二話

 ナシェルク国王が治めるここ、フォルトナ王国には、古くから存在する騎士団があった。その歴史は建国初期から続いており、ざっと四百年は経っている。そのため一般兵士にとっては、歴史ある騎士団に入団することが一つの目標であり、憧れでもあった。近年は争いごともなく、騎士団の腕をふるう場もなくなり、主な任務は王家の護衛という親衛隊的役割に変わっている。


 そしてこの日、騎士団長の勇退を受け、新たな騎士団長の任命式が厳かに行われた。新団長となったのはサムリム・クスフォーという、フォルトナ王国では有名な名家の出の男性で、三十三歳という若さでの就任はこれまでになく、騎士団の歴史では最年少記録となる。家柄や年齢ばかり目立ってしまうクスフォーだが、団長に選ばれるだけの能力は当然備えており、槍や剣の腕前は申し分なく、性格も紳士的で穏和、他の団員からの信頼も厚く、満場一致で決められた。ちなみに最終決定は国王が行う。


 午前中に任命式は終わり、午後からは城内の広間で就任を祝うささやかなパーティーが開かれた。ささやかと言っても、新団長クスフォーの関係者はかなり多い。名家だけあって祝いに来る客はひっきりなしで、当初夕方には終わるはずだったパーティーは、日が沈んだ後もなお続いていた。


 王と王妃はとっくに自室へ戻っていたが、メティエは侍女らと共に、未だパーティーの真っただ中にいた。


「姫様、こちらを召し上がりませんか? とてもおいしかったですよ」


「……いい」


「あ、では、こちらのデザートなんか――」


「いらないわ」


 メティエは死んだような目で壁を見つめ続けていた。その姿に侍女の二人は困り顔を見せる。


「姫様、お願いですから、もう少し楽しそうなお顔を作っていただけませんか。せっかく素敵なドレスで着飾っておいでなのですから……」


 メティエはリリアをじろりと見る。


「こういうドレスを着たら、楽しそうにしなきゃいけないわけ?」


「また子供みたいなことを……陛下に言われたように、失礼のないよう――」


「まだ足が痛くって。もう戻っていいかしら」


「姫様! あれから一ヶ月以上経っているんですよ。傷はとっくに治っているでしょう。見え見えの言い訳はおやめください」


 リリアの怒る顔に、メティエは小さく口を尖らせた。


「ミアンも大変ね。こんなガミガミうるさい人と一緒に働いて」


「ええ、そうですね……はっ!」


 リリアの貫く視線に、ミアンは身を固まらせた。


「とにかく姫様、見た目だけでも笑顔でお願いいたします。よろしいですね?」


「そんなこと言われても、私顔に出ちゃうほうだから、引きつった笑顔しか――」


「待たせて申し訳ない。何せこの人ごみをかき分けるのが一苦労で」


 メティエの表情はうんざりと言いたげなものに変わった。すかさずリリアが小声で注意する。


「姫様!」


「……はいはい」


 仕方なくメティエは男性のほうに顔を向ける。目が合うと、男性は無邪気な笑顔を返してきた。


 この男性の名はシファル・リム・シグ・コットロイズといい、フォルトナ王国とは長年同盟を結んでいる隣国、シアリーズ王国の王子である。今から二年前、両国王によって、シファルとメティエは婚約している。が、メティエはまだそんな気になれず、シファルのうっとうしいほどの誘いにへきえきする毎日を送っていた。


 そして今日も、どこで聞きつけたのか、騎士団長の任命式という国内の式典なのに、わざわざ隣国の王子が祝いにやってくることはまずないことで、その目的が明らかにメティエであることは、メティエ本人を始め、周囲の人間も皆わかっていた。


「ん? メティエ、あまり表情がすぐれないようだけど」


 シファルはメティエの顔をのぞきこむ。


「……王子、あなたは疲れてない? シアリーズからフォルトナまで、かなりかかるでしょ?」


「王子ではなく、シファルと呼んでくださいと前にも言ったじゃないか。もう僕達は他人ではないんだよ」


 微笑む王子に、メティエはさらに疲れが増したような気がした。


「まあ、かなり速く馬を飛ばしてきたから、疲れてないと言ったら嘘だけど、でも、メティエのこの美しい姿を見れば、そんなもの少しも感じないよ」


 愛していると言わんばかりの視線がメティエに絡みつく。メティエは自然と顔をそらしていた。


 シファルは決して不器量ではい。かと言って美男とも言えないが、容姿には清潔感があり、時折見せる人懐こい表情は大半の人間に好印象を持たれるだろう。


 そもそも婚約を望んだのはシファルだった。当時十七歳だったシファルには、国内外からいくつもの縁談が舞い込んでいた。しかし、どれもシファルには気に入らず、縁談は進まなかった。そんな時、フォルトナ王国から王妃と共にメティエが物見遊山にやってきた。客人として迎えた王子はメティエを見るなり、その姿に一目惚れしてしまったのだ。メティエが帰った後、王子は父である国王に頼み込んだ。それを聞いてシアリーズ国王は、フォルトナのナシェルク国王に相談。その数日後、両国の王子、王女の婚約は成立したのだった。当然メティエは寝耳に水で、当時十六歳の頭の中に結婚という意識はまだなく、よく知らない男性と一緒にさせられることに反発を覚えながら今に至っていた。王子もそんなメティエの気持ちにわずかながら気付いており、どうにか振り向かせようと連日手紙を送ったり、何かしら理由を見つけてはこうして城へやってきたりしているのだった。こういう行為がメティエの気持ちを冷まさせていることに、残念ながら王子は今のところ気付いていない。


「さあ、どうぞ。メティエの分も持ってきたよ」


 シファルは両手に持っていた赤ワインのグラスを一つメティエに差し出した。飲み食いする気分をとうに失っているメティエは、それを断ろうと一瞬思ったが、リリアの小言がよみがえり、仕方なくグラスを受け取ることにし、手を伸ばした。


「ひ、姫様、赤ワインならこちらのお料理が合うのでは――」


 突然ミアンがシファルとメティエの間を割るように、料理の置かれた円卓に近寄った。その時、シファルの差し出すグラスがミアンの肩にぶつかった。


「あっ……」


 王子の驚く声と共に、グラスは手から滑り落ち、そのまま磨き上げられた石の床で粉々に砕け散った。ガラスの破片と赤ワインは足元に飛び散り、メティエのドレスの裾は無数の赤い染みに覆われた。


「……し、失礼をいたしました!」


 ミアンは慌てながら頭を下げる。


「気をつけてよ、ミアン」


 メティエは足元を見下ろしながら注意した。その傍らでリリアは冷静に染みの状態を確認している。


「メティエ、ではこちらのワインをどうぞ。僕はもう一つ持ってくるよ」


 シファルが残ったグラスを差し出そうとすると、横にいたリリアはそれをさえぎった。


「王子、真に申し訳ないのですが、姫様はここで下がらせていただきます」


「え、早くないか? もう少しこの美しい姿を――」


「汚れてしまったドレスを王子にお見せし続けるのは大変失礼ですので」


「それなら着替えてくればいい。僕は待っているよ」


 微笑むシファルに、リリアは言いにくそうに言う。


「実は、今夜はこのドレスしかご用意していないもので……」


 これにメティエは、リリアを不思議そうに見つめたが、口は開かなかった。


「僕はワインで汚れていようと構わないんだけどね……王女という立場もあるから、仕方ないか……わかったよ」


 シファルは実に残念そうに言う。が、次には目を輝かせて言った。


「それなら今夜、また会えないかな。国王陛下のご厚意で、今日はクーディエンテ城で休むんだ。どうだい?」


 メティエはあっさり答えた。


「私、今日はすっごく疲れてるの。だからごめんなさい」


「そうか……じゃあまた明日、出発の時にあいさつをしに行くよ」


「わかったわ。また明日に。お休みなさい王子」


「シファル、と」


 指摘に面倒くさいと思いながらも、メティエは笑顔で言う。


「……お休みなさい、シファル」


 王子の満面の笑みを確認して、メティエ達は広間を後にした。


 自室へ向かう廊下を歩きながら、メティエは先ほど感じた疑問をたずねた。


「ねえリリア、今夜着るドレスって、もう一着あったわよね?」


「はい」


 リリアは淡々と答える。


「もしかして、私のために嘘ついたの?」


 やや間があって、答えが返ってきた。


「私共も、早く休みたかったもので」


 言ってリリアは、いたずらな視線をメティエに向けた。それを見てメティエは、口を押さえながら笑った。


「ミアン、こんな面白い人と働けてよかったわね」


「あ、はい……」


 ミアンはぎこちなく笑った。


 すると、前方から誰かが歩いてくるのが見えた。黒を基調にした制服に、白いマントをなびかせて颯爽と歩いている。


「……クスフォー新団長だ」


 メティエが気付くと、クスフォーも同じく気付いたようで、足早に近付いてくると、膝を折り、丁寧に挨拶をした。


「これは姫様、お休みでございますか」


「ええ。あなたのパーティーに出ずっぱりだったから、もう疲れちゃって」


 これにクスフォーは苦笑する。


「それは申し訳ございませんでした。すぐに終わるものと思っていたのですが、こんな時間まで続くとは、私も思ってもいませんでした」


「本当よ。おかげでほら、ドレスが赤く染まっちゃったわ。でもこれがパーティーを抜け出すいい理由になったんだけどね」


「他の方々にも迷惑がかからないうちに、お開きを言い渡してこなければ」


 わざと険しい顔をするクスフォーに、メティエは笑った。


「それがいいかも。今夜の主役はあなたなんだから。……それで、主役のあなたはなんでこんなところにいるわけ?」


「私は騎士団長に任命された身、パーティーで浮かれていようと、仕事はこなさなければいけないのです」


 品のある顔が一瞬、精悍な表情へと変わった。


「そう。やっぱり団長って忙しいものなのね。昔はよくおしゃべりする時間もあったのに」


 名家であるクスフォー家は、当然王家との仲も深く、メティエは新団長と昔から顔馴染みの関係であり、歳の離れた遊び友達でもあった。


「そうでしたね……ですが、まったく休みがないわけではありませんので。新団長としての仕事が一段落すれば、休みも貰えるでしょう。その時は――」


「おしゃべりできる?」


 目を輝かせるメティエに、クスフォーは少し驚いたように答えた。


「……姫様からそうおっしゃってもらえるとは、嬉しいかぎりです」


「話し相手と言ったら、毎日このリリアとミアンだけで、たまには違う人ともおしゃべりしたいし。お休み取れたら絶対教えてね」


「はい。真っ先に姫様にお教えいたしましょう。しかし、そこまでおっしゃっていただいているのに、おしゃべりだけでは物足りないような気もします」


「あんまり気を使わないで。私はおしゃべりだけで十分だから」


 少し考える仕草を見せて、クスフォーはあっと閃いたように口を開いた。


「狩りはどうでしょうか。姫様は弓の扱いに長けておられますし」


 弓と聞いて、メティエは久しぶりに胸がわくわくするのを感じた。


 小さい頃から、踊りや裁縫など、女性なら習うべきと言われているものを強引に教えられてきたメティエだったが、そのどれもメティエには興味が持てなかった。だがある日、王子である兄ユティウスについていった先で、夢中になれるものを見つけた。それが弓だった。城内の練習場では、遠く離れた小さな的に、皆が集中して矢を放っている。静寂の中、ただ風を切る矢の音だけが響く空間に、メティエは子供ながらかっこよさを感じたのだった。試しにと兄に渡された弓で矢を放ってから、その難しさと奥深さを知り、翌日から練習場に入り浸っては、弓の腕を磨き続けた。短期間の練習にも関わらず、その腕前はすぐに兄を追い越し、軍の弓兵長に匹敵するほどまで上達した。だが、王妃である母に、女は武芸を身につける必要はないと言われ、メティエは泣く泣く弓から遠ざかっていた。


 それから約二年、弓を手にする機会がやってきたことに、メティエは嬉しさを隠しきれなかった。母はいい顔をしないだろうけど、団長の誘いと言えば、すぐに許可してくれるはずだとメティエは勝手に考え、間髪入れずに答えた。


「行く! 絶対に行く! 誰が何と言おうと行く! 狩りか、楽しみだな……」


 にやにやするメティエだったが、ふと気付いた。


「ちょっと待って。今ってまだ冬よ。狩る動物がいないんじゃ……」


 弓を手にしても、矢を放つ的がなければメティエには意味がない。これにクスフォーは笑顔で答えた。


「暦の上では確かに冬ですが、昼間はもう春の陽気です。そうですね……一ヶ月も過ぎれば動物達も多く見られるはずかと思います」


「一ヶ月? それって、狩りは一ヶ月後って、こと?」


「ご都合が思わしくありませんか」


 もっと早くに行きたいと我がままも言えず、メティエは黙って首を横に振る。


「それならば助かります。では、一ヶ月後の休日に参りましょう」


「絶対よ、約束だからね!」


 力を込めて言うメティエに、クスフォーは微笑む。


「絶対の約束です。では失礼いたします」


 頭を下げて、クスフォーはにぎやかな広間へと向かっていく。その後ろ姿を見送りながらメティエは溜息を吐いた。


「騎士団長なんかにならなかったら、もっとたくさん遊べたのにな」


「団長就任は喜ばしいことですよ。もっとお喜びして差し上げないと」


 リリアの言葉に、内心その通りだと思った時、メティエはクスフォーにまだ祝いの言葉を送っていなかったことに気付いた。


「サムリム・クスフォー!」


 小さくなった背中にメティエは大声で呼びかけた。すると、白いマントがひるがえり、こちらに振り向いた。


「新団長就任、おめでとう! がんばってね!」


 聞こえたのか、クスフォーの右手が胸を押さえ、わずかに頭を下げた。しかし遠すぎて表情まではわからなかった。新団長は踵を返すと、足早に広間へと消えていった。

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