二 蟹田

 津軽半島の東海岸は、昔から外ヶ浜と呼ばれて船舶の往来の繁盛だったところである。青森市からバスに乗って、この東海岸を北上すると、うしろがたよもぎ、蟹田、たいらだて、一本木、いまべつ、等の町村を通過し、義経の伝説で名高い三厩みまやに到着する。所要時間、約四時間である。三はバスの終点である。三厩から浪打ち際の心細い路を歩いて、三時間ほど北上すると、たつの部落にたどりつく。文字どおり、路の尽きる個所である。ここの岬は、それこそぎりぎりの本州の北端で、この外ヶ浜一帯は、津軽地方において、最も古い歴史の存するところなのである。そうして蟹田町は、その外ヶ浜において最も大きい部落なのだ。青森市からバスで、後潟、蓬田を通り、約一時間半、とは言ってもまあ二時間ちかくで、この町に到着する。いわゆる、外ヶ浜の中央部である。戸数は一千に近く、人口は五千をはるかに越えている様子である。ちかごろ新築したばかりらしい蟹田警察署は、外ヶ浜全線を通じていちばん堂々として目立つ建築物の一つであろう。蟹田、蓬田、平館、一本木、今別、三厩、つまり外ヶ浜の部落全部が、ここの警察署の管轄区域になっている。竹内運平という弘前の人の著した「青森県通史」によれば、この蟹田の浜は、昔は砂鉄の産地であったとか、いまは全く産しないが、けいちよう年間、弘前城築城の際には、この浜の砂鉄を精錬して用いたそうで、また、かんぶん九年の蝦夷えぞほうのときには、その鎮圧のために大船五そうを、この蟹田浜で新造したこともあり、また、四代藩主信政の、げんろく年間には、津軽九浦の一つに指定せられ、ここに町奉行を置き、主として木材輸出のことを管せしめた由であるが、これらのことは、すべて私があとで調べて知ったことで、それまでは私は、蟹田は蟹の名産地、そうして私の中学時代の唯一の友人のN君がいるということだけしか知らなかったのである。私がこんど津軽を行脚あんぎやするに当ってN君のところへ立ち寄ってごやっかいになりたく、前もってN君に手紙を差し上げたが、その手紙にも、「なんにも、おかまい下さるな。あなたは、知らん振りをしていて下さい。お出迎えなどは、決して、しないで下さい。でも、リンゴ酒と、それから蟹だけは。」というようなことを書いてやったはずで、食べものには淡白なれ、という私の自戒も、蟹だけには除外例を認めていたわけである。私は蟹が好きなのである。どうしてだか好きなのである。蟹、えび、しゃこ、何の養分にもならないような食べものばかり好きなのである。それから好むものは、酒である。飲食においては何の関心もなかったはずの、愛情と真理の使徒も、話ここに到って、はしなくも生来のたんらんせいの一端を暴露しちゃった。

 蟹田のN君の家では、赤いねこあしの大きいおぜんに蟹を小山のように積み上げて私を待ち受けてくれていた。

「リンゴ酒でなくちゃいけないかね。日本酒も、ビールも駄目かね。」と、N君は、言いにくそうにして言うのである。

 駄目どころか、それはリンゴ酒よりいいにきまっているのであるが、しかし、日本酒やビールの貴重なことは「大人おとな」の私は知っているので、遠慮して、リンゴ酒と手紙に書いたのである。津軽地方には、このごろ、甲州における葡萄酒のように、リンゴ酒がわりあい豊富だといううわさを聞いていたのだ。

「それあ、どちらでも。」私は複雑な微笑をもらした。

 N君は、ほっとした面持で、

「いや、それを聞いて安心した。僕は、どうも、リンゴ酒は好きじゃないんだ。実はね、女房のやつが、君の手紙を見て、これは太宰が東京で日本酒やビールを飲みあきて、故郷のにおいのするリンゴ酒をひとつ飲んでみたくて、こう手紙にも書いているのに相違ないから、リンゴ酒を出しましょうと言うのだが、僕はそんなはずはない、あいつがビールや日本酒をきらいになったはずはない、あいつは、がらにもなく遠慮しているに違いないと言ったんだ。」

「でも、奥さんの言も当っていないことはないんだ。」

「何を言ってる。もう、よせ。日本酒をさきにしますか? ビール?」

「ビールは、あとのほうがいい。」私も少しずうずうしくなってきた。

「僕もそのほうがいい。おうい、お酒だ。おかんがぬるくてもかまわないから、すぐ持って来てくれ。」


いずれの処か酒を忘れ難き。天涯旧情を話す。

青雲ともに達せず、白髪たがいに相驚く。

二十年前に別れ、三千里外に行く。

このときいつさん無くんば、何をもつてか平生をじよせん。

(白居易)


