第10話 鍵穴くん 1
こんなに広いと思える風景を、僕は見たことがなかった。
田んぼが広がる中の道路を、僕は令斗君に手を引かれて走っている。燃え滾っているような令斗君の体温が、手を握っているだけでも伝わってくる。
空はこれでもかと深い青で包まれていて、奥には大きな入道雲が見える。まるで僕の知らない世界の入り口みたいだ。
心臓の弱い僕は少し不安になりながらも、こんなに楽しくなっちゃっていいのかなと思いつつ、僕の中で膨らむ好奇心を抑えられなかった。
令斗君はとても足が速くて、僕は走るので精一杯だった。
「ねえ、どこに行くの?」
少し息を切らしながらも、僕は期待を込めた声で令斗君に訊く。
「ほら、あっち!」
令斗君は、左手で遠くを指さした。
令斗君が指をさしたのは、この道の先にある、盛り上がった場所で、そこは林にしか見えなかった。
「あっちで見つけたんだよ! 俺らの秘密基地!」
「え? 秘密基地? 木しか見えないけど?」
「あの中にあるんだよ!」
令斗君は前を向いたまま答える。
「ちょ、ちょっと待って?」
小川の橋に差し掛かったあたりで、僕は前へと進む足を止めて、令斗君の手を放す。
令斗君は僕の方に振り返る。
「ん? どうしたんだよ?」
「そこって、どういう場所なの?」
「え? 小屋だよ?」
きょとんとした顔で令斗君は答える。
「え、そこって、誰かが使ってるところじゃないの?」
もし誰かがその場所を使っていて、見つかって怒られたらどうしようと、僕は不安になる。
「知らね」
「えええっ⁉」
あまりの令斗君の考えなしに、僕は驚いてしまう。
「で、でも知らない人の場所に勝手に入っちゃいけないって、お母さんが言ってて……」
僕はそう言うと、令斗君が笑った。
「そんなこと気にすんなって! 俺らが俺らの場所って決めたらいいんだからさ! それに、最近使われてる感じでもないし」
「え、ええ?」
「さ、行こうぜ!」
令斗君がまた僕の手を握る。そしてまた走りだそうとする。
「あ、ま、待って」
「ん?」
令斗君がまた足を止めて、僕を振り返る。
「あの、えっと、僕、体弱いから、あんまり動きすぎないように言われてるって、自己紹介の時、言ってなかったっけ……」
病院のことなど詳しくは知らない僕は、頑張って令斗君に伝えようとする。
僕の言葉を聞いた令斗君ははっとした顔をして、
「ああ、ごめんごめん、そうだったな」
と、頭の後ろに手を当てながら言った。
「じゃ、歩いて行こっか」
そう令斗君は言って、僕の手を取った。令斗君の手を取ったとき、僕の胸の鼓動が高まっていった。
僕が病院からこの学校に入って来たのは、何日か前の事だった。
小学四年生までの勉強はちゃんとしている、きっと大丈夫。僕は心の中で自分を落ち着かせながら、教室に入った。
教室に入ってすぐ、いろんな情報が僕の頭の中に入ってきた。優しそうに僕の方を見る女性の先生。目を輝かせたり、退屈そうに僕を見たりしているクラスの人達。文字が消された跡が残っている黒板の表面や、壁に貼られた習字で書かれている二字熟語たち。取り上げればきりがなかった。そして、僕はみんなにとっては当たり前なのであろう光景を目にして、僕もこの中に入っていいのだろうかと不安になった。
「えっと、僕の名前は、長野昂輝と言います……」
僕は教壇の横に立って、バクバクと鳴る心臓を抑えながら、お母さんに教えられたとおりに自己紹介した。好きな食べ物や、お気に入りの本、そういうことを伝えればいいと、お母さんは言っていた。それを聞いたみんなは、盛り上げるように拍手したり、転校生がくるってなんかアニメみたい! と声を上げていたりした。
みんなが歓迎してくれて、僕は肩の力が抜けていくようだった。
でも、まだ僕にはみんなに伝えておかなければいけないことがある。
「あと、もう一つ、伝えたいことが、あります……」
お母さんの言っていた通りにやれば、大丈夫。
でも、僕の声は盛り上がっているみんなには届かなかったみたいだった。
どうしよう……。僕はそう焦ってしまい、額や脇に嫌な汗がわいてくる。
「はいみんなー、まだ昂輝君の紹介は終わっていませんよー」
すると、隣にいる先生が手を叩きながら大きな声で注意してくれた。
クラスのみんなの声が、リモコンの音量ボタンをマイナスに長押しした時みたいに静かになっていく。
僕は安心して、声に出した。
「えっと、僕は、生まれつき心臓が弱くて……、えっと、だから、あんまり運動をしないように言われています……」
僕はその後も説明を続けた。
説明を終えると、みんなは、はーいと返事してくれたり、頷いてくれたり、それでもつまらなさそうにしていたりして、僕は様々な人たちがいることに、目が回りそうだった。
僕はこれからうまくやっていけるだろうかという不安は、これから新しい生活が始まることへの期待感を上回っていた。
それからは、僕の体験にないことの連続だった。
先生がみんなの前に立って黒板で授業をしたり、大勢の人の中で国語の教科書を音読したり、授業の中でメッセージを渡しあうクラスメイト達だったり、みんなとの給食だったり。
たくさんの人たちがこの教室に集まっているだけでも頭がくらくらしそうなのに、そこで色んな事が行われていることで、僕の心臓が期待感とは逆方向に高鳴っていた。
それでも、みんなは基本的に優しく接してくれて、まるで自分の中で不安と安心の波ができているみたいで、さらにめまいがしそうだった。
昼休み、机を後ろに引いて、やっと落ち着けそうだと思った矢先、どうやらクラスでドッジボールをすることになってしまった。
ある係がドッジボールの進行をしているようで、二チームにクラスメイトを分けているみたいだった。
「美香は弱いから外野でいいよな?」
教壇の前で係の男子が女子を見下しながら言う。美香という女の子は、はあ? と高い声でその男の子に返した
ちょっと、そういうのやめてよ、と他の女子から声が上がる。
「うるせえ、いっつもグループ作って強がりやがって。あ、新人、お前はどのグループがいい?」
僕はその男の子と目が合う。まずい、と直感的に思う。
「え、で、でも……」
男の子が僕に歩み寄ってくる。確か、この人は僕の自己紹介をつまらなさそうに聞いていた人だ。心臓が弱くて運動ができないという僕の言葉を、覚えていなかったのだろうか。
僕の周りで、え、昂輝君って運動しちゃダメだったよね? など、ひそひそと声が飛び交う。
ちゃんと説明しないと。
「え、でも僕、運動やっちゃだめだから……」
そう言うと、いやに口角を上げてにやにやして僕に近寄る男の子の顔が、一瞬で怒りに変わる。
「ああ? うっぜ」
全身の鳥肌が立つのと同時に、僕のおなかに衝撃が走る。蹴られたのだと瞬時に理解した。
僕は簡単に吹き飛ばされて、がちゃんと大きな音を立てて後ろの机にぶつかった。
「そういう弱そうな感じ、つまんないんだけど」
男の子は僕を見下して言う。
教室にざわざわとした声が上がる。
「え、ちょっと、だめだって……」
「私、先生呼んでくる」
「やばい、やばいって……」
その中で、ひときわ大きい声が上がった。
「つまんないのはお前の方だよ」
一人の男の子が、クラスメイトの中から出てくる。
「ああ、なんだよ」
僕を蹴り飛ばした男の子は、出てきた男の子に対して言う。
「つまんないのはお前だって言ったの。自己紹介聞いてなかったのかよ」
「は? あんなのただの甘えだろ?」
二人の言い争いが始まる。僕を蹴り飛ばした男の子は僕を見ない。この男の子の近くにいるのが怖くて、僕は走って教室を抜け出した。
え、ちょっと昂輝君? と後ろから女子の声が飛ぶ。僕はその声を無視して走る。
とにかくみんなに分からない場所に逃げて、気持ちを落ち着かせたかった。
階段でじゃんけんをして遊んでいる人たちの横を通り過ぎ、うるさい心臓を抑えながら走った。
玄関で靴を履いて、校舎と校舎の間にある裏庭に回る。
どこかに隠れて、一人でいたい。
奥に進むとウサギや亀の飼育小屋があって、その横の校舎の壁に用具入れがあった。
僕はその奥へ進み、校舎の壁に背中を預けてしゃがみ込む。
湿っぽくて薄暗くて、コンクリートの壁の緑色の苔が目に入る。ざらざらとした感触を、背中に感じる。
バクバクと鳴る心臓に手を当てる。おさまって、おさまってと、僕は心の中で唱える。大げさな深呼吸を続ける。息を吸い込むたびに、病院とは違う湿気や木のにおいが混ざった空気が、僕の中に入り込んで、僕の胸だけじゃなく心もより苦しくなる。
これだから僕は、誰とも仲良くできないのかな……。
僕は心の中でそう思う。
病院でもそうだった。仲良くなれたかもしれない友達は何人もいた。それでも僕は人が怖くて逃げてばかりだった。それなのに一人が寂しいと思う気持ちは人一倍強くて、いつもお母さんに甘えてばかりだった。
また僕が逃げてしまったから、一人になってしまった……。
そんな後悔が湧き上がってくる。
ある程度心臓の高鳴りがおさまって、ゆっくりと息を吸うことが出来るようになった。
飼育小屋の金網の向こうで、日に当たりながら走っているウサギが目に入る。
本当に僕は、ここでうまくやっていけるのかな……。
ずっとここで、誰にも見つからずに一日が終わってほしい。僕はそう願ってしまう。
今更教室になんて戻れないし……。
そう思っていると、どこからか声がした。
「ここら辺に行ったと思うんだけどなー」
この声は、あの係の男の子と言い争っていた男の子の声だ。
見つかったらどうしよう……。僕はそう思って、体を縮める。
「えー、マジどこに行ったんだろ、昂輝君」
ジメジメとしたコンクリートを踏む音が、こちらまで近づいてくる。
「あ、いた!」
「ひっ……!」
男の子の溌溂とした声にぴくっと反応し、僕は顔を上げる。
男の子は、優しい笑みを浮かべていた。
男の子は、なんだか心外そうに、僕に言う。
「そんな怖がらなくていいって。俺はあんな、拓海野郎みたいなバカじゃねーよ」
そう言って男の子は笑う。
「拓海野郎って?」
拓海、という人が誰かわからなくて、僕は訊いた。
「遊び係のリーダーだよ。昂輝君を蹴り飛ばしたやつ。昂輝君、まだみんなの名前覚えてないの?」
僕はそう言われて申し訳なくなる。
「う、うん……」
「あー、そっか。来たばかりだもんな、そんな一発でみんなの名前分かんねーよな」
そう言って、男の子は笑った。
その笑顔を見て、僕はこんなに明るい顔ができる人がいるのか、と思った。今までずっと、周りの大人たちに心配や優しさの目ばっかり向けられていた僕にとっては、この校舎の影すら消し去ってしまうほどの明るさの男の子がまぶしかった。
「俺、櫂房令斗。よろしくな」
そう令斗君は言って、僕に手を差し伸べた。
僕は令斗君の手を取って、ゆっくりと起き上がった。
「ねえ、令斗君……」
「何?」
「えっと、ドッジボールには行かなくていいの?」
今頃教室で何が行われているのか、気になって僕は訊いた。
「誰かを無視した遊びなんて面白くないだろ? それに、あの感じだと、拓海、先生からお叱り食らって、ドッジボール中止になるんじゃない?」
令斗君はそう言うと、にやにやした顔つきで校舎を見上げた。
僕もなんとなく令斗君の向いた方を見る。僕の目線の先には、僕達の二階の教室があった。
「拓海君! 職員室に行きなさい!」
すると、その教室から、あの女性の先生の声が聞こえた。
「えぇぇぇぇ……」
優しそうな先生の顔からは想像もできない耳をつんざくような怒号に、僕はそんな声を上げてしまう。
「あはは、やってるやってる。あの先生、めっちゃ優しいけど怒ると怖いんだよなー」
二階の教室を見上げながらかいちゃんは楽しそうに話す。
「えぇぇぇぇ……」
先生の怒鳴り声にビビらないで楽しそうにしている令斗君にも、驚きの声を上げてしまう。
令斗君は教室から目を降ろして、僕の方へ向く。
「そういえば、おなか思いっきり蹴られてたけど、大丈夫だったか?」
さっきとは違って、心配そうな声色で令斗君は訊く。
「うん。隠れてるときに、痛みは引いたから……」
「そ、ならよかった。多分後で拓海と話し合いされたり、クラス会議が始まったりして、めんどくさくなるかもしんないぜ」
「え、そうなの?」
僕はそう言われて、この後のことを考えた。拓海君と話せる勇気はないし、みんなに可哀想な目で見られたりしたら、この学校を歩いて行ける自信がない。
僕は落ち込んで、俯いてしまう。
この気持ちを、僕は誰かに伝えたかった。
「僕、怖い……」
伝えても、自分が醜く思えてくるだけなのに……。
僕がゆっくりと顔を上げると、令斗君は、少し落ち込んだような顔をしていた。
「そっか……」
僕の気持ちを伝えても、どうにもならない。そう思った時だった。
令斗君の顔が急にぱっと明るくなって、こんなことを言い出したのだ。
「そうだ! 俺が昂輝君を面白い場所に連れて行ってやるよ!」
急に投げかけられた言葉に、僕は一瞬困惑してしまう。
「面白い場所って?」
「それは秘密、行くときのお楽しみ!」
面白い場所。どんなところなのだろうと、僕は胸の中で期待を膨らませた。
「さ、教室に戻ろうぜ!」
「……うん!」
令斗君は僕の手を引いて、一緒に歩いてくれた。
僕は令斗君と一緒なら、この場所でやっていける。そう思えた。
令斗君の存在のおかげで、真っ暗闇に思えた未来に、憂鬱な気持ちを忘れてしまうほどの光が差した。
「どう? ここが秘密基地! すげえだろ?」
令斗君は秘密基地の入り口に手を広げながら言った。
令斗君に手を引かれ、木々の中を潜っていった先に、令斗君の言う秘密基地はあった。
そこは木造の小屋だった。中は四畳半ほどの広さで、両側には長椅子が二つ、真ん中には小さな鏡が置かれたテーブル、奥には漫画が数冊入った本棚。開かれた窓からは、日の光が差し込んで、中を明るく照らしてくれている。
「おぉぉ。ねえ、ここ、令斗君が見つけたの?」
僕は秘密基地を見ながら令斗君に訊く。
「ああ、ちょっと前にぼろぼろになってたのを見つけてね。俺が掃除して、きれいにした」
令斗君は秘密基地に入りながら答える。
「誰も使ってないみたいだったし、いっそ俺の場所にしちゃおっかーって思って、漫画まで持ってきた」
そう言って、奥の本棚を指さした。
本棚の中の、僕の見覚えのない背表紙の漫画が目に入る。
「ほら、昂輝、中入って」
そう言われて、僕は秘密基地の前でぼーっと中を覗いている自分に気づいた。
「あ、うん」
僕は秘密基地に足を踏み入れる。僕は入り口から左側の椅子に座り、令斗君は本棚から一番左端の漫画を取り出し、それを持ったまま右側の椅子に座った。
「ねえ、昂輝はこの漫画知ってる?」
令斗君は身を乗り出して、僕に漫画の表紙をでかでかと見せながら言った。
令斗君はその漫画のタイトルを言う。
「ううん、知らない」
僕はそう答える。
すると、令斗君はもっと僕の方に乗り出して、ええっ⁉ っと目を見開いて驚いた。
「めちゃくちゃ有名な漫画だよ⁉」
椅子に座りなおしながら令斗君は言う。
「病院に本は置いてあったんだけど、どれも絵本とかだったから、漫画には詳しくなくて……」
僕だけがその漫画を知らないのが恥ずかしくて、僕はつい言い訳をした。
「病院って、なんだかおもしろくなさそう……」
腕を組みながら、つまらなさそうに令斗君は言う。
「まあ、楽しいことは少ないけど……。ねえ、その漫画、どんな内容なの?」
病院の話はしたくなくて、僕が一番気になる質問をした。
すると、令斗君はよくぞ聞いてくれたと言わんばかりに目を輝かせた。
「この漫画はね! 海賊の話なんだけど!」
「海賊……」
「戦いのところも面白いんだけど、おれ、キャラによってみんな呼び方が違うのが面白くてさ! ほら、この緑色の髪のキャラ、いるだろ?」
令斗君は、表紙に描かれている緑色の髪をしたキャラクターを指さし、その名前を僕に教えた。
「こいつが、一人のキャラにだけまりもって呼ばれてたりするんだよ」
「え、それってひどくない?」
「大丈夫、そいつら仲がいいから」
「え、そうなの?」
「まあ、そんでさ、俺達も俺達だけのあだ名で呼び合いたくて!」
「え、僕にまりもみたいな名前つけるってこと?」
「いや、そんなつもりはねーけど」
そう言って令斗君は小さく笑った。
そこで僕は、令斗君がその漫画を取り出した理由が、ただお互いのあだ名をつけたかったから、ということに気が付いた。
「まあ、フツーにあだ名をつけようぜ、ってこと」
「で、でも、どうやって考えればいいかわからないよ……」
「簡単簡単、拓海野郎とかは、たっくーって呼ばれてる。適当だろ? そんな感じで決めればいいよ。そうだなー」
そう言って令斗君は上を向いて考える。
「昂輝、こう……、こうちゃんとか! どう?」
こうちゃん……。僕はその不思議な響きが、これからの名前になるんだと思って、僕はむずがゆい思いでいっぱいだった。
「うん、こうちゃん……。すごくいい!」
僕はまっすぐ令斗君の方に向いてそう言った。
「そっかー! よかったよかった! さ、次は俺の名前を考えて。こうちゃん!」
令斗君にこうちゃんと呼ばれて、少しどきっとしてしまった。新しい自分を与えられた。そんな感覚がした。
「かいぼうれいとくんだから……、ぼう……、ぼーちゃんとか!」
そう言って僕は令斗君の表情を伺う。
喜んでくれるだろうか……。
「え、それってアニメのキャラにいるやつじゃん!」
意外に、令斗君は残念そうな顔をした。ぼーちゃんってあだ名、そんなに悪いかな……。
「え、だめだった? アニメのキャラって?……」
「あ、いや、だめじゃないよ⁉ 俺、すっげーそのあだ名気に入ったから……。アニメのキャラのことは気にしなくていいよ!」
そう言って令斗君は慌てる。
「ほ、ほんと?」
「ほんとほんと! よく考えたら、めちゃくちゃいい響きだよ!」
そう令斗君が言って、僕は胸を撫で下ろした。
こんなにたくさん同じ年の人としゃべったのは初めてで、もうこれからの未来は、何も怖くないと思えた。
僕が記憶喪失であることなど知りもせず、彼女は話し始める。
「昂輝はね、最初はとても入学を怖がっていたわ」
長野と書かれた表札のアパートの一室のリビングで、長野昂輝のお母さんは、机越しに僕と向かい合って座り、話をした。
長野、という表札を見たとき、うっすらとした記憶の中にある長野昂輝という名前がリンクして、僕の胸の鼓動が高鳴った。
長野昂輝のお母さんは、話を続ける。
「授業中はずっと座って受けるの? とか、先生って怖い? とか、そう言っていたわね……。私はそんなに心配しなくていいよ、って言ったんだけど、初日からクラスメイトの一人に蹴られたって聞いて、夜にその子と保護者が来て家に謝りに来たわ。その後、私は昂輝に大丈夫だった? って聞いたの。私はとても昂輝が心配だった。でも昂輝は、大丈夫、僕、友達ができたからって言ったの。その時は、とても安心したわ。その友達って言うのが、あなたの事なのね?」
「……、はい」
僕はとりあえず、そう答えた。
「休みの日になると、昂輝はとてもうきうきした様子だったわ。どうしたのって訊いたら、あの子は、友達と遊びに行くんだって言っていたわ」
そう言うと、長野昂輝のお母さんは優しく笑った。
すると長野昂輝のお母さんは、壁に立てかけてある時計を見て、
「あら、もうこんな時間」
と呟いた。そして、僕に優しい眼差しを浮かべた。
時計の針は、昼の十二時を指していた。
「よかったら、ここでお昼ご飯、食べていく?」
長野昂輝のお母さんはそう言った。
「え、いいんですか?」
「いいのよ、遠慮しなくて。今日は久しぶりにジェノベーゼを作るつもりだったの」
僕は恐縮して、
「あ、ありがとうございます」
と言った。
長野昂輝のお母さんは、キッチンの方へと向かった。
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