七話

 頬に何か触れたような気がして、メティエは目を覚ました。ぼやけた視界にはいつも見る天井ではなく、薄明るい灰色と、暗い緑色があった。次第に辺りが鮮明になると、それが曇った空と大きな木々だとわかった。仰向けに寝るメティエに向かって、空からはしとしとと小雨が降り注いでくる。その雨が木の葉に溜まり、雫となってまた落ちてくる。どうやら頬に触れたのは、その雫の一つだったらしい。手で頬に触れると、冷たい感触がした。雫だけの冷たさではない。肌も冷たかった。そう感じると、途端に全身が寒く感じ始めた。当然だ。メティエは今、小雨に打たれているのだ。そこで寝ぼけていた頭はようやく気付いた。ここは部屋ではなく、外なのだと。


 おかしな状況に、メティエの鼓動は速くなる。頭だけをめぐらし、周囲を確認する。左の方を見ると、遠くの奥まで木々が並んで立っている。地面は雑草に埋まり、水滴をまとって寒々しい。次に右側を見ようと首をゆっくり動かした時、それはすぐに目に飛び込んできた。緑の木々を背景に、まるで影のようにそれは立っていた。真っ黒なマントに、真っ黒なフードを目深にかぶった人間。顔はフードの影になってよく見えない。どこか遠くを眺め、しきりに周りを気にしている様子だった。


 その時、メティエが見ていることに気付いた黒い人物は、一瞬驚くような仕草を見せたが、すぐに懐を探ると、マントの間から銀色に光る短剣を突き出した。


「はっ……!」


 メティエは反射的に上体を起こし、思わず小さな声を上げた。ついた手のひらに冷たい草と土の感触が伝わる。全身の隅々が恐怖で固まった。動こうにも動けない。目は黒い人物の見えない顔を凝視していた。


 短剣を握った人物は、しばらくメティエと対峙していたが、おもむろに一歩近付いてきた。固まって動けないメティエは上体だけを反らし、相手から離れようとする。それが体を動かせる限界だった。頭上では何も知らない鳥の声が響く。だがメティエの耳には自分の息遣いしか聞こえてこない。雨に降られていることも、森の中にいることも、今のメティエの感覚は除外していた。ただ、目の前の黒い人物だけに神経を研ぎ澄ませていた。


 睨み合い続けて一分と経っていなかったが、メティエにはもう五分以上経っているような気がしていた。相手は一言もしゃべらず、表情もうかがえない。思考が読み取れず、ただただ不気味な存在として恐ろしかった。右手に握った短剣は、雨の雫に濡れて輝きを増している。それがいつ自分の体を貫くのか、そう想像しそうになって、メティエは意識を外に向けた。


 短剣から視線を外そうとした時、メティエはふと気付いた。短い時間だったが、刃がわずかに震えていたのだ。その振動でついた雫が地面に落ちていく。見間違いかと思ったが、再び刃は震えた。雨が降って寒くはあっても、この春の時季、凍えるほどではない。ではなぜ震えているのだろうか。メティエは短剣を握る右手を注視する。肌が白くなるほど力強く握られた右手は、絶対に短剣を放さないという意志を伝えてくる。だがその一方で、時折小刻みに震え出し、それを止めてもまた震えることを繰り返す。一切表情の見えない人物で、唯一見つけ出せた感情はこれだけだった。メティエは推察する。もしかして、この黒い人物は、私を殺すことに恐怖を抱いているのでは? ためらっているのでは?


 そんなメティエの心の声が、目を通して伝わってしまったのかもしれない。黒い人物の右手はこれまでよりもさらに大きく震え出した。自制できなくなった震えを左手が押さえる。やや治まった震えだったが、まだ完全には止まっていない。一瞬、黒い人物がメティエを見た。フードに隠れていた目がちらりと見えた。乱れた前髪の向こうに、暗く曇った光をたたえる丸い瞳があった。その直後、両手で短剣を握り直したと思うと、突如としてそれを振り上げた。メティエは息を止め、手で顔をかばいながら目を瞑った。頭の中は真っ白だった。何かを考える余裕すらなかった。すぐに来る激痛を待ち、目を瞑り続ける。


 しかし、激痛どころか何の感触も来なかった。どうしてだろうという疑問に、メティエは薄く目を開いた。そこに見えたのは、両手で短剣を振り上げたまま、手を震えさせている黒い人物だった。やっぱり、ためらっているんだ――メティエがそう確信した時だった。