 私は、中学時代には、よその家へ遊びに行ったことは絶無であったが、どういうわけか、同じクラスのN君のところへは、実にしばしば遊びに行った。N君はその頃、寺町の大きい酒屋の二階に下宿していた。私たちは毎朝、誘い合って一緒に登校した。そうして、帰りには裏路の、海岸伝いにぶらぶら歩いて、雨が降っても、あわてて走ったりなどはせず、全身ねずみになっても平気で、ゆっくり歩いた。いま思えば二人とも、すこぶるおうように、抜けたようなところのある子であった。そこが二人の友情のかぎかもしれなかった。私たちはお寺の前の広場で、ランニングをしたり、テニスをしたり、また日曜には弁当を持って近くの山へ遊びに行った。「思い出」という私の初期の小説の中に出てくる「友人」というのはたいていこのN君のことなのである。N君は中学校を卒業してから、東京へ出て、ある雑誌社に勤めたようである。私はN君よりも二、三年おくれて東京へ出て、大学に籍を置いたが、その時からまた二人の交遊は復活した。N君の当時の下宿は池袋で、私の下宿は高田馬場であったが、しかし、私たちはほとんど毎日のようにって遊んだ。こんどの遊びは、テニスやランニングではなかった。N君は雑誌社をよして、保険会社に勤めたが、何せ鷹揚な性質なので、私と同様、いつも人にだまされてばかりいたようである。けれども私は、人にだまされる度ごとに少しずつ暗い卑屈な男になって行ったが、N君はそれと反対に、いくらだまされても、いよいよのんきに、明るい性格の男になって行くのである。N君は不思議な男だ、ひがまないのが感心だ、あの点は祖先の遺徳と思うより他はない、と口の悪い遊び仲間も、その素直さには一様に敬服していた。N君は、中学時代にも金木の私の生家に遊びに来たことはあるが、東京に来てからも、戸塚の私のすぐの兄の家へ、ちょいちょい遊びに来て、そうしてこの兄が二十七で死んだときには、勤めを休んでいろいろの用事をしてくれて、私の肉親たち皆に感謝された。そのうちにN君は、田舎の家の精米業を継がなければならなくなって帰郷した。家業を継いでからも、その不思議な人徳により、町の青年たちの信頼を得て、二、三年前、蟹田の町会議員に選ばれ、また青年団の分団長だの、何とか会の幹事だのいろいろな役を引き受けて、今では蟹田の町になくてはならぬ男の一人になっている模様なのである。その夜も、N君の家へこの地方の若い顔役が二、三人あそびに来て一緒にお酒やビールを飲んだけれども、N君の人気はなかなかのものらしく、やはり一座の花形であった。しようおう行脚あんぎやおきてとして世に伝えられているものの中に、一、好みて酒を飲むべからず、きようおうにより固辞しがたくともくんにして止むべし、乱に及ばずの禁あり、という一箇条があったようであるが、あの論語の酒無量不及乱という言葉は、酒はいくら飲んでもいいが失礼な振る舞いをするな、という意味に私は解しているので、あえて翁の教えに従おうともしないのである。泥酔などして礼を失しない程度ならば、いいのである。当り前の話ではないか。私はアルコールには強いのである。芭蕉翁の数倍強いのではあるまいかと思われる。よその家でごちそうになって、そうして乱に及ぶなどという、それほどの馬鹿ではないつもりだ。此時一盞無くんば、何を以てか平生を叙せん、である。私は大いに飲んだ。なおまた翁の、あの行脚掟の中には、一、はいかいの外、雑話すべからず、雑話出づれば居眠りして労を養ふべし、という条項もあったようであるが、私はこの掟にも従わなかった。芭蕉翁の行脚は、私たち俗人から見れば、ほとんど蕉風宣伝のための地方御出張ではあるまいかと疑いたくなるほど、旅の行く先々において句会をひらき蕉風地方支部をこしらえて歩いている。俳諧の聴講生に取りまかれている講師ならば、それは俳諧の他の雑話を避けて、そうして雑話が出たらたぬきりをしようが何をしようが勝手であろうが、私の旅は、何も太宰風の地方支部をこしらえるための旅ではなし、N君だってまさか私から、文学の講義を聞こうと思ってしゆせきをもうけたわけじゃあるまいし、また、その夜、N君のお家へ遊びに来られた顔役の人たちだって、私がN君の昔からの親友であるという理由で私にも多少の親しみを感じてくれて、盃の献酬をしているというような実情なのだから、私が開き直って、文学精神の在りどころを説き来り説き去り、しこうして、雑談いづれば床柱を背にして狸寝入りをするというのは、あまりおだやかな仕草ではないように思われる。私はその夜、文学のことは一言も語らなかった。東京の言葉さえ使わなかった。かえってなくらいに努力して、純粋の津軽弁で話をした。そうして日常の世俗の雑談ばかりした。そんなにまでして勤めなくともいいのにと、酒席の誰かひとりが感じたに違いないと思われるほど、私は津軽の津島のオズカスとして人に対した。(津島修治というのは、私の生れたときからの戸籍名であって、また、オズカスというのは叔父おじかすという漢字でもあてはめたらいいのであろうか、三男坊や四男坊をいやしめて言うときに、この地方ではその言葉を使うのである。)こんどの旅によって、私をもういちど、その津島のオズカスに還元させようという企画も、私にないわけではなかったのである。都会人としての私に不安を感じて、津軽人としての私をつかもうとする念願である。言いかたを変えれば、津軽人とは、どんなものであったか、それを見極めたくて旅に出たのだ。私の生きかたの手本とすべき純粋の津軽人を捜し当てたくて津軽へ来たのだ。そうして私は、実に容易に、随所においてそれを発見した。誰がどうというのではない。じき姿すがたの貧しい旅人には、そんな思い上がった批評はゆるされない。それこそ、失礼きわまることである。私はまさか個人個人の言動、または私に対するもてなしの中に、それを発見しているのではない。そんな探偵みたいな油断のならぬ眼つきをして私は旅をしていなかったつもりだ。私はたいていうなだれて、自分の足もとばかり見て歩いていた。けれども自分の耳にひそひそと宿命とでもいうべきものをささやかれることが実にしばしばあったのである。私はそれを信じた。私の発見というのは、そのように、理由も形も何もない、ひどく主観的なものである。誰がどうしたとか、どなたが何とおっしゃったとか、私はそれには、ほとんど何もこだわるところがなかったのである。それは当然のことで、私などには、それにこだわる資格も何もないのであるが、とにかく、現実は、私の眼中になかった。「信じるところに現実はあるのであって、現実は決して人を信じさせることが出来ない。」という妙な言葉を、私は旅の手帖に、二度も繰り返して書いていた。

