三 外ヶ浜

 Sさんの家を辞去してN君の家へ引き上げ、N君と私は、さらにまたビールを飲み、その夜はT君も引きとめられてN君の家へ泊ることになった。三人一緒に奥の部屋に寝たのであるが、T君は翌朝早々、私たちのまだ眠っているうちにバスで青森へ帰った。勤めがいそがしい様子である。

せきをしていたね。」T君が起きて身支度をしながらコンコンと軽い咳をしていたのを、私は眠っていながらも耳ざとく聞いてへんに悲しかったので、起きるとすぐにN君にそう言った。N君も起きてズボンをはきながら、

「うん、咳をしていた。」と厳粛な顔をして言った。酒飲みというものは、酒を飲んでいないときにはひどく厳粛な顔をしているものである。いや、顔ばかりではないかもしれない。心も、きびしくなっているものである。「あまり、いい咳じゃなかったね。」N君も、さすがに、眠っているようであっても、ちゃんとそれを聞き取っていたのである。

「気で押すさ。」とN君は突き放すような口調で言って、ズボンのバンドをしめ上げ、

「僕たちだって、なおしたんじゃないか。」

 N君も、私も、永い間、呼吸器の病気と闘ってきたのである。N君はひどいぜんそくだったが、いまはそれを完全に克服してしまった様子である。

 この旅行に出る前に、ある雑誌に短篇小説を一つ送ることを約束していて、その締切りがきょうあすに迫っていたので、私はその日一日と、それからあくる日一日と、二日間、奥の部屋を借りて仕事をした。N君も、その間、別棟の精米工場で働いていた。二日目の夕刻、N君は私の仕事をしている部屋へやって来て、

「書けたかね。二、三枚でも書けたかね。僕のほうは、もう一時間経ったら、完了だ。一週間分の仕事を二日でやってしまった。あとでまた遊ぼうと思うと気持に張り合いが出て、仕事の能率もぐんと上がるね。もう少しだ。最後の馬力をかけよう。」と言って、すぐ工場のほうへ行き、十分も経たぬうちに、また私の部屋へやって来て、

「書けたかね。僕のほうは、もう少しだ。このごろは機械の調子もいいんだ。君は、まだうちの工場を見たことがないだろう。汚い工場だよ。見ないほうがいいかもしれない。まあ、精を出そう。僕は工場のほうにいるからね。」と言って帰って行くのである。鈍感な私も、やっと、その時、気がついた。N君は私に、工場で働いている彼の甲斐かい甲斐がいしい姿を見せたいのに違いない。もうすぐ彼の仕事が終わるから、終わらないうちに見に来い、というなぞであったのだ。私はそれに気がついて微笑した。いそいで仕事を片附け、私は、道路を隔て別棟になっている精米工場に出かけた。N君は継ぎはぎだらけのコール天のうわを着て、目まぐるしく廻転する巨大な精米機の傍に、両腕をうしろにまわし、さいらしい顔をして立っていた。

「さかんだね。」と私は大声で言った。

 N君は振りかえり、それはうれしそうに笑って、

「仕事は、すんだか。よかったな。僕のほうも、もうすぐなんだ。はいりたまえ。下駄のままでいい。」と言うのだが、私は、下駄のままで精米所へのこのこはいるほど無神経な男ではない。N君だって、清潔なわらぞうとはきかえている。そこらを見廻しても、上草履のようなものもなかったし、私は、工場の門口に立って、ただ、にやにや、笑っていた。裸足はだしになってはいろうかとも思ったが、それはN君をただ恐縮させるばかりのおおな偽善的な仕草に似ているようにも思われて、裸足にもなれなかった。私には、常識的な善事を行うに当って、甚だてれる悪癖がある。

「ずいぶん大がかりな機械じゃないか。よく君はひとりで操縦が出来るね。」お世辞ではなかった。N君も、私と同様、科学的知識においては、あまり達人ではなかったのである。

「いや、簡単なものなんだ。このスイッチをこうすると、」などと言いながら、あちこちのスイッチをひねって、モーターをぴたりと止めて見せたり、またもみがら吹雪ふぶきを現出させて見せたり、出来上がりの米をばくのようにざっと落下させて見せたり自由自在にその巨大な機械をあやつって見せるのである。

 ふと私は、工場のまん中の柱に張りつけられてある小さいポスターに目をとめた。おちようの形の顔をした男が、あぐらをかき腕まくりして大盃を傾け、その大盃には家や土蔵がちょこんと載っていて、そうしてその妙な画には、「酒は身を飲み家を飲む」という説明の文句が印刷されてあった。私は、そのポスターを永いこと、見つめていたので、N君も気がついたか、私の顔を見てにやりと笑った。私もにやりと笑った。同罪の士である。「どうもねえ」という感じなのである。私はそんなポスターを工場の柱に張っておくN君を、いじらしく思った。誰か大酒を恨まざる、である。私の場合は、あの大盃に、私の貧しい約二十種類の著書が載っているというあんばいなのである。私には、飲むべき家も蔵もない。「酒は身を飲み著書を飲む」とでも言うべきところであろう。

 工場の奥に、かなり大きい機械が二つ休んでいる。あれは何? とN君に聞いたら、N君はかすかなためいきをついて、

「あれは、なあ、縄を作る機械と、むしろを作る機械なんだが、なかなか操作がむずかしくて、どうも僕の手には負えないんだ。四、五年前、この辺一帯ひどい不作で、精米の依頼もばったりなくなって、いや、困ってねえ、毎日毎日、炉傍に坐って煙草をふかして、いろいろ考えた末、こんな機械を買って、この工場の隅で、ばったんばったんやってみたのだが、僕は不器用だから、どうしても、うまくいかないんだ。さびしいもんだったよ。結局一家六人、ほそぼそと寝食いさ。あの頃は、もう、どうなることかと思ったね。」

 N君には、四歳の男の子がひとりある他に、死んだ妹さんの子供をも三人あずかっているのだ。妹さんの御亭主も、北支で戦死をなさったので、N君夫妻は、この三人の遺児を当然のこととして育て、自分の子供と全く同様に可愛かわいがっているのだ。奥さんの言によれば、N君は可愛がりすぎる傾きさえあるそうだ。三人の遺児のうち、一番総領は青森の工業学校にはいっているのだそうで、その子がある土曜日に青森から七里の道をバスにも乗らずてくてく歩いて夜中の十二時頃に蟹田の家へたどり着き、伯父おじさん、伯父さん、と言って玄関の戸をたたき、N君は飛び起きて玄関をあけ、無我夢中でその子の肩を抱いて、歩いて来たのか、へえ、歩いて来たのか、とばかり言ってものも言えず、そうして、奥さんをたらしかり飛ばして、それ、砂糖湯を飲ませろ、もちを焼け、うどんを温めろと、つぎばやに用事を言いつけ、奥さんは、この子は疲れて眠いでしょうから、と言いかけたら、「な、なにい!」と言ってすこぶるおおに奥さんに向かってこぶしを振り上げ、あまりにどうも珍妙なけんなので、おいのその子が、ぷっと噴き出して、N君もこぶしを振り上げながら笑い出し、奥さんも笑って、何が何やら、うやむやになったということなどもあったそうで、それもまた、N君の人柄のへんりんを示す好箇の挿話であると私には感じられた。

「七転び八起きだね。いろんなことがある。」と言って私は、自分の身の上とも思い合わせ、ふっと涙ぐましくなった。この善良な友人が、れぬ手つきで、工場の隅で、ひとり、ばったんばったん筵を織っているわびしい姿が、ありありと眼前に見えるような気がしてきた。私は、この友人を愛している。

 その夜はまた、お互い一仕事すんだのだから、などと言いわけして二人でビールを飲み、郷土の凶作のことに就いて話し合った。N君は青森県郷土史研究会の会員だったので、郷土史の文献をかなり持っていた。

「何せ、こんなだからなあ。」と言ってN君はある本をひらいて私に見せたが、そのペエジには次のような、津軽凶作の年表とでもいうべき不吉な一覧表が載っていた。


げん一年     大凶

元和二年     大凶

かんえい十七年    大凶

寛永十八年    大凶

寛永十九年     凶

めいれき二年      凶

かんぶん六年      凶

寛文十一年     凶

えんぽう二年      凶

延宝三年      凶

延宝七年      凶

てん一年     大凶

じようきよう一年     凶

げんろく五年     大凶

元禄七年     大凶

元禄八年     大凶

元禄九年      凶

元禄十五年    半凶

ほうえい二年      凶

宝永三年      凶

宝永四年     大凶

きようほう一年      凶

享保五年      凶

げんぶん二年      凶

元文五年      凶

えんきよう二年     大凶

延享四年      凶

かんえん二年     大凶

ほうれき五年     大凶

めい四年      凶

あんえい五年     半凶

てんめい二年     大凶

天明三年     大凶

天明六年     大凶

天明七年     半凶

かんせい一年      凶

寛政五年      凶

寛政十一年     凶

文化十年      凶

てんぽう三年     半凶

天保四年     大凶

天保六年     大凶

天保七年     大凶

天保八年      凶

天保九年     大凶

天保十年      凶

慶応二年      凶

明治二年      凶

明治六年      凶

明治二十二年    凶

明治二十四年    凶

明治三十年     凶

明治三十五年   大凶

明治三十八年   大凶

大正二年      凶

昭和六年      凶

昭和九年      凶

昭和十年      凶

昭和十五年    半凶


 津軽の人でなくても、この年表に接してはためいきをつかざるを得ないだろう。大阪夏の陣、豊臣氏滅亡の元和元年より現在まで約三百三十年の間に、約六十回の凶作があったのである。まず五年に一度ずつ凶作に見舞われているという勘定になるのである。さらにまた、N君はべつな本をひらいて私に見せたが、それには、「翌天保四年に到りては、立春吉祥のそのより東風しきりふきすさみ、三月じようの節句に到れども積雪消えず農家にして雪舟用ゐたり。五月に到り苗の生長わずかに一束なれども時節の階級避くべからざるが故についそのまま植附けに着手したり。然れども連日の東風いよいよ吹き募り、六月土用に入りても密雲幕々として天候もうもう晴天白日を見る事ほとんまれなり(中略)毎日朝夕の冷気強く六月土用中に綿わたいれを着用せり、夜は殊に冷にして七月(作者註。陰暦七夕の頃、武者の形あるひは竜虎の形などの極彩色の大とうろうを荷車に載せてき、若い衆たちさまざまにふんそうして街々を踊りながら練り歩く津軽年中行事の一つである。他町の大燈籠と衝突してけんの事必ずあり。さかのうえのむら蝦夷えぞ征伐の折、このやうな大燈籠を見せびらかして山中の蝦夷をおびき寄せこれせんめつせし遺風なりとの説あれども、なほ信ずるに足らず。津軽に限らず東北各地にこれと似たる風俗あり。東北の夏祭りの山車だしと思はば大過なからん。)の頃に到りても道路にてはの声を聞かず、家屋の内においてはいささこれを聞く事あれども蚊帳かやを用うるを要せずせみ声の如きも甚だ稀なり。七月六日頃より暑気出で盆前単衣ひとえものを着用す、同十三日頃より早稲わせ大いに出穂ありしため人気すこぶよろしく盆踊りも頗るにぎやかなりしが、同十五日、十六日の日光白色を帯びあたかも夜中の鏡に似たり。同十七日夜半、踊児も散り、来往の者もにして追々暁方に及べる時、図らざりき厚霜を降らし出穂の首傾きたり、往来老若之を見る者ていきゆう充満たり。」という、あわれと言うより他には全く言いようのない有様が記されてあって、私たちの幼い頃にも老人たちからケガヅ(津軽では、凶作のことをケガヅと言う。かつなまりかもしれない。)の酸鼻せんりつの状を聞き、幼いながらもあんたんたる気持になって泣きべそをかいてしまったものだが、久し振りで故郷に帰り、このような記録をあからさまに見せつけられ、哀愁を通り越して何か、わけのわからぬ憤怒さえ感ぜられて、

「これは、いかん。」と言った。「科学の世の中とか何とか偉そうなことを言ってたって、こんな凶作を防ぐ法を百姓たちに教えてやることも出来ないなんて、だらしがねえ。」

「いや、技師たちもいろいろ研究はしているのだ。冷害に堪えるように品種が改良されてもいるし、植え附けの時期にも工夫が加えられて、今では、昔のように徹底した不作などなくなったけれども、でも、それでも、やっぱり、四、五年に一度は、いけないときがあるんだねえ。」

「だらしがねえ。」私は、誰にともなき忿ふんまんで、口を曲げてののしった。

 N君は笑って、

ばくの中で生きている人もあるんだからね。怒ったって仕様がないよ。こんな風土からはまた独得な人情も生れるんだ。」

「あんまり結構な人情でもないね。春風たいとうたるところがないんで、僕なんか、いつでも南国の芸術家には押され気味だ。」

「それでも君は、負けないじゃないか。津軽地方は昔から他国の者に攻め破られたことがないんだ。殴られるけれども、負けやしないんだ。」

 生れ落ちるとすぐに凶作にたたかれ、雨露をすすって育った私たちの祖先の血が、いまの私たちに伝わっていないわけはない。春風駘蕩の美徳もうらやましいものには違いないが、私はやはり祖先のかなしい血に、出来るだけ見事な花を咲かせるように努力するより他には仕方がないようだ。いたずらに過去の悲惨にたんそくせず、N君みたいにそのしつぷうもくの伝統をおうように誇っているほうがいいのかもしれない。しかも津軽だって、いつまでも昔のように酸鼻の地獄絵を繰り返しているわけではない。その翌日、私はN君に案内してもらって、外ヶ浜街道をバスで北上し、三厩で一泊して、それからさらに海岸の波打ち際の心細い路を歩いて本州の北端、竜飛岬まで行ったのであるが、その三厩竜飛間の荒涼さくばくたる各部落でさえ、烈風に抗し、とうに屈せず、懸命に一家を支え、津軽人の健在をれんに誇示していたし、三厩以南の各部落、殊にも三厩、今別などに到ってはしようしやたる海港の明るい雰囲気の中に落ちつき払った生活を展開して見せてくれていたのである。ああ、いたずらにケガヅの影におびえることなかれである。以下は佐藤弘という理学士の快文章であるが、私のこの書の読者のゆううつを消すために、なおまた私たち津軽人の明るい出発の乾盃の辞としてちょっと借用してみよう。佐藤理学士の奥州産業総説にいわく、「撃てばすなわち草にかくれ、追えば即ち山に入った蝦夷えぞ族の版図たりし奥州、山岳重畳して到るところ天然の障壁をなし、もつて交通を阻害している奥州、風波高く海運不便なる日本海と、北上山脈にさえぎられて発達しないきよ状の岬湾の多い太平洋とに包まれた奥州。しかも冬期降雪多く、本州中で一番寒く、古来、数十回の凶作に襲来されたという奥州。九州の耕地面積二割五分に対して、わずかに一割半を占むる哀れなる奥州。どこから見ても不利な自然的条件に支配されているその奥州は、さて、六百三十万の人口を養うに今日いかなる産業にっているのであろうか。

 どの地理書をひもどいても、奥州の地たるや本州の東北端にへきざいし、衣、食、住、いずれもぼく、とある。古来からのかやぶきまさぶき、杉皮葺は、とにかくとして、現在多くの民は、トタン葺の家に住み、ふろしきを被って、もんぺいをはき、中流以下ことごとく粗食に甘んじている、という。真偽や如何いかん。それほど奥州の地は、産業に恵まれていないのであろうか。高速度を以て誇りとする第二十世紀の文明は、ひとり東北の地に到達していないのであろうか。否、それは既に過去の奥州であって、人もし現代の奥州に就いて語らんと欲すれば、まず文芸復興直前のイタリヤにおいて見受けられたあのうつぼつたるたいとう力を、この奥州の地に認めなければならぬ。文化において、はたまた産業において然り、かしこくも明治大帝の教育に関するおおこころはまことに神速に奥州の津々浦々にまで浸透して、奥州人特有の聞きぐるしき鼻音の減退と標準語の進出とを促し、かつての原始的状態にちんりんしたもうまいな蛮族の居住地に教化の御光を与え、しこうして、いまや見よ、開発また開拓、こうでんよくの刻一刻と増加することを。そして改良また改善、牧畜、林業、漁業の日に日に盛大におもむくことを。ましていわんや、住民の分布薄疎にして、将来の発展の余裕、また大いにこの地にありというにおいてをや。