「――さまああ」


 遠くから誰かの声が聞こえてきた。


「――姫様ああ」


 どうやら誰かがメティエを捜しにきてくれたようだ。声は徐々に近付いてくる。


 メティエは声がする方と、黒い人物とを交互に見た。黒い人物は明らかに焦っていて、振り上げていた短剣を下ろすと、辺りをせわしなく見始め、次にメティエから離れるように後ずさると、踵を返して一目散に森の奥へ消えていってしまった。


 命拾いをしたメティエは一気に緊張が解け、冷たい地面に仰向けで倒れた。小雨はまだ降り続けている。全身を濡らす雨が、今は何とも心地よかった。


「姫様ああ!」


 かなり声が近い。メティエは地面に寝たまま大声で呼んだ。


「私はここよ!」


 しばらくの静寂の後、近付いてくる大勢の足音が聞こえてきた。声は届いたようだ。捜しにきてくれたのはフォルトナの兵士達だった。最初に現れた兵士は、メティエが倒れている姿に顔面蒼白で駆け寄ってきたが、何の異常もないとわかり、他の兵士達と共にメティエを街道まで導き、そこから馬でセグラン城へ戻った。


 メティエが城に戻ると、城内は至る所で兵士が行き交い、慌ただしい雰囲気になっていた。だが、メティエの姿を見つけると、皆安堵の表情を見せ、どこかへ報告に向かっていく。中にはメティエに近寄り、泣き出しそうな顔で無事を確認する者もいた。


「メティエ……ああ、よかった、メティエ!」


 正門の奥にある大廊下を歩いていると、前から両手を広げてシファルが走ってきた。


「あ、心配をかけてご――」


 メティエが言葉を言い終わらないうちに、シファルは強くメティエを抱き締めた。


「愛しいメティエ、無事でよかった。もう会えないのではと、僕は――」


 メティエはシファルの胸に押しつけられながら、顔が真っ赤になりそうな愛の言葉をしばらく聞かされ続けた。横目で周囲にいる兵士達を見ると、皆聞こえないふりのように無表情でいる。王子と王女の前で笑うわけにもいかず、それは当然の態度なのだが、メティエにはそのほうが恥ずかしく感じられ、どうせなら大声で笑ってほしいと思った。


 シファルの腕の力が緩み、ようやくメティエは解放された。うつむくメティエの顔をシファルは心配そうにのぞき込む。


「体が濡れてしまっている……顔が赤いけれど、熱は出ていない?」


 そう言ってシファルはメティエの額に手を当てる。これはシファルのせいで赤いのだとは言えず、メティエは額の手をつかんで丁寧に下ろす。すると、そのつかんだ手の甲が少し濡れているのに気付いた。見ると、シファルの着ている上着にはうっすらと水滴がついている。


「なんで、あなたまで濡れてるの?」


 これにシファルは不思議そうな目を向ける。


「なんでって、当然じゃないか。メティエ、君を捜していたのだから」


 メティエは目を丸くした。


「あなたが、直接?」


「愛する人が消えてしまったんだ。いても立ってもいられないだろう?」


 シファルはにこりと笑う。そこには純粋な心が表れていた。


 地位のある者は、人捜しなどは部下や兵士に任せるのが常で、王子自ら動くことなどメティエは聞いたことがなかった。たとえそれが婚約者であっても、自分は城でじっと待つのが普通であった。だが、シファルは違った。雨が降っていても、その中へメティエを捜しに飛び出していったのだ。そこには慣習に流されない、王子ではなく、ただの男としているシファルが見えた。メティエはその顔を見つめる。不思議と心が柔らかくほぐれるような気がした。


「さあ、体が冷えてしまうよ。部屋へ戻ろう」


 そう言いながら、シファルは自分の上着を脱ぐと、ついた水滴を払い落し、メティエの肩にそっと着せた。固くごわごわした着心地だったが、残っていたシファルのぬくもりは気持ちを暖かくさせた。


「……姫様!」


 部屋へ戻ると、リリアとミアンが抱きつきそうな勢いでメティエの元に駆け寄ってきた。


「お怪我などは、ありませんか? 何かお辛い目などには遭っておりませんか?」


「だ、大丈夫だから、二人とも、もうちょっと下がって……」


「はっ、こ、これは失礼を……では姫様、とりあえずこちらへ」


 リリアとミアンはソファにメティエを座らせる。


「王子はこちらへ――」


「いや、僕は父上にご報告してくるよ。メティエ、また後でね」


「あ、待って。この上着を……」


 メティエは部屋を出ようとするシファルを追って、着ていた上着を手渡した。


「えっと……ありがとう」


 小さく礼を言うと、シファルはどういたしましてと返し、部屋を出た。


 ソファに引き返そうとしたメティエの目に、侍女二人の深刻な表情が飛び込んできた。重苦しい空気の中、メティエは一応聞いてみた。


「今回は、二人の仕業、じゃないわよね……?」


 リリアとミアンはメティエを見つめながら、首を横に振る。当たり前だ。メティエは黒ずくめの犯人を見ているのだ。これは話が長くなると感じ、メティエは両手で腕をさすりながら言った。