 慎しもうと思いながら、つい、下手へたな感懐を述べた。私の理論はしどろもどろで、自分でも、何を言っているのか、わからない場合が多い。うそを言っていることさえある。だから、気持の説明は、いやなのだ。何だかどうも、見え透いたまずい虚飾を行っているようで、ざん赤面するばかりだ。かならず後悔ほぞをむと知っていながら、興奮するとつい、それこそ「廻らぬ舌にむち打ち鞭打ち」口をとがらせてと支離滅裂のことを言い出し、相手の心にけいべつどころか、れんびんの情をさえ起こさせてしまうのは、これも私のかなしい宿命の一つらしい。

 その夜は、しかし、私はそのような下手な感懐をもらすことはせず、芭蕉翁の遺訓にはそむいているようだったけれども、居眠りもせず大いに雑談にのみ打ち興じ、眼前に好物の蟹の山を眺めて夜の更けるまで飲みつづけた。N君の小柄でハキハキした奥さんは、私が蟹の山を眺めて楽しんでいるばかりで一向に手を出さないのを見てとり、これは蟹をむいてたべるのを大儀がっているのに違いないとお思いになった様子で、ご自分でせっせと蟹を器用にむいて、その白い美しい肉をそれぞれの蟹の甲羅につめて、フルウツ何とかという、あの、果物の原形を保持したままの香り高い涼しげな水菓子みたいな体裁にして、いくつもいくつも私にすすめた。おそらくは、けさ、この蟹田浜からあがったばかりの蟹なのであろう。もぎたての果実のように新鮮な軽い味である。私は、食べ物に無関心たれという自戒を平気で破って、三つも四つも食べた。この夜、奥さんは、来る人来る人みんなにお膳を差し上げて、この土地の人でさえ、そのお膳の豊潤に驚いていたくらいであった。顔役のお客さんたちが帰ってしまうと、私とN君は奥の座敷から茶の間へ酒席を移して、アトフキをはじめた。アトフキというのは、この津軽地方において、祝言か何か家に人寄せがあった場合、お客が皆かえった後で、身内の少数の者だけが、そのざんこうを集めてささやかにひらく慰労の宴のことであって、あるいは「あとき」のなまりかもしれない。N君は私よりも更にアルコールに強いたちなので、私たちは共に、乱に及ぶ憂いはなかったが、

「しかし、君も、」と私は、深いためいきをついて、「相変わらず、飲むなあ。何せ僕の先生なんだから、無理もないけど。」

 僕に酒を教えたのは、実に、このN君なのである。それは、たしかに、そうなのである。

「うむ。」とN君は盃を手にしたままで、真面目まじめ首肯うなずき、「僕だって、ずいぶんそのことに就いては考えているんだぜ。君が酒で何か失敗みたいなことをやらかすたんびに、僕は責任を感じて、つらかったよ。でもね、このごろは、こう考え直そうと努めているんだ。あいつは、僕が教えなくたって、ひとりで、酒飲みになった奴に違いない。僕の知ったことではないと。」

「ああ、そうなんだ。そのとおりなんだ。君に責任なんかありゃしないよ。全く、そのとおりなんだ。」

 やがて奥さんも加わり、お互いの子供のことなど語り合って、しんみり、アトフキをやっているうちに、突如、鶏鳴あかつきを告げたので、大いに驚いて私は寝所へ引き上げた。

 あくる朝、眼をさますと、青森市のT君の声が聞こえた。約束どおり、朝の一番のバスでやって来てくれたのだ。私はすぐにはね起きた。T君がいてくれると、私は、何だか安心で、気強いのである。T君は、青森の病院の、小説の好きな同僚の人をひとり連れて来ていた。また、その病院の蟹田分院の事務長をしているSさんという人も一緒に来ていた。私が顔を洗っている間に、三厩の近くの今別から、Mさんという小説の好きな若い人も、私が蟹田に来ることをN君からでも聞いていたらしく、はにかんで笑いながらやって来られた。Mさんは、N君とも、またT君とも、Sさんとも旧知の間柄のようである。これから、すぐ皆で、蟹田の山へ花見に行こうという相談がまとまった様子である。

 かんらんざん。私はれいのむらさきのジャンパーを着て、緑色のゲートルをつけて出掛けたのであるが、そのようなものものしい身支度をする必要は全然なかった。その山は、蟹田の町はずれにあって、高さが百メートルもないほどの小山なのである。けれども、この山からの見はらしは、悪くなかった。その日は、まぶしいくらいの上天気で、風は少しもなく、青森湾の向こうになつどまりみさきが見え、また、平館海峡をへだてて下北半島が、すぐ真近かに見えた。東北の海と言えば、南方の人たちはあるいは、どす暗く険悪で、とう逆巻く海を想像するかもしれないが、この蟹田あたりの海は、ひどく温和でそうして水の色も淡く、塩分も薄いように感ぜられ、いその香さえほのかである。雪の溶け込んだ海である。ほとんどそれは湖水に似ている。浪は優しく砂浜をなぶっている。そうして海浜のすぐ近くに網がいくつも立てられていて、蟹をはじめ、イカ、カレイ、サバ、イワシ、たら、アンコウ、さまざまの魚が四季を通じて容易に捕獲できる様子である。この町では、いまも昔と変わらず、毎朝、さかなやがリヤカーにさかなをいっぱい積んで、イカにサバだじゃあ、アンコウにアオバだじゃあ、スズキにホッケだじゃあ、と怒っているような大声で叫んで、売り歩いているのである。そうして、この辺のさかなやは、その日にとれたさかなばかりを売り歩いて、前日の売れ残りはいっさい取り扱わないようである。よそへ送ってしまうのかもしれない。だから、この町の人たちは、その日にとれた生きたさかなばかり食べているわけであるが、しかし、海が荒れたりなどしてたった一日でも漁のなかったときには、町中に一尾のなまざかなも見当らず、町の人たちは、干物と山菜で食事をしている。これは、蟹田に限らず、外ヶ浜一帯のどの漁村でも、また、外ヶ浜だけとも限らず、津軽の西海岸の漁村においても、全く同様である。蟹田はまた、すこぶる山菜にめぐまれているところのようである。蟹田は海岸の町ではあるが、また、平野もあれば、山もある。津軽半島の東海岸は、山がすぐ海岸に迫っているので、平野は乏しく、山の斜面に田や畑を開墾しているところも少なくない状態なので、山を越えて津軽半島西部の広い津軽平野に住んでいる人たちは、この外ヶ浜地方を、カゲ(山のかげの意)と呼んで、多少、あわれんでいる傾向がないわけでもないように思われる。けれども、この蟹田地方だけは、決して西部に劣らぬ見事なよくを持っているのだ。西部の人たちに、あわれまれていると知ったら、蟹田の人たちは、くすぐったく思うだろう。蟹田地方には、蟹田川という水量ゆたかな温和な川がゆるゆると流れていて、その流域に田畑が広く展開しているのである。ただこの地方には、東風も、西風も強く当るので不作のとしも少なくないようであるが、しかし、西部の人たちが想像しているほど、土地がせてはいないのである。観瀾山から見下ろすと、水量たっぷりの蟹田川が長蛇の如くうねって、その両側に一番打のすんだ水田が落ちつき払って控えていて、ゆたかな、たのもしい景観をなしている。山は奥羽山脈の支脈のぼんじゆ山脈である。この山脈は津軽半島のもとから起こってまっすぐに北進して半島の突端の竜飛岬まで走って海にころげ落ちる。二百メートルから三、四百メートルくらいの低い山々が並んで、観瀾山からほぼまっすぐ西に青くそびえている大倉岳は、この山脈において増川岳などと共に最高の山の一つなのであるが、それとて、七百メートルあるかないかくらいのものなのである。けれども、山高きが故に貴からず、樹木あるが故に貴し、とか、いやに興覚めなハッキリしたことを断言してはばからぬ実利主義者もあるのだから、津軽の人たちは、あえてその山脈の低きを恥じる必要もあるまい。この山脈は、全国有数のの産地である。その古い伝統を誇ってよい津軽の産物は、扁柏である。りんなんかじゃないんだ。林檎なんてのは、明治初年にアメリカ人から種をもらって試植し、それから明治二十年代に到ってフランスの宣教師からフランス流のせんてい法を教わって、ぜん、成績を挙げ、それから地方の人たちもこの林檎栽培にむきになりはじめて、青森名産として全国に知られたのは、大正にはいってからのことで、まさか、東京の雷おこし、桑名の焼きはまぐりほど軽薄な「産物」でもないが、紀州のかんなどに較べると、はるかに歴史は浅いのである。関東、関西の人たちは、津軽と言えばすぐに林檎を思い出し、そうしてこの扁柏林に就いては、あまり知らないように見受けられる。青森県という名もそこから起こったのではないかと思われるほど、津軽の山々には樹木が枝々をからませ合って冬もなお青く繁っている。昔から、日本三大森林地の一つとして数えられているようであって、昭和四年版の日本地理風俗大系にも、「そもそも、この津軽の大森林は遠く津軽藩祖為信の遺業に因し、らい、厳然たる制度の下に今日なおそのうつそうをつづけ、そうしてわが国の模範林制と呼ばれている。はじめてんじようきようの頃、津軽半島地方において、日本海岸の砂丘数里の間に植林を行い、もって潮風を防ぎ、またもって岩木川下流地方のこう開拓に資した。爾来、藩にてこの方針を襲い、鋭意植林に努めた結果、ほうえい年間にはいわゆるびよう樹林の成木を見て、またこれによって耕地八千三百余町歩の開墾を見るに到った。それより、藩内の各地はしきりに造林につとめ、百有余所の大藩有林を設けるに及んだ。かくて明治時代に到っても、官庁は大いに林政に注意し、青森県扁柏林の好評は世にさくさくとして聞こえる。けだしこの地方の林質は、よく各種の建築土木の用途に適し、殊に水湿に耐える特性を有すると、材木の産出の豊富なると、またその運搬に比較的便利なるとをもって重宝がられ、年産額八十万石。」と記されてあるが、これは昭和四年版であるから、現在の産額はその三倍くらいになっていると思われる。けれども、以上は、津軽地方全体の扁柏林に就いての記述であって、これをもって特別に蟹田地方だけの自慢となすことは出来ないが、しかし、この観瀾山から眺められるこんもり繁った山々は、津軽地方においても最もすぐれた森林地帯で、れいの日本地理風俗大系にも、蟹田川の河口の大きな写真が出ていて、そうして、その写真には、「この蟹田川附近には日本三美林の称ある扁柏の国有林があり、蟹田町はその積出港としてなかなか盛んな港で、ここから森林鉄道が海岸を離れて山に入り、毎日多くの材木を積んでここに運び来るのである。この地方の木材は良質で、しかも安価なので知られている。」という説明が附せられてある。蟹田の人たちは誇らじと欲するも得べけんやである。しかも、この津軽半島のせきりようをなす梵珠山脈は、扁柏ばかりでなく、杉、山毛欅ぶなならかつらとち、カラ松などの木林を産し、また、山菜の豊富をもって知られているのである。半島の西部の金木地方も、山菜はなかなか豊富であるが、この蟹田地方も、ワラビ、ゼンマイ、ウド、タケノコ、フキ、アザミ、キノコの類が、町のすぐ近くのさんろくから実に容易にとれるのである。このように蟹田町は、田あり、畑あり、海の幸、山の幸にも恵まれて、それこそ鼓腹撃壌の別天地のように読者には思われるだろうが、しかし、この観瀾山から見下ろした蟹田の町の気配は、何か物憂い。活気がないのだ。いままで私は蟹田をほめ過ぎるほど、ほめて書いてきたのであるから、ここらで少し、悪口を言ったって、蟹田の人たちはまさか私を殴りやしないだろうと思われる。蟹田の人たちは温和である。温和というのは美徳であるが、町をもの憂くさせるほど町民が無気力なのも、旅人にとっては心細い。天然の恵みが多いということは、町勢にとって、かえって悪いことではあるまいかと思わせるほど、蟹田の町は、おとなしく、しんと静まりかえっている。河口の防波堤も半分つくりかけて投げ出したような形に見える。家を建てようとして地ならしをして、それっきり、家を建てようともせずその赤土の空地にかぼちゃなどを植えている。観瀾山から、それが全部見えるというわけではないが、蟹田には、どうも建設の途中で投げ出した工事が多すぎるように思われる。町政のはつらつたる推進をさまたげる妙なろうの策動屋みたいなものがいるんじゃないか、と私はN君に尋ねたら、この若い町会議員は苦笑して、よせ、よせ、と言った。つつしむべきは士族の商法、文士の政談。私の蟹田町政に就いての出しゃばりの質問は、くろうとの町会議員のびんしようを招来しただけの馬鹿らしい結果に終わった。それに就いて、すぐ思い出される話はドガの失敗談である。フランス画壇の名匠エドガア・ドガは、かつてパリーのる舞踊劇場の廊下で、偶然、大政治家クレマンソオと同じ長椅子に腰をおろした。ドガは遠慮もなく、かねて自己の抱懐していたこうまいの政治談をこの大政治家に向かって開陳した。「私が、もし、宰相となったならば、ですね、その責任の重大を思い、あらゆる恩愛のきずなを断ち切り、苦行者の如く簡易質素の生活を選び、役所のすぐ近くのアパートの五階あたりに極めて小さい一室を借り、そこには一脚のテーブルと粗末な鉄の寝台があるだけで、役所から帰ると深夜までそのテーブルにおいて残務の整理をし、睡魔の襲うと共に、服も靴も脱がずに、そのままベッドにごろ寝をして、あくる朝眼が覚めると直ちに立って、立ったまま鶏卵とスープを喫し、かばんをかかえて役所へ行くという工合の生活をするに違いない!」と情熱をこめて語ったのであるが、クレマンソオは一言も答えず、ただ、なんだか全くあきれはてたようなけいべつの眼つきで、この画壇の巨匠の顔を、しげしげと見ただけであったという。ドガ氏も、その眼つきには参ったらしい。よっぽど恥ずかしかったとみえて、その失敗談は誰にも知らさず、十五年経ってから、彼の少数の友人の中でもいちばんのお気に入りだったらしいヴァレリイ氏にだけ、こっそり打ち明けたのである。十五年というひどく永い年月、ひた隠しに隠していたところを見ると、さすがごうまんそんの名匠も、くろうと政治家の無意識な軽蔑の眼つきにやられて、それこそ骨のずいまでこたえたものがあったのであろうと、そぞろ同情の念の胸にせまりくるを覚えるのである。とかく芸術家の政治談は、怪我けがのもとである。ドガ氏がよいお手本である。一個の貧乏文士に過ぎない私は、観瀾山の桜の花や、また津軽の友人たちの愛情に就いてだけ語っているほうが、どうやら無難のようである。

太宰スケッチ

 その前日には西風が強く吹いて、N君の家の戸障子をゆすぶり、「蟹田ってのは、風の町だね」と私は、れいの独り合点の卓説を吐いたりなどしていたものだが、きょうの蟹田町は、前夜の私の暴論を忍び笑うかのような、おだやかな上天気である。そよとの風もない。観瀾山の桜は、いまが最盛期らしい。静かに、淡く咲いている。らんまんという形容は、当っていない。花弁も薄くすきとおるようで、心細く、いかにも雪に洗われて咲いたという感じである。違った種類の桜かもしれないと思わせる程である。ノヴァリスの青い花も、こんな花を空想して言ったのではあるまいかと思わせるほど、かすかな花だ。私たちは桜花の下の芝生にあぐらをかいてすわって、重箱をひろげた。これは、やはり、N君の奥さんのお料理である。他に、蟹とシャコが、大きい竹のかごにいっぱい。それから、ビール。私はいやしく見られない程度に、シャコの皮をむき、蟹の脚をしゃぶり、重箱のお料理にもはしをつけた。重箱のお料理の中では、ヤリイカの胴にヤリイカの透明な卵をぎゅうぎゅうつめ込んで、そのまましようの附け焼きにして輪切りにしてあったのが、私にはひどくおいしかった。帰還兵のT君は、暑い暑いと言ってうわを脱ぎ半裸体になって立ち上がり、軍隊式の体操をはじめた。タオルのぬぐいで向こう鉢巻きをしたその黒い顔は、ちょっとビルマのバーモオ長官に似ていた。その日、集まった人たちは、情熱の程度においてはそれぞれ少しずつ相違があったようであるが、何か小説に就いての述懐を私から聞き出したいような素振りを見せた。私は問われただけのことは、ハッキリ答えた。「問に答へざるはよろしからず」というれいの芭蕉翁の行脚のおきてにしたがったわけであるが、しかし、他のもっと重大な箇条には見事にそむいてしまった。一、他の短を挙げて、己が長をあらわすことなかれ。人をそしりておのれに誇るは甚だいやし。私はその、甚だいやしいことを、やっちゃった。芭蕉だって、他門のはいかいの悪口は、チクチク言ったに違いないのであるが、けれども流石さすがに私みたいに、たしなみも何もなく、まゆをはね上げ口を曲げ、肩をいからして他の小説家をとうするなどというあさましいことはしなかったであろう。私は、にがにがしくも、そのあさましい振る舞いをしてしまったのである。日本のある五十年配の作家の仕事に就いて問われて、私は、そんなによくはない、とつい、うっかり答えてしまったのである。最近、その作家の過去の仕事が、どういうわけか、けいに近いくらいの感情で東京の読書人にも迎えられている様子で、神様、という妙な呼び方をする者なども出て来て、その作家を好きだと告白することは、その読書人の趣味の高尚を証明するたずきになるというへんな風潮さえべつけんせられて、それこそ、贔屓ひいきの引きだおしと言うもので、その作家は大いに迷惑して苦笑しているのかもしれないが、しかし、私はかねてその作家の奇妙な勢威を望見して、れいの津軽人のまいなる心から、「かれはいやしきものなるぞ、ただ時の武運つよくしてうんぬん」と、ひとりで興奮して、素直にその風潮に従うことは出来なかった。そうして、このごろに到って、その作家の作品の大半をまた読み直してみて、うまいなあ、とは思ったが、格別、趣味の高尚は感じなかった。かえって、エゲツナイところに、この作家の強みがあるのではあるまいかと思ったくらいであった。書かれてある世界もケチな小市民の意味もなく気取った一喜一憂である。作品の主人公は、自分の生き方に就いてときどき「良心的」な反省をするが、そんな箇所は特に古くさく、こんなイヤミな反省ならば、しないほうがよいと思われるくらいで、「文学的」な青臭さから離れようとして、かえって、それにはまってしまっているようなミミッチイものが感じられた。ユウモアを心掛けているらしい箇所も、意外なほどたくさんあったが、自分を投げ出し切れないものがあるのか、つまらぬ神経が一本ビクビク生きているので読者は素直に笑えない。貴族的、という幼い批評を耳にしたこともあったが、とんでもないことで、それこそ贔屓の引きたおしである。貴族というものは、だらしがないくらいかつたつなものではないかと思われる。フランス革命の際、暴徒たちが王の居室にまで乱入したが、その時、フランス国王ルイ十六世、暗愚なりといえども、からから笑って矢庭に暴徒のひとりから革命帽を奪いとり、自分でそれをひょいとかぶって、フランス万歳、と叫んだ。血に飢えたる暴徒たちも、この天衣無縫の不思議な気品に打たれて、思わず王と共に、フランス万歳を絶叫し、王の身体には一指も触れずにおとなしく王の居室から退去したのである。まことの貴族には、このような無邪気なつくろわぬ気品があるものだ。口をひきしめてえりもとをかき合わせてすましているのは、あれは、貴族の下男によくある型だ。貴族的なんて、あわれな言葉を使っちゃいけない。

 その日、蟹田の観瀾山で一緒にビールを飲んだ人たちも、たいていその五十年配の作家の心酔者らしく、私に対して、その作家のことばかり質問するので、とうとう私も芭蕉翁の行脚の掟を破って、そのような悪口を言い、言いはじめたら次第に興奮してきて、それこそまゆをはね上げ口を曲げる結果になって、貴族的なんて、へんなところで脱線してしまった。一座の人たちは、私の話に少しも同感の色を示さなかった。

「貴族的なんて、そんな馬鹿なことを私たちは言っていません。」と、今別から来たMさんは、当惑の面持で、ひとりごとのようにして言った。酔漢の放言に閉口し切っているというようなふうに見えた。他の人たちも、互いに顔を見合わせてにやにや笑っている。

「要するに、」私の声は悲鳴に似ていた。ああ、先輩作家の悪口は言うものではない。「男振りにだまされちゃいかんということだ。ルイ十六世は、史上まれに見るおとこだったんだ。」いよいよ脱線するばかりである。

「でも、あの人の作品は、私は好きです。」とMさんは、イヤにはっきり宣言する。

「日本じゃ、あの人の作品など、いいほうなんでしょう?」と青森の病院のHさんは、つつましく、取りなし顔に言う。

 私の立場は、いけなくなるばかりだ。

「そりゃ、いいほうかもしれない。まあ、いいほうだろう。しかし、君たちは、僕を前に置きながら、僕の作品に就いて一言も言ってくれないのは、ひどいじゃないか。」私は笑いながらほんを吐いた。

 みんな微笑した。やはり、本音を吐くに限る、と私は図に乗り、

「僕の作品なんかは、滅茶苦茶だけれど、しかし僕は、大望を抱いているんだ。その大望が重すぎて、よろめいているのが僕の現在のこの姿だ。君たちには、だらしのない無智な薄汚い姿に見えるだろうが、しかし僕は本当の気品というものを知っている。松葉の形のを出したり、青磁のつぼに水仙を投げ入れて見せたって、僕はちっともそれを上品だとは思わない。成金趣味だよ、失敬だよ。本当の気品というものは、真っ黒いどっしりした大きい岩に白菊一輪だ。土台に、むさい大きい岩がなくちゃ駄目なもんだ。それが本当の上品というものだ。君たちなんか、まだ若いから、針金で支えられたカーネーションをコップに投げいれたみたいな女学生くさいリリシズムを、芸術の気品だなんて思っていやがる。」

 暴言であった。「他の短を挙げて、己が長を顕すことなかれ。人をそしりておのれに誇るは甚だいやし。」この翁の行脚の掟は、厳粛の真理に似ている。じっさい、甚だいやしいものだ。私にはこのいやしい悪癖があるので、東京の文壇においても、皆に不愉快の感を与え、薄汚い馬鹿者として遠ざけられているのである。

「まあ、仕様がないや。」と私は、うしろに両手をついてあおき、「僕の作品なんか、まったく、ひどいんだからな。何を言ったって、はじまらん。でも、君たちの好きなその作家の十分の一くらいは、僕の仕事をみとめてくれてもいいじゃないか。君たちは、僕の仕事をさっぱりみとめてくれないから、僕だって、あらぬことを口走りたくなってくるんだ。みとめてくれよ。二十分の一でもいいんだ。みとめろよ。」

 みんな、ひどく笑った。笑われて、私も、気持がたすかった。蟹田分院の事務長のSさんが、腰を浮かして、

「どうです。この辺で、席を変えませんか。」と、世慣れた人に特有の慈悲深くなだめるような口調で言った。蟹田町でいちばん大きいEという旅館に、皆の昼飯の支度をさせてあるという。いいのか、と私はT君に眼でたずねた。

