鍵穴くん

うすしお

第1話 鍵穴くんを思い出す

 友達として、俺はあいつを助けたかった。


 決して、誰かに認められたいとか、いい人に思われたいとか、そんな不純な気持ちで接していたわけじゃない。みんな楽しそうな顔をしていて、でもあいつだけ、その中で俯いて一人で立っている男子がいたら、助けたいと思うのは当然だ。

 だけどもう、あのおどおどした表情すら、俺は見ることができなくなった。

 俺は帰りの会の中、学校から解放されるまでのカウントダウンを受けている気になっていると、先生が黒板に今日の宿題を書き始めた。

 俺はみんなより遅れてノートを取り出した。緑色の表紙には、小学五年生、三組、櫂房令斗と書かれている。

 かいぼうれいと。自分の名前を見るだけで気持ち悪くなってしまうのは、なぜだろうか。

 あの時、俺からお互いのあだ名を決めようと提案して、俺が先にあいつのあだ名を考えた。新しい名前を与えられたあいつは、頬を真っ赤にして、喜びを隠しきれていない様子だった。

 そして、次はあいつが俺のあだ名を考えた。

 あいつが俺に与えてくれたあだ名は、ぼーちゃん、だった。

 かいぼうれいと、の、ぼう、を取って、ぼーちゃん。

 そのあだ名を聞いた時、あんまりかっこいい響きじゃなかったし、鼻水を垂らしているアニメキャラの名前と被っているしで、ちょっとがっかりした。

 でも、あいつがつけてくれた名前だし、大切にしようと思った。

 実際、あいつと一緒にいることで、その名前に愛着を持つようになった。

 そして、新しい自分になれた気がした。

 そのあだ名で呼び合うのは、俺たち二人だけだった。

 でももう、そのあだ名で呼ばれることは一生ない。

 俺は本名の字面から逃げようとするみたいに、ノートを開いた。

 漢字ドリルの三十二ページ、国語の音読、算数ドリルの四十ページ、と、黒板に書かれた文字を写していく。

 こんなもの、やる必要あるのかな……。

 俺は、俺の生きる期間を思い出す。

 やらなくても、大丈夫だろうと思った。でも、と思い直す。やっぱり怪しまれるかもしれない。そうでなくても、お母さんや先生から、自暴自棄になってしまったのだと思われるかもしれない。

 怪しまれないためにも、宿題をやることにした。それに、宿題をサボればその分放課後まで説教される、なんてこともあるかもしれない。それは、とても都合が悪かった。

 帰りの会の挨拶が終わった後、クラスのみんなは教室から出て行った。

 でも、俺は一人クラスに残っていた。なぜなら、美香にクラスに残るよう言われていたからだ。

 何分かランドセルを机に置いたまま立っていると、教室の入り口から足音がした。

「美香、なんで俺にここに残るように言ったの」

 そのせいで、一日期限が延びてしまったじゃないか。出かかった言葉を飲み込む。

 美香が教室の入り口から少しずつ俺の方に近づいていく。恐る恐る、と言った感じで、妙に落ち着かない。

「えっとさ、あの、私……」

 美香のその様子から、いや、いつも美香が俺にむけていた目から、なんとなく察しはついていた。

「あのね、令斗くんの、友達のこと……」

 思わず舌打ちをしそうになる。

 美香は、一体いつまで引きずる気なんだ。

「ごめん、俺、帰る」

 そう言って、俺はランドセルに手をかける。

「ちょっと待って!」

 俺はランドセルに手をかけたまま、答える。

「何」

「えっと、私だけでも、支えになれば、って……」

 美香はやっとのことで声を絞り出すことができているみたいで、そのことが俺を更に苛立たせた。

 こいつは、何もわかってない。

 俺の苦しみに漬け込んで、一方的に恋を叶えようとしているのはバレバレだ。

 俺の友達という言葉が美香から出た時点で、俺はもうまともに言葉を返す気を無くしていた。

 俺はランドセルを片手に持って、わざと足音を大きくして教室を出た。

「なんで、そんなに塞ぎ込もうとするの!? 訳わかんないよ!」

 俺は投げかけられた全ての言葉を無視して、階段を降りた。美香がついてくる様子はなかった。

 

 翌日は雨が降っていた。俺の最後には、こんな日が似合っているのかなと、ベッドの上でぼんやりした頭で思った。

 カレンダーには、この日以降の数字を消していて、やっとこんな時の流れから解放されると思うと、心が軽くなった。

 いつものように朝ごはんを食べ、準備をして、表だけの笑顔で、傘をさして学校へ向かった。登校中に美香と会うかもしれないと思ったが、そんなことは起こらなかった。

 いつもと同じように笑顔を浮かべてみんなと接する。この時期になると俺の精神を心配するような人はほとんどいなくなり、連絡帳に載る先生のメッセージも明るいものに変化しつつあった。

 こうやって、周りに自分を明るい人間に見せることで、俺の自殺の可能性を勘繰られないようにした。そうすることで、俺の償いを妨害しようとする人を作らずに済む。

 だから、俺にとっての邪魔者はただ一人、美香だけだった。美香だけが俺を心配している。俺の理解者にでもなったつもりで。美香が俺のことをどう思おうが自由だが、面倒ごとを背負わされるとなると話は別だ。

 とにかく、俺はみんなに心配されたくなかった。

 本当は、昨日、教室のベランダから飛び降りるつもりだった。だけど、その日の昼休み、美香に放課後に二人で話せないか、と言われたのだ。俺はもちろん美香とは話したくなかった。だが、断れば怪しまれると思って、放課後、美香が来るまで待っていたのだ。

 だから、美香があいつのことを持ち出したのは呆れた。

 あいつがいなくなったことは、変えられない出来事だし、誰もそのことについて触れてほしくなかった。これは俺だけの問題で、自分で償わなきゃいけないんだ。

 俺は帰りの会が終わると、教室から誰もいなくなるまでトイレの個室に隠れて待った。

 教室に戻ると、雨がいつの間にか止んでいて、濡れた緑色のベランダは、オレンジ色に輝いていた。なんだか俺の死を歓迎しているように見えた。

 俺はベランダに出て、フェンスに手をかけた。

 あいつがいなくなって、俺が死ねば、あいつとまた会えるかもしれないとか、友達になったことを許してくれるかもしれないとか、そんなことは思っていない。

 ただ、あいつを傷つけてしまった自分が許せないだけだ。

 ぐっ、とフェンスにかけた手に力を込めて、体を浮かせ、フェンスの上に立った。

 ごめん、ほんとにごめん。

 俺のせいであいつを苦しめてしまったんだよな。

 俺は前方に体を傾けた。

 俺の見える世界の上下が反転して、すぐ、俺は意識を失った。

 その時、少しだけ、あいつの描いた落書きが、頭に浮かんだ。

 鍵穴のような形で、三本線で書かれた簡素な顔をした、あいつが作ったキャラクター。


 なんで、こんなもんが……。

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