六話

 メティエは馬車の中で揺られながら、小さな窓に頬杖をつき、流れる景色を眺めていた。だが、その目はどんよりと疲れ切っている。


「……あっ、姫様、ようやくセグラン城が見えてまいりましたよ」


 向かいに座っているリリアが、外を見ながら明るく言った。メティエは鈍い動きで窓から城を確かめる。曲がりくねった道のかなり先に、緑の中から高い尖塔がいくつも突き出しているのが見えた。それを見て、メティエは安心したように椅子の背もたれに寄りかかった。


「毎年のことだけど、こればかりはやっぱり耐えられないわ」


 並んで座るリリアとミアンは苦笑する。


 これというのは、シアリーズへたどり着く長い道のりのことで、馬車に乗り続けること一週間もかかってしまう。もちろん通りかかる町や村で休憩や宿泊もするが、ある区間では何の施設もなく、どうしても一泊野宿をしなければならない。これがさらに体力を奪い、シアリーズにたどり着く頃には、メティエもお付きの者達も皆へとへとな状態になってしまうのが常だった。


「でも、あの広大な自然や花々を見ると、そんなことも忘れちゃうんだから不思議よね」


「本当に。疲れを癒してくれる景色など、他にはないでしょうね」


 メティエとリリアはすでに絶景へと思いを馳せていた。


「ところでミアン、馬車酔いは平気?」


「は、はい。今日は大分……」


 ミアンは少し青白い顔で微笑んだ。


「フォルトナを出発した直後は、まるで重病人みたいな顔だったから心配したわ」


「昨年よりもひどいんじゃないかしら? ミアンが口を押さえるたびに止まって、なかなか進まないものだから、近くにいた兵士があくびしていたわよ」


「本当に、申し訳ありません……」


 けらけらと笑う二人に、ミアンは肩をすぼめ、うなだれる。


「落ち込むことはないわよ。仕方ないことなんだから。……リリア、ミアンには日頃から何か乗り物に乗せたほうがいいんじゃない?」


「そうですね。毎年これでは皆様に迷惑がかかってしまいますし、何か考えたほうがいいかもしれません」


「それは、私も助かります。とても」


 ミアンが弱々しく喜んだ時、馬車がゆっくり止まった。


「……セグラン城までは、もう少しあるようですが」


 外を見ると、城へはまだ到着していない。すると、一行の先頭からシファル王子が歩いてきた。


「どうかいたしましたか?」


 リリアが窓から聞くと、シファルはにこにこと答えた。


「城まではもう少しですが、よければここから歩いて行きませんか? ずっと馬車に揺られ、体がなまっているでしょう」


「……どういたしますか、姫様」


 何十時間も馬車に乗り、確かに体はなまり切っていた。城までは長い距離でもなく、メティエは外に出ることにした。


 シファルは馬車の扉を開け、手を差し出す。メティエはその手をつかみ、馬車を降りた。


「ようこそ、シアリーズ王国へ。メティエ、歓迎するよ」


 そう言うと、シファルはメティエの手に口づけをした。こういう挨拶には小さい頃から慣れているつもりのメティエだったが、初めてシファルから受け、なぜか気恥かしい面持ちになるメティエだった。


「では、僕が城まで案内するよ」


 するとシファルは、左腕をメティエに向けた。一瞬わからなかったメティエだが、これは腕を組もうという合図なのだと気付き、ぎこちなくもメティエは右手でシファルの腕をつかんだ。他人とこれほど密着したことのないメティエは、緊張でどうも動きが固くなる。それを見てシファルが言う。


「メティエ、無理をすることはないよ。歩きづらいのなら手を離しても構わないから」


「……本当? じゃあ離すわ」


 あっさり腕を離れたメティエに、シファルは明らかに残念な顔を浮かべた。


「……ところで、出発した時から気になっていたのだけれど、今年はやけに人数が多くないかい?」


 言われてメティエは周囲を振り返る。並んで歩く二人の周りには、騎士団から選ばれた精鋭の護衛兵が目を光らせている。その側をリリアとミアンが歩き、さらに後ろには数十人の兵が列を組んで歩き、さっきまで乗っていた馬車、荷物を積んだ馬車、料理人に雑用係、小間使いに風呂係、そしてまた兵が連なる――改めて見ても、これは多い。一方、王子側の兵を見ると、たった八人しかいない。余計に多さが際立つ。命を狙われているから仕方ないと言えればいいのだが、そのことはリリア達同様、口止めされているメティエなので、特に気にもしない様子で答えた。


「そう? 私はそんなふうに思わないけど」


 普通を装うメティエに、シファルは気を使うように返した。


「メティエがそう言うのなら、僕の考えすぎ、なのかな。おかしなことを聞いてすまなかったよ」


 気を取り直すように、シファルは前方を指差した。


「ほら、メティエ、あの並木を見て」


 言われたほうを見ると、道の両側に並んで立ついくつもの高い木々が目に入った。その枝には薄い桃色の花が満開に咲き誇っていた。


「わあ、すごい! でも去年あんな花、見てないような……」


「メティエは毎年、ここは馬車で通過してしまうから。あの並木は毎年美しい花を咲かせるんだよ」


 満開の花に感心しながら、メティエはもったいないことをしていたと感じた。


「さあ、もっと近くで見よう。さらに美しさを感じられるよ」


 シファルとメティエは一緒に並木へ歩いていく。


「……綺麗……花の天井だわ」


 並木の中から頭上を見上げたメティエは感嘆の声を上げた。空に向かって伸びた枝は道に覆いかぶさるように広がり、それが向かいの木の枝と重なって、まるで花で飾り付けた長いアーチのようだった。隙間から見える太陽の光が眩しく輝き、歩くときらきらと光って、それは宝石をちりばめたような豪華な美しさにも見えた。


「気に入ったかい?」


「もちろん! なんでもっと早く教えてくれなかったの?」


「そうだね。早く教えてあげればよかったよ」


 二人でじっと花を眺めていると、緩やかな風が吹いてきた。満開の花が踊るように揺れると、数枚の花びらが舞い落ちる。それと共にかぐわしい花の香りが漂った。


「いい香り。ねえ――」


 シファルに向くと、メティエはその前髪に目が止まった。


「……なんだい?」


「前髪に花びらが……」


 言ってメティエはその花びらをつまんだ。その瞬間、シファルと目が合った。黒い瞳で微笑むシファルに、メティエは咄嗟にどうしていいのかわからず、ただ急いでつまんだ手を引っ込めるだけだった。


「ありがとう、メティエ」


「い、いえ……」


 至近距離で見たシファルの瞳が焼きつき、メティエの鼓動はなぜだか早くなっていた。


 その後もシファルに案内されながら周りの自然を眺めつつ、ようやくシファルの住まう城、セグラン城に到着した。この城はメティエの住むクーディエンテ城よりも高さがあり、さらに物見のための塔が多く配置されている。これは四方を森に囲まれて視界が悪いため、遠くまで見通せるようにこういう城になった。普通なら森を切り開いてしまいそうなものだが、そうするよりも城を変えてしまうところに、代々のシアリーズ国王の自然への愛を感じられる。


 門番に敬礼をされながら城門をくぐり、城の中へと入る。その人数の多さに、たまたま通りかかった兵士は目を丸くして見送る。


「……全員、面倒見られる?」


 さすがに心配に思い、メティエは聞いてみた。


「大丈夫。僕がどうにかするよ。ただ、全員を客人扱いはできないと思うけど……」


 この人数すべてを城に泊まらせることは当然無理だとメティエもわかっていた。大半の者は町で寝泊まりすることになりそうだった。


「ここからはメティエは僕と一緒に。父上に挨拶しなければいけないからね。他の方々は別の者が案内するから、それに従ってほしい」


 すると、脇から二人の兵士が現れた。案内人だ。兵士はずらっと並ぶフォルトナの者達に声をかけ、てきぱきと引き連れていく。


「我々は姫様のお側を離れるわけにはまいりません。ご一緒させていただきます」


 後ろで控えていた騎士団の護衛兵が言った。


「私共も、できれば姫様のお側に……」


 リリアがうかがうように言った。


「侍女の二人はいいでしょう。護衛はこっちの兵が受け持つから、君達は――」


「お言葉ですが王子、我々は両陛下直々に命をいただいております。その命に背くような行動はいたしかねます」


 代表して言う護衛兵の目は、鋭くシファルを見据える。


「背くようなって、そこまでのことではないだろう。少し――」


「少しでも何でも、我々は姫様のお側から離れることはできません」


 頑固な態度に、シファルも困ってメティエに助けを求める。さすが精鋭というだけあって、意志もかなり強いとメティエは思いつつ言った。


「……私の護衛は、こっちに任せて」


 この一言で、シファルは渋々了承し、待機させていた王子側の護衛兵に、手で下がるよう合図を送った。


「昨年はこちらに任せてくれたのに、今日はどうしてだい?」


 以前と違う対応に、シファルは困惑して聞いた。メティエはそれらしい理由を考える。


「えっと……ほら、今回は母様が来てないでしょ? 母様ってああ見えて心配性だから、今回は特に皆に強く言い聞かせてるんじゃないかな」


「なるほど……妃殿下のお気持ちでしたか。それでは仕方ありませんね」


 まったくの嘘でもない理由だが、これにシファルは納得してくれたようだった。


 メティエ達は広々とした長い廊下を突き進み、これまた長い階段を上る。その先に国王との謁見の間がある。


「あなた達はここで待って」


 メティエは護衛兵と侍女二人に言った。国王の前にまで兵士を連れて行くことはさすがに失礼になる。


「さあ、どうぞ」


 シファルが言うと、二人の衛兵が大きな扉をゆっくり開いた。シファルの後をメティエはついていく。この謁見の間では、祝日に舞踏会が行われるほどで、その広さはすさまじい。端から端まで駆け抜けたら、間違いなく息切れで倒れてしまうだろう。メティエはここに入るたびに、この圧倒的な空間に驚かずにはいられなかった。


 入り口の正面には中庭の見える大きな窓が並び、太陽の日がさんさんと降り注いでいる。左へ向かうと、石の床に敷かれた青い絨毯を挟むように、屈強な兵士達がメティエを迎える。そんな間をひた歩くと、ようやく目的の国王の姿が見えてきた。


「おお、姫!」


 二段ほど高い場所に置かれた玉座に座っていた、シアリーズ国王セグロブは、メティエが来るのを待ちきれないとでもいうように、玉座から離れ、自らメティエに近付いていく。


 メティエは膝を折り、頭を下げた。


「陛下、今年もお目にかかれたこと、嬉しく存じます」


「そんな堅苦しい挨拶はよいと、毎年言っているではないか。早く頭を上げよ」


 メティエは上目遣いで国王を見る。


「でも、一応形式的に……」


「いらぬいらぬ。さあ早く」


「そうですか? じゃあ……」


 メティエは頭を上げ、立ち上がる。


「よく来てくれた。待っておったぞ」


 そう言って国王はメティエを抱き締めた。


「陛下、ちょっと、苦しいです」


「父上! メティエが苦しがっております」


「おお、すまなかった。いや、幼い頃から見てきておるものだから、姫が我が子のように思えてな」


「私も、陛下はまるで伯父のような感覚があります」


「そうか。だが今後は、伯父ではなく義父になるのだがな。はっはっはっ」


 国王は豪快に笑い声を上げた。


 セグロブ国王は、メティエの父ナシェルクより一歳年上だが、見た目も内面もナシェルクより若々しい。性格も快活で、メティエとは以前からよく気が合っていた。数年前、王妃を亡くし、その時はさすがのセグロブも明るい性格を消してしまっていたが、一年後には元に戻り、皆にいつもの笑顔を見せてくれた。その後は新たな妃も取らず、こうして今に至っている。


「ところで、そなたの母上はどういたした? お姿が見えぬが」


「母様は何か忙しいらしくて、今回は来られませんでした」


「そうなのか。それは残念だ。フォルトナのお話を聞くのを楽しみにしておったのだが、また来年ということか」


「ごめんなさい……」


 代わりにメティエが謝ると、国王は慌てて首を振る。


「いやいや、姫が頭を下げる必要はない。それは致し方ないこと。病などでなくてよかった」


「父上、メティエの部屋は用意できておりますか」


「とうにできておる。いつもの部屋を用意させた。……姫、長旅で疲れておるだろう。ゆっくりと休みなさい」


「ありがとうございます」


「では行こう、メティエ」


 メティエはもう一度国王に頭を下げ、シファルと共に謁見の間を出た。


 護衛兵と侍女を引き連れ、シファルが案内したのは、城の三階にある広い部屋だった。謁見の間にはさすがにかなわないが、それでも百人くらいは優に入れる広さはある。ここはシアリーズに来ると必ずメティエが泊まる部屋で、幼い頃にここからの景色を気に入ってから、セグロブ国王が毎年用意してくれる部屋だった。まず入り口に面しているのは、ソファや机の周りを、花と絵画で豪華に飾った居間で、そこから左へ向かうと、一人では余ってしまうほど大きなベッドの置かれた寝室。反対の右へ向かうと、大小の洋服ダンスに化粧台の並ぶ衣裳部屋となっている。そこにはすでにメティエのドレスをトランクから移し替える衣裳係がせっせと働いていた。


 部屋に入ったメティエは、まず居間の窓に近寄った。そこは出窓になっており、腰をかけると暖かい陽光に包まれながら、眼下の自然を見下ろせる。続いてメティエは寝室へと向かう。ここの窓は居間ほど光が入らなかったが、かなり遠くまで見渡せた。手前には色とりどりの花をつけた木々が点在し、その先には銀色に輝く川が流れ、さらに先は波打つように丘が重なり、地平線まで眺めることができる。これがメティエのお気に入りの景色だった。


「今年の景色はどうだい? メティエ」


 横に並んだシファルが聞いた。


「変わらず綺麗……あの地平線の先、どうなってるんだろう。見てみたいなあ」


「僕もこの目で見たことはないけれど、きっと海があるんだろう」


「海か。巨大な湖みたいだって聞いたことはあるけど、どれほど大きいんだろう」


 シファルは地平線をじっと見つめながら言う。


「想像以上に大きいと聞くよ。僕も一目見てみたいものだ。その時はメティエ、僕と一緒に見に――」


 ふと横を見ると、すでにメティエはいなかった。


「王子、姫様はお先にお食事を取らせていただきます」


 残っていたリリアが言った。


「え? 食事って、こっちの用意はまだ――」


「今回は、料理人や食材はこちらで用意しておりますので」


 これにシファルは驚かずにいられなかった。


「料理人を? どういうことだ? 食事はいつもこっちに任せてもらっているじゃないか。まさか、メティエがここの料理を不味いと――」


「とんでもございません。こちらで作ってくださるお料理はどれも素晴らしいお味です」


「ではなぜ? これまでそんなことは一度もなかったじゃないか」


 少し考え、リリアは言った。


「……これも、王妃様のご意向かと」


 そう言われてしまうと、シファルにはもう言い返す言葉がなく、若干の不審を抱きながら、大人しく帰るしかなかった。


 メティエとの食事ができず、がっかりしたシファルだったが、翌日にはいつも通りの笑顔を見せてメティエの部屋にやってきた。


「おはようメティエ! さあ、絶景を見に出かけよう」


 シファルの声が響いたのは、日が昇って間もない時間だった。


「王子、お出かけになるには、少々お早いのでは?」


 声を聞いたリリアが、衣裳部屋から走ってきた。


「メティエはまだ着替え中か?」


「はい。朝食もまだお済みではありません」


「僕はもう済ませたよ。……メティエ、まだかい?」


 返事は返ってこない。


「しばらくお時間がかかると思いますので、何かお飲み物でも――」


 シファルは手で制した。


「結構。すぐに出かけるから」


「あの、ですから……」


 言いかけてリリアは諦めた。王子の頭は今、メティエのことしか受け付けていない。自分の言葉はおそらく聞こえていないだろうと察した。


 それからシファルは長い間、居間をうろつきながらメティエが現れるのを待っていた。そのメティエはドレスを着せてもらった後、髪を結い上げ、化粧をし、ようやく身支度を終えて居間に現れた。シファルが来てから三十分が経っていた。


「……おお、メティエ。なんて美しいんだ!」


 シファルはメティエを見るや否や、途端に笑顔に変わりほめちぎった。


「その髪飾りは黒曜石かい? 金の細工と共にメティエの髪の色とよく合っているよ。あとドレスも、いつもと雰囲気が違って、どこか大人っぽく感じるね」


「……やっぱり?」


 メティエは自分の体を見下ろしてみる。夕暮れ時のような淡い赤色をしたドレスは、体の線を強調するようにメティエの胸や腕にぴったりとついている。腰から下は緩やかに広がり、裾へ向けて金の刺繍が施されている。今日は外出するということで、普段着ている膨らみのあるドレスではなく、動きやすい細身のドレスを勧められ、そのまま着てみたメティエだったが、どうもデザインに納得がいかなかった。


