第2話

「その高梨君がね?『今度、一緒に食べに行かない?』って。『二人きりで』だって」

 随分と嬉しそうに話す三島綾に相槌を打って、私は冷めかけたカプチーノに口をつける。

 大学の帰りに、一緒にお茶でもして行こうという話になって、綾と私は最近出来た渋谷のカフェに足を運んだ。

 世界大会で良い成績を残したバリスタが立ち上げた有名なお店らしいけど、私にはどうにも、ここのカプチーノが美味しいとは思えなかった。

「よかったじゃない。ずっと、狙ってたもんね?」

 私は綾に、にしし、とワザとらしい笑いをしながら言う。

「狙ってた、なんて、そんなんじゃないよ」

 綾は顔を真っ赤にして否定する。

「ただ、二人きりで一緒にどこかいけたらいいな~って思ってただけ」

「それを狙ってるっていうんじゃないの?」

「そんなにガツガツしてません」

「よく言うわよ、最近ずっと高梨君の近況報告ばかりだったくせに」

「あれ……そう、かな……」

 綾はあまり、男性経験が少ない。

 というか、多分無い。

 同じ学科の同じ一年生で、特に留年や浪人してない彼女は、私と同じ十九歳だ。

 しかし、高校までお嬢様学校だったせいか、まだキスまでしかした事がないらしい。

 いや、もしかすると『キス』も実はまだである可能性もあるが、彼女なりの見栄なのかもしれない。

 素直で明るくて良い子だけど、ちょっと初心すぎるところがたまに傷だ。

 因みに、高梨君というのは、彼女が入学時から片思いしている経営学科の男の子だ。

 歳は同じ。長身で爽やか系の好青年だ。何度か見かけたことがあるけど、彼も彼で、あまり女慣れしてるタイプではないみたいに見えた。

 そういう意味では、二人はお似合いだろう。学科が違うから中々接点が無かったけど、無理やり新入生歓迎コンパで連絡先を交換して、そのままゆっくり、ゆっくりと進んで行き、つい先日、二人で食事に行く約束を取り付けたようだ。

 それまでの期間の三ヶ月が、長いか短いかは人それぞれだろう。

 その間に、私は受験終りと同時に付き合い始めた元高校の同級生と四月の後半に別れ、五月に大学の中庭で偶然出逢った今の彼と先週から付き合い始めている訳なのだけれど…。

 ついでに言っておくと、今は六月の九日だ。

「へへ、お待たせー」

 突然私達の席の横に現れて口を挟んだのは、新崎楓だった。

「あ、楓! 今日はバイトだったんじゃ…」

 綾がなんだか嬉しそうに言った。この子の普通に嬉しそうな顔というものは、中々に可愛らしい。まるで自分が、随分と期待されていたような気分にすらなる。

「うん、それが急になくなっちゃってさ。ほら、うちのバイト先、人あぶれてるから。ヒマだとバイト削られちゃうんだよねん」

 ワザとらしい語尾なのに不自然に聞こえないのは、楓のもつ雰囲気のせいだと思う。

 ノリのいいしゃべり方と、耳障りの良い声のせいで、彼女の言葉は聞きやすく好感が持てる。

 もしかしたら語尾に『ニャン』や『なのら』なんてつけても、違和感なく聞けるのかもしれない。

「良くここだって分かったね」

「ああ、それは、私が教えたの」

 私はスマホを軽く降りながら言う。

「そうだったんだ。じゃあ、分かった時点で言ってよー」

「ふふっ。楓、注文は?」

「うん、今してくるね」

 楓はバックの中から財布だけ取り出すと、「荷物見ててね」と言って、注文カウンターに歩いていった。

「楓ってさぁ……男前だよね」

 レジに並ぶ凛とした立ち姿を見て、綾が言った。

 私より少し背の高い彼女は、かなり細身でウエストの位置が高い。

 今日のようなタイトなパンツルックだと『出来る女性』のように見えて格好いい。

 ミディアムショートの髪をエスニック風のバンダナニットで雑にアップにしてるのに、何故か様になる。

 緩くウェーブのかかった栗色の長い髪の綾とは、対照的な感じだ。

 私は、その中間。肩より少し長い髪を緩く結んで片方に束ねている。髪の色は微妙にピンク系の茶色。ナチュラルな色を選んでいるつもりだけど、その分中途半端な髪色かもしれない。

