第2話
ガラガラ
ノックも無しに開いたドアから若い看護師が入ってきた。気怠そうに肩を揉みながらあくびをしていたが、私と目が合うと、口が開いたまま静止した。
「えっ。」
看護師は慌てた様子で近づいてくると、私の頭上にあるナースコールを鳴らした。
「いっ岩崎怜ちゃん、目を覚ましました。」
耳元で大声を出さないで欲しいけれどよっぽど焦っているのだろう。
「自分の名前分かる?」
3秒前に正解を叫んでたくせにと心の中でつっこんだ。
「…い…ぃ…岩崎…怜です。」
久しぶりに声を出したせいか、口の中が乾燥して上手く喋れない。
「あー焦ったー。こんなことあるんだ。」
ガラガラ
看護師の背後から白衣を着た医者と年の取った看護師が入ってきた。2人は一瞬、さっきからいる看護師と同じ反応をしたが、淡々と検査を始めた。
「自分の名前言えますか?」
さっきから名前ばかり聞かれることに戸惑ったが、これは決まり文句なのだろうと17歳ながら察し、幼稚園児のように自分の名前を答えた。
「どうしてここにいるのか覚えてますか?」
私は首を縦に振った。
「川に飛び込みました。」
「そうです。怜さんは1か月近く意識が戻りませんでした。」
今が11月であることに驚いた。
「救助されたのが早かったのですが、脳が損傷していて常に危険な状況にありました。意識が戻ってよかったと言いたいところですが、検査を終えないばかりには何も言うことが出来ません。…でも、まぁ本当に良かった。今から診察室に移ってもらいます。」
『本当に良かった』といった時だけ、人間味の無かった無表情の医者に表情が浮かび上がった気がした。
医者はそそくさと病室から出て行こうとしたけれど、忘れ物でもしたのかすぐに戻ってきた。
「岩崎さん、一つだけ。…今でも自殺願望がありますか?」
医者はまっすぐ私の目を見た。吸い込まれそうな瞳を前に、私は思わず首を横に振った。医者は少し笑ったように見えた。
検査を待つ間は、ぼんやりと窓の外を眺めた。暑くも寒くもない室温のせいで失った1か月が現実味を持たない。赤く色付く木々が秋を告げても、風も匂いも窓越しでは感じられない。
ガラガラ
また、ノックも無しにドアが開いた。そこには母親が立っていた。1か月しか経っていないのにずいぶん老けたように思える。
「よかった。」
ドアを開けたまま立ち尽くす母親の顔は、言葉とは裏腹に怒っているように見えた。
「何でこんなことしたの。いや、いい、言わなくていい。」
母親は近くのパイプ椅子に持っていた鞄を置いた。大きな2つの鞄から、私の下着やタオルを出し、引き出しにしまっていく。淡々と作業をする母親を私は眺めることしか出来なかった。
あの日の感じた母親への失望は今はもうない。消えたというよりも忘れたというのが正しいだろう。
許した訳でも許していない訳でもない。理由は分からない、なのに、涙がこぼれた。迷子になったときに母親を見つけたような気持ちになった。
鼻をすする音で、母親は私が泣いていることに気が付いた。
「私のせいだよね。ごめんね。」
母親は涙を堪えるように病室から出て行った。
母親と入れ違いに入って来た看護師は様子を窺いつつも検査の時間と告げる。
「ここに座れる?」
看護師は折り畳まれていた車いすを広げ、座面を軽く叩いた。私は足をベッドから出し、床につけた。立ち上がろうと脹脛に力を入れたが、思うように入らない。
「もしかして、私、歩けないんですか?」
血の気が引いた。
「あ、ううん。筋肉が弱っているだけだよ。」
体に障害が残っていないと分かり、安堵する。まだわからないけれど。
私は車いすに座り、看護師に押されて病室を出た。真っ白な廊下が、現実味を持たせない。まだ、夢の中にいる心地がする。
「こんにちは。」
廊下の向こうから私と同じように、車いすに乗った女の子が来た。彼女の鼻にはチューブが取り付けられていて、ニット帽を被っている。血色のない唇の口角が上がり、真っ白な肌に皺が入る。彼女の笑顔が、苦しい。
「こ…こんにちは。」
「初めて見るなぁ。」
車いすは止まることなく進んだため、彼女との会話は挨拶だけで終わった。それ以降、彼女を見ることはなかった。
検査では白いトンネルに入ったり、無数のコードが繋がったヘルメットを被ったりした。私の体は貧弱になっていて、少し動いただけでひどく疲れた。自分が眠っていた月日の長さを初めて思い知った。
病室に戻った頃には外は暗くなっていて、母親の姿もなかった。
検査結果が出るまでは食べては寝ての繰り返しだった。暇つぶしに見ていたテレビでは、猫とネズミがひたすら追いかけっこをしている。
体力はすぐに回復し、病院内を散策したりと動き回れるようになったが、ロビーや中庭とか人が多いところでは、人の声がやけにうるさく感じ、次第に病室から出るのをやめた。
退屈さが限界になってもスマホを返してもらおうとは思わなかった。むしろ見たくなかった。
病室で本を読んでいると、朝から鳴り続けていた白色雑音が小さくなり、霧のような雨に変わった。4階にある病室からは中庭がよく見えて、人影がまばらにある。昼間なのにうっすらとした光しか差し込まず、そのおかげで目を細めることなく空を眺めた。
(雲って案外、早く動くなぁ。あ、動いているのは地球か。あ、いや、雲は風で動いているんだっけ。)
確実に偏差値は落ちていた。
ふと、視界の隅で何かが動く。目をやると屋上に人影があった。
(屋上出られるんだ。)
迷うことなく私は病室を出た。
へとへとになりながら階段を登り、屋上のドアを開けた。そこには窓越しに見ていた空が大きく広がっていた。誰かいると思っていたが、そこに人影はなかった。
(帰ったのかな。ラッキー。)
曇り空といっても、ずっと見ていたら目が細くなる。
空と屋上。屋上と空。
あの日の事を思い出す。
私はフェンスに近づいた。あの日、屋上のドアが開いていたら、私は今ここにいないだろう。この冷たい空気も、秋の匂いも、風も、感じることはなかった。
フェンスに手を掛け、下を覗く。遠い地面に吸い込まれる感覚がして、咄嗟に頭を上げた。
怖い。
あの日だって怖くなかった訳じゃない。怖かったけれど、それを掻き消す何かがあった。
(そうだ。罪滅ぼしだったんだ。)
記憶として思い出せていても、感情まで蘇ることはなかった。しかし、ようやく今があの日の続きであることを実感した。
私は助かってよかったと、目が覚めた時そう思ってしまった。
医者も看護師も私を患者として扱った。母親にも謝られた。だから自分は被害者で助かってよかった人間だと思ってしまった。
だけど、違う。
『被害者ヅラしないで。』
杏奈の言葉を思い出す。私は患者でも被害者でもない、加害者だった。その事をようやく思い出した。生きていてよかったなんて、自分勝手すぎる。私は生きているべきじゃない。
私はフェンスを掴む手に力を入れて身を乗り出し、フェンスの外の30センチ程の足場に立った。恐怖で背筋が凍り、落ちないように手に力を込めた。
(無理だよ。)
ここから飛び降りるなんて到底できることではなかった。今の私に、恐怖を上書きするほどの罪悪感はない。私はまだ、自分の罪の全てを自覚できていない、自己中心的な怪物だった。
(もう、死ねない。本当に怪物になっちゃった。)
涙が数十メートル下の地面に落ちて行ったが、霧雨の中に消えて最後まで目で追うことはできなかった。私も真っ白な霧の中に消えていけたら楽になれるのに。
「何してんの?」
背後から声がした。さらに背筋が凍る。
(最悪。)
自殺しようとしているようにしか見えないこの状況を、どう説明したら良いか思考を巡らせる。
(「来ないで。」って言って引き留めてもらうか、いや、素直に死のうとしたけど無理でしたって言うか、いや、え…どうしよう。)
後ろを振り向けるような体勢ではなく、誰に話かけられたのかも分からない状況で、返事をすることが正しいのかもよく分からず、相手の言葉を待つことにした。
しかし、言葉が続くことはなく、もうどこかに行ったのかもしれないと思っていると、急に手に振動が走った。
隣で誰かがフェンスを飛び越えた。鉄製の手すりを伝って彼の体重分の振動が私の手に押し寄せる。
彼は私とは反対に後ろを向いていて、仰け反りながら私の顔を覗く。
「死ぬの?」
私は彼の行動よりも先に、その正体に驚いた。
「え…深山くん?」
彼は耳が聞こえないフリをしているクラスメイトだった。
「あぁ知ってるんだ。僕の名前。」
「そりゃあ…。」
風が吹いて長い前髪から彼の目が覗く。その目は生きることへの執着がない死んだ魚のようだった。
あの時も、こんな目をしていた。彼と目が合うと、自分自身に見られているような心地がする。
透明人間の様に扱われる彼に、私の醜さはろ過されることなく投影された。
だからあの時、私はカンニングペーパーを取ったのだろう。あれは初めて自分を見つめた瞬間だった。杏奈から自分を取り返した瞬間だった。
そうだ。彼のせいだ。自殺をしたのは彼のせいだ。彼とあの時教室でばったり会うことがなければ、杏奈から自分を取り返そうとはしなかった。いじめていることに気付くことも、美月を助けることもなかった。
(あぁ、また人のせいにしてる。)
「まぁ、何でもいいんだけど、死ぬの?」
彼と話していることが異常事態すぎて、屋上の淵で会話していることの異常性を忘れていた。そして同時に彼の異常性にも気が付いた。
「それより…何でいるの?何でここに立ってるの?危ないよ。」
「質問に答えてよ。君が死のうとしていると思ったから、僕もここに立った。」
理解が追い付かないのは、私の偏差値が落ちたからではないことはわかった。
「意味わかんない。」
「一人で死ねないなら一緒にと思って。」
もっと意味がわからなかった。
「そっちも…死にたいってこと?」
「君は死にたくないの?」
(死にたくないと言うより、死ねない。)
「分からない。」
「なんだ。じゃあ戻るよ。」
彼はまた軽々とフェンスを飛び越えた。
「君はいつまでそうしてるの?」
実を言うと、高いところが怖くて戻ることが出来なくなっていた。
「もしかして怖いの?」
彼は私の右腕を掴んだ。
「怖いならこんなことしなきゃいいのに。ほら、はやく。」
私に別の緊張が襲う。
一人で戻れそうにもないので、彼が掴んだ右手を信じて、左手を手すりから離した。体を180度回転させてもう一度手すりを掴む。
目の前に彼の顔があった。やはり死んだ魚の目をしている。気まずくなる前に私はフェンスに足をかけ、飛び越えた。冷や汗が徐々に引いていき、身震いする。
「何で?」
彼はまだ、私の右腕を掴んでいた。
「何でこんなこと出来るようになったわけ?君は臆病な人間だったのに。」
彼は早口で喋った。
「え?急に何?」
「え?」
「臆病って、私のこと知ってたの?」
「え?」
彼は急に驚いて固まった。私の右腕が開放される。
「やっぱり聞こえるんだ。」
「ん?何が?」
「俺の声。」
彼は一応難聴者で、補聴器を着けていることを思い出した。
「今さら?」
「そうじゃなくて、そっか。聞こえるんだね。さっきからもしかしたらって思っていたんだけど、やっぱりね。」
彼は唾を呑み込んでまっすぐ私を見た。
「僕は声を出していない。君も心の声が聞こえるんだよ。」
非現実的な事を口走る彼を見て、今度は私が固まった。彼の口は動いていない。腹話術でもしている様だった。
「腹話術じゃないよ。」
「えっ。」
時が止まった。
何が起きているのか分からない。
(ありえない。)
(うん。僕も最初はそうだった。その感覚分かるよ。)
部活の先輩みたいな言い方が癇に障る。
死の淵に立つと霊感が強くなるとか、不思議な能力が身に付くことがあるとテレビで見たことがある。まさに今がそうなのだろうか。
(頭打ったから?)
損傷した脳は1か月眠った後、回復した。その修復過程に超人的な能力を身につけることもあるのだろうか。
(どうだろうね。)
(あんたは?)
彼も頭を打ったのだろうか。頭を打ったらみんなこうなるのだろうか。自分の知らない世界はずっと身近に存在していて今迷い込んでしまったのだろうか。
段々彼が異世界への案内人に見えてきた。
(僕は頭打ってないし、案内人でもない。自分以外で聴こえる人に初めて出会ったよ。)
(あんたはどうして聴こえるの?)
(原因は分からないけど、僕の場合、普通の声が聞こえなくなるのと同時に、聞こえるはずのない聲が聴こえるようになった。)
(いや、普通の声も聞こえてるでしょ。)
「あっ。」
心の聲は配慮が効かない。
(君が知っていることは僕も知ってるよ。)
(そっか、ずっと聴こえていた訳だから、何でも知っているのか。きもいな。)
「聞こえてるよ。」
「あぁ、ごめん。」
(僕だって聴きたくて聴いてる訳じゃないからね。)
聴こえない聲が聴こえるということは、聴きたくない聲も聴こえてしまうということだった。
「なんか、残酷かも。」
「そう?面白いこともあるよ。それに…ほら、」
(君は聴こえていた方がいいじゃない?)
「何で?」
(君はよく間違った解釈をしているから。)
「周りはさほど君を悪く思っていないよ。」
目の奥がツーンとした。徐々に目頭に熱が集まり始める。
状況が整理できていないのに突然現れた優しい言葉が胸に刺さる。どさくさに紛れて急に抱きしめられた気がした。きっとその言葉をずっと待っていたのだろう。誰かにそう言って欲しかったのだろう。そしてその誰かは、真実しか言えない彼だった。
私は必死に涙を堪えた。
(本当に?)
(この能力が必要なのは僕じゃなくて君だったんだね。よかった、君にも使えて。)
いつも誰が何を考えているのか探って、聴こえない聲を想像して、脅えて、苦しんでいたように思う。
(神様は意味のないことはしないよ。きっと君が聴きたいと願ったから叶えてくれたんだよ。)
(私は無宗教だから神様とか信じないよ。)
(知ってる。)
彼と話すのは初めてのはずなのに、初めてに思えないのは彼に何でも知られているからだ。誰にも言えない苦しみさえも彼はずっと知っていた。
(あの時も聞こえてたってことか。)
「あの時?」
「放課後教室で会ったの覚えてない?」
「あぁ、あの時か。覚えてるよ。」
(君は勝手に僕に追い詰められていたね。)
(聴かれてたんだ。)
私は被害妄想ばかりしていた。
(あんたのことも教えてよ。)
(いいよ僕のことは。死んだ目をした魚に興味なんてないでしょ?)
彼はにやりと笑った。
(それを言うなら死んだ魚の目ね。)
霧のような雨はいつしか止んでいて太陽が出てきた。澄んだ空気が心を浄化していく。
「何で病院にいるの?」
「定期的に入院してるんだよ。耳おかしいから。」
「左は聞こえるの?補聴器着けてないけど。」
「逆だよ。左は補聴器着けても意味がないっていうこと。右はある程度は聞こえる。」
(そんなに話せるのに、何で学校で話さないの?)
(君が周りに本音を言えないのと一緒だよ。)
彼が話せないのは耳のせいではなかった。私と一緒。話さないんじゃない、話せないんだ。
「いつまで入院してるの?」
「来週の金曜かな。」
「そんなに長いんだ。」
「君は?」
「分からない。けど、もうどこも悪くないと思う。」
「じゃあ君の方が早いかもね。」
「退院したくないな。」
「分かるよ。」
退院した後のことを想像する。
「もう、戻りたくない。普通の生活に。」
ずっとここにいたい。過去の自分と向き合うことも、現実を知ることも怖かった。
私はまた、普通の人生をスタートさせなければいけないのだろうか。
普通の人生。どこまでが普通だったのだろう。美月を助けようとするまでなのだろうか。杏奈に脅えていたあの頃が、私にとっての普通なのだろうか。だとしたら
(死んでいたほうがよかったかも。)
「普通の人生が嫌だから死んだの?だとしたら安心して。君の人生が普通になることはないから。」
そうだった。私は自殺未遂をした。簡単に普通の人生を再スタートさせられる訳がない。とっくにコースアウトしていたんだ。
さっきまで要らないと思っていたのに、手に入らなくなった途端にそれが欲しくなった。欲まみれの人間だ。
私の将来に何が待っているのだろうか。今が地獄でも、これ以上地獄にならない保証なんてどこにもない。お先真っ暗ってやつだ。
(言葉選んでよ。)
(君に選んだって仕様がない。)
(それはそうだけど。)
「何で落ち込むの?君が自分でしたことなのに。」
(そうだよ。私は自分の手で自分の人生を捨てた。)
川に飛び込んだ時、いや、杏奈に言いたいことを言った時、いやもっと前、職員室でスマホを掲げた時、私は普通の人生を自分で捨てた。逃げるつもりだったから捨てた。逃げられないなら、捨てなきゃよかった。
「人生を捨てて何が欲しかったの?」
欲しかったもの…。私を突き動したのは罪悪感や自己嫌悪だけではない。損得勘定が働いていたことを彼は知っているのだろうか。
「正しい世界。悪い事をした人が裁かれる世界。」
「立派だね。弁護士になれるよ。」
(お母さんみたいに。)
彼は揶揄っていた。
「それなら得られたんじゃない?しかも君は生きている訳だから損することなく。」
「損してるよ。生きるほうが辛いと思う。」
「だからさっき死のうとしたの?」
「それは、自分でもわからない。」
そこまで考えていたかもしれないし、考えていなかったかもしれない。きっと後者だけど。
「僕だったら死ぬ前に、自分が得をしたのか確かめるね。普通気になるでしょ。明戸さんのこととか。」
「気になるけど、知りたいとは思わない。そんな気力ない。」
「無気力ってやつか。病んでるね。」
気にならないはずがない。私はあの時、自分の全てを懸けて社会を変えたかった。自分の死に意味があったのか知りたい。だけど、何も変わっていなかったらと思うとその一歩を踏み出せなかった。
(僕知ってるけど、聞きたい?あ、ダメだ。これ以上目を見たら言っちゃうよ。)
ネタバレをしたくてうずうずしている少年には、デリカシーがない。
「…どうなったの?」
すぐ手の届くところに置かれた餌に食いつきたくなるのは動物的衝動で、そんなものがいとも簡単に踏み込めなかったはずの一歩を踏み出させた。
「やっぱり気になるよね。うん、分かった。発表します。明戸さんは君の望み通り、転校という名の退学になりました。ちなみに担任も校長もみんな懲戒処分になって辞めたよ。」
言葉の意味をゆっくりと消化する。私の死には意味があった。小さくても社会を変えられた。目的は果たせた。
「そっか。」
「それだけ?」
「うん。」
けれど、嬉しいとは思わなかった。ただ絶望を避けられただけだ。目的を果たせても、死んだらその恩恵なんて受けられない。称賛も名誉もなにもかも。自分にとっての自分の死は何の意味も持たないことを初めて知った。
(まぁそんなもんか。)
「深くは考えずに気楽に捉えなよ。一度死んだと思って新しく人生を始めればいい。」
「そんなこと出来ないよ。名前も顔も戸籍も変えられない。」
「誰も自分を知らないところに行くのは?海外とか。」
「そんな…楽しんだら…。」
(自分が被害者みたいじゃん。)
危ない。気を抜くと被害者ヅラをしてしまう。私は醜い人間だ。
「被害者じゃないの?」
「うん、違うよ。自殺したら被害者、自殺させたら加害者。普通はそうなるでしょ?でも私の場合は違う。」
「君は加害者なの?」
「うん。」
「加害者だから君は楽しんだらいけないの?」
「うん。罪から逃げちゃだめなの。」
「えらいね。」
「えらくないよ。」
「えらいよ。普通は逃げるんだよ。」
「逃げた結果だよ。」
「違うよ。普通は逃げ切るんだよ。」
(あぁそっか。普通は逃げ切れるのか。杏奈や茜みたいに。)
「私が世渡り上手じゃないってことね。」
「ネガティブだなぁ。」
いっそ杏奈や茜の様になれたらと憧れてみたこともあったけれど、本当に憧れていたのは別の人だった。
「僕は、君に明戸さんや杉野さんみたいになれって言ってるんじゃないよ。ただ、罪を自覚しないで生きている人間が沢山いることを分かっていて欲しいだけ。罪悪感を覚えるのは君が優しい証拠。」
その罪悪感も私の中で薄れ始めていた。
(私は優しい人間じゃないよ。)
「そんなことないけど、それでいいよ。優しくなくていいよ。誰かに優しくする義理なんて要らないよ。」
(誰も自分に優しくしてくれないのに。)
その聲に、彼の心の底が垣間見えた。
(なんでそんなに慰めるの?)
「同じ能力を持つ同業者として、親睦を深めようとしているだけだよ。」
「あっそ。」
彼はにやりと笑った。知らない表情が次々に現れ、学校でみる彼とはまるで別人だった。
「これまで、自傷行為を繰り返していたということはありますか?」
「ないです。」
「手首を切ったりだとか、自分の体を傷つけたことは?」
「ないです。」
「では飛び降りようとしたとか、首を吊ろうとか…」
「してないです。」
(全然当てはまらないんだけど、本当に自殺したわけ?)
精神科の診断やカウンセリングは、私を軽度のうつ病と名付けた。だけどそれは自殺未遂の原因を上手くまとめるためのおまけのようなものだった。
自殺未遂をした人の心理的特徴に私は当てはまらなかったのだろう。まだ心を開いていないと何度もカウンセリングが行われたが、カウンセラーが心を開かないんじゃこちらの開き損だ。
普通の子じゃないかと私を患者と認識しなくなってきたカウンセラーは、いつしかカウンセリングではなく説教を始めた。
「じゃあどうしてこんなことしたの?」
(何て報告すればいいんだよ。)
「覚えてないです。」
「突発的にしたってこと?」
(そんなことあるかよ。)
「まぁそんな感じです。」
「あのねぇ、生きたくても生きられない子が沢山いるのよ。」
その言葉が心臓に深く突き刺さった。
(そんなこと、知ってるよ。)
ここにいれば痛い程分かる。生きたくても生きられない子しかいない。そんなこと分かってる。だけど、
「私も、生きたくても生きられない子ではないんですか?」
私だって死にたくて死んだ訳じゃない。生きたかったよ。生きたかったけど、死んだ。それを誰も分かってくれない。
「あなたは健康でしょ?」
(何言ってるの?反抗期か。)
心の聲が聴こえるのは悲しいことだった。聞かせられない言葉なのだから聴こえないほうがいいに決まっている。私はぎゅっと握った手の震えを必死に堪えた。
屋上に行くと、案の定彼がいた。何でいるのか聴くと屋上の番人だからという意味不明な回答しか返ってこなかった。心の聲が聴こえるはずなのに、時々何を考えているのか分からなくなる時があるが、それはきっと何も考えていないからだ。ミステリアスに見える人間ほど大した秘密を抱えていない。
「それで何かあったの?」
「え?」
「ここに来るのは何かあったからでしょ?」
図星だ。私はカウンセリングを受けたことを彼に話した。
「生きたくても生きられない子がいるんだから、命を粗末にするなって言われた。」
「あーそうなんだ。それはどうかね。自分の命なんだから自分の勝手だと思うね。」
彼は私が欲しい言葉をくれた。
「そう思う?」
