津軽
太宰治/カクヨム近代文学館
序編
あるとしの春、私は、生れてはじめて本州北端、津軽半島をおよそ三週間ほどかかって一周したのであるが、それは、私の三十幾年の生涯において、かなり重要な事件の一つであった。私は津軽に生れ、そうして二十年間、津軽において育ちながら、
金木は、私の生れた町である。津軽平野のほぼ中央に位し、人口五、六千の、これという特徴もないが、どこやら都会ふうにちょっと気取った町である。善く言えば、水のように淡白であり、悪く言えば、底の浅い
「誰にも知られぬ、このような
この海岸の小都会は、青森市である。津軽第一の海港にしようとして、
「いい成績ではなかったが、私はその春、中学校へ受験して合格した。私は、新しい袴と黒い
私は何ごとにも
それなのに、学校はちっとも面白くなかった。校舎は、まちの
私は入学式の日から、ある体操の教師にぶたれた。私が生意気だというのであった。この教師は入学試験のとき私の口答試問の係りであったが、お父さんがなくなってよく勉強もできなかったろう、と私に情ふかい言葉をかけてくれ、私もうなだれて見せたその人であっただけに、私のこころはいっそう傷つけられた。そののちも私は色んな教師にぶたれた。にやにやしているとか、あくびをしたとか、さまざまな理由から罰せられた。授業中の私のあくびは大きいので職員室で評判である、とも言われた。私はそんな
私と同じ町から来ている一人の生徒が、ある日、私を校庭の砂山の陰に呼んで、君の態度はじっさい生意気そうに見える。あんなに殴られてばかりいると落第するにちがいない、と忠告してくれた。私は
この中学校は、いまも昔と変わらず青森市の東端にある。ひらたい公園というのは、
「私が三年生になって、春のあるあさ、登校の道すがらに朱で染めた橋のまるい欄干にもたれかかって、私はしばらくぼんやりしていた。橋の下には
なにはさてお前は衆にすぐれていなければいけないのだ、という脅迫めいた考えからであったが、じじつ私は勉強していたのである。三年生になってからは、いつもクラスの首席であった。てんとりむしと言われずに首席となることは困難であったが、私はそのような
私はこの吹き出物に心をなやまされた。そのじぶんにはいよいよ数も殖えて、毎朝、眼をさますたびに掌で顔を
弟も私の吹き出物を心配して、なんべんとなく私の代わりに薬を買いに行ってくれた。私と弟とは子供のときから仲がわるくて、弟が中学へ受験する折にも、私は彼の失敗を願っていたほどであったけれど、こうしてふたりで故郷から離れてみると、私にも弟のよい気質がだんだん
秋のはじめの
この弟は、それから二、三年後に死んだが、当時、私たちは、その桟橋に行くことを好んだ。冬、雪の降る夜も、傘をさして弟と二人でこの桟橋に行った。深い港の海に、雪がひそひそ降っているのはいいものだ。最近は青森港も船舶
「秋になって、私はその都会から汽車で三十分ぐらいかかって行ける海岸の温泉地へ、弟をつれて出掛けた。そこには、私の母と病後の末の娘とが家を借りて湯治していたのだ。私はずっとそこへ寝泊りして、受験勉強をつづけた。私は秀才というぬきさしならぬ名誉のために、どうしても、中学四年から高等学校へはいってみせなければならなかったのである。私の学校ぎらいはその頃になって、いっそうひどかったのであるが、何かに追われている私は、それでも
いよいよ青春が海に注ぎ込んだね、と冗談を言ってやりたいところでもあろうか。この浅虫の海は
津軽においては、浅虫温泉は最も有名で、つぎは大鰐温泉ということになるのかもしれない。大鰐は、津軽の南端に近く、秋田との県境に近いところに在って、温泉よりも、スキイ場のために日本中に知れ渡っているようである。
弘前城。ここは津軽藩の歴史の中心である。津軽藩祖大浦
私は、この弘前の城下に三年いたのである。弘前高等学校の文科に三年いたのであるが、その頃、私は大いに義太夫に凝っていた。甚だ異様なものであった。学校からの帰りには、義太夫の女師匠の家へ立ち寄って、さいしょは朝顔日記であったろうか。何が何やら、いまはことごとく忘れてしまったけれども、野崎村、
「喫茶店で、葡萄酒飲んでいるうちは、よかったのですが、そのうちに
さすがの馬鹿の本場においても、これくらいの馬鹿は少なかったかもしれない。書き写しながら作者自身、すこし
けれども私は、弘前市を上等のまち、青森市を下等の町だと思っているのでは決してない。鷹匠町、紺屋町などの懐古的な名前は何も弘前市にだけ限った町名ではなく、日本全国の城下まちに必ず、そんな名前の町があるものだ。なるほど弘前市の
歴史を有する城下町は、日本全国に無数と言ってよいくらいにたくさんあるのに、どうして弘前の城下町の人たちは、あんなに
汝を愛し、汝を憎む。
だいぶ弘前の悪口を言ったが、これは弘前に対する憎悪ではなく、作者自身の反省である。私は津軽の人である。私の先祖は代々、津軽藩の百姓であった。いわば純血種の津軽人である、だから少しも遠慮なく、このように津軽の悪口を言うのである。他国の人が、もし私のこのような悪口を聞いて、そうして安易に津軽を見くびったら、私はやっぱり不愉快に思うだろう。なんと言っても、私は津軽を愛しているのだから。
弘前市。現在の戸数は一万、人口は五万余。弘前城と、最勝院の五重塔とは、国宝に指定せられている。桜の頃の弘前公園は、日本一と
あれは春の夕暮れだったと記憶しているが、弘前高等学校の文科生だった私は、ひとりで弘前城を訪れ、お城の広場の一隅に立って、岩木山を眺望したとき、ふと脚下に、夢の町がひっそりと展開しているのに気がつき、ぞっとしたことがある。私はそれまで、この弘前城を、弘前のまちのはずれに孤立しているものだとばかり思っていたのだ。けれども、見よ、お城のすぐ下に、私のいままで見たこともない古雅な町が、何百年も昔のままの姿で小さい軒を並べ、息をひそめてひっそりうずくまっていたのだ。ああ、こんなところにも町があった。年少の私は夢を見るような気持で思わず深い
あるとしの春、私は、生れてはじめて本州北端、津軽半島をおよそ三週間ほどかかって一周したのであるが、という序編の冒頭の文章に、いよいよこれから引き返して行くわけであるが、私はこの旅行によって、まったく生れてはじめて他の津軽の町村を見たのである。それまでは私は、本当に、あの六つの町の他は知らなかったのである。小学校の頃、遠足に行ったり何かして、金木の近くの幾つかの部落を見たことはあったが、それは現在の私に、なつかしい思い出として色濃く残ってはいないのである。中学時代の暑中休暇には、金木の生家に帰っても、二階の洋室の
私はこのたびの旅行で見てきた町村の、地勢、地質、天文、財政、沿革、教育、衛生などに就いて、専門家みたいな知ったかぶりの意見は避けたいと思う。私がそれを言ったところで、
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