【夢二輝石】帰り道
目を覚ますと、真っ黒な空にぽっかりと浮かぶ白い月が見えた。四角く切り取られたその絵は、どうやら窓の外にある景色らしい。というのも、俺は、今はじめて自分が電車の中にいるということに気付いたからだ。
がたん、ごとん、と揺れる電車の振動が深い眠りへと誘ってくれていたらしい。まだぼんやりとしていた俺の耳に、次に降りるべき駅名のアナウンスが届いた。
駅を出ると、ひんやり冷たい空気が眠気を覚ましてくれた。携帯を見ると、妻から夕飯の写真が送られてきていた。今晩は、ビーフシチューだ。
まだ幼い娘が起きて待っていてくれると思うと、自然と頬がゆるんだ。軽く早足で家路を急ぐ。辺りは住宅街だが遅い時間だからか明かりのついている家はひとつもない。暗い夜道を電灯の明かりだけがぽつりぽつりと照らしている。
しばらく静かな住宅街を歩いていると、坂道にさしかかった。片側は崖になっており、白いガードレールで遮られている。私はいつもここで足を止めると、ガードレール越しに広がる景色を眺める。
そこには、黒い空の下に星の海が広がっていた。
ここから見える景色が好きで、この町に住むことを決めたのだ。会社からは遠くなるが、閑静な住宅街で治安も良く、子育てをするのにも最適な場所。娘がもう少し大きくなったら、ここから見える夜の景色も見せてやりたい。
それは、ただ美しいというだけでなく、どことなく懐かさを感じる、胸の奥にある手の届かない場所を誰かにくすぐられるような感覚。
そうだ、昔住んでいた家の近所にあった景色と似ているのだ。今はもう誰も住んでいない家をいつまでも維持していくことはできず、人に売ってしまったので思い出すこともなかった。
それでも、心のどこかがそれを覚えていて求めていたのかもしれない。無意識に似たような景色を追い求めていることに自分でも驚きを隠せないでいる。
暗い空に浮かぶ白い月は、どこから見ても同じなのに、やけに遠いところまで来たな、ということだけがはっきりとわかる。
だが、私の帰る場所は、ここにある。
錆びついた郷愁の念に別れを告げ、私は家路を急ぐことにした。
そして一歩を踏み出した途端、ぐにゃりと足元が歪んだ。いや、揺れているのだ。
どくん、と心臓が音を立てて冷や汗が背筋を伝う。思い出してはいけない。開けてはいけないパンドラの箱がすぐ目の前にあった。
大地が悲痛な叫び声をあげているようだった。私は耐えられず耳を塞いでその場にしゃがみこんだ。大地はその身に植え付けられた鉄の楔を振り払おうとするように身を震わせ、私は必死に振り落とされまいとしがみ付いた。
しばらくして揺れが収まると、私はそっと立ち上がった。大地は眠りについたようだが、まだ私の頭は揺れていた。定まらない頭の中で、警鐘が鳴っている。
妻は、娘は、家は、どうなっただろう。
私は逸る気持ちを抑えきれず走り出した。
しかし、どういうことだろう。いくら走っても、いくら道を変えて曲がっても、また元の坂道へと戻ってきてしまう。
落ち着けと自分に言い聞かす。深呼吸をして今度はゆっくり歩いて家路を辿る。
しかし結局、元の坂道へ戻ってきてしまった。先ほどの揺れで私の頭がどうかなってしまったのだろうか。まるで私の家がどこかへ消えてなくなってしまったかのようだ。
突然、ぱちんと私の頭の中で音がして、何かが弾けた。
私の家は、どこにあった。
その時、どこからか大きな轟音が聞こえてきた。腹の底から響いてくるような低音で、ガードレールの向こう側から聞こえてくるようだ。
見てはいけない、見たらもう戻れなくなる。私の中でもう一人の自分が警告している。
それでも私は恐る恐る首を回してそちらを見た。空はいつの間にか明るくなり、崖下にあった筈の星の海は光を失っていた。まるで誰もいない廃墟のような街並みに、灰色の影が落ちる。水平線の向こうから黒く波打つ影が顔を覗かせていた。影は、見る見るうちに大きくなり、空を覆うように広がっていく。
それは、大きな黒い怪物だった。
怪物は、世界を食べ尽くそうと大きな口を開けて近づいてくる。その陰が男の顔に掛かった時、男は自分に帰る場所がないことを思い出した。
ふいに沸いた感情は、絶望と悲しみではなく。激しい怒りだった。
怪物の触手が男の頭を掴んだ瞬間、男は素手でそれを掴んだ。渾身の力を込めて投げ飛ばす。男の手は人間のものではなく、赤く熟れた果実のように膨れ上がり、身体は鋼よりも固く、頭からは二本の角が生えていた。
男は鬼になっていた。
怪物が鬼に向かって次から次へと触手を伸ばす。鬼は、その全てを払いのける。自分から全てを奪っていった怪物を鬼は決して許さない。鬼が腹の底から咆哮を上げ、怪物へと拳を振り上げる。
怪物と鬼は戦いながらやがて一つとなった。
世界は暗闇に閉ざされ、音もない。やがて闇の中心に鬼の姿が浮かび上がる。
鬼は、ひとりぼっちで月を見上げていた。
そこへ一匹の白い猫が近寄ってきた。猫は、鬼にすり寄ると、愛らしい声で鳴いた。
「お前も一人なのか」
鬼が猫を拾い上げる。柔らかな毛並みが鬼の心の奥底に眠っていた、僅かに残った人間の欠片に触れた。鬼の目から涙がこぼれた。涙は、小さな小さな光る石になった。
あっという間に猫がそれを咥えて、鬼の手から抜け出す。
猫が振り向いた時、鬼は跡形もなく消えていた。
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