「うん。ご飯が食べられない子供がいるんだから残さず食べなさいってよく言うけど、自分が残さず食べたところで貧しい子供がご飯を食べられる訳じゃないしね。君が生きていたところで誰かが生きられる訳じゃない。」
(やっぱり、あんたも薄っぺらい言葉だって思うよね。)
「ううん、そうは思わない。」
不意に否定されて言葉が出なかった。てっきり彼は私を全肯定してくれる味方だと思っていた。
「この言葉の本当の意味は、生きているだけで得しているってことなんだと思う。だとしたら薄っぺらいとは思わないかな。」
(前にも私が得してるって言ってたっけ。)
「うん。死んだら見られなかった自分の死後の世界を君は見られる訳だから、君は死んだ人間の中で一番得しているよ。」
「人を幽霊みたいに言わないでくれる?」
死んだ魚の様な目をしておきながら生きていることが得だと言うには、説得力に欠けるはずだった。けれど、それは嘘を付けない彼の本心だった。自分の意見を否定されても、自分自身を否定されている様には思えず、肯定することだけが味方ではないと知った。そう、彼は味方だ。ただ、闇雲に大人に反抗した自分がいかに子供だったか思い知らされた。
「それで、命を粗末にするなって言われて何て返したの?」
「生きたくても生きられない子がいるって言われたから、私も生きたくても生きられない子じゃないんですかって言った。」
彼の表情が明るくなる。
「おぉやるねぇ。やっぱりすごいね。」
「何が?」
「君らしいと思って。」
「どこが。」
(捻くれていて揚げ足とる感じ。)
(悪口じゃん。)
「本当のこと言っただけ。」
(職員室で先生脅した時みたいでかっこいいよ。)
「何でそれ知ってるの。」
「あの場に僕もいたんだよ。」
「何で?」
あの時だけじゃない。誰もいない放課後の教室で会ったり、美月といた実験室で会ったり、記憶の中にはいつも無関係だった彼がいた。
「いや、ちょっと待って。ストーカーじゃないから。」
(僕のせいでもあるなって思ってただけ。)
「僕のせいで君がカンニングペーパーを取ったから、君が明戸さんと仲悪くなったのも僕のせいでしょ。だから、気になってたんだ。」
「だからストーカーしてたの?」
(うん。)
「きも。」
あの頃、私は一人ぼっちだと思っていた。だけど、彼はずっと私を知ってくれていた。
(ありがとう。)
あの頃の自分に味方がいたことが、一番の救いだった。出来ることなら、もっとはやく知りたかった。
「あの時の君はすごかった。教師の前で掲げた手が、あの、あれ…ナポレオンみたいだった。」
「ナポレオン?自由の女神じゃないんだ。」
「君がよくフランス革命で例えるから。」
やっぱり彼はきもかった。
「どうしてあんなことできたの?」
「自分で言ってたじゃん。自分のせいだって。その通りだよ。」
「やっぱり僕のせい?ごめん。」
(ううん。本当は感謝してる。)
「どっちみちこうなってたと思う。杏奈とずっといてもいつか限界がきて爆発したと思う。だからよかった。」
そう。よかったんだ。未遂で終わって。過去を悔やんで未来を憂いていたはずなのに、過去が変わった。悔やむものでも、恥ずかしいものでもなくなった。
(私、精一杯生きてた。)
一度だって人を傷付けたいと思った事なんてなかった。自分を守ることが他人を傷つけることになってしまった。だけど仕方なかった。誰も私を守ってなんかくれないんだから。自己犠牲を厭わない人間になんてなれない。
「よく頑張ってたよ。」
少し照れたように言った彼の言葉で、心が人肌程度に温められた。
母親はいつも通り言葉を発することなく、淡々と私の着替えを棚に詰めていく。そんな母親に背を向け、窓の外を眺めていた私は、勇気を出して振り向いた。しかし、母親が私の視線を気にかける様子はない。
(あっ。どうしよう。)
事故的に視線が合うと、母親はすぐに視線を逸らした。
目が覚めてから、一度も話をしていなかった。私が聞いたと思っていた母親の声はきっと心の聲だ。だから、知りたかった。
「お母さん。」
母親は驚いて視線を私に戻した。
(びっくりした。)
「どうしたの?」
見切り発車で話し掛けたせいで、次の言葉を用意していなかった。
(言いたいこと、言えないよね。ごめんね。)
「スマホ…欲しいんだけど。」
「えっ…あぁ。」
母親はカバンからスマホを取り出した。ケースを見るに私のスマホだ。
「無事だったんだ。」
てっきりリュックと共に川に流されたと思っていた。
「返して。」
(いや、見るべきじゃない。渡さない方がいいよね。)
「やっぱりだめ。まだ早い。」
「何で?」
「分かるでしょ?自分が何をしたか忘れたの?何でこんなことになったのか。」
落ち着いた声には怒りが混ざっていた。母親にとって自殺は犯罪と同等なのだろう。
「お母さんは、何でだと思うの?」
「私のせいだって言いたいの?」
(そりゃそうよね。喧嘩した後だったんだから。)
私は何も言わなかった。その無言が、肯定を意味すると知りながら。
(どうすればよかったの?どこで間違えたの?やっぱり私に母親なんて無理だった。)
母親は椅子に腰を下ろした。
「何で産んだの?」
ずっと言えなかった言葉がすらすらと口に出た。きっと困らせたかったんだと思う。私の事で悩む母親を見てみたかった。
(聞かないでよ。あの頃はこうなるとは思ってなかった。全部、全部お父さんが死んだのが悪い。お父さんがいれば、こんなことにならなかったのに。)
「二人暮らしになったとき、嫌だって思ったでしょ?」
「そんなこと…。」
(バレてるよね。子供には分かるんだ。)
「そんなに嫌だったんだ。だったら捨てればよかったのに。」
「捨てるわけないでしょ?」
(怜のために働いたのに、何でわからないの?何でこうなるの?)
「そうだよね。子供を捨てるなんて世間体が悪いか。」
「そうじゃない。」
口だけの母親に腹が立つ。
「そうじゃない?じゃあ何?」
「あなたのためでしょ⁉」
病院だというのに母親は声を荒げた。
「私のためなら、なんで何も聞いてくれなかったの?話しても説教しかしないじゃん。」
「忙しかったの。私が働かなかったら高校にも大学にも行けないんだよ?それでもいいの?」
「私、死んだんだよ?」
母親の顔から生気を無くなっていく。
(怜が死んだ。死んだんだ。)
悪夢を思い出した母親は脅えた。
(働いたって、意味なんてなかった。怜の為に働いていたのに。何やってたんだろう。私が怜を殺したんだ。私が、殺した。)
「…ごめん。」
(産んだだけで母親になれると思ってた。ごめんね。苦しい思いさせて。もう、何が正しかったかなんて分からない。どうするのが正解だったんだろう。育て方なんて分からないよ。)
「母親失格だね。」
母親は泣いた。子供を気にせず泣いた。母親は母親である前に、一人の人間だった。子供を産めば母親になれる訳じゃない。年を重ねれば大人になれる訳じゃない。母親もまた、肩書に苦しんでいた。
「私はずっと、お母さんの本音が聞きたかった。正しくなくていいから、本音を言ってほしかった。今みたいに私の前で泣いて欲しかった。」
母の涙に私もつられる。
「お母さんじゃなくていいから、家族になりたかった。」
溢れ出た言葉は、言いたくても言えなかった本心だった。私たちは生まれたての赤ん坊の様にわんわん泣いた。人目はないけれど、人目を惜しまず泣いた。
生気のなかった母親の顔に感情が生まれた。後悔の中に小さな喜びがあった。
「ごめんね、気付いてあげられなくて。いや、気付いていたのに助けてあげられなくてごめん。よく一人で頑張ったね。頑張らなくていいのに頑張ったのか。怜は…強いね。」
(お父さんそっくり。)
「お父さんも強かった?」
「…うん。…何年ぶりだろうね。お父さんの話するの。」
お父さんはいわゆる主夫だった。両親は大学の法学部で出会い、母親は弁護士に、お父さんは大学の教授になった。母親の方が忙しかった関係で、家事も育児もお父さんがしていた。我が家でお父さんは、たまにしか会わない母親と娘を繋ぐ存在だった。さばさばしていて頑固な部分がある母を、優しく包み込むような穏やかな人だった。
そんなお父さんが十年前、交通事故で死んだ。小学1年生だった私にとって、人生で一番悲しい出来事だった。なのに、母親はお父さんの葬式で泣くことさえもなかった。私は母親を恨んだ。薄情者だと軽蔑した。だからずっとお父さんの話はしなかった。最愛の人を失い、その話をすることも出来なくなったことが、私が母親に抱く嫌悪感の最たる原因だった。
でも今、目の前で泣く母親を見て、悟った。葬式で泣かなかったのは、悲しくなかった訳ではないと。
「お父さんの葬式の時、本当は泣いてたの?」
(当たり前でしょ。)
「何で、私の前で泣かなかったの?」
「泣いてもお父さんは戻ってこないでしょ。だから考えないようにしてた。」
(考えたら怜を育てられなくなる。)
泣く理由があるように、泣かないことにも理由があった。愛情表現も何もかも不器用な母親だけど、お父さんの死は受け入れ難いほどの悲しみだった。現実を受け入れようとすれば、日常に戻って来られなくなる。だから母親は私の為に自分を捨てた。母親になる為に。
「だったら、言ってよ。言わなきゃ分からないじゃん。本当のこと知ってたら、もっと違ってた。」
不器用すぎる母親への嫌気と後悔で感情がぐちゃぐちゃになる。
「…ごめん。」
「遅いよ。」
「ごめん。」
「この仕事人間が。」
「ごめん。」
「謝らないでよ。」
「…ごめん。」
一度だって謝ったことのない母親のか弱くなった姿を見て情けなくなる。
「だから謝らないで!」
「…。」
(じゃあどうすればいいの?)
「どうすればいいの?って言ってよ。」
「え?」
(何言ってるの?)
「何言ってんの?意味わかんないって言ってよ。」
(喧嘩したいってこと?)
「私は喧嘩したいの。お母さんと本音で話したい。」
「…私の事、嫌いじゃないの?」
「嫌いだけど、お母さんの事嫌いだけど、岩崎純(いわさきじゅん)のことは好きだから。」
本音を言ってくれなくて、私の事を何も知らなくて、なのに説教だけはする母親が嫌いだった。だけど弁護士として誰かを助けていることは誇らしくて、育児はしないけど家事は完璧にすることが腹立たしくて、好きだった。心の底から母親を嫌うことなんて出来なかった。
「怜ってこんな子だっけ。」
「知らないところでこんな風に育ったんだよ。失態だね。」
(嬉しいよ。)
「大きくなったね。」
「小さい時の方が可愛かったでしょ?」
「それはそうだね。」
「おい。」
母は懐かしい笑みを浮かべた。母親の笑みではなく、子供の様な、岩崎純の笑顔だった。
「何でも話すよ。育児が何か分かってなかった。」
「純って呼ぼうか?」
「それは嫌。」
母は握ったままになっていた私のスマホを差し出した。
「これ、返すね。」
(何が正しいかなんて分かんない。もう私が導く歳でもないのか。)
スマホの電源を入れると電池のマークが点滅した。
「充電器は?」
「ないけど。」
母の弱さを知れた日だった。
スマホを起動させ、メッセージアプリを開くと、数十件のメッセージが来ていた。その大半が飲食店のクーポンだったが、一件のメッセージを見てスクロールしていた指が止まった。
「さっきはごめん。直接謝りたい。」
10月14日11時47分。私が川に飛び込む少し前。差出人は美月だった。
『死んだら見られなかった自分の死後の世界を君は見られるんだから、死んだ人間の中で一番得してるよ。』
彼の言葉を思い出す。私は一つ得をしたらしい。
ネットで調べた私の自殺未遂についての情報は、彼や警察から聞いたものと相違なかった。文化祭は中止、杏奈は退学、教師は解雇。これが私が望んだ世界。
「何見てるの?」
洗濯から帰って来た母に気がつかなかった。
「別に、学校のこと調べてた。」
母の表情が曇る。
「これからのこと、ちゃんと話そう。」
母は服が大量に入った籠を置き、パイプ椅子に腰を下ろした。
「退院したら、私の地元に引っ越そう。」
「田舎じゃん。」
「二人でやり直すの。」
「仕事は?田舎で続けられるの?」
「…辞めようと思う。」
「何で?」
(怜の為。)
「私の為なんて言わないでね。私はお母さんの人生奪いたくない。」
「自分の為だよ。お母さんがそうしたいから。」
「嘘だ。」
「何で。じゃあ怜はどこに行きたいの?どうしたいの?」
「私は…。」
どうしたいかなんて、有り余った時間に沢山考えた。沖縄も北海道も海外もどこも魅力的だった。だけど私は、
「元通りでいい。あの家に戻って、翠蘭に行く。」
「…は?何言ってるの?」
「うん。自分でもよく分かんない。でも、私は損したくない。得したい。」
きっと私は彼に洗脳されていた。
「どういう意味?」
「私は転校したくて川に飛び込んだんじゃない。追い出されるべきなのはいじめた方で、いじめられた方が追い出されるのは違うでしょ。」
(立派になったね。)
「どうして…そんなふうに考えられるの。」
「私は…弁護士の娘だから。」
母は言葉を失った。
「だけど…。」
「もうお母さんが導く歳じゃないって言ってたじゃん。」
(いつ言ったっけ。)
言ってなかったかもしれない。
「私の人生、自分で決めるよ。」
母は納得こそしていなかったが、許可はしてくれた。
「よかったじゃん。仲直りできて。」
フェンスの隙間から、秋晴れの空に赤く染まった木々を見下ろす。地べたに胡坐をかきながら一足早い紅葉狩りだ。
「うん。明日、退院したらお父さんのお墓参り行く。」
私たちは徐々に同じ方角を向いて話すようになった。常に心の聲を聴かれているのが、お互いに恥ずかしくなったのかもしれない。
「あと、学校にも行く。」
「え。学校決まったの?」
「うん。翠蘭だよ。」
ふと彼の顔を覗くと満開の笑みが咲く。
(そんなに嬉しい?)
「うん。」
肯定されると思っていなくて恥ずかしくなったが、彼が気にする様子はない。
「何で転校するの辞めたの?」
(こんな超能力、一人で扱えると思う?)
「僕がいないとダメかぁ。」
「調子に乗らないでよ。」
実際のところ、彼にここで会うことがなかったら転校していたと思う。彼と出会ったお陰で今までの自分を否定せずに済んだ。忘れたい過去を忘れることが出来たらいいけど、それは私には無理だから、忘れたい過去をただの過去にする方法を選んだ。
お母さんは私を強い人間だと言ったけどそれは違う。忘れたい過去を忘れたいままにして生きるほうがよっぽど強いことを私は知っている。私は弱いままだ。強く見えるのはきっとこの超能力のせい。
「来週の月曜日、あんたも学校いる?」
「うん。僕もあと3日で退院だからね。」
「そっか。じゃあ登校日一緒だわ。」
「うん。待ってるね。」
どんな現実が待っているだろうか。どんな聲を聴いてしまうだろうか。自分で決めたのに恐怖心が消えることはなかった。
「大丈夫。君は無敵だから。」
「よく来たね。」
父方の祖母に会うのは、お父さんが亡くなって以来だから約10年ぶりだった。罰が悪そうな母を祖母は何も言わずに抱きしめた。背の高いはずの母の背中が小さく見える。
私たちはお父さんの墓参りの前に祖母の家に寄った。大昔に建てられた木造二階建ての家屋は、祖母ひとりで住むには広すぎるが、岩崎家の歴史が詰まっているこの場所を守っている様だった。お父さんも昔ここで暮らしていた。
だだっ広い玄関を抜けてさらに広い和室に通されると、仏壇の前に写真が四枚ほど飾られていた。家族が集合した白黒写真が二枚。若い男性のカラー写真が二枚。その片方は父だった。
母に倣って正座をし、仏壇に手を合わせる。5秒くらい経って目を開けると、母はまだ閉じたままで、やり方を調べておけばよかったと後悔した。母は一分経っても目を開けず、寝たんじゃないかと新幹線で眠そうにしていた姿を思い出した。起こすべきか迷っていると、私の肩を祖母が叩いた。祖母は私を廊下へ手招きする。お行儀が悪い子供だと思われたのだろうかと心配になった。
「あっちにお団子あるから、食べるでしょ?」
(積もる話があるんでしょう。)
自分が間違っていなかったことと、祖母が母を悪く思っていなかったことに安堵した。
居間に行くとこたつがあった。11月にしては早いと思いつつ真っ先に足を入れる。
「あったか。」
祖母はお団子と温かいお茶を出してくれた。みたらしかあんこか悩んでいると祖母もこたつに入ってきた。
「よう似とるわ。」
祖母はまじまじと私の顔を見つめる。
(健一も見たかったやろうに。)
「お父さんに?」
「うん。よう似とる。でも目はママ似やね。」
「そうなんだ。」
「中身も健一さんに似て欲しかったですけど私似です。残念ながら。」
気がつくと母も居間に来ていた。
「ちゃんと話せたん?」
「はい。お陰様で。」
祖母と母は十年ぶりに会ったとは思えなかった。
「2人は十年ぶりじゃないの?」
「1か月ぶりよ。」
1か月ということは私が眠っている時だ。母は私が昏睡状態になって祖母に連絡したのだろう。
「そうだったんだ。」
2人が不仲じゃないか懸念していたが、杞憂だった。
「よかった。怜が元気で。ばあちゃん心配したのよ。」
(孫まで早死にされたらどうしすればいいのよ。)
罰が悪くなる。
「検査も異常なかったので、もう心配ないです。」
「そう。ならよかった。」
あっけらかんとした返事だったが、祖母は私が自殺未遂したことに触れないようにしているのかもしれない。聲にもしないということは、咄嗟にそうしたのではなく、予め決めていたのだろうか。
「それで、これからどうするの?」
「二人で生きていきます。」
母はまっすぐ祖母を見つめた。力強い言葉だった。
「そう。純さんは立派ね。健一も喜んでいるよ。」
「健一さんが生きていたら、怒っていると思います。生きていたら、怜が苦しい思いをすることはなかったので。」
(怒っている姿、想像つかないけど。)
(あなたのせいじゃないじゃない。)
「自分を責めないでね。怜も。」
「…はい。」
「ずっと、ここに来られなくてすみません。」
「謝らないで。誰も悪くないから。」
母に向けた言葉は私にも言っている様だった。
「私、ちゃんとこの子と向き合いたいと思います。それを健一さんと約束しに来ました。」
母もまた、祖母に向かって言いながら私宛に言葉を発信する。
「健一はお人好しというか何というか、こんな大切な家族を置いて逝っちゃうなんて、ひどい子ね。」
「はい。ひどい人です。だけど今は、怜と私を出会わせてくれたこと感謝しています。」
「純さんがお嫁に来てくれて本当によかった。健一も幸せだったと思う。まったく、うちの男ったらみんな早死にするんだから。」
(今の怜を見て欲しかった。)
「優しい人なんですよ。自分の命も厭わず、進んでしまう人。」
「きっと父親に似るのね。お父さんも、健一を助けようとして逝っちゃったから、遺伝かしらね。たまったもんじゃないわ。」
「ある意味遺伝なんだと思います。助けてもらった命だから、誰かを助けるために使いたいんでしょう。ほんと、こっちの身になって欲しいです。」
祖母と母は互いに夫を思い浮かべて泣いた。
「さっきの話何だったの?」
祖母の家を出て、お父さんの眠る墓地へ向かった。
「ん?何が?」
「おじいちゃんの話。」
「あぁ、あれね。おばあちゃんの家、一回火事になってるの。奥の方だけ綺麗なの分かった?」
「え、そうだった?」
「居間しか行かなかったから分からないか。奥のお父さんの部屋があった場所が昔火事になって、おじいちゃんが火の中に飛び込んでお父さん助けたらしい。」
「いつの話?」
「お父さんが中学生とかかな?」
「知らなかった。それでおじいちゃんが?」
「うん。一酸化炭素中毒だって。だからお父さんよく言ってた。自分の命は家族を守るために使うって。」
(ほんと、家族の為に使って欲しかった。家族の為に生きていて欲しかった。)
お父さんは十年前、車に轢かれそうになった赤の他人を助けるために、道路に飛び出して死んだ。お人好しというには度が過ぎていたが、祖父の話を聞いて納得した。確かに遺伝なのかもしれない。だけど、残念ながら私にそんな血は流れていない。私だけだ。私だけ、自分の命を自分の為に使っている。自殺未遂をするくらいなら人の為に使うべきだと、そんな声が聞こえる気がする。だけど、彼ならそんな私の醜ささえも肯定してくれるだろうか。
『自分の命なんだから自分の勝手だと思うね。』
その場にいなくとも彼を思い浮かべ、その言葉に助けられる。だけど、これを恋心と呼ぶのは違う気がしていた。私はただ自分の味方になってくれるペットのような存在が欲しいだけだ。
「お花屋さんあるね。」
墓地の近くに花屋を見つけ、引き寄せられていく母をただ眺めた。
「怜が選んでよ。」
色とりどりの花々に優劣なんてない。そんな歌詞を思い出した。
お墓参りに相応しい花は何だろうと考えていると、見覚えのある花があった。私の病室に飾られていた花。母が水の交換をしていた風景が脳裏に浮かんだ。
「これがいい。」
「これ?紫苑か。渋いね。」
目が覚めた時、無機質な病室で唯一生きていたのは、この花と私だけだった。
近くで見守っていてくれた命に愛情が湧く。紫色の花弁がどこか儚げで、愛情と悲しみが入り混じった父を想う気持ちにぴったりだった。
霊園は山の斜面にあり、父のところに行くまでは険しい道のりだった。
「疲れた。」
「これは私も無理かも。」
弱音を吐きながらやっとの思いで辿り着くと、町が一望できる高さにまで来ていた。母は『岩崎家』と書かれた墓を見つけると、花を置いた。
「ろうそく忘れちゃった。」
(水もないや。何してるんだろう。)
作法も何も分かっていない私たちは自己流で手を合わせた。
(拝啓お父さんへ。十年ぶりになってごめんなさい。あと私、自殺未遂をしました。命を粗末にしてごめんなさい。だけど許してください。我儘な娘を許してください。お父さんみたいな人にはなれないけど、ちゃんと現実と向き合うし、お母さんとも仲良くします。あ、そうそうお母さんと仲直りしました。お父さんがいなかったから十年もかかったけど、仲直り出来ました。だから安心してください。あと、何だろう、あー、えっと、特殊能力持ってます。人の心の聲が聴こえます。すごくないですか。占い師にでもなろうかと思います。嘘です。この能力はお父さんがくれたのですか?だとしたらありがとうございます。お陰で無敵になれそうです。無敵だから、ほんのちょっとだけ明るいです。もう少し生きられそうです。もう少しだけ、生きます。)
「敬具。」
「え?」
「何お願いしたの?」
「神社だと思ってる?」
「神様よりは叶えてくれそう。」
「確かに。私もお願い事しとこう。さっき長話したから言うことなくなっちゃって。」
(怜が長生き出来ますように。)
「お願いするなら目を瞑りなよ。」
父の前の母は、私の知らない母だった。何を願ったかは聞かないことにした。
父は亡くなってもなお、私と母を繋いでくれた。きっと父が生きていた時、母は母親という役割から解放されていたのだろう。母の取扱説明書を残さなかったことを少し恨み、その存在に感謝した。
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