白する為に、昼休みに学校の校庭に呼び出した。私は死角になるように柱に身を潜め、数メートル先の花壇で話す二人を見つめた。二人の会話は聞こえなかった。けれど、涙目で帰ってくる杏奈を見て、フラれたのだと悟った。私は杏奈に駆け寄った。だから、一瞬だけ彼の顔が見えた。
宇ノ沢は口角をあげた。人を馬鹿にするようなそんな笑みだった。彼は杏奈が好きではなかった。ただ、クラスのリーダーである彼女に告白されたという事実が欲しかっただけだ。私は彼に失望した。けれど、あの瞬間以外で彼があの笑みを溢すことはなく、見間違いだったかもしれないと、軽蔑しきれていない自分もいた。
「気付いてたんだ。」
「うん。」
(やらかしたよ。)
「じゃあ何で。」
「何で私が好きなの?」と声には出来なかった。
「知られてるから。俺が最低だってこと。」
「誰かに知って欲しかったの?」
「そうかも。」
みんな簡単に洗脳されるから、つまらないとでも思ったのだろうか。
「俺は褒めて伸びるタイプだから称賛が欲しいし、みんなそれに応えてくれた。だけど、怜だけは違って、くれるのは冷たい視線だけだった。」
(だから欲しかったんだ。)
「だったらそれは恋心じゃないね。」
(ただの独占欲だろうな。)
「俺もそう思ってた。だけど、あの時目の前で死んでいく怜を見て、こっちまで死にそうになった。」
「見てたんだ。」
「うん。近くにいてね。」
彼はプールに張られた水を見る。
「飛び込んだのは咄嗟だったよ。」
あの日の光景を思い出したのか、彼は脅えた。承認欲求が強くて腹黒い彼だが、根底にあるのはただの17歳の男の子だった。途端に彼が小さくて情けない、か弱い存在に見えた。
生きているか死んでいるか分からない好きな人を川底から救い上げたと思うと、如何に自分がしたことの罪深さを思い知らされる。意識はないし、きっと血も出ていただろう。彼の恋心は、自分の将来と引き換えに私の命を救った。
「…ごめんなさい。」
そんなことしか言えなかった。
「余計なお世話だった?」
(死んでいた方が幸せだった?)
「それは…正直、分からない。あの日で人生が終わっていたら知れなかったこともあったし、知ってよかったこともあった。だけど、知りたくないことだってあった。」
(俺の想いは知りたくなかったのか。)
「知りたくなかったよ。あんたがもう泳げないなんて。」
彼の目が潤んだ。
「自分がしたことの代償なんて知りたくなかった。無責任に放棄したかった。でも助けたのはあんたでしょ?なら、この罪悪感を消してよ。」
私はどこまでも自分勝手な生き物だ。命が助かって、その恩恵だけを受けようとしている。
「ごめん。でも、多分無理。」
「お願い。あんたが溺れたら、私が助けるから。」
私は持っていた紙を彼に渡した。彼は紙を二度見する。
(退部届じゃなかったの?)
「あんたから渡しておいて。」
それは私の入部届だった。
「はははははは。やっぱり君がやることは面白いね。」
補聴器を付けた彼は屋上の地べたに寝転んだ。昨日、私は正式に競泳部のマネージャーになった。強豪校なだけあり、マネージャーは元選手しかおらず、分かっていたことだけど私の居場所はなかった。みんな大体の事情は知っていて、直接何かを言ってくることはしないけれど、胸中は穏やかではない。
「分かっていたけど最悪だよ。」
(でもこれくらいのことをしないと。)
「それで宇ノ沢君は?」
「まだ。水にも入ってない。」
「そっか、君は大丈夫?」
「大丈夫じゃない。でも一人だけ歓迎してくれる人がいてさ、北沢君って知ってる?」
「北沢海人(きたざわかいと)?5組の?」
「うん。マネージャーなんだけど、宇ノ沢の専属みたいになってて、彼だけ仲良くしてくれた。」
彼は宇ノ沢に憧れて翠蘭に入学したけれど怪我で選手を辞めたらしい。
「よかったね。味方がいて。」
「同級生なのに師弟関係がすごいの。もう崇拝してるね。」
(楽しそうだね。)
「別にそんなことないよ。」
「それより、今日は部活行かなくていいの?」
「明日から合宿だから今日は休みなの。」
「土日も部活だなんて信じられない。」
「まぁ私は行かないんだけどね。」
彼は「いいご身分だね」と呟いた。
『北沢です!いきなりごめん。明日って空いてる?空いてたら9時にプール来てほしい!颯の特訓しようと思って。』
リビングでテレビを見ていた私のスマホにそうメッセージが飛び込んだ。