「なんか、全体的に落ち着きすぎというか、どこかの婦人が夜会にでも出かける感じのドレスじゃない?」


「そんなことはないさ。メティエの美しさを存分に引き立てるドレスだと思うよ。胸元も、その、とても魅力的だし」


 シファルは照れるように言った。メティエの胸元には髪飾りと揃いのネックレスが輝いていたが、その下には大きく開いた白い肌が見えている。メティエ自身、肌を見せるドレスを着たのはこれが初めてで、首から胸にかけてスースーする感覚に気恥ずかしさを感じていた。


「……やっぱり着替える」


 衣裳部屋へ引き返そうとするメティエを、ミアンが慌てて押さえる。


「ひ、姫様、せっかくお召しになられたのですから、そんなことはおっしゃらずに……」


「だって、このドレス、私には――」


「姫様、一体王子をどれほどお待たせになるおつもりなのですか?」


 リリアが厳しく言う。王子が勝手に早く来たのが悪いと言い返したかったメティエだが、リリアの怒りに触れないためには大人しく従うしかなかった。


「わかったわよ。これで行く」


「用意はできた。では、メティエ、一緒に――」


「申し訳ございませんが、王子」


 リリアが王子の言葉をさえぎる。


「……なんだ?」


「姫様は朝食をお召し上がりになりますので、またしばらくお待ちしていただくことになるのですが……」


 シファルは言葉が出なかった。その間にメティエ達は食事の用意された部屋へと移動していく。リリアは内心、だから早いと言ったのにと思いつつ、気を使って一応聞いてみた。


「あの、よろしければ、王子も姫様とご一緒にお食事をなさいますか?」


 一瞬うなずきそうになったシファルだったが、すぐに考え、やはり首を振った。


「僕は朝食を食べてしまったからね。それは遠慮するよ。でも――」


 シファルはリリアを見据える。


「メティエの食事を眺めていてもいいかな」


 リリアは言葉に詰まった。メティエが嫌がることだと思ったのだ。だが、王子の頼みを断ることもできず、リリアはメティエのぶすっとした顔を思い浮かべながら了承してしまった。案の定、メティエの食事は進まず、その後の馬車の中でもメティエは無愛想なままだった。


「一体どうしたんだい? メティエ」


 同じ馬車に乗るシファルが顔をのぞき込むように聞いた。メティエは窓の外に顔をそむけ、無視をする。


 困り果てたシファルは低い声で真剣に聞いた。


「お願いだメティエ。君が機嫌を損ねている理由を知りたい。教えてくれないか。僕は馬鹿だから、見当がさっぱりつかないんだ」


 メティエは横目でじろりと見る。


「私は朝食の良し悪しで、その日の気分が決まるの。それなのに王子はまるで私を美術品のように鑑賞して……あれじゃ料理の味なんか感じられないわ」


 メティエは不機嫌極まりない口調で言う。


「それは……申し訳ない。ただ僕は美しいメティエを少しでも長く見ていたかっただけなんだ。朝食の邪魔をするつもりはなかった。それはわかってほしい。それと――」


 シファルは一息置いてから言った。


「僕のことは王子ではなく、シファルと」


 もう何度も言われたことに、メティエは目だけで怒鳴りつけた。だがシファルには通じていないようで、笑みを返されるだけだった。


 その時、馬車が大きく揺れた。メティエの体は小さく浮き上がり、座席から傾いた。床に手をつきそうになった瞬間、シファルが咄嗟にメティエの両肩を支えてくれた。


「おっと……大丈夫かい?」


 聞かれてメティエは顔を上げた。するとすぐ目の前にシファルの顔があった。息のかかりそうな距離に、メティエは自分の顔が熱くなるのを感じた。


「あ、ありがとう……」


 急いで体を元に戻し、座席に座り直す。


「この辺りは道の状態がまだ悪くてね。馬車だとよく揺れるんだ」


 シファルは窓の外を眺めながら言った。その間も馬車は小さい揺れを繰り返す。


「でも、前回まではこんな揺れ、なかったと思うけど」


 これにシファルはにこりと笑った。


「今年は行き先が違うんだ。実は、僕が見つけたとっておきの場所があってね。どんなところかは行ってのお楽しみだ」


 笑顔を浮かべながら言うシファルの様子から、かなり自信のある場所のようだった。


 その後、十分ほど馬車に揺られていると、ゆっくり馬車が停車した。


「……着いたの?」


「いや、この先は馬車が通れなくてね。少しだけ歩いていくんだ。いいかい?」


 いいも何も、期待させた場所を見ずに引き返す気もなく、メティエはシファルと共に馬車を降りた。


「やっぱり、緑の香りは気持ちがいいわ」


 メティエは天を仰ぎ、深呼吸をする。晴れ渡った青い空の下には、緑の葉を茂らせた高い木々が密集して立っている。一見したところ、周囲に花の気配はなく、うっそうとした森だけしか見当たらない。


「今日は、森林浴に来たわけ?」


 皮肉っぽく聞くメティエに、シファルはまた笑顔を浮かべた。


「それほど遠くないよ。見たらきっと感動してもらえると思うから。さあ行こう」


 シファルの合図に一行は歩き出した。まず先頭はシアリーズの兵士が歩き、次に護衛兵に囲まれたメティエ、シファル、その後ろにリリア、ミアンやそれぞれの荷物持ち、そして最後尾にフォルトナの兵士が続く。


 足元は雑草や石、木の根などがあって転びやすく、メティエはシファルに手を借りながら進んでいった。五分ほど歩くと、森しか見えなかった景色が徐々に開けていった。前方には明るい光が降り注いでいる。森の出口だ。


「さあメティエ、あそこが僕の見せたかった場所だよ」


 シファルはメティエを先に行かせる。出口の光に吸い寄せられるように、メティエは一人進む。先頭を歩いていた兵士達は、森の出口で待機していた。その間をメティエは通る。ふといい香りが漂ってきた。その芳香に導かれるまま、メティエは森を抜けた。


 陽光の眩しさに目を細め、慣れたところで周囲を見た。


「これって……」


 それ以上言葉にならなかった。メティエの目の前には広大な花畑が広がっていたのだ。その広さはセグラン城の謁見の間と同等か、それ以上にも見えた。大きな花もあれば小さな花もあり、その種類も色も実に多様だ。同種で密集することなく、ほどよく散在しており、遠目から眺めると、虹の配色のようにも見える。近付いてみると、どの花も皆揃って背が低い。メティエの足首辺りまでの高さしかなかった。これは花畑というより、花の絨毯と言ったほうが似合っている。この上に勢いよく寝転がりたい衝動を抑え、メティエは花の芳香に包まれながら不機嫌だったこともすっかり忘れて感動の溜息を吐いた。


「……素晴らしいだろう?」


 シファルはメティエの横に並び言った。


「こんな場所、どうやって見つけたの?」


「偶然だったんだ。狩りをしていた時、ここへ獲物が逃げ込んでね。追って入ったところで、この場所を見つけた。その時は今ほど花は咲いていなかった。でもきっと春になれば満開の花が見られると思って。予想は的中したよ」


 シファルは満足そうに笑った。


「狩りなんてするの? 歌って踊るイメージしかなかったけど」


「僕はそんな軽いイメージなのか? うーん、少し残念だよ。これでも国王の息子だからね。馬にも乗るし、武芸の鍛錬も欠かさず行っている」


 シファルの意外な一面に、メティエは驚きと共に感心した。


「まあ、今はそんなことはいい。メティエ、もう一つの景色を見せてあげるよ。こっちへ来て」


 シファルは手招きすると、花の絨毯の上を躊躇なく歩き出した。


「こ、ここを行くの?」


「花には申し訳ないけど、ここを進まないと見られないんだ」


 メティエは足元を見つめ、できるだけ踏まないよう注意しながら、ドレスの裾を持って歩き始めた。


「ここからが一番いいかな。メティエ、ごらん」


 シファルの元に着くと、その足元は断崖絶壁だった。びっくりしたメティエは思わずシファルの腕につかまる。


「メティエ、前だよ。ほら」


 シファルの指差す方へ目を向けると、そこには巨大な滝があった。遠く離れてはいたが、その荒々しさと力強さは十分に伝わってくる。轟音と共に流れる水は、滝つぼで弾かれ霧となり、本物の虹を作り出していた。流れ出た水はうねる道に沿いながら勢いもそのままに、太く長い大河となって遥か先へ続いていく。緑の大地に刻まれた一筋の線は、その周辺の自然を大いに輝かせて、青白い地平線と交わる。


「あの滝に近付ける道はなくてね。全体を見られる場所はここしかないんだ」


 シファルの説明も上の空で、メティエは雄大な景観に見とれていた。


「なんだか、現実とは思えない景色……」


「気に入ってくれたかい?」


「もちろんよ!」


 ようやく笑顔を見せたメティエに、シファルは微笑みを浮かべて安心した。


「それはよかった。では、この美しい景色を眺めながら、お茶にでもしようか」


 シファルの合図に、控えていた給仕が荷物を広げ始める。指示された場所に敷布を広げ、ティーポットにティーカップ、作ってきた菓子などを皿に乗せ並べる。


「さあメティエ、ここにどうぞ」


 シファルは敷布の上に座り、メティエを促す。


「わあ……小さい頃に行ったピクニックを思い出すわ」


 シファルの隣に座りながら、メティエは気持ちをわくわくさせていた。脳裏には当時のピクニックの光景がよみがえる。父と母と兄、それと、まだ初々しかったリリアの姿――ふと気付くと、視界の隅でミアンと共にリリアが、離れた場所からこちらを見守っていた。


「……あの、リリア達を呼んでいいかな?」


「メティエが呼びたいのなら構わないよ」


 許しをもらい、メティエは大声で呼んだ。


「リリア、ミアン、こっちで一緒にお茶を飲みましょう」


 突然の誘いに、二人はどぎまぎしながら答えた。


「そんな、お二人のお邪魔になりますから」


「私共にはお構いなく……」


 遠慮する二人に、メティエは食い下がる。


「いいから。来て」


「いえ、私共はここで」


「ここに来てほしいの」


「お邪魔はできません」


「お願いだから」


「結構ですので」


「来てくれなきゃ、私フォルトナへ帰る!」


「ええっ!」


 驚いて声を上げたのはシファルだった。それは避けたいと願うシファルは、二人の侍女に目で懇願した。それに気付いた二人は、王子の願いでは仕方がないと、ようやくメティエの元にやってきた。


「……姫様、わがままが過ぎるのでは」


「お茶に誘ったんだから、素直に来ればいいだけじゃない。それとも、お茶が嫌いだった?」


「そうではありませんが……」


「早く、隣に座って」


 メティエは急かし、自分で二人の紅茶を入れようとする。


「お、お待ちを。お茶は私共で入れますから、姫様は王子のお相手を」


「……そう? まあ、二人が入れた紅茶のほうが美味しいからね」


 そう言って菓子を一口かじった。


 ミアンは紅茶をカップに注ぎながらリリアに小声で聞いた。


「あの、早く立ち去ったほうがいいと思うんですけど……」


 リリアはそんなことを言われなくてもわかっていた。今回王妃が来なかったのは、王子とメティエの距離を縮めるためで、今はその絶好の機会だった。自分達が入ってしまってはその邪魔になってしまう。だが、不自然に戻ってしまっては、またメティエのわがままが始まってしまうかもしれない。


「……とにかく、今はお二人のご様子を見ていましょう」


 リリアとミアンは二人の時間を作るタイミングを探り続ける。一方のメティエは、紅茶と菓子に舌鼓を打ちながら、足元に花の絨毯、目の前に遥かな大自然という贅沢な環境に、まるで天国へ来たかのような心地に浸っていた。


 そんな満足げなメティエを見て、シファルは手応えを感じ、翌日も翌々日もメティエを誘い外へ出かけた。美しい花や景色を見せてくれることに、メティエも最初は大喜びをしていたのだが、連日出かけることにだんだん疲れを感じ始めた。今日は出かけないと言っても、シファルは強引に連れ出し、王国自慢の自然を見せる。それは本当に素晴らしいものだったが、メティエとしては、疲労のない状態で眺めたかった。しかし、シファルはそんな気持ちも知らず、毎日のように疲れたメティエを誘い連れ出した。


 それが途切れたのは、空が朝から曇天模様の日だった。こんな天気ではさすがに出かける気にはならなかったようで、シファルは出かけようとは言ってこなかった。だが代わりに、貴重な本を見に来ないかとか、僕の部屋でおしゃべりしようなど、誘うことだけは欠かさなかった。これまで手紙での誘いは簡単に無視できていたが、本人が部屋までやって来ては、そう簡単に断ることもできず、メティエは渋々シファルとのおしゃべりに付き合うことになった。


