【夢七輝石】不思議な森の秘密
目を覚ますと、私は暗い森の中にいた。
見上げた空は、桃色から紫色の斑模様をしていて、黒い樹木が縁取る小さな窓のようだった。起き上がって周囲を見ても、道らしき道はなく、一面見たこともない花と木々に覆われている。
ここがどこなのか、どうして私はここに居るのか、何もわからない。ただぼうっと草木を眺めていると、茂みの中からひょっこり顔を出した生き物がいた。白い顔をしたうさぎだ。
うさぎは、辺りの様子を伺うようにきょろきょろと視線を動かしていたが、危険はないと判断したのか茂みの中からぴょんと全身を現した。
そこには白いふわふわの毛に覆われた……ではなく、赤いチョッキに包まれた白いうさぎがいた。白うさぎは懐から大きな金の懐中時計を出すと、蓋を開けて時間を確認し、驚いたように飛び上がった。
「大変、タイヘン、遅刻してしまう。急がなくては」
そう言って白うさぎが走り去っていくのを私は、ただ茫然と見送った。うさぎが喋ることもチョッキを着ていることも不思議だったが、 “遅刻”という言葉が私をその場に留まらせた。
うさぎが消えた草むらをぼうっと眺めていると、再びがさがさと草が揺れ、白いうさぎが顔を出した。赤い目がじっと私を見つめている。
「なぜ吾輩を追い掛けてこない」
「なぜあなたを追い掛けないといけないの」
「追い掛けてもらわないと困る」
「どうして困るの」
「追い掛けてもらわないと、物語が進まないではないか」
私が首を傾げると、白うさぎは草むらからぴょんと飛び出し、私の手を掴んだ。
「さあ、早く吾輩を追い掛けるのだ」
「いやっ」
反射的に手を振りほどくと、私は白うさぎが先ほど走って行った方向とは逆の方向に走り出した。
背後で白うさぎが何かを叫んでいるようだったが、何を言っているのかはわからなかった。私はただ無心で暗い森の中を走り続けた。
景色は変わらないように見えたが、時々後ろを振り向き、白うさぎが追ってきていないことを確認する。諦めたのだろうか。
後ろを気にしていた所為で足元にある木の根っこに気付くのが遅れた。咄嗟に避けようとして身体のバランスを崩し、転んだ。痛みはあったが、草が生い茂っていたお陰か大した怪我はない。
それよりも早く逃げなくては、という思いで立ち上がろうとした私の頭上から、のんびりとした声が降ってきた。
「何をそんなに急いでいるんだい」
上を見上げると、樹の枝に一匹の黒猫がいた。猫というには犬のように大きかったが、丸みを帯びた体つきは猫のものだった。長いしっぽを枝から垂らし、右耳から左耳まで届くような口で笑っている。
「何がそんなに可笑しいの」
「君が慌てて逃げているからさ」
「赤いチョッキを着た、白いうさぎから逃げているの」
「どうして、一体どこへ逃げるっていうのさ」
「わからないけど、あなたは逃げ道を知っているかしら」
「知っているけど、知らない。知らないけれど、知っている。
君は、置いて行かれることに慣れてしまっている。
でも、本当は寂しい。
終わりを恐れ、同じようにはじまりを恐れている。
逃げ道はないよ。物語は既に動き出しているからだ」
どういう意味か尋ねようとしたが、黒猫は口を挟む余地を入れず喋り続ける。
「そして、君の恐れている終わりはこない。
ここは、
黒猫は長いしっぽで一本の光る道を示した。そちらへ行けという意味だろう。
信じていいのかどうかわからなかったが、とりあえず敵意は感じなかったので、その道を進むことにした。
最後に樹の上を見上げると、黒猫の身体がすぅっと溶けて消えていくところだった。
「また会えるかしら」
「君がそう望むなら」
そして、猫は消えた。最初からそこには誰もいなかったかのように。
私は、光る道を辿り始めた。物語は既にはじまり、終わりはこない。
しばらく歩いていくと、とても賑やかな音楽と甘いお菓子の香りがした。道の先に白い小さな木戸が現れ、そこを開けると、中は広い庭園が広がっていた。大きな樹の下で白いテーブルを囲み、大きなシルクハットを被った男と、野ウサギが席に座って歌っている。
♬~三月ウサギの庭園で
いかれたお茶会 はじまるよ
ケーキにマフィン、サ~ンドウィッチ 美味しい紅茶はいかがかな
いかれ帽子屋歌いだす 眠りネズミを起こすなよ~♬
近づくと、テーブルの上には、たくさんのケーキとお菓子、軽食が並んでいる。たった二人だけで食べるには多すぎる量だ。
「やぁ、お客さんだ。こちらへお座り。
一緒にお茶を飲もう。甘いお菓子もあるよ」
私に気付いた帽子屋が近くにあった椅子へ座るよう促し、空のカップに紅茶を注いでくれた。
「やぁ、すっかり冷めてしまっているな。入れ直さなければ」
「ありがとう。とっても美味しそう。
ところで、眠りネズミって誰のこと」
帽子屋は口の前で人差し指を立てて見せると、テーブルの上に乗った掌大のシュガーポットに目をやった。
「やつの歌はひどく退屈だって女王様が怒ってね。
それ以来、ここの時間は止まってしまった。
そんな歌は、君だって聞きたくないだろう」
帽子屋が懐中時計を取り出して中身を見せてくれた。時計のガラスは割れ、針はぴくりとも動かない。
「眠りネズミは、歌わずにはいられない。狂った帽子屋と同じようにね」
「狂っているのはお前の方だ、三月うさぎ。
なんて言ったって、三月のうさぎは手が付けられないからな」
私は、今は三月ではないからそれほど狂っていないのでは、と思ったが、口には出さないでおいた。ここでは時が止まっているのだから正確な月もわからない。
「ところで君は、この謎の答えを知っているかな。
知っていたら教えて欲しい。今まで誰も解いたことがない謎なんだ」
私は嬉しくなって、どんな謎なの、と聞いた。少なくとも謎解きで退屈することはない。
「はじまりはあるけれど、終わりはない。
終わりはあるけれど、はじまりはない。
でも、誰にもそれを止めることはできない」
私は、しばらく考えていたが、さじを投げた。
「そんなのおかしいわ。答えなんて、ないじゃない」
「そうさ。だから誰も解いたことがない謎だって言っただろう」
帽子屋は、私を席から立たせるとあしらうように手を振った。わからないのなら用はない、ということだろう。
私はむっとして庭園を出た。音程の外れた歌声を後ろに聞きながら森の道を進む。光る道は、来た時とは違う方へと延びていた。
途中、水煙草を燻らせた青虫や、踊る双子の兄弟、赤ん坊を抱いた侯爵夫人に出会ったが、誰もが皆一様に狂っていた。
むしろ狂っているのは、自分の方かもしれない。
そんなことを考えながら歩いて行くと、やがて森が終わり、明るい場所に出た。そこには美しい庭園が広がり、見上げた先には大きな西洋のお城が聳え立っている。私が差し掛かった場所は、お城の前庭のようだった。
そこではトランプの兵隊たちが忙しげに動き回っていた。片手に赤いペンキ缶を下げ、刷毛を使って垣根に咲いている白い薔薇を赤く塗っている。
「どうして白い薔薇を赤く塗っているの」
「女王様は赤がお好きなのだ。
それなのに間違って白い薔薇を植えてしまった。
もし、このことが女王様に知られたら、首をはねられてしまう」
いくら何でもそんなことくらいで首をはねたりしないだろう、と言うと、トランプ兵たちは、こぞって首を横に振った。
「女王様は、首をはねるのが大好きなのさ。
あの人の顔のことを誰が言ったか、いや、口にはしなくても目立つ、あの大きな顔を見て笑っただけで首をはねられたやつがいたなぁ。
スペードのジャックだったか」
「いや、クローバーのセブンだろう」
怯えるトランプ兵たちがあまりにも可哀想だったので、私もペンキ缶を持って手伝うことにした。
すると突然、耳を割くような音と共にチョッキを着た白うさぎが現れた。音は、白うさぎが吹いているトランペットから出ているのだった。
「女王陛下のおな~り~」
トランプ兵たちが慌てて左右に立ち並び、その間をハートのドレスを着た女王様が堂々とした足取りで歩いてくる。近づいてくると、彼女の異様さがすぐに見てとれた。確かに口にしなくても目立つ、大きな頭をしている。私は必死で笑いを堪えて下を向いた。
「一体誰が白い薔薇なんてものを私の庭に植えたんだい」
こいつです、と一斉にトランプ兵たちが指さしたのは、なんと私だった。
女王様が恐ろしい目つきをして私を睨みつける。
「ちがう、私じゃないわ。今、ここへ来たばかりなのよ」
首をはねなさい、と言う女王様に、後ろから小さな王様が顔を出して言った。
「まだほんの子供ではないか。許しておやり」
「子供は平気で嘘をつく。私はそんな子供が大嫌いなのさ」
平気で嘘をつくのは大人のほうだ、と私は思ったが余計ややこしくなりそうなので黙っておいた。
「では、こうしてはどうだろう。あれだ、あれ。
……そう、裁判にかけてみては。あれの前では誰も嘘をつけまい。
そこで全てが明らかになる」
そんなものは時間の無駄さ、と言う女王様にそっと近づく黒い人影があった。
「女王陛下たるもの、皆に公平でなければ。
……お前は、それを望むか」
最後の問いが私に向けられたものであることに気付くまで少し時間がかかった。
黒い燕尾服を着た長身の男が女王様のすぐ隣に立っている。
こんな人いたかしらと不思議に思ったが、女王様を含み誰も驚いていないので私が気付かなかっただけだろう。
私が頷くと、男は私に向かって笑みを見せた。優しい目をしている。
どこかで見たことがあるような、と私が遠い記憶を探っているうちに、あっと言う間に裁判の支度が整った。
裁判は、城の中にある広い講堂で行われた。白うさぎが粛々とはじまりの言葉を述べる。壇上に立たされた私には、まるで終わりの足音を聞いているようだった。
いつの間に集まったのか聴衆席は満員で、ざわざわと騒ぐ彼らを、静粛に、と白うさぎが木槌を机に叩きつけて鎮めた。判事は王様が務めるようだ。
第一の証人をここへ、と呼ばれて現れたのは、大きな破れかけのシルクハットを被った帽子屋だった。
私のことを知っているか、と聞かれて紅茶を片手に頷いてみせた。
「ええ、存じておりますとも。
確か、三月のことだったか、五月だったか。
何せ、このとおり時計が壊れておりますので。
ちょうど三六二杯目の紅茶を飲んでいる時でしたかな」
「それでは全くわからんではないか」
次、と呼ばれて現れたのは、三月うさぎ。
しかし、これも狂っているので話にならない。
眠りネズミは、眠っていたので私を見ていないと言い、双子の兄弟に至っては、片方が見たと言い、もう片方は見ていないと言う。
トランプ兵はもちろん味方などしてくれない。
じわじわと周囲から寄せられる疑惑の視線が私の首を絞めつける。息苦しさの中ふと頭に浮かんだのは、樹の上から私を見下ろす黒猫の言葉だった。
しびれを切らした女王様が首をおはね、と叫ぶのを横から燕尾服を着た黒い男が遮る。
「君が助かる方法は一つだけ。それは、
謎を解け、ということだろうか。謎と言って思いつくのは、お茶会で帽子屋が言っていた謎くらいだが、あれに答えはない筈だ。わからない。
でも、この謎に答えられなければ、首をはねられて、終わる。
私は、その時はっと気付いた。
「はじまりはあるけれど、終わりはない。それは、死ぬってこと。
終わりはあるけれど、はじまりはない。それは、生きるってことね」
「でも、誰にもそれを止めることはできない」
男は正解だと言わんばかりに笑顔を見せた。男の試すような目が、君はどちらを選ぶ、と問っている。
その様子を傍で見ていた女王様が恐ろしい形相で私を睨みつける。視線だけで人を殺せそうだ。
私は恐怖で身体がすくんだ。身体が動かない。
答えられないでいる私の頬を涙が零れていく。答えられる筈がない。生きることは、私にとって死ぬことと同じことだ。
男がはっと目を見開いた。自分の過ちに気付いたかのように。
でも、理由がわからない、と言うように首を横に振る。
「どうして君たちは……君たちにとって、
生きるということは、そんなに辛いことなのか。苦しいことなのか」
死を選ぶほどに。私は首を傾げた。
「どうして生きなきゃいけないの。
辛い想いをするくらいなら、私は生まれてなんてこなければ良かったと思うわ」
首切り人が私に近づき、大きな鎌を振り上げる。その後ろで満足そうに微笑む女王様の顔が見えた。
なぜ、私を産んだの、母さん……。
笑う聴衆の中、音程の外れた歌が聞こえる。歌っているのは、いかれ帽子屋だろうか、それとも眠りねずみだろうか。
狂っているのはこの世界か。それとも、私………
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