「まじか。」
「何?」
台所で夕飯を作っていた母がこちらを覗く。
「水着ってどこにあるっけ?」
「え?マネージャーも泳ぐの?」
母には入部届を出す前にマネージャーになることを伝えていた。宇ノ沢のことも。
「いや、泳がないけど一応?」
「あるけど、入らないと思うよ。」
「うるさいなぁ。」
確かに中学生の時の水着は無理だ。
「買う?」
「いや、様子みるよ。」
私は北沢君に『了解!』と返信した。
『明日暇?』
今度は美月からメッセージが来た。
『暇だったんだけど、部活入っちゃった。』
『え!さっそく?見に行こうかな。』
『私マネージャーだから。』
『違うよ、宇ノ沢君をだよ。』
『そっちか。』
美月は馬鹿にした表情のうさぎのスタンプを送って来た。
約束の10分前にプールサイドに到着した。屋内だから温かい。そこには準備万端の北沢君がいた。何やら壁のスイッチを触っている。
「…お疲れ様です。」
何て声を掛ければいいか分からず、仰々しくなる。
「あ!岩崎さん!颯は?」
「見てないけど。」
「そっかぁ。適当にそこ座ってて。」
何やら台帳を開いて記入している北沢君を見て何か手伝いたいと思いつつも、邪魔したくなくて言われた通り、ベンチに座った。これじゃあマネージャーじゃなくてただの見物客だ。
9時10分。宇ノ沢はまだ来ない。することがなくなったのか、北沢君もベンチに腰かけた。
「颯こないね。」
「電話しようか?」
「ううん。さっきしたら、もうすぐ着くって言ってたから大丈夫。」
「そっか。」
気まずい沈黙が流れる。彼とは会ってまだ2回目だ。
「俺さ、部活、一回辞めようとしたんだよね。」
場繋ぎにしては重い話だった。
「泳げないって分かった時ってさ、水泳と縁を切りたくなった。泳げる人を見るのが辛いからね。だから颯の気持ちが痛い程分かる。」
宇ノ沢を泳げなくさせた私は罰が悪くなる。
「だけど、マネージャーになって欲しいって言ってきたの颯なんだよ。俺が必要だって颯が言ったんだ。」
宇ノ沢のその手の言葉には目が光ってしまうが、北沢君が必要だったのは事実だろう。
「だけど、俺がいるのに颯は泳げなくなった。必要なのは俺じゃなくて岩崎さんだったんだね。」
(嫉妬するよ。)
返す言葉が見つからない。
「あの日、俺も颯と一緒にいたんだ。颯は無我夢中で川に飛び込んで、溺れかけながら岩崎さんを助けてた。近くにいた先生が止めろって言っても聞かなかったよ。」
私がしたことは、北沢君をも傷つけていた。
「…悪く聞こえてたらごめん。何が言いたいかって言うと、その…マネージャーになってくれてありがとう。みんな不愛想でごめんね。みんなはやっぱり、君を歓迎できていないみたい。」
「…うん。歓迎されないって分かってた。」
「でも俺は、感謝してる。過去がどうでも、颯の未来の為に岩崎さんが必要なことは確かだから。」
「ありがとう。雑用でも何でもするから。」
(言ったね。)
「それ、信用していい?」
「うん。」
「じゃあ何をしても恨まないでね。」
北沢君の目は真剣だった。
結局颯が来たのは9時半だった。
「颯、水着は?」
「あー部室。」
「何でよ。着替えて来いって言ったじゃん。」
「うーん。あ、怜。」
颯はジャージ姿でプールサイドに現れた。
「ふざけんなよ。」
温厚なイメージだった北沢君がそう呟くと、空気が凍った。北沢君はベンチから立ち上がった。
「岩崎さん、ごめん。せっかく来てもらったのに。今日もう帰って。」
「えっ…でも。」
「いいから。」
後ろ姿しか見えず、北沢君が何を考えているか分からない。
(何で海人キレてんの?)
私はどうするべきか分からず戸惑っていると、いきなり腕を引っ張られた。
「えっ。」
「おい。」
北沢君は私の腕を引っ張り、ベンチとは反対側にあるドアの方へ引っ張っていく。
「海人、やめろ。」
宇ノ沢の声が遠くなっていく。
「海人!」
宇ノ沢が叫ぶと、北沢君は足を止めた。
「何のつもり?」
颯の声に怒りが混ざる。
「全部…この子のせいでしょ?」
人格が変わった北沢君の目に光がない。
(ごめんね、岩崎さん。)
そう聴こえたと同時に私は北沢君に突き飛ばされた。
冷たい水の中に私はいた。北沢君は私をプールに突き飛ばした。
(そっか、演技か。)
北沢君はきっと怒った演技をした。颯をまた水の中に入れる為に私を突き飛ばす口実を作った。
(強引すぎない?)
