【夢八輝石】魔法使いの夢

 目を覚ますと、私は、高い塔の天辺にいた。

 眼下には、赤い屋根瓦の街並みが川の水面のように輝いている。地よりも空に近く、周囲を隔てる壁はない。一歩踏み出せば地上へ真っ逆さまに落ちるだろう。まるで空中に立っているかのようだ。

 はっと驚きに息を飲んだのは一瞬で、風に煽られてはためくローブが私自身のことを思い出させてくれた。


 そうだ、私は飛べる。


 ためらいはなかった。ほんの少し、尖塔を蹴りさえすれば良かった。四肢を伸ばし、身体を宙へ預けた。暖かな風が私の身体にまとわりつく。

 私は、地へ落ちることなく宙を飛んでいた。


 私は、塔の中へ入ると長い螺旋状の階段を登った。

 ここは、《魔力の塔》と呼ばれる世界で一番高い塔で、あらゆる魔法使いたちが知識と魔力を得るために登る試練の塔でもある。

 一段登る毎に見える壁には、既に私が読み尽くした知識の源が収められている。ここにある本はどれも魔力を持っていて、読み終えた者に力を与えてくれる。

 もちろん、ただ読んだだけでは何も変わらない。全てを理解した者だけがその力を手にすることができるのだ。


 私がこの世界へ来て何年の時が流れたのか、今となってはもう覚えていない。覚えていられないほどに長い時の中、私はあらゆる魔術を身に着けた。

 自身を含めあらゆる物を浮かすことができる浮遊術、火や水など自然の力を操る術、人の心を読み操る術、石ころから金剛石を作り出す術、あらゆる病を治癒する術、そして最後に得た究極の力が、異なる世界へ跳ぶ術だった。


 私は、この力を使って幾つかの異世界へ跳躍を試みた。どうやらこの世界でこの力を自由に使うことができるのは私だけのようだった。

 というのも、異世界へ飛ぶ術を身に着けた幾人かの者たちは、異世界へ飛んだまま誰一人として戻って来なかったからだ。

 それは、彼ら自身が戻ってくることを拒んだからなのか、それとも戻ってくることができなかったのかは分からない。

 ただ、私の場合、自分の意志に関係なく、ある一定の時が経つと自動的にこの世界へ戻ってきてしまうのだ。

 私がその理由に思い当たったのは、何度目だったか、ある異世界へ跳躍したことがきっかけだった。


 それは、意識体だけで構成されている世界だった。どこか夢の中にいるような景色に、足元がふわふわとする。田園風景が広がる畦道に、手を繋いで歩く二つの人影があった。一人は白髪痩躯の老父で、もう一人は老父の腰丈ほどの背をした少女だった。どちらも幸せそうな顔をしている。

 そこへ黒い犬が現れ、近づいた少女の手に噛みついた。少女は茫然と、自分の身に起きていることが理解できないようだった。

 すると今度は、犬の身体から黒い影が踊りだし、少女を包み込んだ。

 助けなくては、と思ったが、恐ろしくて動くことができなかった。

 一体、何が起こっているのだろう。


「キセキをこちらへ渡しなさい」


 突然、何もない空間に黒い服を着た男が現れた。はやく、と少女へと手を伸ばすその顔に私は見覚えがあった。

 一瞬、少女の瞳が私を捉えたような気がした。助けを求めるかのような瞳に私が答える間もなく、少女の身体は闇に飲み込まれてしまった。


 間に合わなかったか、と男が呟いたのを最後に、私は強い力によって元の世界へと引き戻された。それが私の異世界で居られるタイムリミットだった。


 戻った私は、全てを思い出していた。

 《夢輝石》を使ってこの世界へやってきたこと。

 それまでに居た元の世界でのことを。


 思い出したからと言って特段ショックは感じなかった。むしろ、これまで失われていたことが不思議なほど違和感なく私の記憶に溶け馴染んだ。私は、《夢輝石》の次元座標を固定する力のおかげでこの世界を生きることができている。


 つまり、私が異世界へ跳躍するのにタイムリミットがあるのは、《夢輝石》の座標がこの世界に固定されているからなのだろう。

 逆に言えば、《夢輝石》を持たない者が異世界へ跳躍すると、この世界へ戻って来られないということだ。


 それよりも、先ほど見た光景は一体何だったのか。あの意識体だけで構成されている世界で、あの黒い犬からは強い闇の力を感じた。私も闇の魔術を会得しているからこそわかる。おそらく闇に飲まれてしまったあの少女は、元に戻らない。


「おどろいたな」


 突然、誰もいない空間に黒衣の男が姿を現した。私のあとを追って来たのだろう。あの場所に私が居たことに気付かれていたのか。


「まさか異世界を飛ぶ力を持つ世界があるなんて、誤算だった」


 しかし、良い誤算とも言える、と黒衣の男は口の端を上げて見せた。その笑い方に私は見覚えがあった。


「あなたは【監視者】か」


 そうだ、と男は頷いた。

 《夢輝石》を装着した者は、自身の身体を冷凍睡眠させることによって半永久的に生き続けることができる。

 しかし、その肉体に何かしらの異変があれば、異世界を生きている自身にも影響を受ける。そのため、《夢輝石》を装着して眠る《夢主》の肉体を監視し続けるのが【監視者】だ。彼は、私の現世での《監視者》だった。


「協力して欲しい」


 男は、私が訳を聞くよりも先に話し始めた。

 人類は、夢輝石を使って異世界で新たな生を歩みはじめた。それ自体に問題はない筈だったが、やがて異変が起きた。

 それは、夢主の肉体が謎の死を迎えるのだという。冷凍睡眠機能に問題はなく、要因は異世界にあるのではと考えた監視者らは、調査のため夢主の異世界へと潜り込んだ。


「君も見ただろう。私たちは、あれを《悪夢》と呼んでいる。

 あの闇に飲み込まれた者は戻らない。

 やがて現世の肉体も死を迎える。双方はリンクしているからね」


 男が言うことには、どうやら異世界には、世界の均衡を保とうとする力が働くらしい。夢輝石によって異世界へやってきた夢主は、異物として排除の対象となったのだろうと。


 そんな話は聞いていない、と私は憤慨を露わにした。夢輝石を使えば、自分の望む世界で生きることができるというからこの世界で生きることを選んだのだ。

 もし、命の危険があると知っていたら、夢輝石を手にすることはなかっただろう。


 本当にそうかな、と男は首を傾げた。

 どういうことか私が問うと、君は今幸せか、と聞き返された。自分の望みが全て叶う世界。もちろん最高だ。不満などはない。


「ならば、その幸せを安全で確かなものにしたいと何故思わない」


 私は男が言わんとすることを理解した。

 つまり、そのための手助けをしろ、ということだ。

 私の心は揺れた。これまで魔力を手に入れるためにした努力の歳月を無為にするのも惜しい。

 しかし、絶対に安全だという命の保障はないではないか。


「それなら安心していい。危ない時には、現世へ戻ればいい。

 目覚める意志さえあれば簡単なことだ」


 確かにそうだ。そういうことなら危険なことなどまるでないように思えてくる。


「実を言うと、人手不足で困っている。

 監視者の数に対して夢主の数が圧倒的に多すぎる」


 そういうことなら、と差し出した私の手を男が笑顔で握り返した。


 私のやることは簡単だった。危機に陥った夢主の世界へ飛び、夢輝石を奪う。

 夢輝石を奪われた夢主は、現世で目覚める。それで彼らの命を救うことができる。

 急を要する対象者には、監視者から指示があった。指示がない時は、異世界を飛び回り、異変がないかを調査する。

 何か異変を見つけた時には、即座に夢輝石を奪えばいい。


 しかし、事はそう簡単ではなかった。ある異世界で鬼となった夢主から夢輝石を奪っても、彼が現世で目覚めることはなかった。


「やはり、本人の目覚める意志が必要なようだ」


 本来であれば、夢輝石を奪うか、夢主が現世へ戻りたいと願えば目覚めることができる。

 しかし、あまりにも長い歳月を異世界で過ごすうちに、夢主たちは現世の記憶を失っていた。夢から覚めた後、夢の内容を忘れてしまうように、現世が夢になってしまったのだ。


 そこで今度は、夢主に現世の記憶を思い出させて目覚めたいと思わせる方法を考えた。夢輝石には、このような緊急時のために【夢輝石】というキーワードを夢主に伝えることで夢主が現世を思い出す安全装置がついている。

 しかし、宇宙を漂っていた男は、現世の記憶を取り戻しても目覚めたいと思うことなく消えてしまった。


 真実を話して、夢主たちに目覚めを促すべきでは、と私は提案した。自分の行動が一人の命を左右させてしまうことに責任と恐ろしさを覚え始めていた。

 しかし男は、そんなことをすればパニックになると却下した。それに夢主の数はあまりにも膨大で、一人一人を説得している時間はない。その間にも次の犠牲者が現れるのだと。


 現世の肉体から夢輝石を外すことで目覚めさせられないのか、と私が聞くと、男は暗い顔をして首を横に振った。それこそ一番に試したのだが成功しなかったのだという。調査は暗礁に乗り上げた。


 転機となったのは、私がある異国の女王と出会った世界でのことだ。

 私は、どうにかして彼女を生かしたい一心で彼女に近づいた。これ以上、自分の手で誰かをみすみす死なせることはしたくなかった。

 彼女は、死を選択しようとしていた。

 でも、それが本心ではないことを彼女の涙が語っていた。

 彼女は、ただ幸せになりたいだけだったのだ。


 私は間違っているのだろうか、と監視者は言った。どうやらある夢主に現世で生きることを強く拒絶されたらしい。そこまで目覚めたくないと思う者たちを目覚めさせようとすること自体が間違っているのだろうか、と。


 私は、それは違うと答えた。確かに夢輝石を装着して異世界で生きることを選んだ者たちは皆、現世に何らかの不満があったからだろう。

 私自身、夢輝石を手にしたのは、退屈な現世に見切りをつけたからだった。異世界には、何か特別な、自分にしかできないものがあるのではないかと思った。


 でも、夢輝石が選べる世界は一つだけ。それではつまらない。せっかくなら、たくさんの異世界を自由に行き来したいと願った。

 しかし、多くの異世界を見るうちに異なる考えが私の中で芽生えた。


 異世界は、ただの非常駐車帯でしかないのだ。皆、本当ならば現世で幸せになりたいと願っている。

 死んでも会いたいと願うほどの愛や絆、出会いと夢を与えてくれたのは現世だ。夢主たちは決して現世を心の底から厭い憎んでいるわけではない。その証拠に、彼らの望む世界には、必ず現世への執着がある。

 本当は現世で生きたいのだ。


「私たちが本当にすべきことは、彼らが戻りたいと思える世界を創り直すことではないだろうか。私には現世で何の力も持っていない。彼らに幸せを与えることはできないかもしれない。

 それでも、誰かが幸せになろうと思える環境を整えることくらいなら、なんとかできるのではないかと思ったんだ」


 いや、そんな世界を私は創りたいと思ったのだ。生きて欲しいと私に言われて涙した女王を見た時、彼女をそこまで追い詰めたものを取り除いてやりたいと強く思った。退屈な世界なら、私が面白い世界にすれば良い。

 誰かを失って辛い世界なら、失わなくても済むような世界を、寂しくない世界を創れば良い。それはとても難しく、時間と労力がかかるだろう。

 だが、少なくとも退屈はしない。


 男が顔を上げた。その瞳にはもう迷いは見えなかった。


「私は、彼らに目覚めを」


「私は、彼らに新しい現世を」


 私たちは強く頷き合った。男は立ち去る寸前、私を振り返って言った。


「あなたは、自分のことを何も持っていないと言うけれど、それは違う。

 真実を告げても、こうして私に協力してくれる。

 君みたいな人は稀有なのだよ。君にしかできないことだ。

 君はそれをよく覚えておくといい」


 私が彼を見たのは、それが最後になった。

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