「……姫様、遅くありませんか?」


 ミアンが窓際に立って言った。外はもう日が暮れている。曇っているせいでもう夜のような暗さだ。


「夕食までにお戻りになるとおっしゃっていたのに……」


 メティエは昼食を取った後、シファルの元へ向かった。すでに夕食の時間は過ぎており、ミアンは心配そうな表情を浮かべる。


「王子のお側にいるのだから、何も心配はいらないでしょう。きっと、お話が尽きないのよ。だから平気」


 リリアは楽観的だった。その時、部屋の扉が開いた。


「……ほら、噂をすれば」


 入ってきたメティエを見て、リリアとミアンは駆け寄る。


「随分と長いお話だったようですね」


 にこやかに聞くリリアに、メティエは疲れた顔を向ける。


「長いも何も、永遠に続くかと思ったわ」


 メティエはふらふらと歩き、ソファに沈み込んだ。


「……かなり、お疲れのご様子ですね」


「これまでの疲れに、追い打ちをかけてくる疲れだったわ」


「追い打ち、ですか」


「特に内容のない話が多かったから、一時間くらい聞いてから戻るって言ったんだけど、そうしたら、じゃあ最後にこの話をって言われて一時間。そろそろ戻るって言うと、また同じように一時間。もう帰るって言ってからまた一時間……私は何か修業をさせられているのかと思ったわ」


「そ、それは、大変でしたね」


「お話の誘いは、もう受けないから」


 その時、メティエの腹が小さく鳴った。


「お腹が空きましたでしょう。すでにお食事のご用意はできておりますので」


 メティエはのっそりと起き上がる。


「お腹、空いた……」


 力のない足取りで、メティエは部屋を出ていった。その後ろ姿を見送りながら、ミアンが聞いた。


「お二人の距離は、本当に縮まっているのですか?」


 自信を持って、うんとうなずきたいところだったが、あんなメティエを見てはそうもできないリリアだった。


「こちらへ来られて、姫様はできるだけ王子のお誘いに応じてきているけど、やっぱり、問題は王子の側ね。あのしつこさ――いえ、もう少し頻度をお考えになってくだされば、姫様も今ほどの抵抗感はなくされると思うのだけれど」


 王妃のたくらみは、そう上手くはいかない。二人はこの先の苦労を感じつつ、メティエの後を追って部屋を出た。


 一時間ほどで夕食を済ませたメティエは、護衛兵をともない、部屋に戻ってきた。ちなみにリリアとミアンは、メティエの後に食事を取るため、今は一緒にはいない。


 護衛兵と別れ、一人部屋に入ると、急激な眠気が襲ってきた。体の溜まった疲れに、腹が満たされたことで、全身が休息を欲しているのだとメティエは思った。しかし、寝支度をしなければまだ眠ることはできない。風呂に入り、歯を磨き、寝巻に着替える――普段ならなんてことのない習慣だが、今は面倒に思えるほど眠気は強くなる一方だった。立っているのも難しく、ソファの背もたれに手をかけた時だった。


 扉を叩く音が聞こえた。行かなければと思い、メティエは入口へ向かうが、瞼が異様に重い。視界を遮りそうになるのを懸命にこらえながら、どうにか扉を開けた。


「……やあ」


 目の前にいたのはシファルだった。おしゃべりしていた時とまったく同じ笑顔でメティエを見つめる。


「夕食はもう済んだかい?」


「………」


 メティエはあまりの眠たさに、頭の中がぼーっとしてきていた。その様子にシファルが気付く。


「なんか、眠そうな顔をしているね。今にもここで眠ってしまいそうな目だ」


 わかっているなら早く帰ってよと、内心ぼやきながら、メティエは無言で扉を閉めようとした。


「あっ……ちょ、ちょっと待って!」


 シファルは慌てて扉を押さえる。


「実はメティエに見せたい花があるんだ」


「…花?」


「夜にしか咲かない貴重な花で、それが今晩にも咲きそうなんだ。よければ僕と一緒にその瞬間を見ないかい?」


 貴重な花ならぜひ見てみたいという気持ちはあった。だが、なぜよりによってこんなに眠い日なのか。メティエは思考の止まりそうな頭で答えた。


「また……今度ね」


 メティエが閉めようとする扉を、シファルはまた押さえる。


「メ、メティエ、その花は一晩だけしか咲かないんだ。今夜しか見ることができない花なんだよ。だから――」


 必死に食い下がるシファルを、メティエは力で押しのけ、扉を閉めた。眠りたい――それしか考えられなかった。ふらふらする頭を支えながら、メティエは寝室へ向かう。大きなベッドに倒れ込むと、一気に睡魔に引き込まれた。その後、リリアとミアンが戻ってきた声を聞いたところで、メティエは完全に眠りに落ちた。

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