第4話
私が夕食を取ろうとある店に入ったのは、夜の大学から離れて三十分後のことだった。
何を食べようかと悩んだ後に、パスタにしようと思いついたのは、五分後。
家で作るのも億劫で、レポートを作成することを考えると、外食してしまった方が良いと思ったのだ。
しかし、比較的いつも利用するイタリアンは、なぜか驚くほど混んでいて、そこでの食事を断念した。
そのまま、次に食べたいものはと考えて、ラーメンという選択肢が浮かんだが、いざラーメン屋の前に行くと、そうでもないテンションの自分がいることに気付く。
またしても、何を食べるかという脳内会議に戻った私は、もうファミレスでいいやと思ったが、これまた混んでいて待ち客が四組ほどいたので、これもやめにした。
そういうしているうちに、時間は過ぎていき、もう空いているところならどこでもいいや、と投げやりな気持ちになりつつ、結局大学の近くの定食屋に入った。
安くて美味しい定食屋で、一時期は週三くらいで通っていたのだが、如何せん『お洒落』とは真対局にあるような店なので、1人のときにしか来ない。最近は綾たちとご飯を食べることが多かったので、必然的にくる回数も減っていた。そういう意味では、久しぶりだし楽しみではあったわけだが、定食屋のドアを開けたところで、私は慄いた。
「あ……」
「あ……」
入って正面の席に、こともあろうか、彼がいた。
そう、つい三十分前に大学の中庭で合ったあの彼だ。
「さっきの人……」
「あ、どうも……」
ぎこちなさ過ぎる挨拶が交わされ、私は席に付く。
「あら、久しぶりだね……」
そう声をかけてくれたのは、定食屋の女将さんだった。
店主と女将さんと、昼間はアルバイトの三人で回してるようだが、夜はバイトが抜けて、料理を作る店主と女将さんだけになる。
かつては、通いつめていたせいもあって、私は女将さんとはすでに顔見知りであった。
「ご無沙汰してます」
会話はそれだけ。
しかし、その距離感が、私には心地よかった。
本来私は、顔を覚えられるようなお店には大体通わなくなる。
それは、日常会話が面倒くさいからで、そんなところでもコミュニケーションをとりたいほど、話好きではないからだ。それなのに、この定食屋に通い続け、今でもこうして足を運ぶ理由は、女将さんの客への距離感が絶妙だからだろう。
彼女は、挨拶はするものの、それ以上の会話をしてはこなかった。
これが私にとっては結構重要なのだ。
私は自分の中の定番の一つである『焼き魚定食』を注文する。
「仙、おかわりは?」
注文を厨房に通すついでに、女将さんが『彼』に向かってそう聞いた。
「ん……今日は大丈夫です」
『仙』と呼ばれた彼は、いい笑顔でそう答えた。
「ご馳走様」
そう言って、彼は百円玉二枚と五百円玉一枚を女将さんに渡して、私の横を通りすぎる。
ドアを開ける手前あたりで、ふと彼は呟いた。
「君もかなりの常連なんだね」
「はい……?」
「焼き魚定食は、メニュー裏に書いてあるから」
そう言って、目を細めた。
「お先……」
彼は私の言葉を待たずに、そのまま外へと出て行った。
確かに。
彼の言う通り、ここのメニューは見開きの左右にずらっとならんでいるが、そこに書き切れなかったであろう『焼き魚定食』と『持つ煮込み定食』だけが、裏側の『サイドメニュー』と『飲み物』の欄の頭に食い込んでいるのだった。
何度もきて、このメニューをじっくりみた人間でないと、これに気が付き難い。
「あなた、仙くんと知り合いなの?」
注文を通した女将さんが、珍しく話しかけてきた。
「同じ大学、みたいです。さっき初めて見かけて……」
「そう……」
女将さんは柔らかい微笑みで、そう言うと話はやはり、そこで終りだった。
「あの……『仙』っていうんですか、あの人」
気が付くと、私はそう尋ねていた。
女将さんは一瞬驚いたような顔で、振り返ったが、すぐに口を笑顔の形にして、
「そう。水無月仙。六月の『水無月』に、仙人の仙ってかくの。芸名みたいでしょ? でも本名らしいのよ。だから丁度イイって、そのままペンネームにもしてるみたい」
私は絶句した。
あまりに情報量の多い言葉だったからだ。
水無月仙というあまりにも現実離れした名前なら、まぁ、わかる。そんな人が一人や二人いるのが、大学というものだ。実際、私の名前の『絃』だって、変わっているといえば、変わっている。
だが、ペンネームとはなんだ。
「あの、作家、なんですか?」
「さぁねぇ……『作家にもなりたい』って話は聞いたことがあるけど……」
女将さんは、首を傾げた。
「別の目的もあるみたいだよ」
作家ではない、のか。
「ああ、でも、この前、何か微妙な賞を取ったって言ってたねぇ」
賞?
私の中の疑問は更に深まったが、そこで詮索をやめた。
知りたいなら、彼本人に直接聞けばいいのだ。
「ありがとうございます。すみません、変なことを聞いて」
「いいのよ。仙が誰かに話かけるなんて珍しかったから、こっちも……ね」
水無月仙。
彼は変な人だ。
それだけは間違いない。
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