【夢九輝石】風
目を覚ますと、私は、犀になっていた。
目の前には青々と生い茂る草が風にふかれて美味しそうにその身を揺らしている。ゆっくりと身をかがめてそれを食むと、口の中いっぱいに自然の香りと新鮮な大地の味がした。しばらくその味を堪能していると、ふいに私は喉の渇きを覚えた。
顔を上げて鼻を動かすと、風に運ばれて微かに水の香りがした。私は、ゆっくり水場を目指して歩きだした。
辺りは静かで、私以外に大きな獣の姿や気配はない。ただ風にふかれてさらさらと揺れる草の音、小さな虫たちの鳴き声、耳を通り過ぎていく風の音だけが聞こえている。見渡す限りの草原が続き、空と大地の境目はぼやけていてよく見えない。所々に生えた低木には、鳥や小さな獣たちが枝を揺すって鳴いている。
しばらく歩いて行くと、涼やかな水の流れる音が聞こえてきた。背の高い葦が風に揺れて見える隙間から、ちらちらと光るものが見える。近づいて見ると、小川に反射した陽の光だった。
私は、前足を折って口を水に浸けた。冷たい水が喉の渇きを癒してくれる。ぴちゃぴちゃと水が撥ねる音が聞こえて顔を上げると、傍で二羽のハクセキレイが水浴びをしていた。しゅっと延びた尾羽を上下に動かして水を撥ね上げる。
世界は光に満ちていた。
突然、ハクセキレイが何かの気配に気づいたように、ぱっと飛び上がった。
私も背後から迫る気配に身を捩って様子を伺う。葦の茂みに隠れて黒い影と金色に光る二つの目がこちらを見ていた。
私は、ぱっと身を翻し、小川を跳び越え、一目散に草原を駆けた。犀は見た目の大きさから動きが遅い印象を与えるが、自動車の標準速度と同じくらいの速さで走ることができる。背後から何かが追ってくる気配がある。後ろを振り返って確認する余裕はないが、その距離が徐々に縮まっていく。
このままでは捕まってしまう。
私は、身を転じて馬になった。馬の足で大地を蹴ると、ぐんと身体が前に押し出される感覚が速くなった。景色は前から後ろへと流れていき、追手との距離が離れていくのを五感で知った。私が後ろへちらと視線をやると、黒い影が地を滑るように走っているのが見えた。
あれは何だ。
黒豹のようでもあるが違う。恐ろしく禍々しい危険な何かであることだけは確かだ。それは突然、速度を上げてこちらへ猛進してきた。
慌てて私は、速度を上げた。前だけを見て四肢を最大限に動かして前へ進む。
それでも影は追ってくる。
私は、隼になった。翼を羽ばたかせて大空へと舞い上がる。地上がどんどん遠くへ離れていき、私は黒い影が地を走って行くのを見た。空までは追ってこられまい。
黒い影が高く跳躍した。その姿が黒いツバメに変わる。
転じる能力があるということは、あれも私と同じものを持っているのか。それは、ぐんぐん距離を縮めてやってくる。自動車が高速道路を走る速度で空を行く私に悠々と追いついてくる。
このままでは捕まってしまう。
はやく、はやく、もっとはやく。
風が何かを囁いている。
目覚めて、早く……キセキを……
私は、捕まる寸前のところで翼を閉じ、地上へと急降下した。ハヤブサは降下時の速度が最も早く、その速度は新幹線をも凌ぐ。
やはり黒いツバメも後を追って降下してくるが、私には追い付けない。地面がぐんぐん近づいて目の前に迫っていた。
そして、地面にぶつかる寸前、私は蜂になった。ぐるっと身体を回転させて草むらに身を隠す。
黒いツバメは目標を見失い、しばらく空でホバリングを続けていたが、突然ぱっと止まると身体を大きく広げた。黒い影が空を覆っていく。
光を失った世界で、私の羽音だけが響いて聞こえる。このままでは閉じ込められてしまう。
私は、意を決して草むらから飛び出すと、黒い空へ向かって針を刺した。そのまま穴の外へと飛び出すと、眩しい光が目を刺した。
黒い空は、空気が抜けたように縮まっていき、黒い靄となった。
私はあらゆるものに姿を転じて逃げ続けた。
黒い影も姿を転じながら追い続けてくる。
やがて気付くと私は、肉体を失っていた。
私は、風になった。私の意識は散り散りとなり、自然に溶けた。世界と一つになったのだ。
黒い影は、嵐となって私を襲ったが、やがて雲となり雨となって地に溶け、消えていった。
否、彼の者も世界と一つになったのだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます