白色雑音のなかで
@yuzuriha0000
第1話
誰もいない。
目を覚ますと、真っ白な空間に私はいた。
夢なのか、死後の世界なのか分からず、暫くの間その白い空間をただ見つめるしかなかった。ようやく脳内のネットワークが起動すると、途端に重力が背中を引き寄せた。ぼんやりとした視界が徐々に天井の模様を写しだす。何かの形のようで何でもない。
私は病室のベッドに横たわっていた。
風で軋む窓の音と打ち付ける雨の音、酸素マスクに反芻する微かな自分の吐息が、生きていることを実感させる。
(そっか。生きていたんだ。)
自分の無事が他人事の様に思えた。助かったことへの安堵と、誰も隣にいない虚しさで何とも言えない気持ちになった。
いつだって私は孤独だ。
自分からナースコールを押す気にもならず、過去の記憶を巡らせた。
私が自殺をした過去を。
ザ――――――
雨の音が聞こえて思わず勉強の手を止めた。窓を開けると、無人の図書室にその音が響き渡った。白色雑音が聴覚を支配し、この世界に私だけしかいないんじゃないかと錯覚させる。時に孤独を愛し、時に孤独を嫌う私はどこまでもわがままで、でもそれが人間の性なのではと自分を甘やかした。
ただ今は孤独が心地よかった。そう思う程にこの音を気に入り、感傷的になっていた。
雨の匂いを肺いっぱいに吸い込んで、自分の体内を外の空気と同化させる。
灰色の空と校舎がやけに黒ずんで見えた。
高校2年生の悩みなんて高が知れていた。友達関係に進路、そんな高が知れているはずの悩みが、自分から生きる気力を吸い取っていく。
(もう全部やめたい。)
視界の隅で何かが動いた。校舎の3階、端から2番目の私のクラス。誰か忘れ物でも取りに来たのだろう。普段自分がいる教室がこんなにも小さく、ありふれた景色に過ぎないことに落胆した。
クラスに居場所がない訳じゃない。居場所を変えられないだけだった。たったそれだけの悩み。
一度出来上がった小さな社会は、大きな何かがないと変えられない。そう悟れるほどに大人に近づき、それを受け入れられるほど大人ではなかった。
雨の中、校舎に向かって走る人影があった。止みそうにない雨を見て、私も折り畳みの傘を取りに行こうと重い腰を上げた。
教室に一人の女子生徒がいた。私は反射的に廊下の角に身を隠す。
一目見ただけで、彼女が明戸杏奈(あけどあんな)であるとわかった。
嫌な予感がした。
数分経って、杏奈が教室から出たことを確認してから恐る恐る教室に入る。
杏奈の姿が目に入った時、彼女は自分の席にいなかった。
(この辺りかな。)
杏奈がいたのは最前列の真ん中、佐野美月(さのみづき)の席だった。
目からの情報と、今までの経験で勘が冴える。
椅子を退かし、空っぽに見える机の引き出しに手を伸ばした。知らない方がいいかもしれないと考えるよりも先に、野次馬のような好奇心とざわついた心を落ち着かせたいという欲が先行したのだろう。机の天板の裏を触ると、予想していたものの感触があった。
テープで固定されたそれを取ることを一瞬躊躇したが、バレなければ何も問題がないと結論づけて、天板から剥がした。
私の手には何重にも折りたたまれて固形になったノートの切れ端がある。それが何を意味するかなんて想像に容易い。
「怜って呼んでいい?」
中学生になって唯一できた友達が杏奈だった。入学当初、彼女は何の気もなしに出席番号の近かった私に話しかけた。人見知りだった私は、杏奈のコミュニケーション能力の高さに圧倒され、惹かれた。はっきりとした顔立ちは気の強さを象徴し、裏表のない性格が彼女の魅力だった。
私たちは中学3年間同じクラスで、内部進学した高校ではクラス替えがなく、これまた同じクラスになった。ずっと一緒にいて、これからも一緒にいる。だから私は杏奈を美化していたのかもしれない。
彼女は典型的ないじめっ子だった。お嬢様気質という言葉で片づけることが出来なくなったのは、中学3年生。
「ねぇ、明日からあいつと喋っちゃだめね。」
彼女の何気なく放った一言が、私たちの対等な友情を破壊した。人を苦しめることに罪悪感はなく、もはや快楽を覚えているようにも見えて、途端に杏奈が怖くなった。彼女を軽蔑して脅えた。
しかし、一緒に居たらだめだと気付いた時にはもう、私の居場所は他になかった。もはや、他に友達を作らないように意図されていたとすら思える。
私は杏奈から離れることを諦め、服従した。みんながそうしているように。
彼女が私をどう思っているのかなんてもう分からない。服従した瞬間から、彼女の本心や感情は見えなくなって、別人のようだった。
死角にいる私の心の変化に彼女が気付くはずもなく、そのおかげで私がいじめの標的になることもなかった。
誰かが傷つき、傷つける様子を眺め、こみ上がる感情を殺す。何度か我慢すれば耐性がつき、それが当たり前になった日常を、私は幸せと呼んだ。居場所だけあれば、本当の友達なんていらないと強がった。それでよかった。それなのに、思わぬところで私の平穏は奪われようとしていた。
杏奈を君主として恐怖政治が成立していたこのクラスは、18世紀後半のフランスのようだった。絶対王政は長くは続かず、誰かが勇気を出して言った不満が共感を生み、それが大きな力を持った。杏奈のいないところで彼女の悪口が飛び交い、玉座から引きずり落そうとする計画が進む。そして、今まさにクーデターが起きる一歩手前にいた。
しかし、そう簡単には起きなかった。彼らは秘密裏に結束し、この小さな社会を変えようと声をあげていたが、その先頭に立ちたいと名乗りを上げる者はいなかった。失敗すれば仲間からも切り捨てられる。彼らの絆はその程度だ。
人任せで無責任、不義理な彼らは、その先頭に私を立たせようとした。杏奈の一番近くにいる私なら上手くいくとでも思ったのだろうか。それとも、私は君主の側近ではなく、みんなの奴隷なのだろうか。
背中に圧を感じながらも、私はその期待に応えなかった。駒にされたくないという微かなプライドと、杏奈への忠誠心が私をそうさせた。
手の中の紙を見つめる。
杏奈は佐野さんを陥れようとしている。テスト中に彼女がカンニングをしていると告発し、証拠にこの紙を出すという簡単で完璧なシナリオだ。カンニングなんてしたら一発アウト。内申点に厳しい付属の大学には、進学出来ないだろう。
(可哀想に。)
佐野さんが標的になった理由なんて、ただの妬みだ。頭が良いのもそうだし、誰かに媚びることなく、この子供じみた友情ごっこを軽蔑している彼女の態度が、杏奈は気に食わなかったのだろう。
(もっと上手くやればいいのに。)
杏奈に服従することが、馬鹿げていて滑稽なことだとわかっている。しかしそれに付き合わず大人のフリをするほうが、私には滑稽にみえた。
私は手に持っていた紙を、もとの位置に戻した。そして、自分の席から折り畳みの傘を取って教室から出
「はっ…」
られなかった。
ドアの前に立つ男子生徒と目があう。心臓の鼓動がどんどん早くなるのを感じた。
彼の名前は深山慎樹(みやままさき)。
(いつからいた?)
(見られた?)
聞きたいことは沢山あった。しかし、焦ったのは一瞬で、私はすぐに冷静を取り戻した。
彼の耳に付いているものを確認する。彼は耳が聞こえない。いわゆる難聴者だった。
彼はいつも息を潜めるように教室の端にいて、誰かと話そうとすることは無く、彼に話かける人もいなかった。どうせ聞こえないんだからと、周りも彼自身も諦めているようだ。彼がもし私の行動を見ていたとしても、それを杏奈やクラスメイトにバラされることはないだろう。それなのに、なぜか心臓の鼓動が落ち着くことはなかった。
吸い込まれるような彼の瞳から目が離せない。初めてちゃんと顔を見た気がする。
何かを話したそうで話さない彼をみて、ふと昔の記憶が脳裏をよぎった。
「右は聞こえるけど。」
彼の声を聞いたのは、後にも先にもこれだけだった。
中学に入学してすぐだっただろうか、クラスメイトに耳のことを説明する教師の傍らで、彼は小さく呟いた。彼の隣の席にいた私は、たまたまその声を聞いてしまった。誰に言う訳でもなく、独り言として放たれたその言葉は、SOSにも諦めの言葉にも聞こえた。
空気のような彼の存在が、今は色濃く私の中にある。何故か誤魔化しの言葉も何も発せられない。
彼は視線を佐野さんの席の方に移し、また私に戻した。そして何も言わず、教室を後にした。
一人になった私は彼が去ってもなお、茫然と突っ立っていた。
彼は何を思ったのだろう。何を言いたかったのだろう。
考えれば考える程、心臓の鼓動がどんどん速くなる。
(どうすればいい?)
(私はどうすればいい?)
頭がぐらぐらする。
(私が仕掛けたと勘違いされたらどうしよう。)
(私が佐野さんをいじめていると思っていたらどうしよう。)
気が付けばそんなことを考えていた。
誰のかわからない席に腰を落とす。無理矢理深呼吸をすると、徐々に落ち着きを取り戻し、白色雑音がまた聴覚を支配した。
(そっか、いじめなんだ。)
彼が見たであろう私は、ただのいじめっ子にすぎなかった。杏奈のせいにして隠してきた罪が、一気に自分自身のものだと思い知らされ、途端に恥ずかしくなる。
そう、恥ずかしい、ただそれだけだった。
そこには杏奈やクラスメイトの存在は無く、悪者になりきれない少しの乙女心が、私を突き動かした。
ゆっくりと立ち上がり、佐野さんの席に行く。そして、引き出しに貼られた紙を剥がした。
「始め。」
担任の合図で一斉に紙をめくる音が教室に響き渡る。
1限目の世界史。試験に対しての緊張ではなく、私は違う意味で緊張していた。この60分の間に事件が起きる。
(やらなければよかった。)
後悔と焦りで胃が痛くなった。
私は3つ前に座っている杏奈と、その右斜め前にいる佐野さんの背中を交互に見た。
「集中しろ。」
背後から担任が来ていることに気付かず、注意を受ける。
もはや私がカンニングをして注意を引こうかと考える程に追い詰められていたが、懸念していたこととは裏腹に、事件が起きる前にテスト終了のチャイムが鳴った。
一番後ろの席の人が回答用紙を回収し、手際よく四十二枚の紙を担任が数え始める。
もう何も起きないのかと緊張の糸がほぐれ始めた、その時だった。
「先生。」
杏奈の声に担任は反射的に体を震わせた。まだ私語は厳禁のはずであって、クラスメイト達にも動揺が広がる。
「どうした?まだチャイムなってないぞ。」
急速に顔に熱が帯び始め、鼓動が大きく波打つ。
「カンニングしている人がいました。」
教室は一気に騒がしくなった。
喧騒の中にいるはずなのに、耳が詰まって音が遠い。
(どうしよう。)
遂に始まってしまった。クーデターが。
「何事ですか?」
廊下で見回りをしていた学年主任が、教室の異変に気が付き、ドアを開けた。
「あっ…いや、その、カンニングをした生徒がいると。」
担任は名前を出さずに杏奈の方に視線を送った。それを見た学年主任は杏奈に歩み寄る。
「明戸さん。誰です?」
迫りくる強面の中年女性の圧をもろともせず、杏奈は誇らしげにまっすぐ指さした。
「佐野さんです。」
無実の佐野さんが茫然としているのが、背中しか見えない私にも安易に想像できた。
「何言ってんの?」
案の定、佐野さんの声には驚きと憤りの色が見えた。
「私見たんです。佐野さんが引き出しからメモを取り出すところ。」
教室が再び騒がしくなる。学年主任は騒ぐなと言わんばかりの大きな声で「とにかく!」と二人に向かって言った。
「二人は廊下に来なさい。」
佐野さんは指示に従って席を離れたが、杏奈は佐野さんの席の前で立ち止まった。すると、杏奈は佐野さんの机の引き出しに手を入れた。
「そんなことしなくてもこれを見た方が早いですよ。」
(やめて。)
もう取り返しのつかないところまで来てしまい、自分はどうなるのだろうと気が気でない私をよそに、事態はどんどん進んでいく。
自信に満ちていた杏奈の表情が焦りに変わるのが見てとれた。
「……は?」
杏奈は慌てて机をひっくり返した。大きな音を立てて机が地面に痛々しく転がる。
「何をしている。」
担任が杏奈の暴走を止めようとする中、彼女は必死に空っぽの引き出しを覗き込んだ。
「…なんで。気付いてたの?」
その言葉が自分を追い込んでいることに気付かない程に、彼女は動揺していて、周囲からの冷たい視線とひそひそ話がさらに彼女を追い込んだ。
「何のこと?言ってる意味が分からないんだけど。」
無実が証明された佐野さんは強気だった。非難のまなざしを四方八方から受けた杏奈は、それ以上何も言わない。
「とりあえず二人は職員室に来なさい。みんなは次の時間まで静かに待機するように。」
学年主任は無理やり場を収めようと二人を教室から連れ出した。役立たずの担任も3人について行ったせいで、教室はお祭り騒ぎだった。
クラスメイト達はいきなりの出来事に初めは戸惑っていたが、何が起きているのか理解すると興奮して喜んだ。
私は自分が関与している事実がバレないように、ひたすら息を潜めることしかできなかった。
「怜聞いてた?」
一人の女子生徒がわざわざ遠くの席から近づいてきた。
「え?なにを?」
荒い呼吸を殺してしらばっくれる。
「杏奈が美月はめるってこと。」
「うんん、全く。」
「初めてじゃない?杏奈が失敗するの。馬鹿だよね。茜たちに言っとけばもっとうまくやれたのに。ほんと笑える。」
自分のことを名前で呼ぶ人種が苦手な私にとって、以前から杉野茜(すぎのあかね)のことはどうしても好きになれなかった。
茜とは高校生になって初めて同じクラスになった。ある程度クラスにグループが出来ているにもかかわらず、彼女はお構いなしにクラスの中心へと溶け込み、気付けば杏奈の隣にいた。
茜は私と同じで杏奈の側近の一人となったが、私とは反対に玉座を狙っていた。彼女の魂胆は分かりやすく、恐らく杏奈もそれを分かっていて、私という壁を立てて程よい距離感を保っている。
茜がクーデターの発起人となって市民側を束ねればすぐにでも君主になれそうだが、そうしないのは彼女も杏奈と同じく、市民の味方になりたくないからだ。彼女は恐怖政治の王位継承を今か今かと待ち望んでいたわけだが、その時がようやく来たようだ。
「茜にも言ってなかったんだ。」
「そう。ほんと意味わかんない。」
「でも何でこんなことしたんだろうね。」
聞く必要のない問いが思わず出た。
茜は一瞬言葉に詰まる。
「うざいからでしょ。」
いじめに理由なんていらない。
「そっか。」
隙あれば玉座を奪いにくる彼女を、やっぱり好きになれなかった。
茜への嫌気と、自分への嫌気がいっぱいになったところで、杏奈に減らされた短い休み時間が終わった。
今日の最終科目である二時間目の数学は、試験監督などやっているのを見たことのない体育の先生が監視に来た。さっきの騒動があったからなのか、無駄に見回りが多く、ただでさえ疲弊している心臓が悲鳴を上げ、宿題のまま出ていた問題さえも解けなかった。
今朝は学校に行くのがいつもに増して嫌だった。努力して風邪をひこうと昨日は髪が濡れたまま寝てみたが、いつもよりパサついてるくらいだった。パサパサの髪をいじりながら憂鬱な電車の時間を過ごし、学校に向かう。教室には杏奈の姿があった。
