その男は悪魔なのか天使なのか
樹結理(きゆり)
その男は悪魔なのか天使なのか
私は何がしたいんだろう。
逃げ出したいのに逃げ出せない。
行動したいのに動けない。
私は一体どうしたいの……。
歩道橋の上から車が走り去るのを眺めながら、私はそこから動けないでいた。
はたから見れば、自殺でもする人のように見えそうだな、と苦笑した。
どうしようかしら、とボーッとしていると何やら「チリン」と鈴の音が聞こえた気がした。
何の気なしに振り向き周りを見回すが特に何もない。
何だったのかしら、と、再び行き交う車を眺めていると、また「チリン」と聞こえる。
「なに?」
再び振り向くがやはり何もない。
首を傾げ再び前を向こうとしたとき、今度はさらにはっきりと「チリン」と聞こえた。
喧騒の中、さらに「チリン……チリン……チリン……」と連続で聞こえてくる。
「一体なに?」
怪訝な顔付きになり、目を凝らし辺りを眺めた。
目を凝らし、目を凝らし、じっくりと眺めていると、人が行き交う合間に黒猫がスルスルと抜けていくのが見えた。
こんな街中に黒猫……。いや、まあ、いても可笑しくはないかしら。そう思いながらも、ふとなぜかその猫が気になった。
気付けばその後を追っている自分がいる。
人混みを掻き分け見失わないように必死に付いていく。
なぜ、そんなに必死だったのかも分からない。何だか誘われているような気がしたのかもしれない。
黒猫の後に付いて行き、気付けば街外れの寂れた店らしき建物の前にいた。
「何かしら、お店?」
見た目は洋館。蔦がびっしりと這った外壁はすでに元来の色味が分からないほどだ。
蔦の合間になにやら店名プレートらしきものが見えるが、蔦と汚れでなんと書いてあるのか分からない。
広い庭は手入れされているのか、雑草はなく、芝生が青々と茂っている。
家庭菜園のような畑らしきものと、見たことがないような花が植えられた花壇。
蔦のせいで寂れたように見えただけで、よく見ると明らかに人がきちんと手入れをしているのだろう、ということが分かる。
「おや、お客様ですか?」
ガチャリと音を立て、洋館の扉が開いたかと思うと、中から男が現れた。
漆黒とも言えるほどの綺麗な艶のある黒髪に、金色の瞳。三十代くらいだろうか、長身でスラリとした背格好のとても美しい男だ。この世のものではないくらい、とは言い過ぎかもしれないが、しかしそれほどまでに、今まで見たこともないような美しい男だった。
金色の瞳だから外人さん、もしくはハーフの人だろうか、なんてことをぼんやり考えていると、その男はさらに声を掛けてきた。
「中へどうぞ?」
ニコリと笑った男は「客なのか?」という問いに答えない私をそのまま中へと促した。
私はなぜか逆らうことなく、店らしき建物の中へと入ってしまった。普段ならばこんな怪しい場所には足を踏み入れたりしないのだが。
中へと入ると外観とは違って寂れた感じもなく、とても綺麗な部屋だった。
男は応接間なのだろうソファへと促す。テーブルを挟み、向かいのソファに腰を下ろした男はまたおもむろに立ち上がった。
「あぁ、すいません! お茶を忘れていましたよ」
少し慌てた姿が先程までの人間離れした美しさとはかけ離れた姿で、何となく安心感を覚える。
「あの、お構いなく」
ようやく声に出した言葉がそれとは……、何とも情けない気分にもなるが、まあ仕方ない。
男はフフッと少し笑い、部屋の奥へと消えた。
男がいない間に、と周りをキョロキョロ見回すが、特に変わったものもなく……、というか、変わったものというよりも、ものがないのだ、全く。
一切飾り気がないというか、庭の花たちと比べても、室内は質素すぎやしないか、というくらいに地味で何もなかった。
薄暗い室内に、黒いソファとテーブル、壁には小さめの振り子時計。それ以外になにもない部屋だった。
男が戻って来ると、お盆からコーヒーが入れられたカップを私の前と、自分の前にと置き、腰を下ろした。
「さてと、おまたせしました。で、ご要件は?」
目の前に腰を下ろした男は言葉とは裏腹に、何となく尊大な態度に見えた。なぜだろうか。
「ご要件?」
「えぇ、この店に用があって来られたのでしょう?」
困った。用があった訳ではない。ただ黒猫を追って来ただけだ。そういえば黒猫はどこへ行ったのだ。
確かこの洋館の庭に入って行ったかと思ったのに。
黒猫を追って来ただけで用があった訳ではない。そもそもここが店だと言うことも知らなかった。今もなお、何の店かも分からない。
そう、何も分からない。なのに、なぜか口は勝手に動く。私の意思とは関係ないかのように。
「私、自由に生きてみたくて……」
なぜこんな台詞を口走ったのだろう。今まで口にしたことなどないのに。誰にも言ったことがないのに。このまま私は誰にも本心を伝えることなく一生を過ごすのだと思っていた。
なのに今、なぜか見ず知らずの男に向かって、心の奥底にずっと抱えていた想いを口にした。
私の家は所謂旧家と呼ばれるような古い家で、良くも悪くも長い歴史を守り抜いてきた家だった。
家では跡継ぎ問題やら、許嫁やらが当たり前に存在した。
私には弟がいたため、跡継ぎに問題はなかったが、生まれたときから当然のように許嫁がいた。
それを気にしたことはなかった。なぜならそれが生まれたときから当たり前だったから。
でも何となく、本当にただ何となく、これで良いのかと思ってしまったのだ。
両親も弟も優しい家族だ。許嫁も優しい人だ。だから不満などないのだ。
ただ決められた人生だというだけで。しかしそのことが酷く歪に感じてしまった。
一度だけ家族にその疑問をぶつけたことがあった。
家族は意味が分からないといった顔をしていた。何が不満なのか、私自身がよく分かっていないのに、それは家族も答えられないよね、と苦笑したものだ。
私の人生はなんなのだろう。
私は何がしたいんだろう。
逃げ出したいのに逃げ出せない。
行動したいのに動けない。
私は一体どうしたいの……。
「貴女の願い、叶えましょう」
不敵に笑った男は手を差し出した。なぜか私は抵抗することも出来ず、その手を取った。
「対価は貴女の人生です」
私の人生? どういうことかしら、とぼんやり考えてはいたが、手を引かれるままに男の腕の中へと導かれたのだった…………。
「貴女とはもう婚約を解消させていただきます」
許嫁からそう宣言された。
「お前は我が家の恥だ」
父親からそう言われた。
「貴女にはほとほと呆れたわ。この家から出ていきなさい」
母親からそう言われた。
「もう貴女は僕の姉さんじゃない」
弟からそう言われた。
これは一体……どういうこと!?
さっきまで私はあの美形で怪しい男とあの店にいたはず。
なのに今自分の家にいる。そして家族と許嫁から罵られている。
何なの一体!?
『貴女の願い、叶えましょう』
あの男の台詞を思い出した。
願い? 私の願い……。
私の願いは自由になりたかった。
そう、今まさに自由を与えられようとしている。家から追い出されるという形で。
これは私が望んだことかしら……。確かに自由を望んだわ。でもこれは予想していなかった。
でも……、そうか、自由を得るということは、何かを犠牲にするということ。
私は優しい家族と優しい許嫁を失うということなのね。
私が自由になりたいということはそういうこと。
今さらそのことに気付いた。
涙が零れそうになったが、それは違うとなんとか堪えた。私は私のわがままでこの家から逃げ出したかったのだから。
もう後悔しても遅いのだ。私は私の人生を歩まねばならないのだから。
「対価は貴女の人生。それは貴女がこの先に得るであろう幸せな人生。それが対価」
男は意味深な笑みを浮かべ呟いた。
「しかし彼女は清々しい顔をされていますねぇ、残念」
男はクスッと笑い、チリンと鈴の音と共に消えた。
その男は悪魔なのか天使なのか 樹結理(きゆり) @ki-yu-ri
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます