姫君と大事な日々

柏木椎菜

一話

 肌寒さにメティエは目を覚ました。周りはまだ真っ暗だ。夜は明けていない。それにしてもとメティエは思った。部屋の中にしては空気が冷たい。季節は冬の終わりで、当然と言えば当然の寒さなのだが、いつも感じている冷たさにしては直に肌に当たり過ぎている気がした。何かおかしい。


 メティエは寝ぼけ眼で上体を起こした。と、手に違和感があった。毎日寝ている柔らかなベッドの感触ではなく、少々固い毛羽立った何かが手に触れた。さすってみると、それは絨毯のような手触りだった。不思議に思うメティエの頭は徐々に眠気から覚めていく。


 その場でゆっくり立ち上がり、周囲を見回してみる。だが、真っ暗過ぎて何の影も見えない。いつもの部屋ではそんなことはあり得なかった。眠る時は必ず一つはランプをともして、暖かい明かりの中で寝ていた。でも今は明かりと呼べる光は何一つ見えない。まさか、自分の目が見えなくなったのだろうかと、メティエは右手を目の前に近付けてみた。暗いながらも、至近距離まで近付けると、右手の輪郭はぼんやりと浮かび上がった。どうやら目の異常ではなさそうだった。


 そうなると、メティエはこのよくわからない状況に怖さを感じ始めた。誰かに呼びかけてみることも考えたが、大声を出すことも怖かった。その誰かが善人とは限らないからだ。できれば動きたくなかったが、このまま突っ立っていても風邪をひくだけだし、おそらく誰にも見つけてもらえないだろうと思い、メティエは意を決して探索してみることにした。怯える気持ちを深呼吸で落ち着かせ、一歩を踏み出す。


「ひゃあっ」


 メティエはいきなり悲鳴を上げた。絨毯の床が続くものと思っていたのに、突然ひんやりとした固いものが足の裏に触れたのだ。早鐘のような心臓を押さえながら、メティエは恐る恐るつま先を伸ばす。ちょんと触るが、特に何の反応もない。もう少し長く触ってみると、それはごつごつと角張っていてざらざらとした表面をしていた。石に違いなかった。


 メティエはさらに踏み出してみた。絨毯から離れると、足元は石と土の感触だけだった。どうもここは屋外らしい。この暗闇ではそんなことすらわからない。道理で空気が冷たいはずだとメティエは思った。そうわかると、部屋の中ではあまり感じない緑の香りも漂っている。ということは、ここは山や森の中だろうか。耳を澄ましても水の音はしない。どうやら南にある川の近くではなそうだとメティエは考えた。だが、そうわかっても何の目印もないので、進む方向はさっぱりわからなかった。それでも自分の状況が少しわかっただけで、メティエの気持ちは前向きになれた。


 ごつごつする地面をメティエは裸足で進んでいく。寝巻のドレスの裾をたくし上げながら、足の裏の痛みをこらえ、暗闇を突き進んでいく。すると、頬に冷たいものが触れた。手で拭うとそれは水だった。メティエは思わず空を見上げる。見上げたところで星も何も見えないのだが、向けた顔には再び水滴が降ってくる。雨だった。


「最悪」


 そう呟くとメティエは足を速めた。だが痛みで思うように歩けない。さらに地面は雨に濡れ、滑りやすくなっていく。慎重に歩かざるを得なかった。


 五分もしないうちに、小雨だった雨脚は次第に激しくなっていった。風こそなかったが、大粒に変わった雨は容赦なくメティエに降り注ぐ。乱れた薄茶色の長い髪は顔や首に張り付き、着心地の良かった寝巻は雨を吸って、もはや重いだけの布切れと化していた。遠くの空からは、雷鳴の低い音が響いてくる。それがこっちに来ないことを祈りながら、メティエは懸命に前へ進んだ。この方向が正しいのかもわからなかったが、今のメティエにはこうすることしか頭になかった。


 石や木の幹に何度もつまずく。そのたびに足に痛みが走った。メティエの体力はそろそろ限界だった。他の女性に比べれば、メティエは体力に自信があったのだが、こう真っ暗では体力も普段以上に削られていく。肩で息をしながら、ただ真っすぐ、無心で進むしかなかった。


 次の瞬間、メティエの左足が空を蹴った。はっとする間もなく、メティエの体は大きく傾き、濡れた地面に沿って勢いよく滑降していった。天と地が何十回とひっくり返るのを感じながら、メティエは痛みを全身に受け続けた。それがようやくやんだ時、体は平らな地面に落ち着き、メティエはうつ伏せになりながら目が回った頭を抱えていた。


 四つん這いになって、どうにか上体を起こさせたメティエだったが、立ち上がるだけの体力はもうなく、その場にへたり込んだ。雨は相変わらず強く打ちつけていた。口の中に入った泥を顔に滴る雨と共に吐き出す。ふと横を見上げると、そこには石と雑草が覆う急斜面がそびえていた。それを見てメティエは初めて、自分がここを転げ落ちてきたのだと知った。体を見ると、濡れた寝巻には泥がびっしりとつき、小枝や葉がちりばめられたようにくっついている。髪に手をやると、雨と泥でごわごわした感触がして、それ以上は触る気になれなかった。メティエは大きく溜息を吐いた。


 とここでメティエはあれ? と思った。ここはさっきよりも周りがよく見えるのだ。どこかに明かりでもあるのかと見渡してみる。空は当然雨雲に覆われて暗い。急斜面の反対側は森のようで明かりは見当たらない。ではどこなのかとメティエは振り返ってみる。すると、目の前に高く大きな壁が立っていた。その上には煌々と灯る松明があった。それほど遠くなく、歩いて行けそうな距離だった。メティエは心の中で一安心した。と同時に、その壁に見覚えがあるような気もしていた。暗くてはっきりしないが、色や質感は毎日見ているものと近いような気がした。メティエがもしかすると、と思った時だった。


「何者だ」


 壁とは反対の方向から声がしてメティエは振り向く。そこには馬に乗った男性がいた。片手にランプを持ち、その明かりが男性の顔を浮かび上がらせている。雨よけのローブをまとった男性は二十代くらいで、その目つきは険しい。馬からは降りず、メティエに近付いてくる。


「女か。ずぶ濡れで何をしている」


「……一つ、聞いていい?」


 質問を無視され、男性は少し不快な表情を見せた。


「聞いているのはこっちだ。答えろ」


「あれって、クーディエンテ城って名称?」


 メティエは壁を指差して聞いた。男性は壁のほうをちらと見る。


「……ああ、そうだ。それがどうした」


 やっぱりと、メティエは胸を撫で下ろした。


「お前、この国の者ではないのか?」


 男性の口調に疑念が混じる。これにメティエはへたり込んだまま、心外だと言わんばかりの目で睨みつけた。


「そっちこそ、この国の人間じゃないんじゃないの?」


「何……!」


 男性の目つきがさらに険しくなる。だがメティエは構うことなく続ける。


「見たところ、あなた外を見回る兵士よね。私を見て何ともないなんて、新米の兵士なの?」


「……女、私を怒らせたいのか」


「なら、怒る前にこの顔をよく見たらどう?」


 メティエは泥だらけの顔を兵士に向ける。しかし、兵士に取り合う気はない。


「それ以上無駄口をたたくのなら、縛り上げて連行するぞ」


 メティエの眉がつり上がる。


「あなたがわからないんじゃ、そうしてもらったほうが早いわ。さ、ちゃっちゃと縛ってちょうだい」


 そう言って口をつぐむメティエを、兵士はしばらく見下ろしていたが、やがて馬から降りてきて言った。


「悪事を働いていないのなら、そう正直に言え。そうすれば連行などしない」


 兵士もメティエのことを悪人とは見ておらず、連行することをためらっていた。


「いいから、連れてってよ!」


 メティエはかたくなに言う。これに兵士は諦めたように首を振った。雨は相も変わらずひどい降り様だった。


「寒いんだから、てきぱきやってよ」


 兵士は鞍にくくりつけていた縄を取り、ぶすっとするメティエを縛っていく。


「……お前、名はなんだ」


「メティエ・ヴェレテ・タリエンテよ」


 兵士の手が止まり、その目がメティエを睨む。


「おい、その名は我が国の王女の名だ。冗談でも許されぬことだぞ!」


「冗談なんか言ってないわよ! この顔をよおく見なさいっ……」


 メティエは兵士の顔を強引につかむと、自分の目の前まで引き寄せた。


「なっ、何をする、やめろっ……」


 もがく兵士だったが、間近に迫ったメティエの顔を見た途端、まず動きが止まり、次に目を丸くし、最後に恐れおののく表情を浮かべた。


「冗談じゃないって、わかったでしょ」


 メティエが手を離すと、兵士は縛りかけた縄を慌ててほどき、数歩下がると片膝をついて頭を垂れた。


「た、大変失礼な振る舞いを……本当に、申し訳ありませんでした! 何とぞ、何とぞお許しを……」


 兵士の声はかすかに震えていた。


「顔を上げて。こんなに汚れてちゃ、すぐにわからなかったのも無理ないわ。とにかく、早く城へ戻りたいんだけど」


 これに兵士はすぐに立ち上がると、自分の雨よけのローブをメティエに着せ、そのまま馬に乗せると、自分は手綱を引いて馬と共に走り出した。体力を消耗しているメティエには、ただ馬に乗っているだけでも辛く、落馬しないようにしがみついているのがやっとだった。その様子に、兵士が励ましの声をかける。


「もう間もなく到着いたします。もう少しのご辛抱です」


 その言葉の通り、周りの景色はどんどん明るくなっていく。城壁に備えられたかがり火が辺りを照らしているのだ。城はもう目の前だった。


「おい、誰か!」


 手綱を引く兵士が走りながら誰かに呼びかける。すると、兵舎から数人の兵士が出てきた。皆、何者かを乗せた馬を見て何事かとざわめいている。


「先ほど、城の近くで姫様を保護した」


 これに兵士達は一瞬唖然とした表情を見せた。


「……姫様って、メティエ様のことか?」


「保護って、一体どういうことだよ。こんな夜中だってのに」


 兵士たちは一様に信じられない様子を見せていた。


「今はそんなことはどうでもいい。早く誰か、上に連絡してくれ。俺は姫様をお送りしてくる」


 そう言って兵士は再び手綱を引いて走り出す。


「ご苦労さま……」


 メティエは馬にしがみつきながら遠ざかる兵士達にそう言葉をかけたが、見送る兵士達はそれがまだメティエだとは信じ切れていないようだった。


 手綱を引く兵士は城壁沿いに進むと、厩の前を通り過ぎ、城の後門へとやってきた。正門よりこちらのほうがメティエの部屋に近いと考えてのことだった。


「ここを開けてくれ! 姫様がおられるのだ」


 兵士は大きく頑丈そうな門を拳で叩く。すると、内側で金属の動く音がすると、門は重そうにゆっくりと開いた。


「たった今話は聞いたが……なぜ姫様が外に?」


 門番の二人は開けたものの、その理由に戸惑っているようだった。そんな門番には目もくれず、兵士はメティエに手を差し出し、下馬の助けをする。


「歩けますか?」


「多分、ね」


 メティエは兵士の肩を借りて歩き出した。


「姫様が戻られた! 誰か、誰か!」


 兵士は広間のような廊下に声を響かせた。薄暗い中にいくつもの足音が聞こえる。おそらく先ほどの兵士達のものだろう。あちらこちらに散って伝えに行っているのだ。すると、遠くから急激に近付いてくる足音があった。ばたばたと走っているようで、慌てている様子がわかる。


「ひ、姫様!」


 見上げると、二階の廊下にメティエの侍女リリアがいた。メティエの姿を確認すると、またばたばたと階段を駆け下りてきた。


「姫様……こんなに汚れてしまって……」


 リリアはメティエの顔についた泥を拭うと、持っていたタオルで汚れを拭きだした。


「用意がいいのね。ありがと、リリア。でもそれより私、休みたいんだけど……」


「先輩、待ってくださいよお!」


 今度は頼りなげな声が聞こえてきた。階段を下りてきたのは、同じくメティエの侍女ミアンだった。駆け寄ってくるその手には、大量のタオルが見える。


「ちょっと、そんなにいっぱい持ってきてどうすんのよ!」


「だって、先輩が多めにって言ったから」


「ほどがあるでしょ、ほどが」


「ねえ、リリア……」


 メティエが侍女達の間に入ろうとした時だった。


「一体どうしたのだ、メティエ」


 二階の廊下に明るい光が現れた。数人の護衛のランプに照らされて立っていたのは、国王ナシェルクと、王妃イシェラだった。二人とも寝巻姿で、髪もぼさぼさだ。急に起こされたのだとわかる。これを見て、侍女たちは慌ててその場にひざまずく。


「それが……私にもよくわからなくて」


 王と王妃は階段を下り、メティエの前にやってきた。


「わからないって……あら、びしょ濡れじゃないの。寒かったでしょう」


 王妃は娘の頬を何度も撫で、心配そうに顔をのぞきこむ。


「雨の冷たさはこたえたわ」


「リリア、すぐに湯の用意を。これでは風邪をひいてしまうわ」


「わかりました。ただちに」


 侍女たちはタオルを抱え、駆け足で廊下の奥へ消えていった。


「その方が、メティエを見つけてくれたのか?」


 王は穏やかに尋ねた。


「はっ、あ、その……」


 肩を貸す兵士は、国王に声をかけられ、かなり緊張している。だが、それだけの緊張ではないことをメティエはわかっていた。


「彼が私を見つけてくれたの。真面目でいい仕事ぶりだったわ。お礼を言わないとね」


 メティエが笑いかけると、兵士は少し驚いたように苦笑いを浮かべた。


「そうかそうか。ではこの者の上官に伝えておかねばな」


 国王は白い口ひげをひと撫ですると、笑顔を見せた。それを見てメティエは少し不満に感じた。


「父様、あまり私のことが心配じゃなさそうね」


「ん? 何を言っておる。こうしてすぐに駆けつけたではないか」


「私、なぜか外にいたのよ。娘の身に何が起きたのか心配じゃないの?」


「もちろん心配はしておる。だが、今はこうして無事に会えたのだから、よかったではないか」


 ほっほっと能天気に笑う父に、メティエは溜息を吐くしかなかった。


「話は明日聞きましょう。メティエ、今日は湯につかってゆっくり休みなさい。あと、今晩からメティエの部屋の護衛を増員しておいて。怪しい者を見かけたらすぐに知らせるように」


 王妃は周りの護衛達にてきぱきと指示を出す。王とはえらい違いだ。


「湯へは私が連れていきます。あなたは自分の仕事へ戻ってちょうだい」


「はっ。わかりました」


 肩を貸していた兵士は、メティエを王妃に預けると、小さく会釈をして駆け足で後門へと消えていってしまった。


「……あ、このローブ、返し忘れた」


 兵士が消えてから、メティエはふと気付いた。


「助けてもらったのだから、あなたの手で返しにいきなさい。それが礼儀というものよ」


「わかってるって」


「……十八にもなって、もっと王女らしい言葉遣いができないものかしら」


 メティエは聞こえないふりをした。


「ではメティエ、また明日に話を聞こう。ではな」


 笑顔を見せながら王は護衛を連れて自室へと戻っていった。その姿を呆然と見つめるメティエに王妃は言った。


「あの方は、そういう性格なのよ。メティエもいい加減わかってあげてね」


 母様も、今の私と同じ気持ちになったことがあったのだろうかと、メティエは考えながら浴室へと向かった。


 湯を浴びてすっきりしたメティエは、慣れた自分のベッドにもぐり込むと、すぐに深い眠りへと落ちた。それだけ全身の疲労は大きかった。翌日目覚めると、体中の筋肉がきしむように痛く、足の裏も小さな傷だらけで、歩くたびにピリピリと痛かった。そんなことを考慮し、王と王妃、その他諸々の臣下らは、メティエの自室で話を聞くことになった。


だが、詳しく話したところで、メティエには特に思い当たる節はなかった。その夜も深い眠りに入り、気がつくと寒い外で寝ていたのだ。その間、特に怪しいものは見ていない。だが強いて言うならば、地面に敷いてあった絨毯だ。あれはなぜ敷いてあったのか、メティエにはわからなかった。それを聞いた王妃は、何か手掛かりになるかもしれないと、ただちにその絨毯を回収させにいった。が、メティエの教えた場所には、何か敷いてあった痕跡はあったものの、絨毯はどこにも見当たらなかった。何者かが一晩で持ち去ったのだ。それは、どこかでまだ犯人が動いているという不気味さを伝えていた。


 メティエには過剰なまでに護衛がつき、どこかへ行くにもいちいち護衛に許可をもらわなければいけない生活へと変わった。だが、メティエには三日が限界だった。王と王妃に懇願し、元の人数に戻すよう頼み込んだ。王妃は渋ったが、メティエの必死の懇願に、やむなく元に戻された。その後も平穏な毎日が続き、いつしかメティエの頭から、あの夜の出来事は薄れていった。何も起こらないという安心感に満たされ、警戒心は忘れ去られていった。


 足の傷も治り、この日メティエはあの兵士にローブを返そうと兵舎へとやってきた。数日ぶりに会った兵士の制服は、若い顔には似つかわしくない立派な作りに思えた。聞くと、兵卒から小隊長へと昇進したという。間違いなくメティエを助けた功績のおかげだった。帰り際、兵士は笑顔を作りながらも、引き締まった表情で言った。


「姫様、我々は全力で姫様をお守りいたしますが、常にお側にいることはできません。ですから、姫様ご自身も、決して油断なさらぬようお気をつけていただけますか」


 メティエはにこりと笑って言う。


「わかったわ。でも、もう大丈夫よ、きっと」

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