「いいんです。ごちそうになりましょう。」T君は立ち上がって上衣を着ながら、「僕たちが前から計画していたのです。Sさんが配給の上等酒をとっておいたそうですから、これから皆で、それをごちそうになりに行きましょう。Nさんのごちそうにばかりなっていては、いけません。」

 私はT君の言うことにおとなしく従った。だから、T君が傍についていてくれると、心強いのである。

 Eという旅館は、なかなかれいだった。部屋の床の間も、ちゃんとしていたし、便所も清潔だった。ひとりでやって来て泊っても、わびしくない宿だと思った。いったいに、津軽半島の東海岸の旅館は、西海岸のそれと較べると上等である。昔から多くの他国の旅人を送り迎えした伝統のあらわれかもしれない。昔は北海道へ渡るのに、かならず三厩から船出することになっていたので、この外ヶ浜街道はそのための全国の旅人を朝夕送迎していたのである。旅館のお膳にも蟹がついていた。

「やっぱり、蟹田だなあ。」と誰か言った。

 T君はお酒を飲めないので、ひとり、さきにごはんを食べたが、他の人たちは、皆、Sさんの上等酒を飲み、ごはんを後廻しにした。酔うに従ってSさんは、上機嫌になってきた。

「私はね、誰の小説でも、みな一様に好きなんです。読んでみると、みんな面白い。なかなかどうして、上手なものです。だから私は、小説家ってやつを好きで仕様がないんです。どんな小説家でも、好きで好きでたまらないんです。私は、子供を、男の子で三つになりましたがね、こいつを小説家にしようと思っているんです。名前も、文男とつけました。ぶんおとこと書きます。頭のかつこうが、どうも、あなたに似ているようです。失礼ながらそんな工合に、はちが開いているような形なのです。」

 私の頭が、鉢が開いているとは初耳であった。私は、自分のようぼうのいろいろさまざまの欠点を残るくまなくしつしているつもりであったが、頭の形までへんだとは気がつかなかった。自分で気のつかない欠点がまだまだたくさんあるのではあるまいかと、他の作家の悪口を言った直後でもあったし、ひどく不安になってきた。Sさんは、いよいよ上機嫌で、

「どうです。お酒もそろそろなくなったようですし、これから私の家へみんなでいらっしゃいませんか。ね、ちょっとでいいんです。うちの女房にも、文男にも、逢ってやって下さい。たのみます。リンゴ酒なら、蟹田には、いくらでもありますから、家へ来て、リンゴ酒を、ね。」と、しきりに私を誘惑するのである。御好志はありがたかったが、私は頭の鉢以来、とみに意気がそうして、早くN君の家へ引き上げて、一寝入りしたかった。Sさんのお家へ行って、こんどは頭の鉢どころか、頭の内容まで見破られ、ののしられるような結果になるのではあるまいかと思えばなおさら気が重かった。私は、れいによってT君の顔色を伺った。T君が行けと言えば、これは、行かなくてはなるまいと覚悟していた。T君は、真面目な顔をしてちょっと考え、

「行っておやりになったら? Sさんは、きょうは珍しくひどく酔っているようですが、ずいぶん前から、あなたのおいでになるのを楽しみにして待っていたのです。」

 私は行くことにした。頭の鉢にこだわることは、やめた。あれはSさんが、ユウモアのつもりでおっしゃったのに違いないと思い直した。どうも、容貌に自信がないと、こんなつまらぬことにもくよくよしていけない。容貌に就いてばかりでなく、私にいま最も欠けているものは「自信」かもしれない。

 Sさんのお家へ行って、その津軽人の本性を暴露した熱狂的な接待振りには、同じ津軽人の私でさえ少しめんくらった。Sさんは、お家へはいるなり、たてつづけに奥さんに用事を言いつけるのである。

「おい、東京のお客さんを連れて来たぞ。とうとう連れて来たぞ。これが、そのれいの太宰って人なんだ。あいさつをせんかい。早く出て来て拝んだらよかろう。ついでに、酒だ。いや、酒はもう飲んじゃったんだ。リンゴ酒を持って来い。なんだ、一升しかないのか。少ない! もう二升買って来い。待て。その縁側にかけてあるだらをむしって、待て、それはかなづちでたたいてやわらかくしてから、むしらなくちゃ駄目なものなんだ。待て、そんな手つきじゃいけない。僕がやる。干鱈をたたくには、こんな工合に、こんな工合に、あ、痛え、まあ、こんな工合だ。おい、しようを持って来い。干鱈には醬油をつけなくちゃ駄目だ。コップが一つ、いや二つ足りない。早く持って来い、待て、この茶飲茶碗でもいいか。さあ、乾盃、乾盃。おうい、もう二升買って来い、待て、坊やを連れて来い。小説家になれるかどうか、太宰に見てもらうんだ。どうです、この頭の形は、こんなのを、鉢がひらいているというんでしょう。あなたの頭の形に似ていると思うんですがね。しめたものです。おい、坊やをあっちへ連れて行け。うるさくてかなわない。お客さんの前に、こんな汚い子を連れて来るなんて、失敬じゃないか。成金趣味だぞ。早くリンゴ酒を、もう二升。お客さんが逃げてしまうじゃないか。待て、お前はここにいてサァヴィスをしろ。さあ、みんなにお酌。リンゴ酒は隣りのおばさんに頼んで買って来てもらえ。おばさんは、砂糖をほしがっていたから少しわけてやれ。待て、おばさんにやっちゃいかん。東京のお客さんに、うちの砂糖全部お土産に差し上げろ。いいか、忘れちゃいけないよ。全部、差し上げろ。新聞紙で包んでそれから油紙で包んでひもでゆわえて差し上げろ。子供を泣かせちゃ、いかん。失敬じゃないか。成金趣味だぞ。貴族ってのはそんなものじゃないんだ。待て。砂糖はお客さんがお帰りのときでいいんだってば。音楽、音楽。レコードをはじめろ。シューベルト、ショパン、バッハ、なんでもいい。音楽を始めろ。待て。なんだ、それは、バッハか。やめろ。うるさくてかなわん。話も何も出来やしない。もっと静かなレコードを掛けろ、待て、食うものがなくなった。アンコーのフライを作れ、ソースがわが家の自慢ときている。果たしてお客さんのお気に召すかどうか、待て、アンコーのフライとそれから、卵のカヤキを差し上げろ。これは津軽でなければ食えないものだ。そうだ。卵味噌だ。卵味噌に限る。卵味噌だ。卵味噌だ。」