「れーい、おはよっ。」
先週のことが嘘のような彼女の態度に私は戸惑った。
「おはよう…大丈夫だったの?」
「うん、平気。パパが出たらすぐ終わった。」
杏奈のお父さんは、ここら辺では有名な企業の役員だということは前から知っていたけれど、そんなドラマみたいな展開になるのは驚きだった。
「じゃあもう解決済み?」
「解決ではないかな。あいつに復讐しなきゃ。」
杏奈は振り返って、佐野さんの方を見た。佐野さんはもともと友達が多いタイプではないけれど、周りが彼女から距離をとっていることは明らかだった。
しかし、彼女はそんなひそひそ話に動じず、淡々と読書をしている。その凛とした姿に美しささえ感じ、目を奪われたのと同時に罪悪感に襲われた。
「意味わかんないよね。杏奈が何したってんだよ。」
(したでしょ。佐野さんは悪くないのに。)
私は何も言うことが出来なかった。
それから数日が経ち、あの事件は無かったかのようにみんなの記憶から消えた。
革命が起きるかと思われたが、なにも起きなかったのは標的が佐野さんだったからだ。市民たちもまた、佐野さんを好んではいなかった。
何かが変わりそうで変わらなかった高2の夏が終わり、学校の一大イベントの文化祭に向けた準備が始まった。翠蘭学園の文化祭通称「翠蘭祭」は高等部と中等部合同で行われ、高校生が主に出し物や模擬店を行うことになっている。中学の時は回るだけでよかった文化祭が、高校からはそうはいかない。1年は教室企画、2年が模擬店、3年がステージ発表と決まっていた。大きな行事とあって、みんなは分かりやすく浮かれていた。
「実行委員はホーム長と副ホーム長でいいな。」
やる気のなさそうな担任は、実行委員を坊主頭の男子と、杏奈に決め、「後はよろしく」と教室から出て行った。
まとまりのない話し合いの結果、模擬店は唐揚げを売ることになった。当日の店番以外に模擬店の看板作りとエプロンのデザインをする。2年生は毎年売上額とエプロンのデザインをクラス対抗で競っている。勝ったところで何かもらえるわけではないが、士気を高めるには競争は必要なのだろう。1、3年生がクラスTシャツで競うのに対し、2年はエプロン。調理自習でしか役に立たなそうなものに、強制的に三千円も払わなければいけない。学生にとって大きな出費だ。
女子は二つのグループに分けられた。エプロンのデザインを考える班と男子と一緒に看板を作ったり試作を作る班。エプロンのデザインを考えるのは地味な作業で、青春真っただ中の女子高生にとって、エプロン係ははずれ役という認識がみんなの中で広まっていた。そんなわけでくじ引きで係を決めることになり、教卓に置かれた箱の前に女子全員が集められた。
「うっわ最悪。」
その声で辺りに緊張が走った。エプロンと書かれた紙を引いたのは、杏奈、私、佐野さん、それからあまり話したことがない女子2人を含めた5人だった。「代わってあげるよ」と誰かが言わなければいけないけれど、誰も言いたくない空気で、息が出来ない。
自分が代われないことにほっとしたが、こういう時に杏奈のわがままを通しつつ場を収めるのは私の役目だ。みんなが杏奈と目が合わないようにそそくさと作業に入ろうと動き始める中、その場から動こうとしない杏奈に私は近づいた。
「どうするの?」
「ねぇこれ、さぼらない?杏奈もあっちがいい。」
「うーん。私はこっちのほうが楽かな。人数多いの苦手だし。」
「えー男子もいる方が楽しいじゃん。」
「杏奈、茜とあっち行っていいよ。上手いこと言っとく。」
「ほんと?ありがと。」
杏奈の顔色を変えないように、空気が乱れないように取り繕う。私はまだこんなことをしているのかと、自分に嫌気がさした。
カンニングペーパーを取った時、私は少し変われた気がした。それなのに最後まで貫くことが出来なかった。根本はなにも変わっていない。ちょっとのことじゃ人間はそう簡単には変わらないらしい。
私と杏奈を除いた3人が机を合わせていたので、私もそちらへ向かった。
「杏奈実行委員だからみんなのところ回らないといけないみたい先始めよっか。」
誰とも目が合わないように、机を動かしながら一息で言った。
「わかったよ。」
自分でも言いたくない言葉の本当の意味を理解したのだろう。3人は空気を読んで承諾してくれた。佐野さんはちょっと不服そうだけど。
「何からする?」
話し合いの指揮をとってくれたのは佐野さんだった。有難かったが、それは私だけのようだった。2人は渡されたプリントに目もくれない。
少し沈黙を挟み、再び佐野さんが口を開いた。
「唐揚げなら鳥のイラストとか入れたらどうかな。」
「いいと思う。」
「個別で描いて後で見せ合えばよくない?」
1人の女子が言った。私と佐野さんで和らげようとしていた空気がまた張り詰める。
(一緒に居たくない。)
そんな声が聞こえる気がした。
2人はわかりやすく佐野さんを遠ざけた。最近のクラスメイトの佐野さんに対する態度はずっとこの調子だ。流石に係なんだからと思ったけれど、「それはないでしょ」と言う正義のヒーローにはやはりなれなかった。
「別にいいよ。」
佐野さんは去る者を追わなかった。
表情と言葉が一致していない佐野さんに私も同意すると、2人はすぐに席を立って看板製作をしているみんなの輪に消えていった。
佐野さんは静かに鞄からルーズリーフを一枚取り出し、絵を描き始めた。怒りを押し殺すように、すらすらと迷うことなくシャーペンを動かす彼女を横でじっと見つめた。
「…何?」
「あっ、ごめん。私何すればいい?」
「え?」
自分で考えてと言われた気がした。
「ごめん。ロゴとか…書いたらいいかな?」
「何で?」
「あ…要らないよね。」
「そうじゃなくて、何で手伝ってくれるの?」
「えっ…」
冷たい視線が私を射貫く。
あなたが今嫌われているのは私のせいだからなんて言える訳がなかった。
「私も、係だし。」
「そっか。岩崎さんみたいに優しい人もいるんだね。」
(優しくなんかない。)
心の中にあった黒いモヤモヤに棘が生え、私の心臓を傷めつけた。
教室の真ん中で看板を作っているクラスメイト達は、何度もこっちを見ては嫌な笑みを浮かべ、コソコソと何か話している。佐野さんもよっぽど鈍感じゃない限り気付いているだろう。
「ねえ、場所変えない?」
(ほら、やっぱり。)
「いいよ。」
私たちは空いている教室を探し求めて校舎を散策し、化学実験室で作業することにした。背もたれのない椅子に座る佐野さんに倣い、私も彼女の向かいの席に腰を掛ける。さっきとは打って変わって、静かな空間に緊張する。気まずい空気が流れ、何を話そうかと頭をフル回転させたが、口火を切ったのは佐野さんだった。
「さっきのありがとう。」
突然の感謝の言葉に戸惑った。
「え?」
「てっきり岩崎さんは杏奈ちゃんの方に行くと思ってたから。」
返す言葉が見つからなかった。
「私、誤解してた。岩崎さんはもっと怖い人だと思ってた。ごめんね。」
「いや…人見知りだから人と話すの得意じゃなくて。」
佐野さんは少し驚いた顔をした。人見知りの私が何故杏奈と仲が良いのか気になったのだろう。
「まぁ、杏奈はああいうタイプだからね。」
「あぁ。確かに。」
会話が長く続かず、空気が重くなる。沈黙が長くなればなるほど、会話を始めるハードルが上がっていく。
「2人はさ、中学生から一緒なんだよね?」
佐野さんが話題を振ってくれて有難いが、その話はあまりしたくなかった。
「うん。中1から同じクラスで、部活も一緒だった。」
「何部だったの?」
「水泳部。マネージャーだけど。」
「そうなんだ。意外かも。何で高校は入らなかったの?」
質問攻めで戸惑ったが、他に話題がない。
「高校だと土日も練習あるから、流石に勉強大変で。」
嘘をついた。
「確かに水泳部強いもんね。宇ノ沢君いるし。」
「まぁ、うん。」
苦くて酸っぱい思い出が蘇る。
「オリンピックとか出るのかな。」
「どうだろうね。」