「お待たせ」

 飲み物を買って、楓が戻ってくる。

「何にしたの?」

「んー『オランジェットなんちゃら』……なんか期間限定ってやつ」

 楓が持ってきたグラスには、チョコを被ったオレンジが浮いた、チョコレート系のドリンクだった。

「それでそれで? 綾の愛しの『高梨君』はどうなったの?」

「今度二人だけで食事に行くんだって」

「え~! やったね! 綾」

「う、うん……えへへ……」

「いいないいな! 羨ましいな!」

「楓だって彼氏いるじゃない?」

 私が言うと彼女は『オランジェットなんちゃら』を啜りながら、眉を顰めて、

「新しい哲学書の考察に入ったわ」

 呆れ顔で呟いた。

「また? この前もなにかずっと考え込んでたよね?」

 綾が心配そうな顔をする。

「あの人は哲学者だから。ずっと思考して、グルグルしてるのが好きなのよ」

 楓の彼氏は、彼女達が高校生から付き合っている人で、大の哲学マニアだった。

 哲学書や思想書を読み漁っては、その考察で勝手にレポートを書くような変人だ。

 楓と同じ高校だった私は、当然あの彼とも何度か会った事があったけど、同じ歳とは思えないほど、老けて見える風貌だった。

 大人っぽいというより、達観した仙人のような枯れた老人のような雰囲気がある人なのだ。

 そんな彼は当然、うちの大学の哲学科に在籍しており、毎日嬉々として講義を聞いているらしい。

「じゃあ、また暫く楓は放置?」

「そうかもね……だから、綾たちと遊び放題!!」

 そう言いながら、綾に攻め寄る楓。

 楓は、そんな哲学者な彼のことが大好きなのだ。それはきっと、見た目ではなく、能力でもない。いや、むしろそれも含めた存在の全部を、愛しているように見える。

 彼女はすでに『掛け替えの無い人』を見つけたに違いない。それは私にとって、羨ましいことであり、同時に、理解出来ないことでもあった。

 楓だけじゃない。

 綾もそうだ。

 頭や思考や損得勘定やそういうのとは違う部分で人を好きになっているのだと思う。

 私には、それが無い。

 『この人でなくては』なんて思ったことは、一生を通して、ただの一度もないのだ。

 もしかしたら、私は恋をしたことがないのかもしれない。

「ほら、絃? 達観してないで、ちゃんと会話に入ってきて!」

 ほんの少しだけぼうって二人のやり取りを見ていたら、楓が私に向かってそう言った。

「してないよ」

 彼女の言う『達観』は、深い意味なんて何もなくて、単純私が心ここにあらずな状態になること。つまりは、思考に入り込み、目の前の人間とのやり取りが疎かになる状態のことをいう。すでに綾とは大学に入ってからの友達だが、楓とは高校からの付き合いだ。そのせいもあって、楓は私の『達観』してしまう癖をからかい半分に諭すのだ。

「してたよ。遠い目、してたから」

「確かに、絃ちゃんはたまに仏のような目をするよね」

「ほら、綾も気付いているよ?」

「そうかな……ただ、少しだけ冷静に考えてるだけなんだけど」

「絃はさ……昔っから、妙な透明感があるんだよね」

「透明感?」

「そう! 『純粋』とか『ピュア』とか『素朴』みたいな感じがベースなんだけど、そのどれとも違っていて、もっとなんていうかな……それこそ達観してるような『透明感』があるんだよ」

「あ、それ、何となく分かる! 絃ちゃんって、そういう女神様っぽいところあるよね?」

 楓の言葉に綾も賛同する。

「女神様? ふふっ」

 聞き返して、思わず笑ってしまった。口に出してみると、想像した以上にチープで痛い言葉だった。

「そうそう……でも『芋っぽさ』とはまた全然違っててさ……世の中の全てを知りつくしてるのに『処女』みたいな感じ?」

「なにそれ……そもそも私、処女じゃないし」

「だから、イメージだってば」

「ミステリアスっていうのかな……絃ちゃんにはそういう雰囲気あるよね……私もね? そういうのちょっと欲しいなって思うの」

 なぜか少しばかり、瞳を輝かせながら言う綾。

「う~ん、そっかな。自分だと良く分からないけど」

 そう言って誤魔化すけれど、それは嘘だ。

 私はその『透明感』の正体を知っている。

 それは、その言葉どおりの意味の『透明感』だ。

 世に広く使われている美しいものの例えではなく、単に『透明』なのだ。透明、それは無であり、空虚である。つまり『空』なのだ。

 私の根本にあるからっぽな部分を、まんまと見抜かれているのだ。

「絃はさ……」

 楓は、すっと目を優しく細めて、

「きっと、冷めちゃってるのよね……」

 と言った。

「こと恋愛に関してはさ、凄く冷静に判断してるんだと思う。だって絃って、絶対ナマじゃしないでしょ?」

「は? ちょっと、なに突然言い出すの?」

 流石の私も、まだ夕方の五時を回ろうという時刻に、仮にも都会の真ん中のカフェでセックスの話をするべきじゃないことくらいは分かる。

「楓、そうだよ、流石にここじゃ……」

 綾が私と同意見だったことに安堵していると、そんな私達のことなんて気にもかけない様子で楓は言い放つ。

「この人ともっと繋がりたい、とか、万が一子供が出来てもいいや! なんて一瞬でも考えないでしょう? つまり、そういうところで、とことん冷静なのよ、あんたは」

「うん……まぁ、そうかなぁ……だって、妊娠したら困るし。それでなくたって……その……する以上女性は、妊娠のリスクを負うわけなんだし、無用なリスクは回避するべき……じゃないかな?」

 私の言葉を聞いて、楓は渋い顔で、首を左右に大げさに振った。

「リスクリスクって、違う! 違うのよ! 絃……。別にね、あたしは避妊が悪いとか、そんな話はしてないの。むしろ、女性の立場で考えると、さっき あんたが言ったことで、百点満点よ? でもね? 今あたしが話してるのは、そういうことじゃないのよ」

「それは、分かってるよ? 後先考えなくなるくらいに好きな人がいるかどうか、っていうそういう話でしょ?」

「そう! それよ!分かってるじゃない」

「分かるけど……私はダメだよ。さっきみたいに、冷静で合理的な事ばかり手前に来てしまうから」

「それが恋じゃない、なんてことは言わないけどさ。絃は、恋愛楽しいのかな? って思う時があるのよ」

「楓、私だって、ちゃんと恋愛を楽しんでるよ? 好きじゃない人とは付き合わないし。私は寂しがり屋じゃないし、彼氏がいないといやだ、って言うタイプでもない、知ってるじゃない?」

「それは、そうだけどさ……」

 楓は「まぁ、イイや」と言って、その話を打ち切った。

 彼女はきっと私のことを心配してくれてるのではないだろうか。

 誰かを本気で、心の底から愛する事のできない私を、本能的に案じているんだ。

「んっ……」

 ふとした瞬間に目に痛みが走った。

 何か小さな塵でも入ったみたいだった。

 どうなっているのか見てみようと思って、私はポーチから鏡を取り出す。

「……あ、しまった……」

 と、同時にあることに気が付いたのだ。

「どしたの? 目にゴミ?」

「それは、そうなんだけど、そうじゃなくて……」

 意味不明な受け答えに、楓が眉を顰める。

「大学のロッカーに資料忘れて来ちゃった……」

「レポートの?」

「そう。明日までのやつ」

「あら……」

「帰りに取って帰らなくちゃ」

 大学は高校と違って、遅くまで開いてるし、仮に締まったとしても、事情を話せば、入れてくれる。

 とはいえ、面倒な気持ちは拭いきれない。

 このまま二人とご飯でも食べて帰ろうと思ったけど、今日はやめにしよう。

 そもそも、レポートもあるし。

「あ、レポートっていえばさ、絃ちゃんこの前のSNS依存に関してのやつ、評価なんだった?」

 綾が先日返却されたレポートの話を始める。

「Bプラス……少し主観が強すぎるってさ……」

「意外な評価……絃ちゃんああいうの得意だよね?」

「結構自信あったし、真理を突いていると思ったんだけどね……」

 私の提出したSNS依存に関するレポートは『面白いが、妄想が過ぎる』という理由で少し評価を下げられた。

 歴史学の考察ならまだしも、心理学的な根拠が必要なレポートに陰謀論は確かにやりすぎたとは思うけど……。

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