第3話
暗い敷地内に、所々建物の窓からの明かりが、不規則に見える。
それは、真剣に研究や学問にとり組む生徒達の証明とも言える明かりだ。と、私は勝手に思っていたりする。
だってそうでしょう?
昼間に大学に来るのは講義の関係上『仕方の無い』ことだけど、この時間に行っている講義は一つもない。
みんな、なんらかの自分の研究なり勉強なりをしている結果なのだ。
それは少なからず真剣であるに違いない。臨んでか否かは別として。
時刻は夜の八時を少し回った頃。私はすでに警備員が配置された受付で学生証提出し、ロッカーに向かった。
夜七時を過ぎたあたりから、普段は四箇所解放され、素通りできる講義棟、教室棟への入り口が一箇所になって、警備員が監視役として座ることになっている。まぁ、大学のセキュリティということを考えれば、当然だと思う。
私はそそくさとクリアファイルに入った資料と、専門書をバックに詰め込んで、来た道を戻る。
やはり受付の警備員に会釈をして、そのまま中庭へと出て行く。
目的は果たした。
さて、今夜は何を食べようか、なんて考えながら校門までの道のりを歩いて行くと、丁度研究棟の方から歩いてくる男性を見かけた。暗くてよく見えないはずなのに、彼の羽織っている白衣のせいで、コート状の輪郭だけがいやに浮きあがって見えた。
一瞬、教授か助教授かと思ったが、彼が中庭に数個だけ存在する照明の下に差し掛かったことで、学生であることが分かった。少し長めの髪が、雑に乱れ、目は疲れているのか、はたまた明かりが眩しいのか、しょぼしょぼと細めていた。
ボアっぽい生地の、襟首が大きめに開いたカットソーに八部丈のデニム、足もとは裸足に雪駄だった。
六月とは言っても、まだ今年は梅雨入り前で、少し肌寒い日も多く、事実今日も、決して暖かいとは言えない気温だ。
私は薄手のセーターの上に結構厚手のジャケットを着ていても、全く暑くない程度には寒いはずなのだ。
しかし、彼は明らかに私のセーターよりも薄いカットソーを着て、裾が心もとないデニムを穿き、雪駄を引っ掛けている。襟首から察するに、カットソーの下は素肌だろう。暑がりなのか、この白衣に絶対の信頼を寄せているのか。
そんなことを考えながら、ぼうっとその男性のことを見詰めていた
「んん……」
小さく呻き、首をゆっくり左右に曲げると、ポキポキと小気味のいい音がするのが分かった。
彼はゆっくりと私の目の前を横切り、通り過ぎて行く。
そこで、
「ん?」
彼がこちらを見た。
気だるげな表情だったが、意外にも顔立ちは整っているように見えた。
立ち止まって、数秒。彼は小さく、微笑んだ。
「へぇ……こりゃあ、綺麗な人だ………」
そう言って、そのまま通り過ぎて行く。
「え……?」
私は、固まっていた。
「え? ええっ?」
すでに彼は視界の外へと消え、微妙に暗い中庭には私一人が取り残されていた。
誰に言うでもなく、私は素っ頓狂な声を上げていた。
おかしかった。
何がおかしいかといえば、もちろん、今しがた、目の前を通りすぎた彼がだ。
その身なり格好もおかしいといえばおかしいが、なに? さっきの一言。
『綺麗な人だ……』
純粋な聴き間違いだろうか。単純に耳がおかしくなったのだろうか。それとも、今ひとつ低い客観視での自己評価と自尊心の折り合いが上手くつかないことにより生じた、幻聴だろうか。
自意識過剰? これは末期だ。
私は息を大きく吸って、歩き出す。
何を動揺することがあるのであろうか。
別に、そういう褒め言葉を言われた事がないわけじゃない。
ナンパされるときはよく言われるし、付き合ってきた男性からは、少なからずかけられる言葉だ。
しかし――。
なんとも妙だ。
私はいつもよりも何倍もの速さで、校門までの道を歩ききった。
それでも、さっき見た彼の雑な髪と少しだけこちらに向けられた気だるそうな目だけが、脳裏から離れなかった。
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