話題を変えるべく、今度は私が質問することにした。
「佐野さんは中学から美術部?」
「ううん。中学はバレー部だけど、私も勉強を優先したくてやめたの。」
「佐野さんだったら両立出来そうなのに。」
「そんなことないよ。内申点稼ぐために仕方なく入ってるけど、文化部でも正直ギリギリ。」
どきっとする。あと少しで彼女の内申点を、未来を奪うところだった。
「内部進学なら十分じゃない?外部受けるの?」
「ううん。内部だよ。特待狙ってるんだ。うち4人兄弟でお金ないからさ。」
「4人兄弟なんだ。長女っぽいかも。」
「よく言われる。実際そうだよ。」
「いいなぁ、うち一人っ子だから。」
「私は怜ちゃんが羨ましいけどね。」
疚しさからか、本音にも皮肉にも聞こえた。彼女の純粋無垢な言葉が胸に突き刺さる。
「あ、ごめん。下の名前で呼んじゃ嫌かな?」
的外れな彼女の戸惑いに、私の方が動揺する。
「えっ、あ、いや、嬉しい。私も美月って呼んでいい?」
「もちろん。」
照れくさそうにする様子を見て告白されている気分になった。
「なんか…嬉しいなぁ。高校入ってからあんまりクラスの人と話さなかったから。」
返す言葉が見つからない。
「やっぱり既に出来てる人の輪に入るのは難しいよね。」
彼女の漏らした本音は意外なものだった。美月は人付き合いが嫌いで、一人が好きなタイプだと勝手に思っていた。でも本当はそんなことないのだろう。強く見せていたのは、寂しさを隠すための自己防衛に過ぎなかった。
もっと早く、違う環境で彼女と出会っていれば、後ろめたさを感じずに友達になれたのに。そんな叶わない願望を密かに抱いた。
「うん。難しいよ。」
「怜ちゃんも?」
不意に口にしてしまった自分の感情を、どう誤魔化すか考える。だけど何も思い浮かばなかった。
友達になりたい。本音を聞いてほしい。そんな希望が邪魔をする。
あの日起こした小さな波は、私の中では間違いなく大きなかった。緊張して、後悔して、逃げ出したくなったはずなのに、何事もなかったように風化したことに落胆した自分がいた。
(今しかない。)
美月の強さに憧れて、自分の無力さにうんざりしていた。だからきっと、魔が差したのだろう。
「私、杏奈と釣り合ってないよね。」
「え?」
「本当は釣り合ってないって分かってるの。無理して一緒にいる。離れるのが怖いから。」
言ってから後悔した。手の震えが止まらない。
「うん。釣り合ってないと思う。」
佐野さんはまっすぐ私を見た。
「怜ちゃんみたいな優しい人に杏奈ちゃんが釣り合うはずない。」
言葉の真意を探る。
「…褒めてるんだよね?」
「うん。」
真剣な眼差しが嬉しい筈なのに辛かった。
「本音聞けて嬉しいよ。私、敵対視されてると思ってたから。」
「どうして。」
「だって、みんな私が杏奈ちゃんをはめたと思ってるから。」
胸が痛くなった。
「怜ちゃんもそう思う?」
「ううん。」
咄嗟に答えてしまった。だけど、それ以上は言えない。
「よかった。」
理由もなく、自分に気を遣って適当に返事をしたと解釈する彼女に、ばつが悪くなる。
(そうじゃない。美月が悪くないって全部知ってるから。)
もう言ってしまおうか。そう迷っていると、いきなり教室のドアが開いた。
突然の出来事に呆気にとられたが、それは彼も同じみたいだ。深山は、空いているはずの教室に私たちがいることに驚き、気まずそうに会釈をしてからドアを閉めた。
「びっくりした。ふかやま君だよね。」
「みやま。」
「あぁ深山君か。教室使いたかったのかな?」
(何でこんなタイミングで…)
なんとなく、彼がいきなり現れたことが偶然だとは思えなかった。白状しろと脅されている気がした。
(言わないと。)
あの日教室で会った彼の顔が頭に浮かぶ。あの目を見ると、途端に嘘がつけなくなる。歯車を狂わせた彼が憎い。憎いのに待っていたようにも思えた。
(もうやめたい。こんな毎日。)
「私、美月がやってないこと知ってるの。」
口に出すと楽になった。
「え?何が?」
「美月が杏奈をはめてないって知ってる。」
「どうして?」
深呼吸をして震えを落ち着かせる。
「カンニングペーパーを取ったの私だから。」
「えっ。」
私はどんな反応を期待していたのだろう。
冤罪を防いだことに感謝されたかったのだろうか。それとも、知っていたのに助けなかったことを責めて欲しかったのだろうか。
きっと私が打ち明けたのは、自分が楽になりたいが為の自己満足に過ぎなくて、それが彼女を困らせて苦しめることになるとは、この時は思ってもいなかった。
「よかった。知っている人がいて。」
「ごめん。ずっと言えなくて。」
「ううん。私が怜ちゃんでも言えないよ。」
彼女の優しい微笑みが、私の罪悪感を融解していった。
文化祭前日の今日は、午前中にクラス対抗のエプロンデザイン最優秀賞の発表、午後に模擬店の設営、試作づくりがある。ほぼ美月がデザインしたエプロンは完成度が高く、最優秀賞間違いなしの出来だった。今朝、完成したエプロンがクラスメイト全員に配られると、今まで美月を避けていた人が掌を返したように彼女を称賛した。
いよいよ全校集会が始まり、だだっ広い体育館に全校生徒が押し込まれた。教室では息の詰まるような空気を蔓延させる彼らも、外に出れば顔見知りの仲間の様な安心感がある。きっとみんな同じ紺色のエプロンを身につけているからだ。
「次に2年生のエプロンデザイン賞を発表します!」
太陽みたいに暑苦しい生徒が会場の空気を盛り上げる。いつもだったら冷めた目で見てしまうが、今日は気分がいい。精一杯の拍手を送った。
「最優秀デザイン賞は…」
「おー」
「2年2組!」
「イエーイ」
自分のクラスが呼ばれてクラスメイトは立ち上がり、わかりやすく喜んだ。美月に仕事を押し付けた3人には罪悪感の欠片もない。
「代表者は前に出てきてください。」
やっと美月の努力が報われた瞬間なので、目を凝らしてステージを見つめた。
しかし、視界に入ってきたのは美月ではなく杏奈の姿だった。私は視界の中で一生懸命美月を探すと、クラスメイトの列の中で茫然と立っている彼女がいた。こればかりは悔しさを隠しきれず、拳が震えている。
「これ描いたのって佐野じゃないの?」
どこかでクラスメイトの男子が言った。男子は素直でいい。口に出来ない私たちの気持ちを代弁してくれた。
「まあ実行委員だし、係だし、明戸でいいんじゃね?」
「あーそっか。」
そうだ。杏奈は実行委員だから。そう自分に言い聞かせて、美月を見ないようにした。
私は美月と友達になりたかった。なれると思った。でもそれは杏奈がいないところでという条件付きだった。
教室に戻り、記念撮影が行われたが、その間杏奈が賞状を手から離すことはなかった。記憶をすり替えられたクラスメイト達は、杏奈を囲んで各々写真を撮っている。
「怜も撮ろうよ。」
「あ、うん。」
杏奈も美月も避けるように教室の端にいたが、杏奈に捕まってしまった。ぎこちない私の笑顔をみて彼女が笑う。
それからは模擬店用のテントの設営が始まったが、重労働を男子に押し付けた女子たちは彼らを見ながら各々しゃべったり、スマホをいじったりしていた。
もう秋だというのに、厳しい日差しが肌を焼き付ける。教室に戻りたかったが、流石に男子に失礼だと思ったので木陰で一人身を潜めた。
(何でこうなるんだろう。)
ふと今までの事がフラッシュバックし、自責の念に駆られる。
「れーい。ちょっといい?」
一人反省会に没頭しすぎて近づいて来る人影に気が付かなかったが、振り向くと茜がいた。
「どうしたの?」
「ちょっと来て。杏奈が呼んでる。」
悪い予感がした。
茜は不気味な笑みをこぼした。この表情を知っている。杏奈が失敗した時の、敵が倒れていく時の、不穏な笑みだ。
(何をした?どこで間違えた?いや、大丈夫。私は何もしてない。大丈夫。)
自分にそう言い聞かせても、冷や汗は止まらなかった。
言われるがままに茜に付いていくと、試作づくりのために開放されている調理室に着いた。中には杏奈と美月がいる。
(何で美月も?)
必死に状況を理解しようとするが、頭が追い付かない。
「連れてきたよ。」
調理室に入るや否やいきなり茜に背中を押された。
杏奈を目の前にして、自分が今間違いなく杏奈の標的になっていると理解した。
「ねぇ、カンニングペーパー取ったのって怜なの?」
今一番聞きたくない横文字のせいで、頭の中がフリーズする。
怒りが爆発する寸前の彼女を前に、もう助からないこと悟った。
口が渇き、息が出来ない。早くなる鼓動の音が耳元で聞こえた。
「こいつがね、怜がやったっていうの。ひどくない?」
思わず美月の方を見ると、彼女は視線を逸らした。でも「何で言ったの?」とは言えなかった。
「怜がそんなことする訳ないよね。こいつ、最低だよね。」
杏奈は私がやったこと確信している。一目瞭然だった。これが獲物を捕らえた時の彼女の目。見慣れたはずなのにいざ自分に向けられると、恐怖に支配された。
「こいつ嘘つきだからさ、罰与えてもいいよね?」
「やろやろ。」
茜が背後からじわじわと圧をかけてくる。杏奈は足元に落ちていた紺色の布を拾い上げると私に投げつけ、キッチンバサミを調理台の上に叩きつけるように置いた。
「これ、切って。」
杏奈の顔に不気味な笑みが浮かぶ。
私は足元に落ちた紺色の布を拾った。何か分かっていたが、鳥のイラストが描かれているのを目の当たりにして、胸が締め付けられた。
「怜?切れるよね?切るよね?」
叩きつけたハサミをもう一度手に取って近づいてくる杏奈と、背後にいる茜の板挟みになり、身動きが出来なかった。
「こ、ここまでしなきゃいけない?」
声を振り絞った。
「先に人のエプロン切ったのこいつだからね。同じことやり返さないと。」
「でも…なんで…私が。」
「本気で言ってる?杏奈に嘘ついてない?」
首を縦にも横にも振れず固まった。血走る杏奈の目は、血の通った人間には見えない。
「嘘ついてないならさっさと切ればいいじゃん。簡単でしょ?」
もう一度、美月の方を見た。彼女は俯いている。何と答えるのが正解か必死に考えた。
(エプロンを切って美月を捨てれば元の生活に戻れるかもしれない。杏奈が裏切りを許すとは思えないけれど、私なら許してくれるかもしれない。)
自分を守るためにエプロンを切ることが正しい選択だった。
(でも…)
ゆっくりと辺りを見渡した。激怒する杏奈と、いつの間にか杏奈の隣にいた茜の面白がる表情が見える。美月は俯いたままで泣いているように見えた。長い沈黙が私に猶予を与えた。すぐに選ばずに考える猶予を。
「早く切ってよ。」
痺れを切らした杏奈が追い打ちをかける。
(今なんだ。)
私はずっと待ち望んでいた。
杏奈を裏切る選択を迫られる時を。
自分を変える瞬間を。
この奴隷生活から抜け出すチャンスを。
その瞬間、教室の中で孤独に耐える美月の顔が頭に浮かんだ。あの日守り切れなかった彼女の寂しい顔を、もう見たくなかった。
「早く切れ…」
「出来ない。」
「は?」
怒りの導火線に火がついた杏奈を見ても、私は自分の選択が正しいと信じた。
「美月は嘘ついてない…だから出来ない。」
敢えて「美月」と呼んだのは、私なりの覚悟だった。
「じゃあ、怜がカンニングペーパー取ったって事?」
杏奈は最後の忠告をした。
「そう。」
「は?そうじゃねーよ。杏奈を騙したの?」
「騙したかった訳じゃない。」
「じゃあなんだよ、言ってみろよ。」
「もう…終わりにしたかったの。」
杏奈は私を睨みつけた。
「もうだれも傷つけたくなかった。もうやめよう。」
杏奈には響かないと思いながら、切実な願いを込めたが、案の定、激昂した杏奈は「ふざけんな!」と叫びながら私の両肩を強く押した。
非力な私に抵抗する余裕などなく、教室の端に乱雑に積み重ねられた段ボールの山に、突き飛ばされた。固い何かが背中や腰に当たり、痛みを感じたのと同時に、頭上から段ボールが何個か降ってきた。箱の中から大量の飲料水が入ったペットボトルが飛び出し、バウンドしながら床に転がる。そしてペットボトルは床だけではなく、調理台の上にまで降り注ぎ、その弾みで何かの鉄板が外れた。それが何の鉄板か理解するよりも先に、杏奈の悲鳴が調理室に響き渡った。
「熱い!」
ペットボトルは調理台の上に置かれたフライヤーにダイブし、その弾みで鉄の蓋が外れ、中の油が飛沫を上げて杏奈の腕に降り注いだ。
ゾーンに入っていたのか、その光景がスローモーションに見えた。腕を抑えて屈みこんだ杏奈に茜が駆け寄る。美月は状況が飲み込めず、唖然としていた。
「何があった?」
気が付くと、悲鳴を聞いて駆けつけたのか、見知らぬ顔の教師が調理室の入口に立っていた。教師は屈みこむ杏奈を見るや否や、血の気が引き、急いで杏奈の元へ駆け寄った。
「何があった?」
杏奈の右腕を水道の水にさらしながら教師は私を見つめた。正義感に満ちた目が、自分を悪者だと自覚させる。
「岩崎さんがやりました。ペットボトルを油の中に投げ入れたんです。」
一瞬の出来事に呆気にとられていた私より先に、茜が堂々と嘘をつく。自分が何を言われているのかまだ理解が追い付かない。
「明戸、本当か?」
杏奈は何度も首を縦に振った。
(何で?何でそうなるの?)
言葉にならなかった。
「お前も見てたのか?どうなんだ。」
美月は私以上に困惑しているように見えた。
「佐野、どうなんだ。」
美月なら、美月なら本当の事を。
「…い…岩崎さんがやりました。」
美月の言葉に耳を疑った。彼女は魂を抜かれたように、まっすぐ教師だけを見た。
「…何で?」
(何で美月は助けてくれないの?)
そう思っても言えなかった。
「とりあえず、保健室に運ぶから、3人は教室で待機していなさい。」
それから美月が目を合わせてくれることはなかった。
副担任の先生が見張りにいたお陰で、教室では誰も口を開かなかった。
「え、何?」
教室にぞろぞろと戻ってきたクラスメイトたちは、何が起きたのかは理解していない様子で、こちらを気にしつつも空気を読んで口にはしなかったが、それが出来ない一部の男子が興味本位で周りの人と騒ぎ出した。
お願いだからこの件を大きくしないで欲しいと心の中で何度も願ったが、そうなるはずもなかった。何も知らないクラスメイトたちは、自分たちのクラスだけ教室に集められて不機嫌な人もいれば、イレギュラーな事態に興奮している人、心配そうな顔をしている人と様々であった。
いろんな色の感情が混ざって灰色になった教室に、担任と校長が入ってきた。いつも気だるそうな担任だが、今は違う。生徒指導の体育教師より何倍も怖かった。そんな担任を前にして教室に一気に緊張が走った。鼻をすする音さえせず、遠くのクラクションの音が耳元で聞こえた。
「昼食の前に校長先生から話がある。」
「知っている人もいると思いますが、先ほど明戸さんが火傷を負いました。事情を知っている人は、今から配るこの紙に正直に書いてください。それから、明戸さんといた人は後で事情を聞くので残っていてください。」
教室中が騒がしくなる。あちらこちらから「杏奈」と「火傷」という単語が飛び交い、気が狂いそうになった。
これからの事を想像した。私は反逆罪で、いじめの的になり、今まで以上の地獄が始まる。それ以外の未来はないだろう。
大きな絶望が私を襲い、手が震えた。
騒がしい教室を収めるべく、担任は持っていた書類を教卓に叩きつけた。これには生徒だけでなく、校長も驚いて、一気に静まり返る。
「いいか、怪我人が出てるんだ。今日に限ったことじゃない。今日までこのクラスで起きていたこと、知っていることは全部書け。関係ないじゃ済まされないからな。」
担任の脅しで空気はさらに張り詰めた。しかしその言葉は、全員の心に刺さっているように感じた。
その後、アンケート調査が始まると、みんなは真剣に手を動かし、そこに微かな希望が見えた。私が起こした謀反を革命のきっかけにしてくれないだろうか。このアンケートが今までの杏奈の非道を公にするチャンスにはならないだろうか。
(もしかしたら、みんな…)
担任の脅しは効いていたはず。その思うと、シャーペンの擦れる音が希望の音に聞こえた。
私は精一杯の弁明を文字に起こした。杏奈が美月をいじめていてカンニングの一件がおきたこと、カンニングペーパーを取ったのは自分だということ、その後美月へのいじめがエスカレートしたこと、そして今日調理室で起きたこと全て。文章にするとそれは立派なもので、もしこれが虚偽だとされたら私は小説家になれるだろう。
アンケート回収後は昼休憩まで自習だった。他のクラスから楽しそうな声が嫌という程聞こえる。担任の代わりに見張りを任された副担任は、教卓からみんなをしっかり監視しているようだったが、茜が机の下でスマホをいじっているのには気付いていない。
ガラガラと音を立てて教室のドアが開いた。
「佐野と杉野、ちょっと来い。」
自分の名前が呼ばれなかったことに、安心しつつも不思議に思った。2人が教室から出ていくと、さっきとは一変して、あちらこちらでひそひそ話が飛び交う。みんなアンケートに茜の事を書いたのだろうか、彼女がいなくなって緊張の糸が解けたようだった。そんなクラスの雰囲気に少し安堵する。革命の駒だろうが、もうなんでもいい。利用されていい。だからもうこれ以上私の人生を地獄にしないでと祈った。
2人が呼ばれてすぐ後に、私も担任に呼ばれた。会議室に向かう道中、担任の背中がやけに大きく見えた。
「連れてきました。」
会議室には2人の姿はなく、代わりに十数人の大人がいた。
「とりあえず、ここに座りなさい。」
会議室の議長席は、裁判の証言台と化した。ただならぬ緊張感が私を襲う。
「明戸さんは今病院で治療を受けています。自分がどうして呼ばれたのかわかりますね?」
学年主任がこの裁判の指揮を摂るようだ。
「はい。」
吐き気を堪えて声を出す。
「では順番に聞いていきますが、今日家庭科調理室で明戸さんが火傷をしたのはなぜですか?」
録音でもしているのだろうか、丁寧な進行が本当に裁判のようだった。
「杏奈が、明戸さんが、私を段ボールの山に突き飛ばしてきて、その反動でペットボトルがフライヤーの中に入りました。それで火傷を。」
周りの教師たちが顔を見合わせる。
「どうして明戸さんはあなたを突き飛ばしたのですか?」
「私が杏奈を裏切ったからです。前に、佐野さんにカンニングをさせようとした明戸さんを止めるために、私はカンニングペーパーを取りました。それが、今日バレて喧嘩に。」
アンケートで書いたお陰で、緊張しながらも言葉が出てきた。
「うーん。アンケートにもそう書いてますね。」
「はい。」
一度書いたのに再度聞く意味はあるのだろうか。
「では、中間試験の時にカンニングペーパーを仕組んだのは明戸さんで、あなたがその紙を取ったと?」
「はい。」
「どうしてそのような行動を?」
「佐野さんが可哀想だと思ったからです。」
「うーん。なるほど。」
教師たちはまた互いに顔を見合わせている。誰も私の事を信じていないのは明らかだった。
「カンニングペーパーを自分が取ったってどうして今になって言うんだ?」
横にいた担任が口を挟む。
「それは、言い出せなくて。」
「どうして?明戸が怖いのか?」
(分かっているなら聞かないでよ。)
「…そうです。」
「岩崎さん。本当の事を言ってください。」
誰も、私を信じていない。この空間に味方がいないことを確信した。
「どういう意味ですか?」
「明戸さんたちは、あなたが佐野さんにカンニングさせようとしたと言っています。」
言葉を失った。この大人たちを前にしてもなお嘘がつける彼女に、呆れを通り越して尊敬すらした。そして、彼女の言葉をまんまと信じるこの大人たちが、馬鹿々々しく思える。
「私はやっていません。」
「早く認めろ」とみんなに言われている気がした。
「私がさせたって…じゃあ何で、杏奈は失敗したんですか?」
「明戸は、佐野にカンニングさせるようお前に指示されたらしいが、それが出来なくてわざと失敗したそうだ。」
「わざと?」
杏奈のシナリオを考える。頭が爆発しそうだ。
「あぁ。それで失敗した後、佐野をいじめるようまたお前に指示されたと言っている。」
杏奈の中では、私が陰で操っていたことになっていた。
(そんなの誰が信じるの?)
身に覚えのない罪を着せられて、私の中から杏奈への忠誠心が消えた。同時に目の前の大人たちに憤りを覚えた。
「先生は本気で、私が杏奈に指示していたって思ってますか?」
いつも教室にいた人間なら、杏奈が主犯だと誰もが分かる。私は担任の目を直視した。最後の願いを込めて。
「以前から、明戸からお前のことで相談を受けていた。」
「は?」
「カンニングを仕組んだ時からもう既に、お前からの指示だと聞いていた。」
杏奈の用意周到さに気が遠くなる。杏奈は私が裏切ると気付いていた。カンニングペーパーを取ったのが私だということもとっくの昔から知っていたのではないだろうか。
「全部嘘です。」
「明戸が嘘を付いていると?」
「はい。」
担任は杏奈の味方だ。もうだめだ。
「岩崎さん。落ち着いて。あなたが明戸さんに指示していたことは、他の生徒からも聞いています。これ以上…」
「他の生徒?杉野さんですか?」
学年主任は口を噤んだ。今更、守秘義務とでも言うつもりだろうか。
「佐野もだ。」
私だけに聞こえるように、小さい声で担任が呟いた。
美月も。それを言うことで、どれだけ私にダメージを与えられるかを計算している担任の態度に腹が立つ。私は必死にショックを隠した。生徒一人を大人が取り囲んで、弁護人も誰もいないんじゃこんなの裁判なんて言わない。こんなのおかしい。
「そんなの、口裏なんて、いくらでも合わせられますよね。」
「おい。」
担任がまた小さな声で私の邪魔をする。
「…どうして信じてくれないんですか?どうして杏奈の意見だけを信じるんですか?」
誰も答えようとはしない。それが答えだった。
(諦めたくない。こんなの理不尽すぎる。)
何も聞き入れない大人たちを見て、頭に上った血が段々と引いていった。妙な冷静さを取り戻し、自分がどうしようもない絶望の中にいるのだと悟る。
関心がある顔をして無関心な大人。人が追い詰められているのを見て楽しんでいるのを必死に隠している大人。敵でも味方でもない傍観者は私を助けない。大人なんてそんなもん。人間なんてそんなもん。私だって前までそんなもんだった。
思えば、私は何でこんなにもムキになっているのだろう。理不尽な事なんて今まで沢山あった。杏奈の罪を自分から庇ったこともあった。それなのに、今はこうして歯向かっている。とっくに自分のことなんて諦めたはずなのに。何で。
(そうだよ。諦めればいいんだ。)
諦めることで自分を守ってきた。どんな圧力も最小限に抑えて受け止めた。だから今もいつも通りにすればいい。私が杏奈に指示していようがなかろうが、どっちみちクラスで浮いて杏奈にいじめられる未来に変わりはない。むしろ、私が杏奈を裏で操っていたとみんなに思われるほうが、好都合なのかもしれない。
(冷静になれ。真実なんてどうでもいいんだから。)
「埒が明きませんね。」
「早く認めろ。」とみんなが心の中で言う。
(もうみんな嫌い。)
「…私がやりました。」
私は私を殺した。みんなは驚きと安堵の表情を浮かべる。
「明戸さんに指示をしたのは自分だと?」
「…はい。」
「明戸さんに火傷をさせたのも?」
「はい。私です。」
急に何かに操られているような気分だった。
教師たちは顔を見合わせる。
「謹慎処分というところでしょうか?」
誰も異議は唱えない。
「今後の処分については追々決定します。しばらくの間は自宅待機するように。」
私の人生が呆気なく終わった。
ピンポーン
会議室からまっすぐ家に帰った。鞄を取りに行かなかったせいで、鍵を持っていなかった私は、ダメ元でインターホンを押した。
「はーい。あれ、何で?」
母親が帰ってきていた。いつも私が寝る頃に帰ってきて、私が学校に行った後に起きるから、ちゃんと話すのは久しぶりだった。
「どうしたの?こんな時間に。」
私は母親の問いかけを無視して、自分の部屋に向かった。今は誰とも話したくなかった。
ベッドにうつ伏せになると、今までの疲れが溶け出していった。
「説明しなさい。」
母親が私の部屋に入って来た。顔を見たくなくて枕に顔面を押し付ける。
「無視し続けるなら、学校に電話するけど。」
「勝手にすれば。」
こういう時だけ母親面をすることに腹が立つ。
「学校に行きなさい。学費いくらすると思ってるの?」
「じゃあもう払わなくていいよ。」
「いい加減にしなさい。」
「もう辞めるからいい。ていうか謹慎処分になったし。」
母親の顔が青ざめるのが見なくてもわかった。
「謹慎処分?何をしたの?」
私は腕を引っ張られて無理やり起こされた。間近でみる母親は、怒りに震えていた。胸元の弁護士バッチが光る。
「友達に火傷させた。」
突然、頬に痛みが走った。引っ叩かれたみたいだ。痛みと怒りで涙が出る。
「謝って来なさい。」
「嫌だ。」
もう一度、頬を叩かれた。
「私悪くないもん。」
「言い訳なんて聞いてない。謝って来なさい。」
「なんで?何も知らないくせに母親面しないで。」
母親は大きなため息をついた。
「こんな子に育てた覚えはない。」
その言葉を聞いて自分の中で何かが壊れる音がした。
「じゃあ、どんな子に育てたかったの?」
母親は何も言わない。そりゃそうだ。育児放棄しているんだから。
「いいから学校に行きなさい。」
母親は私の腕を掴み、ベッドから引きずり落とした。私は引きずられたまま廊下を通り玄関の外に出される。母親は私のローファーを放り出し、ドアに鍵を掛けた。
「謝ってくるまで入れないから。」
マンションの廊下に締め出された私は、行く当てもなくその場に座り込んだ。
引きずられて擦りむいた膝を胸に引き寄せて、蹲る。誰かに見られたらと思うと惨めだったが、そんなことは気にしていられなかった。
誰も分かってくれない。母親は話しすら聞いてくれなかった。
小さい時に父親を亡くしてから、母親は私に関心がなくなった。仕事だけをして、育児は祖母に任せっきり。学校の話をしようとしても聞いてはくれず、疲れているから話しかけるなとそう言っているようだった。
祖母が病死したのは私が中学生の時。母親は実母の死よりも、私と二人きりで暮らさなければいけない事に落胆していた。
仮面親子。それが私たちだ。
『こんな子に育てた覚えはない。』
母親の言葉が脳内で反芻する。
どんな子供に育てばよかったの?
私はどこで間違えた?
最初から?
生まれてこなければよかったの?
涙が出た。
裏切られたと知って怒りに震える杏奈の顔。
私が陥れられたことを面白がる茜の顔。
私を見捨てた美月の顔。
何も知らないフリをする担任の顔。
聞く耳を持たない教師たちの顔。
失望する母親の顔。
記憶の中に、私の味方は誰もいなかった。ずっと抱いていた感情が大きく膨れ上がり、じわじわと私を支配していく。
(死にたい。)
そんなことは毎日のように思っていた。私が生きていて喜ぶ人間も、生きる意味も何もない。ただ死ぬのが怖いから生きているだけで、きっかけがあれば、勇気があれば、いつでも実行できるように思っていた。
死にたくて、死ねなくて、死にそうで、死なない、そんな堺をずっと歩いていた。
(死のうかな。)
自殺願望が現実味を帯び始める。よく晴れた空と、じりじりと肌に焼き付ける太陽の光がやけに神々しく見える。
命日が来たのだとそんな予感がして、また涙が出た。
(こんな人生でごめん。こんな終わり方でごめん。でももう逃げ出したい。全部終わりにしたい。)
私は徐に立ち上がり、学校へ向かった。
職員室のドアを勢いよく開けた。部屋中にバンと大きな音が鳴り響き、みんなが一斉に私を注目する。自分を奮い立たせるためには、後戻り出来ないようにする必要があった。
「何をしてる。自宅待機だと言ったはずだけど。」
担任が遠くの席から近づいて来る。
「私は誰もいじめていません。」
担任が足を止めた。何も知らない教師たちが騒がしくなる。
「さっきは自分がやったと」
「やっていません。自白を強要されました。」
騒ぎを聞きつけた学年主任や校長が担任のもとに駆け寄ってきた。
「何事ですか?」
「あ…いや。」
校長の問いかけに担任が言葉を濁す。
「先生は知っていますよね?杏奈がどんな人間か。」
担任はそれ以上喋るなと言わんばかりに、「おい」と私を止めた。そんな態度に腹が立つ。
「杏奈が悪いと知りながら、私の言葉を無視して自白を強要しましたよね?」
「脅したんですか?」
周りの先生の問いかけに担任はすぐに否定した。
「証拠はあります。」
私は手の震えを必死に押さえて、スマホを持った右手を高く掲げた。担任の顔から血の気が引いていく。
「録音していないとでも思いましたか?」
嘘だった。本当は録音なんてしていない。録音していたところでそれが証拠になるのかも分からない。
何でもよかった。目の前の敵を懲らしめたかっただけ。後の事を考えずに行動したかっただけ。もう最後だから。
「録音なんてしてないんだろ?」
冷徹な目をする担任は、一瞬考えて私の嘘を見破った。バレバレだ。
「訴えます。不当な処分を受けたと。」
みんなが呆れた顔をする。惨敗なのは分かっている。でも抗いたかった。抗わないと、戦わないと、自分だけは自分の味方じゃないと、可哀そうだから。
「岩崎さん。先生は退学を停学にしようとしていたんですよ。」
今度は校長が私を諭す。担任の行動は優しさでも何でもない、ただの罪悪感だ。
「じゃあ退学でいいです。私は訴えます。母が弁護士だって知っていますよね?」
あの母親が訴える訳ない。そんなことを分かっていながらも、慌てる大人をみてざまあみろと思った。
これで終わった。もう全部やった。思い残すことは何もない。私は職員室を後にした。
駆け足で階段を駆け上がり、屋上のドアの前に着いた。荒い息を整えてドアノブを捻る。しかし、ドアは開かなかった。ドアノブを捻ることは出来たが、何かが引っかかっているのかドアはまったく開かない。脚から力が抜けて膝から崩れ落ちた。
(何も上手くいかない。最後くらいいいじゃん。)
プランAが失敗に終わり、駄々をこねる子供のように自然と涙が出た。
自分の決意の固さと現実は関係ないらしい。私は仕方なくプランBを決行することにした。
校舎を飛び出し校門を出て直結する橋を渡る。橋の中心まで来て私は足を止めた。
二級河川の割に流れが強く、深さもある。この川に飛び込もうか。それともこの先の道路に飛び出そうか。プランBの計画はそこまで練れていなかった。
後戻りできないように、引き返せないようにしたのに、いざとなると怖くなる。何もできない自分がまた一つ嫌いになった。
「忘れ物。」
背後から誰かに呼ばれた。聞き馴染みのあるその声は、今一番聞きたくない人の声だった。
「せっかく持ってきてやったのに要らないの?」
ゆっくり振り返ると、したり顔の杏奈がいた。彼女の包帯を巻かれた手には私のリュックがある。
「いらないなら川に捨てるけど?」
杏奈は私のリュックを振り上げ、川に投げ入れるフリをする。飛んで行きそうで飛んでいかないリュックで私の心を弄んだ。
振り子のように左右に往復するそれを見て、狙い通り私の胸は絞めつけられていく。
(いっそ飛んで行け。)
私はゆっくり彼女に近づきリュックを奪った。案外すんなりと手放してくれた。
近くで見る杏奈の顔は、笑っていた。私を見て、笑っていた。
(私はもう杏奈の言いなりにはならない。)
私は持っていたリュックを川に投げ捨てた。リュックは飛沫を上げて川に消えたが、すぐに浮き上がってきた。
死体のように流されていくそれには、私が私であると証明するもの全てが詰め込まれている。とんでもないことをしているという焦りを消すように、開放感を無理やり創り出した。
杏奈は一瞬呆気にとられたが、沸々と笑いが沸きだし、お腹を抱えて笑った。
「ハハハハ、何やってんの?」
私の奇行を彼女は楽しんだ。今目の前にいる人は、出会った頃の気の強い女の子ではなく、私に最初に話し掛けてくれた友達でもなく、化け物だった。彼女を元の姿に戻すことはもうできないのだろう。
「どうして…。」
「は?何が?」
「どうしてこんなになっちゃったの?」
「だから、何が?はっきり言えよ。」
「どうして杏奈は、人をいじめるの?」
杏奈の顔から笑顔が消えた。
「どういう意味?」
「そのままの意味だけど。」
「は?何で杏奈だけがいじめてたことになってんの?怜も一緒でしょ?」
(私も一緒?違う。私は杏奈の言いなりになっていただけだ。悪いのは杏奈…だけ。)
「私は…違う。」
「抜け駆けしないでよ。あんたも一緒になってやってたくせに、自分だけ白を切って被害者ヅラすのは卑怯でしょ。」
抜け駆け。被害者。卑怯。前にもそんなことを言われたことがある。
「一緒じゃない。」
「一緒だよ。怜がいたからやった。」
(私がいたから…?)
私と杏奈は、奴隷と君主。杏奈が君主になったから私は奴隷になったんだと思っていた。だけど、杏奈は違うと言う。私が奴隷になったから杏奈は君主になったのだろうか。
この暴君を、化け物をつくったのは…私?
予想外の感情が込み上げる。
(私は杏奈と同罪なんだ。)
「じゃあ、どうすればよかったの。」
杏奈は答えない。
「私が止めなかったのが悪いの?」
(私に何ができた?どうやったら杏奈を止められた?)
一番初めのいじめなんて記憶にない。それくらい些細なことから始まった。それがいじめだと気づいた時にはもう遅かった。なのに、それを止められなかった私も同罪になるのだろうか。
「何で私なの?何で私が止めなきゃいけないの?」
杏奈を止める役目なんて引き受けたつもりはない。なのに、杏奈を止められる立場にいるってだけで、いじめられた人は私も悪者にする。その立場が私じゃない別人だったらその別人を恨むのに。だから、全部この立場が悪い。
「一緒じゃん。何で杏奈が責められなきゃいけないの?この立場ってだけで。」
その言葉が、杏奈の本音だった。
(杏奈は自分がいじめる立場にいるからいじめた…?そんな立場…そもそも立場なんて元からない。)
杏奈はただ責任転換しているだけだ。
「立場のせいにするなよ。」
言ってから気づいた。
「そっくりそのまま返すよ。」
私もいじめる人の側近という立場が悪いだけで、自分自身が悪いとは思っていなかった。だけど、自分の立場を作ったのは…自分自身だ。だから、美月が私を裏切ったのは当然の報いだった。
全部、全部、自分のせい。自分を守っていた壁が崩壊し、罪がまっすぐに突き刺さる。
「そっか、一緒なんだね。私たち。」
「そうだよ。だから、被害者ヅラしないで。」
「だったらさ…」
最後のピースがはまる音がした。
「…償おうよ。一緒に。」
私は橋の手すりの上に立った。日光で輝いていた水面は、高いところから見ると青が濃く発色した。
「は?飛び込むの?」
杏奈は嘲笑うように言った。本気になんてしていない。私にはできないと思っている。
「私が死んだら杏奈は退学だね。いや、退学じゃ済まされないよ。」
「やれるもんならやってみろよ。そんな度胸ないくせに。」
私はゆっくり左足を右足に寄せて、右足を左足があったところに置いた。
杏奈を見下ろす。動揺している様子はない。
「やるよ。」
私は重心を背中に寄せた。自分でも自分が何をしているのか分からなかった。自殺をしようと決めて、後に引けないようにした。どうせ死ぬから、教師に反撃をしたり、杏奈に楯突くことができた。でも、それでも、自殺を決行する為の覚悟は出来ていなかった。
きっと最後のピースは、怒りでもなく、憤りでも自己嫌悪でもなく、罪悪感だったのだろう。苦しんでいる人を、泣きついてきた人を、私は無視したのに、それを悪いことだと感じていなかった。怪物になったのは私だった。
(ごめんなさい。)
生きていて、生まれてきてごめんなさい。私が生きたことは何の役にも立たなかったけれど、私の死が小さな社会を変える意味のある死になりますように。そんな期待を抱いた。
強張った杏奈の顔が一瞬見えた。
雲一つない青空に吸い込まれるような感覚がする。重力が消えると、全身が冷たさに包み込まれた。
(さようなら、私。)
痛みを感じたのと同時に、私の記憶は途絶えた。
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