ジャージの重みで体がどんどん底に沈んでいく。誰かが助けてくれる気配はない。あの日と同じ光景だった。静かで何も聞こえない。光も次第に薄れていく。そしてすべての光が消えた時、息苦しさと共に死がやって来る。
「おい!おい!」
宇ノ沢の必死な顔が目の前にある。私は彼に抱きかかえられながら浮かんでいた。
「引っ張って。」
血の気の引いた顔をした北沢君が手を差し伸べる。北沢君が引っ張り、宇ノ沢が下から持ち上げ、私はプールサイドに打ち上げられた。
「海人、やり過ぎだ。」
宇ノ沢は咽る私の背中を擦った。彼も北沢君の演技を見破っていたのだろう。
「ごめん…岩崎さん。俺…ごめん。」
(どうしよう。殺しかけた?どうしよう。)
北沢君の顔は真っ白だった。私は息を整えてから、彼に声を掛けた。
「で、どう?作戦成功したの?」
(今、そんなこと。)
こっちがトラウマになったが、私のことはこの際どうでもいい。北沢君は宇ノ沢を見つめた。
「はぁ。見ての通りビショビショだよ。」
(ここまでする必要ある?)
彼は呆れた表情をしていた。
「泳げそう?」
(そう単純に行くかよ。)
「でも入ったじゃん。」
「え?」
聲と声を間違えてしまった。
「もう一回入れば?」
間髪入れず会話を繋ぐ。
「だから…はぁ。」
「ていうか、北沢君だけ濡れてないのずるくない?」
「確かに。」
(やるか。)
私と宇ノ沢は北沢君の腕をそれぞれ引っ張った。
「ちょ、ちょっと。」
北沢君がプールにダイブする。いたずらっ子の顔に笑顔が咲いた。
「もー俺、着替え持ってきてないんだけど。」
「あ、私もないや。」
「俺も。」
「えっどうすんの。外寒いよ。」
「最悪。絶対乾かねぇ。この野郎。」
宇ノ沢は自らプールに飛び込んだ。北沢君と追いかけっこが始まる。そんな2人を見て安堵した。
彼は完全にトラウマを乗り越えた訳ではないだろう。実際その後、何度か彼は部活中に溺れた。けれど、この日の出来事が、もう一度彼が自分の歩んでいたレールに戻る一歩になった。彼はまた眩しい存在となった。いや、前よりも一層輝いていた。
「で、帰りはどうしたの?」
屋上で仰向けに寝転ぶ彼は、眩しいのか目を瞑っている。
「美月に頼んで着替え持ってきてもらった。」
「おぉ、持つべきものは友だね。」
「思ってないでしょ。」
「本心だよ。失礼だな。」
棒読みだ。
「ねぇ、あんたはどうしてるの?一人じゃできないことだってあるでしょ?」
「例えば?」
「…スポーツとか。」
「興味ないね。」
「じゃあゲーム。対戦とかあるでしょ。」
「興味ない。」
「じゃあ何に興味あるの?」
彼はいつも自分の事を語ろうとしない。
「うーん、強いて言えば、読書かな。音が要らないから。」
理由が切なかった。だから踏み込めなかった。
「家では喋るでしょ?」
「喋らないよ。」
「何で?聞こえていること知ってるでしょ?」
「うーん。知ってはいるね。だけど、知らないフリしてる。」
これ以上質問出来なかった。
彼は眩しそうに片目だけ開ける。
(別に同情しなくていいよ。慣れてるから。)
「同情してないし。兄弟は?」
「僕の事はもういいよ。」
「ずるいじゃん。いつも私ばっかり。」
彼は少し悩んでから重い口を開けた。
「弟が一人。」
「いくつ?」
「高一。」
「え、年子?」
「うん。」
「もしかして翠蘭?」
「いや、違うよ。南陽。」
南陽高校。スポーツ科が有名な高校だ。
「翠蘭落ちたんだ。」
「そこまで教えなくていいよ。」
彼は日光浴に疲れたのか、上半身だけ起き上がった。
「聴覚障害がある子供が産まれた翌年にもう一人子供を産んだ。分かるでしょ?」
(上書きだよ。別に虐待されてる訳じゃないし、どうでもいいんだけどね。)
彼は家でも空気の様に扱われていた。
「あ、南陽で思い出したんだけど、明戸さんも今、南陽だよ。」
「え?」
彼女の名前を久しぶりに聞いた。
「もう関係ないか。」
もう関係ない。彼女は私の世界から消えた。消したんだ。
「先生からの呼び出し何だったの?」
席に座ると真っ先に美月が話かけてきた。私は彼と会っていることを誰にも言っていない。
「進路希望調査出してなくて、催促された。」
「あぁ、あれね。」
(私にはいつでもいいって言ってたのに。)
しまった。
「美月は出した?」
「うん、一応ね。でも迷ってる。」
「内部進学じゃないの?」
(言っちゃおうかな。)
美月は前の席の椅子を180度回転させ、私と向かい合って座った。
「まだ迷ってるんだけど、美大受験したいなって思ってる。」
「えっすごいね。」
「まだ親にも言ってないから秘密ね。」
美月は恥ずかしそうに微笑んだ。夢がある彼女を羨ましく思う。私はやはり、まだ先のことは考えられそうにない。
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