 私は決して誇張法を用いて描写しているのではない。この疾風とうの如き接待は、津軽人の愛情の表現なのである。干鱈というのは、大きい鱈を吹雪にさらして凍らせて干したもので、芭蕉翁などのよろこびそうな軽い閑雅な味のものであるが、Sさんの家の縁側には、それが五、六本つるされてあって、Sさんは、よろよろと立ち上がり、それを二、三本ひったくって、滅多矢鱈に鉄槌で乱打し、左の親指を負傷して、それから、ころんで、うようにして皆にリンゴ酒をいで廻り、頭の鉢の一件も、決してSさんは私をからかうつもりで言ったのではなく、また、ユウモアのつもりで言ったのでもなかったのだということが私にはっきりわかってきた。Sさんは、鉢のひらいた頭というものを、真剣に尊敬しているらしいのである。いいものだと思っているらしいのである。津軽人の愚直れん、見るべしである。そうして、ついには、卵味噌、卵味噌と連呼するに到ったのであるが、この卵味噌のカヤキなるものに就いては、一般の読者には少しく説明が要るように思われる。津軽においては、牛鍋、鳥鍋のことをそれぞれ、牛のカヤキ、鳥のカヤキという工合に呼ぶのである。かいやきなまりであろうと思われる。いまはそうでもないようだけれど、私の幼少の頃には、津軽においては、肉を煮るのに、帆立貝の大きい貝殻を用いていた。貝殻から幾分ダシが出ると盲信しているところもないわけではないようであるが、とにかく、これは先住民族アイヌの遺風ではなかろうかと思われる。私たちは皆、このカヤキを食べて育ったのである。卵味噌のカヤキというのは、その貝の鍋を使い、味噌にかつおぶしをけずって入れて煮て、それに鶏卵を落として食べる原始的な料理であるが、実は、これは病人の食べるものなのである。病気になって食がすすまなくなったとき、このカヤキの卵味噌をおかゆに載せて食べるのである。けれども、これもまた津軽特有の料理の一つにはちがいなかった。Sさんは、それを思いつき、私に食べさせようとして連呼しているのだ。私は奥さんに、もうたくさんですから、と拝むように頼んでSさんの家を辞去した。読者もここに注目をしていただきたい。その日のSさんの接待こそ、津軽人の愛情の表現なのである。しかも、きつすいの津軽人のそれである。これは私においても、Sさんと全く同様なことがしばしばあるので、遠慮なく言うことが出来るのであるが、友あり遠方より来た場合には、どうしたらいいかわからなくなってしまうのである。ただ胸がわくわくして意味もなく右往左往し、そうして電燈に頭をぶつけて電燈のかさを割ったりなどした経験さえ私にはある。食事中に珍客があらわれた場合に、私はすぐに箸を投げ出し、口をもぐもぐさせながら玄関に出るので、かえってお客に顔をしかめられることがある。お客を待たせて、心静かに食事をつづけるなどという芸当は私には出来ないのである。そうしてSさんの如く、実質においては、到れりつくせりの心づかいをして、そうして何やらかやら、家中のものいつさいがつさい持ち出してきようおうしても、ただ、お客に閉口させるだけの結果になって、かえって後でそのお客に自分の非礼をおびしなければならぬなどということになるのである。ちぎっては投げ、むしっては投げ、取っては投げ、果ては自分の命までも、という愛情の表現は、関東、関西の人たちにはかえって無礼な暴力的なもののように思われ、ついには敬遠ということになるのではあるまいか、と私はSさんによって私自身の宿命を知らされたような気がして、帰るみちみち、Sさんがなつかしく気の毒でならなかった。津軽人の愛情の表現は、少し水で薄めて服用しなければ、他国の人には無理なところがあるかもしれない。東京の人は、ただ妙にもったいぶって、チョッピリずつ料理を出すからなあ。ぶえんのひらたけではないけれど、私も殿どのみたいに、この愛情の過度の露出のゆえに、どんなにいままでの東京の高慢な風流人たちにべつせられてきたことか。「かい給え、かい給えや」とぞ責めたりける、である。

 後で聞いたがSさんはそれから一週間、その日の卵味噌のことを思い出すと恥ずかしくて酒を飲まずには居られなかったという。ふだんは人一倍はにかみやの、神経の繊細な人らしい。これもまた津軽人の特徴である。生粋の津軽人というものは、ふだんは、決して粗野な野蛮人ではない。なまなかの都会人よりも、はるかに優雅な、こまかい思いやりを持っている。その抑制が、事情によって、どっとせきを破って奔騰するとき、どうしたらいいかわからなくなって、「ぶえんの平茸ここにあり、とうとう」といそがす形になってしまって、軽薄の都会人にひんしゆくせられるくやしい結果になるのである。Sさんはその翌日、小さくなって酒を飲み、そこへ一友人がたずねて行って、

「どう? あれから奥さんにしかられたでしょう?」と笑いながら尋ねたら、Sさんは、処女の如くはにかんで、

「いいえ、まだ。」と答えたという。

 叱られるつもりでいるらしい。

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