「あの、まずはお風呂に入っても、いい?」


「そ、そうでした。すでに用意はできております。参りましょう」


 リリアとミアンは急ぎ足でメティエを風呂に案内する。約一時間、風呂で温まったメティエは、綺麗なドレスに着替え、髪を整え、部屋へ戻る。


「姫様」


 扉に手をかけようとした時、部屋の前に立つ護衛兵の一人がメティエを呼び止めた。


「先ほど、セグロブ国王陛下がおいでになられ、お部屋にお通ししております」


「陛下が?」


 メティエは急いで部屋に入った。すると、居間の椅子に国王が、その横にシファルが立ち、何か雑談を交わしていた。


「……おお、姫」


 メティエの姿を見ると、国王は足早に近付き、自分の胸に手を当てて言った。


「本当に申し訳なかった」


 突然謝られて、メティエは当惑した。


「あの、なぜ陛下が謝られるのですか?」


「こちらの警備が足りなかったのだ。だから姫を危険にさらしてしまった。城内だというのに、これは完全なる我らの不手際としか言えぬ。ナシェルクに、一体何と詫びればいいのか……」


 眉を寄せ、国王は天井を仰ぐ。


「陛下、あまり責任を感じないでください。こうして私は元気なのですから。それに、今年の警備はフォルトナからの兵を多く使っています。責任なら私達にもあります」


「姫……そなたは優しい心を持っておるな。だが、それに甘えることは許されぬ。姫を預かった以上、我らには守る義務があるのだ」


 国王はメティエをソファへ促し、自分も椅子に座る。


「思い出したくないとは思うが、より強固な警備のために、詳細を話してはくれぬか」


 国王、そしてシファルの真剣なまなざしがメティエに注がれる。緊張しそうな気持ちを和らげようと、背後に待機するリリアとミアンに振り返った。目が合うと二人は小さくうなずいてみせた。メティエはソファに座り直し、国王の顔を見据えて話し始めた。


「……昨日の夜は、王子と長く話していて、その後、遅い夕食を食べました。侍女の二人とは別れ、部屋には私一人で戻ったところに、また王子が訪ねてきて、一緒に珍しい花を見ようと誘われました」


 国王がシファルに目で聞く。


「メティエの言う通りです。一晩しか咲かない花だったので、できることならメティエにも見せてあげたいと思ったのですが、顔を見せたメティエはかなり眠そうな様子で……」


「昨晩は本当に眠たくて、花も見たかったのですが、眠気が勝ってしまって。あれほど眠くなったのは初めてかもしれません。自分でも不思議なくらい……」


 思い返せば本当に不思議だった。その日はシファルの話を聞き続けていただけで、外で動き回るようなことは何一つしていなかった。ただ退屈に過ごしただけで、あそこまで眠くなるものなのかと、メティエには疑問だった。


「姫様、よろしいでしょうか」


 リリアが後ろから呼んだ。


「どうしたの?」


「今の姫様のお話を聞きまして、実は、私共も同じように、強い眠気に襲われたことをお話ししたくて」


 国王の片眉が上がる。


「侍女にも、同じことが?」


 リリアはミアンと顔を見合わせてから話した。


「はい。昨晩、私共は姫様の後に夕食を取り、この部屋へ戻りました。その時の姫様はすでにベッドの上で横になり、眠ろうとしておりましたが、お着替えを済ませていないことに気付き、私共は寝巻を取りに衣裳部屋へ向かおうとしたのですが、その時に二人揃って強烈な眠気に襲われ、衣裳部屋にたどり着いた時点で、情けないことに……力尽きてしまいました」


「じゃあ、二人は衣裳部屋で一晩眠っていたの?」


「申し訳ありません……」


 侍女二人は恥ずかしそうに顔を伏せた。メティエはやはりおかしいと感じた。自分と同じ時間に、同じ強い眠気が襲うなど、偶然とは思えない。それに、仕事は最後までやりきるリリアが、眠気に負けて寝込んでしまうことなど、過去に一度としてなかった。これに関しては、何か意図的なものを感じる――そう思うメティエに、国王は一つの答えを出してくれた。


「おそらく、夕食に薬を混ぜられたのだろう」


 メティエを始め、皆の目が驚きで見開いた。


「そうとしか思えぬ。料理に眠りを引き起こす薬が入れられていたのだ」


 信じられなかったが、メティエはそうかもしれないとも思えた。あの強烈な眠気は自然に起こったものとは考えにくい。それが薬によるものだとしたら、自分とリリア達が同時間に眠くなったのも説明ができる。


「父上、もしそうなのだとすれば、その犯人は城内にいるということになりますが」


 これに国王は当然という顔で答えた。


「城内にいるのだろう」


 一瞬、部屋の中が静寂に包まれた。


 シファルは少し動揺した口調で言う。


「シアリーズの者が、まさか、メティエの身を狙っていると……?」


「わからないわ」


 言ったのはメティエだった。


「シアリーズの方達とは限らない。城内にはフォルトナの人間もいるわ」


 メティエの脳裏には、狩りの場で起きたあの事件がよみがえっていた。


「……実は私、犯人の姿を見たの」


「なんと!」


 国王は思わず声を上げる。


「して、その顔は?」


 メティエは首を振った。


「フードに隠れていて、残念ながら。全身黒ずくめで、声も発しなかったので、男か女かもわかりませんでした。ただ、短剣で私を刺そうとした時、なぜか躊躇していました。なぜか……」


 黒ずくめの犯人――これはリリア達が見た犯人と同じ特徴だ。だが、以前の暗殺未遂事件にはあった強い殺意が、今回の犯人には欠けている。その場には二人きり、殺すには持って来いの状況だった。しかもメティエは怯えて動けなかった。それなのに犯人は短剣を振り下ろせず逃げてしまった。それは以前の犯人とは違うように思えた。実行犯が変わったのか、それとも、人数が増えたのか。メティエにはまだ犯人の実体が見えずにいた。


「……メティエ? どうかしたのかい?」


 一人考え込んでいたメティエは、シファルに呼ばれて顔を上げた。


「え? 何?」


「何か考える表情をしていたから、思い当たるようなことがあるのかと」


「何もないわ。何もない……」


 暗い顔で答えるメティエを、シファルはじっと見つめる。


「ほ、本当よ。私も何もわからないの」


「……そう。わかったよ」


 国王は唸り、腕を組む。


「姫が助かったのは喜ばしいことだが、その犯人の行動は理解できぬな。命を奪うつもりだったのか、そうではなかったのか――まあ、いずれも犯人を捜し出せばはっきりすることだ。まずは料理に薬が入れられたことを証明するため、城内の者の証言を集める。そこから犯人をあぶり出そうぞ」


 勢いよく立ちあがった国王は、意気軒高にシファルを連れて部屋を後にした。


 国王の指示は瞬く間に伝わり、証言集めはすぐさま始まった。


 まずはフォルトナの人間から聞き取りが始まり、メティエの料理を作った料理人や、その周囲の者達に重点的に話を聞き込んだ。すると、そこで出た証言は、やはり皆食事後に強い眠気に襲われたということだった。フォルトナの料理人は、城内にとどまるフォルトナの者にだけ料理を出している。念のためシアリーズの人間に聞いても、眠気はなかったと全員が答えた。つまり、犯人はフォルトナの厨房に出入りできる人物と思われた。


 この厨房は、メティエの料理も作る場所ということで、毒などを混入させないために二十四時間兵士が代わる代わる見張りをしていた。シアリーズの人間が来たとしても、厨房の中には入ることはできない。この事実は国王とシファルを一安心させたが、メティエには身内を疑わざるを得ない苦しさを与えた。


 状況から真っ先に疑われたのは、やはり料理人だった。五人の料理人は調理工程を事細かに聞かれ、厨房への出入りの様子なども素直に話していた。しかし、意外なことに疑われるこの五人も、食後に眠気に襲われたと証言したのだ。嘘の可能性もあったが、料理人の一人と同部屋の小間使いが、かなり眠そうな様子の料理人を目撃していたことを証言し、料理人犯人説は宙に浮く形になってしまった。


 そうなると、城内にいるフォルトナの人間はほぼ全員容疑者になり得た。旅先ということで、メティエ以外の者は皆、料理を厨房まで取りに入っていたのだ。その時間はほんの一分足らずかもしれないが、薬を鍋に入れるのに十秒も必要はない。犯人はメティエのすぐ側にいる可能性が高い――国王とシファルはそう考えていた。

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