 むく鳥、かもじゆうからがんなどの渡り鳥の大群が、食を求めてこの地方をさまよい歩くが如く、膨脹時代にあった大和やまと民族が各地方より北上してこの奥州に到り、蝦夷を征服しつつ、あるいは山に猟し、あるいは川に漁して、いろいろな富源の魅力にひきつけられ、あちらこちらと、さまよい歩いた。かくして数代経過し、ここに人々は、思い思いの地にていちやくして、あるいは秋田、荘内、津軽の平野に米を植え、あるいは北奥の山地に植林を試み、あるいは平原に馬を飼い、あるいは海辺の漁業に専心して以て今日における隆盛なる産業の基礎を作ったのである。奥州六県、六百三十万の民はかくして先人の開発せし特徴ある産業をおろそかにせず、ますますこれが発達のみちを講じ、渡り鳥は永遠にさまよえども、素朴なる東北の民はや動かず、米を作ってりんを売り、うつそうたる美林につづく緑の大平原には毛並み輝く見事なわかごまを走らせ、出漁の船は躍るぎんりんを満載して港にはいるのである。」

 まことに有難い祝辞で、思わずけ寄ってお礼の握手でもしたくなるくらいのものだ。さて私はその翌日、N君の案内で奥州外ヶ浜を北上したのであるが、出発に先立ち、まず問題は酒であった。

「お酒は、どうします? リュックサックに、ビールの二、三本も入れておきましょうか?」と、奥さんに言われて、私は、まったく、冷汗三斗の思いであった。なぜ、酒飲みなどという不面目な種族の男に生れて来たか、と思った。

「いや、いいです。なければないで、また、それは、べつに。」などと、しどろもどろの不得要領なることを言いながらリュックサックを背負い、逃げるが如く家を出て、後からやって来たN君に、

「いや、どうも。酒、と聞くとひやっとするよ。針のむしろだ。」と実感をそのまま言った。N君も同じ思いとみえて、顔を赤くし、うふふと笑い、

「僕もね、ひとりじゃ我慢も出来るんだが、君の顔を見ると、飲まずには居られないんだ。今別のMさんが配給のお酒を近所から少しずつ集めておくって言っていたから、今別にちょっと立ち寄ろうじゃないか。」

 私は複雑なためいきをついて、

「みんなに苦労をかけるわい。」と言った。

 はじめは蟹田から船でまっすぐに竜飛まで行き、帰りは徒歩とバスという計画であったのだが、その日は朝から東風が強く、荒天といっていいくらいの天候で、乗って行くはずの定期船は欠航になってしまったので、予定をかえて、バスで出発することにしたのである。バスは案外、いていて、二人とも楽に腰かけることが出来た。外ヶ浜街道を一時間ほど北上したら、次第に風も弱くなり、青空も見えてきて、このぶんならば定期船も出るのではなかろうかと思われた。とにかく、今別のMさんのお家へ立ち寄り、船が出るようだったら、お酒をもらってすぐ今別の港から船に乗ろうということにした。往きも帰りも同じ陸路を通るのは、気がきかなくて、つまらないことのように思われた。N君はバスの窓から、さまざまの風景を指差して説明してくれた。この辺には昔の蝦夷えぞすみの面影は少しも見受けられず、お天気のよくなってきたせいか、どの村落もれいに明るく見えた。寛政年間に出版せられた京の名医たちばななん谿けいの東遊記には、「あめつちのひらけしよりこのかた今の時ほど太平なる事はあらじ、西はかいの島より東は奥州の外ヶ浜にて号令の行届かざる所もなし。往古は屋玖の島は屋玖国とて異国のやうに聞え、奥州も半ば蝦夷人の領地なりしにや、なお近き頃まで夷人の住所なりしと見えて、南部、津軽辺の地名には蛮名多し。外ヶ浜通りの村の名にもタツピ、ホロヅキ、内マツペ、外マツペ、イマベツ、ウテツなどいふ所有り。これ皆蝦夷ことばなり。今にても、ウテツなどの辺は風俗もやや蝦夷に類して津軽の人も彼等はエゾ種といひて、いやしむるなり。余思ふにウテツ辺に限らず、南部、津軽辺の村民も大かたはエゾ種なるべし。ただ早く皇化に浴して風俗言語も改りたる所は、先祖より日本人のごとくいひなし居る事とぞ思はる。故に礼儀文華のいまだ開けざるはもつともの事なり。」と記されてあるが、それから約百五十年、地下の南谿を今日このたんたんたるコンクリート道路をバスに乗せて通らせたならば、ぼうぜんたるさまにて首をひねり、あるいは、こぞの雪いまいずこなどという嘆を発するかもしれない。南谿の東遊記西遊記は江戸時代の名著の一つに数えられているようであるが、その凡例にも、「予が漫遊もと医学の為なれば医事にかかれることは雑談といへども別に記録して同志の人にも示す。ただこのしよは旅中見聞せる事を筆のついでにしるせるものにして、しいそのことの虚実を正さず、誤りしるせる事も多かるべし。」とみずから告白している如く、読者の好奇心をげきすれば足るというようなこうとうけいに似た記事も少なしとしないと言ってよい。他の地方のことは言わず、例をこの外ヶ浜近辺に就いての記事だけに限って言っても、「奥州(作者註。三厩の古称)は、松前渡海の津にて津軽領外ヶ浜にありて、日本東北の限りなり。むかし源義経、たかだてをのがれ蝦夷へ渡らんと此所まで来り給ひしに、渡るべき順風なかりしかば数日とうりゆうし、あまりにたへかねて、所持の観音の像を海岸の岩の上に置て順風を祈りしに、たちまち風かはりつつがなく松前の地に渡り給ひぬ。其像今に此所の寺にありて義経の風祈りの観音といふ。又波打際に大なる岩ありて馬屋のごとく、穴三つ並べり。これ義経の馬を立給ひし所となり。是によりて此地を三馬屋と称するなりとぞ。」と、何の疑いもさしはさまずに記してあるし、「また、奥州津軽の外ヶ浜にたいらだてといふ所あり。此所の北にあたりがんせき海につきいでたる所あり。是を石崎の鼻といふ。其を越えてしばらく行けばしゆだにあり。山々高くそびえたる間より細き谷川流れ出て海に落る。此谷の土石皆朱色なり。水の色までいと赤く、ぬれたる石の朝日に映ずるいろ誠に花やかにして目さむる心地す。其落る所の海の小石までも多く朱色なり。此辺の海中の魚皆赤しという。谷にある所の朱の気によりて海中の魚、あるいは石までも朱色なること無情有情ともに是に感ずる事ふしぎなり。」と言ってすましているかと思うと、また、おきなと称する怪魚が北海に住んでいて、「其大きさ二里三里にも及べるにや、つひに其魚の全身を見たる人はなし。れに海上に浮たるを見るに大なる島いくつも出来たるごとくなり、是おきなの背中びれなどの少しづつ見ゆるなりとぞ。二十ひろ三十尋のくじらむ事、鯨のいわしを吞むがごとくなるゆゑ、此魚来れば鯨東西に逃走るなり。」などと言っておどかしたり、また、「此三馬屋に逗留せし頃、一夜、此家の近きあたりの老人来りぬれば、家内の祖父じじ祖母ばばなどうちあつまり、囲炉裏にまとゐして四方よもやまの物語せしに彼者共語りしは、さても此二三十年以前松前の津波程おそろしかりしことはあらず、其頃風も静に雨も遠かりしが、只何となく空の気色打くもりたるやうなりしに、夜々折々光り物して東西に虚空を飛行するものあり、ようようはなはだしく、其四五日前に到れば白昼にもいろいろの神々虚空を飛行し給ふ。衣冠にて馬上に見ゆるもあり、或は竜に乗り雲に乗り、或はさい象のたぐひに打乗り、白き装束なるもあり、赤き青き色々のいでたちにて、其姿もまた大なるもあり小きもあり、異類異形の仏神空中にみちみちて東西に飛行し玉ふ。我々も皆外へ出て毎日毎日いと有難くをがみたり。不思議なる事にてまのあたり拝み奉ることよと四五日が程もいひくらすうちに、ある夕暮、沖の方を見やりたるに、真白にして雪の山の如きもの遥に見ゆ。あれ見よ、又ふしぎなるものの海中に出来たれといふうちに、だんだん近く寄り来りて、近く見えし嶋山の上を打越して来るを見るに大浪の打来るなり。すは津波こそ、はや逃げよ、と老若男女われさきにと逃迷ひしかど、しばしが間に打寄て、民屋田畑草木きんじゆうまで少しも残らず海底のみくづと成れば、生残る人民、海辺の村里には一人もなし、扨こそ初に神々の雲中を飛行し給ひけるは此大変ある事をしろしめて此地を逃去り給ひしなるべしといひ合て恐れ侍りぬと語りぬ。」などという、もったいないような、また夢のようなことも、平易の文章でさらさらと書き記されているのである。現在のこの辺の風景に就いては、この際、あまり具体的に書かぬほうがよいと思われるし、荒唐無稽とは言っても、せめて古人の旅行記など書き写し、そのおとぎばなしみたいな雰囲気にひたってみるのも一興と思われて、実は、東遊記の二、三の記事をここに抜き書きしたというわけであったのだが、ついでにもう一つ、小説の好きな人には殊にも面白く感ぜられるのではあるまいかと思われる記事があるから紹介しよう。

「奥州津軽の外ヶ浜に在りし頃、所の役人より丹後の人は居ずやとしきりに吟味せし事あり。いかなるゆゑぞと尋ねるに、津軽のいわやまの神はなはだ丹後の人をいみきらふ、もし忍びても丹後の人此地に入る時は天気大きに損じて風雨打続き船の出入無く、津軽領はなはだ難儀に及ぶとなり。余が遊びし頃も打続き風悪しかりければ、丹後の人の入りて居るにやと吟味せしこととぞ。天気あしければ、いつにても役人よりきびしく吟味して、もし入込み居る時は急に送り出すこととなり。丹後の人、津軽領の界を出れば、天気たちまち晴て風静に成なり。土俗の、いひならはしにて忌嫌ふのみならず、役人よりも毎度改むる事、珍らしき事なり。青森、三馬屋、そのほか外ヶ浜通り港々、最も甚敷丹後の人を忌嫌ふ。あまりあやしければ、いかなるわけのありてかくはいふ事ぞと委敷くわしく尋ね問ふに、当国岩城山の神と云ふは、あん寿じゆひめ出生の地なればとて安寿姫を祭る。此姫は丹後の国にさまよひてさんしよう大夫だゆうにくるしめられしゆゑ、今に至り、其国の人といへば忌嫌ひて風雨を起し岩城の神荒れ玉ふとなり。外ヶ浜通り九十里余、皆多くは漁猟又は船の通行にて世渡ることなれば、常々最も順風を願ふ。然るに、差当りたる天気にさはりあることなれば、一国こぞつて丹後の人を忌嫌ふ事にはなりぬ。此説、隣境にも及びて松前南部等にても港々にては多く丹後人を忌みて送り出す事なり。かばかり人の恨は深きものにや。」

 へんな話である。丹後の人こそ、いい迷惑である。丹後の国は、いまの京都府の北部であるが、あの辺の人は、この時代に津軽へ来たら、ひどいめに遭わなければならなかったわけである。安寿姫とおうの話は、私たちも子供の頃から絵本などで知らされているし、またおうがいの傑作「さんしよう大夫」の事は、小説の好きな人なら誰でも知っている。けれども、あの哀話の美しい姉弟が津軽の生れで、そうして死後岩木山に祭られているということは、あまり知られていないようであるが、実は、私はこれも何だか、あやしい話だと思っているのである。義経が津軽に来たとか、三里の大魚が泳いでいるとか、石の色が溶けて川の水も魚のうろこも赤いとかいうことを、平気で書いている南谿氏のことだから、これもあるいはれいの「強ひて其事の虚実を正さず」式の無責任な記事かもしれない。もっとも、この安寿廚子王津軽人説は、和漢三才図会のいわさんごんげんの条にも出ている。三才図会は漢文で少し読みにくいが、「相伝ふ、昔、当国(津軽)の領主、岩城判官正氏といふ者あり。えいほう元年の冬、在京中、ざんしやの為に西海にたくせらる。本国に二子あり。姉を安寿と名づく。弟を津志王丸と名づく。母と共にさまよひ、を過ぎ、越後に到り直江の浦うんぬん」などと自信ありげに書き出してあるが、おしまいのほうに到って、「岩城と津軽の岩城山とは南北百余里を隔てこれを祭るはいぶかし」とおのずから語るに落ちるような工合になってしまっている。鷗外の「山椒大夫」には、「岩代の信夫郡の住家を出て」と書いている。つまりこれは、岩城という字を、「いわき」と読んだり「いわしろ」と読んだりして、ごちゃまぜになって、とうとう津軽の岩木山がその伝説を引き受けることになったのではないかと思われる。しかし、昔の津軽の人たちは、安寿廚子王が津軽の子供であることを堅く信じ、にっくき山椒大夫をのろうあまりに、丹後の人が入り込めば津軽の天候が悪化するとまで思いつめていたとは、私たち安寿廚子王の同情者にとっては、痛快でないこともないのである。

 外ヶ浜のむかしばなしは、これくらいにしてやめて、さて、私たちのバスはお昼頃Mさんのいる今別に着いた。今別は前にも言ったように、明るく、近代的とさえ言いたいくらいの港町である。人口も四千に近いようである。N君に案内されて、Mさんのお家を訪れたが、奥さんが出て来られて、留守です、とおっしゃる。ちょっとお元気がないように見受けられた。よその家庭のこのような様子を見ると、私はすぐに、ああ、これは、僕のことでけんをしたんじゃないかな? と思ってしまう癖がある。当っていることもあるし、当っていないこともある。作家や新聞記者等の出現は、善良の家庭に、とかく不安の感を起こさせ易いものである。そのことは、作家にとっても、かなりの苦痛になっているはずである。この苦痛を体験したことのない作家は、馬鹿である。

「どちらへ、いらっしゃったのですか?」とN君はのんびりしている。リュックサックをおろして、「とにかく、ちょっと休ませていただきます。」玄関の式台に腰をおろした。

「呼んでまいります。」

「はあ、すみませんですな。」N君は泰然たるものである。「病院のほうですか?」

「え、そうかと思います。」美しく内気そうな奥さんは、小さい声で言って下駄をつっかけ外へ出て行った。Mさんは、今別のある病院に勤めているのである。

 私もN君と並んで式台に腰をおろし、Mさんを待った。

「よく打ち合わせて置いたのかね。」

「うん、まあね。」N君は落ちついて煙草をふかしている。

「あいにく昼飯時で、いけなかったね。」私は何かと気をもんでいた。

「いや、僕たちもお弁当を持って来たんだから。」と言って澄ましている。西郷隆盛もかくやと思われるくらいであった。

 Mさんが来た。はにかんで笑いながら、

「さ、どうぞ。」と言う。

「いや、そうしてもいられないんです。」とN君は腰をあげて、「船が出るようだったら、すぐに船で竜飛まで行きたいと思っているのです。」

「そう。」Mさんは軽く首肯うなずき、「じゃあ、出るかどうか、ちょっと聞いて来ます。」

 Mさんがわざわざ波止場まで聞きに行ってくれたのだが、船はやはり欠航ということであった。

「仕方がない。」たのもしい私の案内者は別にらくたんした様子も見せず、「それじゃ、ここでちょっと休ませてもらって弁当を食べるか。」

「うん、ここで腰かけたままでいい。」私はいやらしく遠慮した。

「あがりませんか。」Mさんは気弱そうに言う。

「あがらしてもらおうじゃないか。」N君は平気でゲートルを解きはじめた。「ゆっくり、次の旅程を考えましょう。」

 私たちはMさんの書斎に通された。小さい囲炉裏があって、炭火がパチパチ言っておこっていた。書棚には本がぎっしりつまっていて、ヴァレリイ全集や鏡花全集もそろえられてあった。「礼儀文華のいまだ開けざるはもつともの事なり」と自信ありげに断案を下した南谿氏も、ここに到ってあるいは失神するかもしれない。

「お酒は、あります。」上品なMさんは、かえってご自分のほうで顔を赤くしてそう言った。

「飲みましょう。」

「いやいや、ここで飲んでは、」と言いかけてN君は、うふふと笑ってごまかした。

「それは大丈夫。」とMさんは敏感に察して、「竜飛へお持ちになる酒は、また別に取って置いてありますから。」

「ほほ、」とN君は、はしゃいで、「いや、しかし、いまから飲んでは、きょうのうちに竜飛に到着することが出来なくなるかも、」などと言っているうちに、奥さんが黙っておちようを持って来た。この奥さんは、もとから無口な人なのであって、別に僕たちに対して怒っているのではないかもしれない、と私は自分に都合のいいように考え直し、

「それじゃ酔わない程度に、少し飲もうか。」とN君に向かって提案した。

「飲んだら酔うよ。」N君は先輩顔で言って、「きょうは、これあ、三厩泊りかな?」

「それがいいでしょう。きょうは今別でゆっくり遊んで、三厩までだったら歩いて、まあ、ぶらぶら歩いて一時間かな? どんなに酔ってたって楽に行けます。」とMさんもすすめる。きょうは三厩一泊ときめて、私たちは飲んだ。

 私には、この部屋へはいったときから、こだわっていたものが一つあった。それは私が蟹田でつい悪口を言ってしまったあの五十年配の作家の随筆集が、Mさんの机の上にきちんと置かれていることであった。愛読者というものは偉いもので、私があの日、蟹田の観瀾山であれほど口汚くこの作家をとうしても、この作家に対するMさんの信頼はいささかも動揺しなかったものとみえる。

「ちょっと、その本を貸して。」どうも気になって落ちつかないので、とうとう私は、Mさんからその本を借りて、いい加減にぱっと開いて、その箇所をの目、たかの目で読みはじめた。何かアラを拾ってがいを挙げたかったのであるが、私の読んだ箇所は、その作家も特別に緊張して書いたところらしく、さすがに打ち込むすきがないのである。私は、黙って読んだ。一ページ読み、二ページ読み、三ページ読み、とうとう五ページ読んで、それから、本を投げ出した。

「いま読んだところは、少しよかった。しかし、他の作品には悪いところもある。」と私は負け惜しみを言った。

 Mさんは、うれしそうにしていた。

そうていが豪華だからなあ。」と私は小さい声で、さらに負け惜しみを言った。「こんな上等の紙に、こんな大きな活字で印刷されたら、たいていの文章は、立派に見えるよ。」

 Mさんは相手にせず、ただ黙って笑っている。勝利者の微笑である。けれども私は本心は、そんなに口惜しくもなかったのである。いい文章を読んでほっとしていたのである。アラを拾って凱歌などを奏するよりは、どんなに、いい気持のものかわからない。ウソじゃない。私は、いい文章を読みたい。

太宰スケッチ

 今別には本覚寺という有名なお寺がある。ていでんしようという偉い坊主が、ここの住職だったので知られているのである。貞伝和尚のことは、竹内運平氏著の青森県通史にも記載せられてある。すなわち、「貞伝和尚は、今別の新山甚左衛門の子で、早く弘前誓願寺に弟子入りして、のちいわだいら、専称寺に修業すること十五年、二十九歳のときより津軽今別、本覚寺の住職となって、きようほう十六年四十二歳に到る間、その教化する処、津軽地方のみならず近隣の国々にも及び、享保十二年、金銅塔婆建立の供養のときの如きは、領内はもちろん、南部、秋田、松前地方の善男善女の雲集さんけいを見た」というようなことが記されてある。そのお寺を、これからひとつ見に行こうじゃないか、と外ヶ浜の案内者N町会議員は言い出した。

「文学談もいいが、どうも、君の文学談は一般向きでないね。ヘンテコなところがある。だから、いつまで経っても有名にならん。貞伝和尚なんかはね、」とN君は、かなり酔っていた。

「貞伝和尚なんかはね、仏の教えを説くのは後まわしにして、まず民衆の生活の福利増進を図ってやった。そうでもなくちゃ、民衆なんか、仏の教えも何も聞きやしないんだ。貞伝和尚は、あるいは産業を興し、あるいは、」と言いかけて、ひとりで噴き出し、「まあ、とにかく行ってみよう。今別へ来て本覚寺を見なくちゃ恥です。貞伝和尚は、外ヶ浜の誇りなんだ。そう言いながら、実は僕もまだ見ていないんだ。いい機会だから、きょうは見に行きたい。みんなで一緒に見に行こうじゃないか。」

 私は、ここで飲みながらMさんと、いわゆるヘンテコなところのある文学談をしていたかった。Mさんも、そうらしかった。けれどもN君の貞伝和尚に対する情熱はなかなかのもので、とうとう私たちの重いしりを上げさせてしまった。

「それじゃ、その本覚寺に立ち寄って、それからまっすぐに三厩まで歩いて行ってしまおう。」私は玄関の式台に腰かけてゲートルを巻きつけながら、「どうです、あなたも。」と、Mさんを誘った。

「はあ、三厩までお供させていただきます。」

「そいつあ有難い。この勢いじゃ、町会議員は今夜あたり、三厩の宿で蟹田町政に就いて長講一席やらかすんじゃないかと思って、実は、ゆううつだったんです。あなたが附き合ってくれると、心強い。奥さん、御主人を今夜、お借りします。」

「はあ。」とだけ言って、微笑する。少しは慣れた様子であった。いや、あきらめたのかもしれない。

 私たちはお酒をそれぞれの水筒につめてもらって、大陽気で出発した。そうして途中も、N君は、テイデン和尚、テイデン和尚、と言い、すこぶるうるさかったのである。お寺の屋根が見えてきた頃、私たちは、魚売りの小母さんにった。いているリヤカーには、さまざまのさかながいっぱい積まれている。私は二尺くらいのたいを見つけて、

「その鯛は、いくらです。」まるっきり見当が、つかなかった。

「一円七十銭です。」安いものだと思った。

 私は、つい、かってしまった。けれども買ってしまってから、始末に窮した。これからお寺へ行くのである。二尺の鯛をさげてお寺へ行くのは奇怪の図である。私は途方にくれた。

「つまらんものを買ったねえ。」とN君は、口をゆがめて私をけいべつした。「そんなものを買ってどうするの?」

「いや、三厩の宿へ行って、これを一枚のままで塩焼きにしてもらって、大きいお皿に載せて三人でつつこうと思ってね。」

「どうも、君は、ヘンテコなことを考える。それでは、まるでお祝言か何かみたいだ。」

「でも、一円七十銭で、ちょっと豪華な気分にひたることも出来るんだから有難いじゃないか。」

「有難かないよ。一円七十銭なんて、この辺では高い。実に君は下手へたな買い物をした。」

「そうかねえ。」私は、しょげた。

 とうとう私は二尺の鯛をぶらさげたまま、お寺の境内にはいってしまった。

「どうしましょう。」と私は小声でMさんに相談した。「弱りました。」

「そうですね。」Mさんは真面目まじめな顔をして考えて、「お寺へ行って新聞紙か何かもらって来ましょう。ちょっと、ここで待っていて下さい。」

 Mさんはお寺ののほうに行き、やがて新聞紙とひもを持って来て、問題の鯛を包んで私のリュックサックにいれてくれた。私は、ほっとして、お寺の山門を見上げたりなどしたが、別段すぐれた建築とも見えなかった。

「たいしたお寺でもないじゃないか。」と私は小声でN君に言った。

「いやいや、いやいや。外観よりも内容がいいんだ。とにかく、お寺へはいって坊さんの説明でも聞きましょう。」

 私は気が重かった。しぶしぶN君の後について行ったが、それから、実にひどいめにった。お寺の坊さんはお留守のようで、五十年配のおかみさんらしいひとが出て来て、私たちを本堂に案内してくれて、それから、長い長い説明がはじまった。私たちは、きちんとひざを折って、かしこまって拝聴していなければならぬのである。説明がちょっと一区切りついて、やれやれうれしやと立ち上がろうとすると、N君は膝をすすめて、

「しからば、さらにもう一つお尋ねいたしますが、」と言うのである。「いったい、このお寺はテイデン和尚が、いつごろお作りになったものなのでしょうか。」

「何をおっしゃっているのです。貞伝上人様はこのお寺を御草創なさったのではございませんよ。貞伝上人様は、このお寺の中興開山、五代目の上人様でございまして、──」と、またもや長い説明が続く。

「そうでしたかな。」とN君は、きょとんとして、「しからば、さらにお尋ねいたしますが、このテイザン和尚は、」テイザン和尚と言った。まったく滅茶苦茶である。

 N君は、ひとり熱狂して膝をすすめ膝をすすめ、ついにはその老婦人の膝との間隔が紙一重くらいのところまで進出して、一問一答をつづけるのである。そろそろ、あたりが暗くなってきて、これから三厩まで行けるか、どうか心細くなってきた。

「あそこにありまする大きな見事ながくは、その大野九郎兵衛様のお書きになった額でございます。」

「さようでございますか。」とN君は感服し、「大野九郎兵衛様と申しますと、──」

「ご存じでございましょう。忠臣義士のひとりでございます。」忠臣義士と言ったようである。

「あのお方は、この土地でおなくなりになりまして、おなくなりになったのは、四十二歳、たいへん御信仰の厚いお方でございましたそうで、このお寺にもたびたびばくだいの御寄進をなされ、──」

 Mさんはこの時とうとう立ち上がり、おかみさんの前に行って、内ポケツトから白紙に包んだものを差し出し、黙って丁寧にお辞儀をしてそれからN君に向かって、

「そろそろ、おいとまを。」と小さい声で言った。

「はあ、いや、帰りましょう。」とN君はおうように言い、「結構なお話を承りました。」とおかみさんにおあいそを言って、ようやく立ち上がったのであるが、あとで聞いてみると、おかみさんの話を一つも記憶していないという。私たちはあきれて、

「あんなに情熱的にいろんな質問を発していたじゃないか。」と言うと、

「いや、すべて、うわのそらだった。何せ、ひどく酔ってたんだ。僕は君たちがいろいろ知りたいだろうと思って、がまんして、あのおかみの話相手になってやっていたんだ。僕は犠牲者だ。」つまらない犠牲心を発揮したものである。

 三厩の宿に着いた時には、もう日が暮れかけていた。表二階のれいな部屋に案内された。外ヶ浜の宿屋は、みな、町に不似合いなくらい上等である。部屋から、すぐ海が見える。小雨が降りはじめて、海は白くいでいる。

「わるくないね。鯛もあるし、海の雨を眺めながら、ゆっくり飲もう。」私はリュックサックから鯛の包みを出して、女中さんに渡し、「これは鯛ですけどね、これをこのまま塩焼きにして持って来て下さい。」

 この女中さんは、あまりこうでないような顔をしていて、ただ、はあ、とだけ言って、ぼんやりその包みを受け取って部屋から出て行った。

「わかりましたか。」N君も、私と同様すこし女中さんに不安を感じたのであろう。呼びとめて念を押した。「そのまま塩焼きにするんですよ。三人だからと言って、三つに切らなくてもいいのですよ。ことさらに、三等分の必要はないんですよ。わかりましたか。」N君の説明も、あまり上手とは言えなかった。女中さんは、やっぱり、はあ、と頼りないような返事をしただけであった。

 やがておぜんが出た。鯛はいま塩焼きにしています、お酒はきょうはないそうです、とにこりともせずに、れいの、悧巧そうでない女中さんが言う。

「仕方がない。持参の酒を飲もう。」

「そういうことになるね。」とN君は気早く、水筒を引き寄せ、「すみませんがおちようを二本と盃を三つばかり。」

 ことさらに三つとは限らないか、などと冗談を言っているうちに、鯛が出た。ことさらに三つに切らなくてもいいというN君の注意が、実に馬鹿馬鹿しい結果になっていたのである。頭も尾も骨もなく、ただ鯛の切り身の塩焼きが五片ばかり、何の風情もなく白茶けて皿に載っているのである。私は決して、たべものにこだわっているのではない。食いたくて、二尺の鯛を買ったのではない。読者は、わかってくれるだろうと思う。私はそれを一尾の原形のままで焼いてもらって、そうしてそれを大皿に載せて眺めたかったのである。食う食わないは主要な問題でないのだ。私は、それを眺めながらお酒を飲み、ゆたかな気分になりたかったのである。ことさらに三つに切らなくてもいい、というN君の言い方もへんだったが、そんなら五つに切りましょうと考えるこの宿の者の無神経が、しやくにさわるやら、うらめしいやら、私は全く地団駄を踏む思いであった。

「つまらねえことをしてくれた。」お皿に愚かしく積まれてある五切れのやきざかな(それはもう鯛ではない、単なる、やきざかなだ)を眺めて、私は、泣きたく思った。せめて、刺身にでもしてもらったのなら、まだあきらめもつくと思った。頭や骨はどうしたろう。大きい見事な頭だったのに、捨てちゃったのかしら。さかなの豊富な地方の宿は、かえって、さかなに鈍感になって、料理法も何も知りやしない。

「怒るなよ、おいしいぜ。」人格円満のN君は、平気でそのやきざかなにはしをつけて、そう言った。

「そうかね。それじゃ、君がひとりで全部たべたらいい。食えよ。僕は、食わん。こんなもの馬鹿馬鹿しくって食えるか。だいたい、君が悪いんだ。ことさらに三等分の必要はない、なんて、そんな蟹田町会の予算総会で使うような気取った言葉で註釈を加えるから、あの間抜けの女中が、まごついてしまったんだ。君が悪いんだ。僕は、君を、うらむよ。」

 N君はのんきに、うふふと笑い、

「しかし、また、愉快じゃないか。三つに切ったりなどしないように、と言ったら、五つに切った。しゃれている。しゃれているよ、ここの人は。さあ、乾盃、乾盃、乾盃。」

 私は、わけのわからぬ乾盃を強いられ、鯛のうつぷんのせいか、ひどくめいていして、あやうく乱に及びそうになったので、ひとりでさっさと寝てしまった。いま思い出しても、あの鯛は、くやしい。だいたい、無神経だ。

 あくる朝、起きたら、まだ雨が降っていた。下へ降りて、宿の者に聞いたら、きょうも船は欠航らしいということであった。竜飛まで海岸伝いに歩いて行くより他はない。雨のはれ次第、思い切って、すぐ出発しようということになり、私たちは、またとんにもぐり込んで雑談しながら雨のはれるのを待った。

「姉と妹とがあってね。」私は、ふいとそんなおとぎばなしをはじめた。姉と妹が、母親から同じ分量のまつかさを与えられ、これでもって、ごはんとおみおつけを作ってみよと言いつけられ、ケチで用心深い妹は、松毬を大事にして一個ずつかまどにほうり込んで燃やし、おみおつけどころか、ごはんさえ満足に煮ることが出来なかった。姉はおっとりとして、こだわらぬ性格だったので、与えられた松毬をいちどにどっと惜しげもなく竈にくべたところが、その火で楽にごはんが出来、そうして、あとにおきが残ったので、その燠で、おみおつけも出来た。「そんな話、知ってる? ね、飲もうよ。竜飛へ持って行くんだって、ゆうべ、もう一つの水筒のお酒、残しておいたろう? あれ飲もうよ。ケチケチしてたって仕様がないよ。こだわらずに、いちどにどっとやろうじゃないか。そうするとあとに燠が残るかもしれない。いや、残らなくてもいい。竜飛へ行ったら、また、何とかなるさ。何も竜飛でお酒を飲まなくたって、いいじゃないか。死ぬわけじゃあるまいし。お酒を飲まずに寝て、静かに、来しかた行く末を考えるのも、わるくないものだよ。」

「わかった、わかった。」N君は、がばと起きて、「万事、姉娘式で行こう。いちどにどっと、やってしまおう。」

 私たちは起きて囲炉裏をかこみ、鉄瓶におかんをして、雨のはれるのを待ちながら、残りのお酒を全部、飲んでしまった。

 お昼頃、雨がはれた。私たちは、おそい朝飯をたべ、出発の身支度をした。うすら寒い曇天である。宿の前で、Mさんとわかれ、N君と私は北に向かって発足した。

「登ってみようか。」N君はけいの石の鳥居の前で立ちどまった。松前の何某という鳥居の寄進者の名が、その鳥居の柱に刻み込まれていた。

「うん。」私たちはその石の鳥居をくぐって、石の段々を登った。頂上まで、かなりあった。石段の両側の樹々の梢から雨のしずくが落ちて来る。

「これか。」

 石段を登り切った小山の頂上には、古ぼけた堂屋が立っている。堂の扉には、ささりんどうの源家の紋が附いている。私はなぜか、ひどくにがにがしい気持で、

「これか。」と、また言った。

「これだ。」N君は間抜けた声で答えた。

 むかし源義経、高館をのがれ蝦夷へ渡らんと此所まで来り給ひしに、渡るべき順風なかりしかば数日とうりゆうし、あまりにたへかねて、所持の観音の像を海岸の岩の上に置いて順風を祈りしに、たちまち風かはりつつがなく松前の地に渡り給ひぬ。其像今に此所の寺にありて義経の風祈りの観音といふ。

 れいの「東遊記」で紹介せられているのは、この寺である。

 私たちは無言で石段を降りた。

「ほら、この石段のところどころに、くぼみがあるだろう? 弁慶の足あとだとか、義経の馬の足あとだとか、何だとかいう話だ。」N君はそう言って、力なく笑った。私は信じたいと思ったが、駄目であった。鳥居を出たところに岩がある。東遊記にまたいわく、

「波打際に大なる岩ありて馬屋のごとく、穴三つ並べり。是義経の馬を立給ひし所となり。是によりて此地をと称するなりとぞ。」

 私たちはその巨岩の前を、ことさらに急いで通り過ぎた。故郷のこのような伝説は、奇妙に恥ずかしいものである。

「これは、きっと、鎌倉時代によそから流れて来た不良青年の二人組が、何を隠そうそれがしは九郎判官、してまたこれなるひげおとこは武蔵坊弁慶、一夜の宿をたのむぞ、なんて言って、田舎娘をたぶらかして歩いたのに違いない。どうも、津軽には、義経の伝説が多すぎる。鎌倉時代だけじゃなく、江戸時代になっても、そんな義経と弁慶が、うろついていたのかもしれない。」

「しかし、弁慶の役は、つまらなかったろうね。」N君は私よりも更にひげが濃いので、あるいは弁慶の役を押しつけられるのではなかろうかという不安を感じたらしかった。「七つ道具という重いものを背負って歩かなくちゃいけないのだから、やっかいだ。」

 話しているうちに、そんな二人の不良青年の放浪生活が、ひどく楽しかったもののように空想せられ、うらやましくさえなってきた。

「この辺には、美人が多いね。」と私は小声で言った。通り過ぎる部落の、家の蔭からちらと姿を見せてふっと消える娘さんたちは、みな色が白く、みなりも小ざっぱりして、気品があった。手足が荒れていない感じなのである。

「そうかね。そう言えば、そうだね。」N君ほど、女にあっさりしている人も少ない。ただ、もっぱら、酒である。

「まさか、いま、義経だと言って名乗ったって、信じないだろうしね。」私は馬鹿なことを空想していた。

 はじめは、そんなたわいないことを言い合って、ぶらぶら歩いていたのだが、だんだん二人の歩調が早くなってきた。まるで二人であしばやを競っているみたいな形になった。そうして、めっきり無口になった。三厩の酒の酔いがめてきたのである。ひどく寒い。いそがざるを得ないのである。私たちは、共に厳粛な顔になって、せっせと歩いた。浜風が次第につよくなってきた。私は帽子を幾度も吹き飛ばされそうになって、その度ごとに、帽子のつばをぐっと下にひっぱり、とうとうスフの帽子の鍔の附け根が、びりりと破れてしまった。雨が時々、ぱらぱら降る。真っ黒い雲が低く空を覆っている。波のうねりも大きくなってきて、海岸伝いの細い路を歩いている私たちのほおにしぶきがかかる。

「これでも、道がずいぶんよくなったのだよ。六、七年前は、こうではなかった。波のひくのを待って素早く通り抜けなければならぬところが幾箇処もあったのだからね。」

「でも、いまでも、夜は駄目だね。とても、歩けまい。」

「そう、夜は駄目だ、義経でも弁慶でも駄目だ。」

 私たちは真面目な顔をしてそんなことを言い、なおもせっせと歩いた。

「疲れないか。」N君は振り返って言った。「案外、健脚だね。」

「うん、未だ老いずだ。」

 二時間ほど歩いた頃から、あたりの風景は何だか異様にすごくなってきた。せいそうとでもいう感じである。それは、もはや、風景ではなかった。風景というものは、永い年月、いろんな人から眺められ形容せられ、いわば、人間の眼でめられて軟化し、人間に飼われてなついてしまって、高さ三十五丈のごんの滝にでも、やっぱりおりの中の猛獣のような、人くさいにおいがかすかに感ぜられる。昔から絵にかかれ歌によまれ俳句に吟ぜられた名所難所には、すべて例外なく、人間の表情が発見せられるものだが、この本州北端の海岸は、てんで、風景にも何も、なってやしない。点景人物の存在もゆるさない。強いて、点景人物を置こうとすれば、白いアツシを着たアイヌの老人でも借りてこなければならない。むらさきのジャンパーを着たにやけ男などは、一も二もなくはねかえされてしまう。絵にも歌にもなりやしない。ただ岩石と、水である。ゴンチャロフであったか、大洋を航海して時化しけに遭ったとき、老練の船長が、「まあちょっと甲板に出てごらんなさい。この大きい波を何と形容したらいいのでしょう。あなたがた文学者は、きっとこの波に対して素晴らしい形容詞を与えて下さるに違いない。」ゴンチャロフは、波を見つめてやがて、ためいきをつき、ただ一言、「おそろしい。」

 大洋の激浪や、沙漠の暴風に対しては、どんな文学的な形容詞も思い浮かばないのと同様に、この本州の路のきわまるところの岩石や水も、ただ、おそろしいばかりで、私はそれから眼をそらして、ただ自分の足もとばかり見て歩いた。もう三十分くらいで竜飛に着くという頃に、私はかすかに笑い、

「こりゃどうも、やっぱりお酒を残しておいたほうがよかったね。竜飛の宿に、お酒があるとは思えないし、どうもこう寒くてはね。」と思わず愚痴をこぼした。

「いや、僕もいまそのことを考えていたんだ。も少し行くと、僕の昔の知り合いの家があるんだが、ひょっとするとそこに配給のお酒があるかもしれない。そこは、お酒を飲まない家なんだ。」

「当ってみてくれ。」

「うん、やっぱり酒がなくちゃいけない。」

 竜飛の一つ手前の部落に、その知り合いの家があった。N君は帽子を脱いでその家へはいり、しばらくして、笑いをみ殺しているような顔をして出て来て、

「悪運つよし。水筒にいっぱいつめてもらってきた。五合以上はある。」

おきが残っていたわけだ。行こう。」

 もう少しだ。私たちは腰を曲げて烈風に抗し、小走りに走るようにして竜飛に向かって突進した。路がいよいよ狭くなったと思っているうちに、不意に、とりに頭を突っ込んだ。一瞬、私は何が何やら、わけがわからなかった。

「竜飛だ。」とN君が、変わった調子で言った。

「ここが?」落ちついて見廻すと、鶏小舎と感じたのが、すなわち竜飛の部落なのである。兇暴の風雨に対して、小さい家々が、ひしとひとかたまりになって互いにし合って立っているのである。ここは、本州の極地である。この部落を過ぎて路はない。あとは海にころげ落ちるばかりだ。路が全く絶えているのである。ここは、本州の袋小路だ。読者もめいせよ。諸君が北に向かって歩いているとき、その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外ヶ浜街道に到り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すぽりとこの鶏小舎に似た不思議な世界に落ち込み、そこにおいて諸君の路は全く尽きるのである。

「誰だって驚くよ。僕もね、はじめてここへ来たとき、や、これはよその台所へはいってしまった、と思ってひやりとしたからね。」とN君も言っていた。

 露路をとおって私たちは旅館に着いた。お婆さんが出て来て、私たちを部屋に案内した。この旅館の部屋もまた、おや、と眼をみはるほどれいで、そうして普請も決して薄っぺらでない。まず、どてらに着換えて、私たちは小さい囲炉裏を挟んであぐらをかいて坐り、やっと、どうやら、人心地を取りかえした。

「ええと、お酒はありますか。」N君は、思慮分別ありげな落ちついた口調で婆さんに尋ねた。答えは、案外であった。

「へえ、ございます。」おもながの、上品な婆さんである。そう答えて、平然としている。N君は苦笑して、

「いや、おばあさん。僕たちは少し多く飲みたいんだ。」

「どうぞ、ナンボでも。」と言って微笑ほほえんでいる。

 私たちは顔を見合わせた。このお婆さんは、このごろお酒が貴重品になっているという事実を、知らないのではなかろうかとさえ疑われた。

「きょう配給がありましてな、近所に、飲まないところもかなりありますから、そんなのを集めて、」と言って、集めるような手つきをして、それから一升瓶をたくさんかかえるように腕をひろげて、「さっき内の者が、こんなにいっぱい持ってまいりました。」

「それくらいあれば、たくさんだ。」と私は、やっと安心して、「この鉄瓶でおかんをしますから、おちようにお酒をいれて四、五本、いや、めんどうくさい、六本、すぐに持って来て下さい。」お婆さんの気の変わらぬうちに、たくさん取り寄せておいたほうがいいと思った。「おぜんは、あとでもいいから。」

 お婆さんは、言われたとおりに、お盆へ、お銚子を六本載せて来た。一、二本、飲んでいるうちにお膳も出た。

「どうぞ、まあ、ごゆっくり。」

「ありがとう。」

 六本のお酒が、またたく間になくなった。

「もうなくなった。」私は驚いた。「ばかに早いね。早すぎるよ。」

「そんなに飲んだかね。」とN君も、いぶかしそうな顔をして、からのお銚子を一本ずつ振ってみて、「ない。何せ寒かったもので、無我夢中で飲んだらしいね。」

「どのお銚子にも、こぼれるくらいいっぱいお酒がはいっていたんだぜ。こんなに早く飲んでしまって、もう六本なんて言ったら、お婆さんは僕たちを化け物じゃないかと思って警戒するかもしれない。つまらぬ恐怖心を起こさせて、もうお酒はかんべんして下さいなどと言われてもいけないから、ここは、持参の酒をお燗して飲んで、少しをもたせて、それから、もう六本ばかりと言ったほうがよい。今夜は、この本州の北端の宿で、ひとつ飲み明かそうじゃないか。」と、へんな策略を案出したのが失敗の基であった。

 私たちは、水筒のお酒をお銚子に移して、こんどは出来るだけゆっくり飲んだ。そのうちにN君は、急に酔ってきた。

「こりゃいかん。今夜は僕は酔うかもしれない。」酔うかもしれないじゃない。既にもうひどく酔ってしまった様子である。「こりゃ、いかん。今夜は、僕は酔うぞ。いいか。酔ってもいいか。」

「かまわないとも。僕も今夜は酔うつもりだ。ま、ゆっくりやろう。」

「歌を一つやらかそうか。僕の歌は、君、聞いたことがないだろう。めったにやらないんだ。でも、今夜は一つ歌いたい。ね、君、歌ってもいいだろう。」

「仕方がない。拝聴しよう。」私は覚悟をきめた。

 いくう、山河あ、と、れいの牧水の旅の歌を、N君は眼をつぶって低く吟じはじめた。想像していたほどは、ひどくない。黙って聞いていると、身にしみるものがあった。

「どう? へんかね。」

「いや、ちょっと、ほろりとした。」

「それじゃ、もう一つ。」

 こんどは、ひどかった。彼も本州の北端の宿へ来て、気宇が広大になったのか、仰天するほどのおそろしい蛮声を張り上げた。

 とうかいのう、小島のう、いそのう、と、たくぼくの歌をはじめたのだが、その声の荒々しく大きいこと、外の風の音も、彼の声のために打ち消されてしまったほどであった。

「ひどいなあ。」と言ったら、

「ひどいか。それじゃ、やり直し。」大きく深呼吸を一つして、さらに蛮声を張り上げるのである。東海の磯の小島、と間違って歌ったり、また、どういうわけか突如として、今もまた昔を書けば増鏡、なんて増鏡の歌が出たり、うめくが如く、わめくが如く、おらぶが如く、実にまずいことになってしまった。私は、奥のお婆さんに聞こえなければいいが、とはらはらしていたのだが、果たせるかなふすまがすっとあいて、お婆さんが出て来て、

「さ、歌コも出たようだし、そろそろ、お休みになりせえ。」と言って、おぜんをさげ、さっさととんをしいてしまった。さすがに、N君の気宇広大の蛮声には、度胆を抜かれたものらしい。私はまだまだ、これから、大いに飲もうと思っていたのに、実に、馬鹿らしいことになってしまった。

「まずかった。歌は、まずかった。一つか二つでよせばよかったのだ。あれじゃあ、誰だっておどろくよ。」と私は、ぶつぶつ不平を言いながら、泣き寝入りの形であった。

 あくる朝、私は寝床の中で、童女のいい歌声を聞いた。翌る日は風もおさまり、部屋には朝日がさし込んでいて、童女が表の路でまりうたを歌っているのである。私は、頭をもたげて、耳をすました。


せッせッせ

夏もちかづく

八十八夜

野にも山にも

新緑の

風に藤波

さわぐ時


 私は、たまらない気持になった。いまでも中央の人たちに蝦夷の土地と思い込まれてけいべつされている本州の北端で、このような美しい発音のさわやかな歌を聞こうとは思わなかった。かの佐藤理学士の言説の如く、「人もし現代の奥州に就いて語らんと欲すれば、まず文芸復興直前のイタリヤにおいて見受けられたあのうつぼつたるたいとう力を、この奥州の地に認めなければならぬ。文化において、はたまた産業において然り、かしこくも明治大帝の教育に関するおおこころはまことに神速に奥州の津々浦々にまで浸透して、奥州人特有の聞きぐるしき鼻音の減退と標準語の進出とを促し、かつての原始的状態にちんりんしたもうまいな蛮族の居住地に教化の御光を与え、しこうして、いまや見よ云々。」というような、希望に満ちたしよこうに似たものを、そのれんな童女の歌声に感じて、私はたまらない気持であった。

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