本編
一 巡礼
「ね、なぜ旅に出るの?」
「苦しいからさ。」
「あなたの(苦しい)は、おきまりで、ちっとも信用できません。」
「正岡子規三十六、尾崎紅葉三十七、斎藤
「それは、何のことなの?」
「あいつらの死んだとしさ。ばたばた死んでいる。おれもそろそろ、そのとしだ。作家にとって、これくらいの年齢のときが、いちばん大事で、」
「そうして、苦しいときなの?」
「何を言ってやがる。ふざけちゃいけない。お前にだって、少しは、わかっているはずだがね。もう、これ以上は言わん。言うと、
私もいい加減にとしをとったせいか、自分の気持の説明などは、気障なことのように思われて、(しかも、それはたいていありふれた文学的な虚飾なのだから)何も言いたくないのである。
津軽のことを書いてみないか、とある出版社の親しい
五月中旬のことである。乞食のような、という形容は、多分に主観的の意味で使用したのであるが、しかし、客観的に言ったって、あまり立派な姿ではなかった。私には背広服が一着もない。勤労奉仕の作業服があるだけである。それも仕立屋に特別に
十七時三十分上野発の急行列車に乗ったのだが、夜のふけると共に、ひどく寒くなってきた。私は、そのジャンパーみたいなものの下に、薄いシャツを二枚着ているだけなのである。ズボンの下には、パンツだけだ。冬の
「和服でおいでになると思っていました。」
「そんな時代じゃありません。」私は努めて冗談めかしてそう言った。
T君は、女のお子さんを連れて来ていた。ああ、このお子さんにお
「とにかく、私の家へちょっとお寄りになってお休みになったら?」
「ありがとう。きょうおひる頃までに、
「存じております。Nさんから聞きました。Nさんも、お待ちになっているようです。とにかく、蟹田行きのバスが出るまで、私の家で一休みしたらいかがです。」
炉辺に大あぐらをかき熱燗のお酒を、という私のけしからぬ俗な念願は、奇蹟的に実現せられた。T君の家では囲炉裏にかんかん炭火がおこって、そうして鉄瓶には一本お
「このたびは御苦労さまでした。」とT君は、あらたまって私にお辞儀をして「ビールのほうが、いいんでしたかしら。」
「いや、お酒が、」私は低く
T君は昔、私の家にいたことがある。おもに鶏舎の世話をしていた。私と同じとしだったので、仲良く遊んだ。「女中たちを
「戦地でいちばん、うれしかったことは何かね。」
「それは、」T君は言下に答えた。「戦地で配給のビールをコップに一ぱい飲んだときです。大事に大事に少しずつ吸い込んで、途中でコップを
T君もお酒の好きな人であった。けれども、いまは、少しも飲まない。そうして時々、軽く咳をしている。
「どうだね、からだのほうは。」T君はずっと以前に一度、
「病院で病人の世話をするには、自分でも病気でいちど苦しんでみなければ、わからないところがあります。こんどは、いい体験を得ました。」
「さすがに人間ができてきたようだね。じっさい、胸の病気なんてものは、」と私は、少し酔ってきたので、おくめんもなく医者に医学を説きはじめた。「精神の病気なんだ。忘れちまえば、なおるもんだ。たまには大いに酒でも飲むさ。」
「ええ、まあ、ほどよくやっています。」と言って、笑った。私の乱暴な医学は、本職にはあまり信用されないようであった。
「何か召し上がりませんか。青森にも、このごろは、おいしいおさかなが少なくなって。」
「いや、ありがとう。」私は傍のお
こんど津軽へ出掛けるに当って、心にきめたことが一つあった。それは、食物に淡白なれ、ということであった。私は別に聖者でもなし、こんなことを言うのは甚だてれくさいのであるが、東京の人は、どうも食い物をほしがりすぎる。私は自身古くさい人間のせいか、武士は食わねど
けれども私のそんなひねくれた用心は、まったく無駄であった。私は津軽のあちこちの知り合いの家を訪れたが、一人として私に、白いごはんですよ、腹の破れるほど食い
「僕は、しかし君を、親友だと思っているんだぜ。」実に乱暴な、失敬な、いやみったらしく
「それは、かえって愉快じゃないんです。」T君も敏感に察したようである。「私は金木のあなたの家に仕えた者です。そうして、あなたは御主人です。そう思っていただかないと、私は、うれしくないんです。へんなものですね。あれから二十年も経っていますけれども、いまでもしょっちゅう金木のあなたの家の夢を見るんです。戦地でも見ました。鶏の
バスの時間が来た。私はT君と一緒に外へ出た。もう寒くはない。お天気はいいし、それに、熱燗のお酒も飲んだし、寒いどころか、額に汗がにじみ出てきた。
「私は、あした蟹田へ行きます。あしたの朝、一番のバスで行きます。Nさんの家で逢いましょう。」
「病院のほうは?」
「あしたは日曜です。」
「なあんだ、そうか。早く言えばいいのに。」
私たちには、まだ、たわいない少年の部分も残っていた。
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