たた、つ、たた
安芸ひさ乃
本編
たた、つ、たた。
雨の滴が屋根瓦を伝って石の窪みで音を奏でる。
たた、つ、たた。
(この音は何処でも同じ様に聴こえるのか)
たた、つ、たた。
白い掌を差せば、その首がしっとりと濡れた。
***
お江戸の大店たる材木商、紀伊野屋の御新造さんは、先頃嫁いで来たばかりの初々しい少女であった。けれど。
「暇じゃな」
きっちりかっちり座り込んで言う様は、随分凛とした勝ち気な形である。
然もありなん、この少女は家柄卑しからぬ武家の血を引いた、つい先まで屋敷の奥でひっそりと育てられていた宝物であった。
一歩も屋敷から出ずに成長したというのに、いきなり決められた結婚は心定まる間もなくとんとん拍子に進んでしまい、結果、慣れぬ屋敷の奥で暇に溢れる羽目となっている。
「はあ」
琴を爪弾く気にもならぬ。というより、暇ではあったが何をしていたらよいのかわからぬ、というのが本音であった。
匂いに慣れぬ、と少女は思う。暮らす場の香りそのものが今までの屋敷とは全く違っていて、寝ても覚めても心が休まらぬのだ。別に元の屋敷が心休まる空間であった、というものでもないのだが。
とはいえ、少女は既に嫁いだ身である。この屋敷を終の住処とするより他になく、しんと静まった奥の間で一人背を伸ばして外を眺めるのみだ。
其処に、ぴんと一本筋の通った様な、胸のすく様な声が朗々と響いた。
「ひろ。ひろ、居るかイ」
まるで猫の子を追う様に奥の間に入って来たのは、
「此処に居る。わたくしが何処へ行けると言うのじゃ、藤衛門」
「はは、そうさなア。俺の嫁は出不精でならん」
少女の夫、紀伊野屋藤衛門貞吉である。
藤衛門は少女は元より、周囲の人垣からも頭一つも二つも余分にひょろ長い、滅多に見ぬ程の大男だ。それに見合うだけの横幅もあるから尚の事質が悪い。「彼所の旦那様が一人居るだけで用心棒なぞ要らんわい」と評される様な有り様である。然し其処は商売人、一度笑んでみればこれ程懐こい男もなく、図体で避けられるどころか御贔屓さんが増える始末。紀伊野屋は大店である元来の名声とその質、そしてこの男自身で成り立っているとも言えよう。
さて、そんな大店の若旦那が侍身分の御姫様を姫御料に貰えたのは、つまりは金の力というものである。紀伊野屋から金子の都合を常日頃受けている立場のとある武家が、借金の形とこれからの融通を考慮して己の娘を差し出して来たというのが事の真相だ。
相手が身分卑しからぬ武家であるとて、紀伊野屋としてはそれを撥ねる事も勿論出来た。それ程の大店であるのに、何故この縁談を受けたのやら噸とわからぬというのが世間の評である。
閑話休題。にこにこと笑んで奥の間に入って来た藤衛門は、己の手元の袱紗をひろと呼んだ少女の眼前で広げた。と、転がり出るのは饅頭やら餅やら、つまり甘味の数々である。
「何じゃ、わたくしに肥えろと言うのか」
「お前さんはすこぉしばっかし肥えた方がいいかも知れんよ」
俺は木の棒より餅の方が好みじゃ。からからと下世話な事を言い、藤衛門は餅を手に取ると顔を顰めている少女に手渡した。少女の掌は真白い餅にも並ぶ程、白粉も叩かぬというのに透ける様である。
「佐吉屋の隠居さんが長の湯治から帰って来たとかで、俺に婚礼祝いと一緒に土産を持って来たんじゃ。祝いの品は夜に見ようやないか。先ずは細けェモンな」
少女は手渡された餅を矯めつ眇めつ、そうしてからむちりと口に入れた。元より甘いその餅は何も入らずとも充分で、少女の目許は我知らず緩む。
藤衛門はそれを見届けると、何を言うでもなくさっさと奥の間を後にした。藤衛門はきっちりとした大店の若旦那だ。こんなところで油を売っていられる程、暇ではない。
(では、暇に飽くわたくしは何じゃろうな。こんなものでよいのじゃろうか)
思いつつ、少女はもぐもぐと口を動かした。
少女はとある武家の妾の子、名を
嘉は元より生まれる定めではなかった。
嘉の父が偶々に手を出した行儀見習いの生んだ娘、それが嘉である。しかも生まれたのは武家の御屋敷や、囲われていた先でもない。嘉の母は御手付きがわかった瞬間に追い出されており、しかも数月妊娠もわからずにいて、つまり嘉は誰に望まれていた訳でもなかった。生まざるを得なかった、それが嘉の母の言い分だ。
生まれた瞬間、否それ以前より、嘉はどうなるやらわからぬ身であった。父の身が身とはいえ捨てられた女の子、行儀見習いに出せる程度の家柄の娘の生む父無し子。間引かれるか捨てられるか、何が待つやらわからぬ身を拾ったのは父本人である。
「女であるなら使い様はある」
そう正直に述べて、父たる男は嘉母子に屋敷を一つ、宛てがった。嘉の母は後ろ盾が付いた事に喜んで、悠々自適に暮らし出した。嘉の世話をしたのは同じく宛てがわれた乳母である。
嘉は生まれる定めでも、育てられる定めでもなかった。だから母は言う。
「お前は旦那様に拾われたのや。故に『ひろ』。努々忘れてはならん」
拾われた子。それを忘れるな。
何度も何度も繰り返されたそれを嫌という程覚え尽くし、そうして成長した嘉は突然嫁に出された。父たる男が思い描いた通り、為になる男の元に嫁いだのだ。
そうして後、嘉はどうしたらいいのかまるで知らない。
今までの人生を、嘉は父の用意した匣の中で過ごして来た。乳母は手を掛けてくれたが、母はまるで他人であった。何が夫婦であるのか、そんな見本さえありはせず、また何をどう過ごせという指針すらない。
嘉は惑うしかない。嘉は男というものを知らぬ。父という勝手な他人と、視線を合わせもせぬ母方の祖父とかいう存在くらいしか、嘉は知らないのである。
嘉はつまり、まるで生き人形の様に嫁いで来た。葉桜が音を立てる、晴天の善き日であった。
「ほぅ、馬子にも衣装じゃなぁ」
祝言の夜半、きっちり敷かれた布団の上、何やらわからぬままに座り込んでいた嘉の耳に届いたのは、そんな気安い言葉だ。
母は商人の子であったし同じくなかなか勝ち気な性分で、元来の言葉遣いはあまり綺麗な方でなかった。が、場所を弁える事が出来た様だし、何より然して気に掛けられた覚えもない。男という存在はたったの二人知るきりであるが、父は上からの端的な物言いしかせぬし、祖父の口が開いているところは見た事がない。よって、嘉は男が喋るこんな緩い口の聞き方を耳にした事はなく、物珍しさからじっとその男を見つめた。
「何じゃ、そうしていると別嬪というよりか可愛らしいな」
近付いて来たのは本日夫婦となったところの、所謂夫である筈の男だった。彼を見て嘉が何より強く思ったのは、(まるで大木の様じゃ)というそれだけであって、顔形も何も全て二の次である。
「どうした、気ィでも張ったか」
喋りもせぬ嘉に不審を覚えたか、男は徐に嘉の肩に手を当てた。随分と大きな掌で、嘉の小さく薄い肩は瞬間、すっぽりと包まれてしまう。その様が何とも異様で、嘉の肩は震えた。
(何じゃこれは)
こんな輩は見た事がない。率直にそう思い、嘉はぽかんと目の玉を広げた。まるで零れ落ちんばかりに広げられた眼に映るのは、同じ様に真ん丸く目を見開いた相手である。
相手の男はそんな嘉を面白そうに見、そうしてから「意外によさそうじゃあないか」とごちて、嘉の小さな身体を綺麗な布団の上に転がした。男と比べたらまるで棒切れの様な嘉の身体は歯向かう事も知らず、ぽすりと真新しい布団に埋もれてしまう。更に男に覆い被されてしまえば、傍からは嘉の姿等見えやしなかっただろう。
此処で、どんな反応をすれば正解だったのか、嘉は知らぬ。
嘉はといえば、転がされたが故に乳母が整えてくれた髪も着物も乱れてしもうたと、ひどく憤慨して男をねめつけた。そんな嘉の反応に、男はといえば「何だかおかしい」と更に強く思い、彼女をじっと眺めた。
「なぁ」
「何じゃ」
「お前さん、今何を思ってる?」
怒りゃあしねえ、言ってみな。
男が優しい顔をして言うものだから、嘉は一瞬の逡巡の後、それでもはっきりと「背が痛い」と答えた。
「折角乳母やが整えたに、こうして乱暴をされては乱れるというものじゃ。御髪も衣も、わたくしでは整えられん。どうしてくれる」
嘉は思う様ぷりぷりと言い、ぼこすかと男の広い胸を打つ。その振動に合わせ男はくかかっと喉の奥で笑うと、嘉を抱えたままで布団の上にごろりと横になった。
「何じゃ何じゃ、まるきり餓鬼じゃ」
俺は無理強いする様な男でもないんだがなァ、こんな、何もわかってねぇ子供によう。そう低い声で笑って、男は嘉と並んで寝たまま何やら上機嫌だ。対する嘉は子供子供と連呼される様に腹が立って、隣り合った男の腹をばしばしと叩き続ける。
「餓鬼じゃという方が餓鬼じゃ」
「そういうところが餓鬼じゃな」
「口喧しい男じゃ」
不貞腐れた様な嘉に益々笑い、男は「ほれ、寝れんじゃろ」と言って身を起こすと、彼女の身に付けていた豪奢な花嫁衣装をそそくさと脱がせて行った。薄物一枚というところでほぅと息を吐いた嘉に、男は益々にんまりとする。
「そういうところがお前さんは餓鬼だ」
男は手にしていた衣装を放り投げ自らも薄物一枚になると、再度嘉の横に寝そべった。
「御姫様ちゃあ聞いてはいたが、どれだけの器量の御姫様が来なさるかってぇ思っておってな。鼻高々ないけ好かない御姫様じゃあ如何とせんと、こちとらちったあ金玉竦み上がる思いだった訳よ」
にっかりと大口を開けて、男は嘉の頭を大きな掌でゆっくりと撫でた。
「お前さんは餓鬼じゃが、そんなんでなくて安心したわ」
安心したから、とりあえずゆっくり寝ようや。
男が被せてくれた布団はたっぷりとしていて温かい。実のところ屋敷にいた頃使っていた物よりも高かったが、そんな事は嘉にはわからぬ。
「ああ、寝る前に、きちんとおさらいしとこか」
のろりと下がり出した嘉の瞼に優しい声が掛かった。
「俺は紀伊野屋藤衛門貞吉、お前さんの旦那さな。覚えなよ」
つまりそんな顛末で、二人は夫婦になったが夫婦でない。
あれから幾月も経ち、暑い日差しが畳を焼く頃になってもそれは変わらず、かといって二人の仲は冷めたものでもなかった。
夏の狐の嫁入りの後、ぽたぽたと瓦から落ちる雨粒の間を縫う様に縁側で手を差し出す嘉の耳に、毎度聞き慣れた低い声が届く。
「ひろ、ひろやい。ほれほれ、裏のばあ様に餡を貰ったぞ」
にこにこと、いつでも藤衛門は嘉に甘味を持って来る。肉を付けた方がいいと言うたのは正しくであったらしく、嫁いでからこっち、ぬくぬくと肥えている気がする嘉である。
「少しでよい」
「どうしたィ」
「あんまり食が進まぬ」
言うや、藤衛門の姿が消えた。消えた、とは言い過ぎであろう。大きな図体では消える事も出来ず、板の間をどしどしと歩いて行く音が響く。そうして一拍、「おおーい! こっちこっちー!」という叫び声に反応して、「はいよはいよー」と景気のいい声が二つ返った。それからまたどしどしと戻って来た藤衛門の手には、二つの湯呑みがしっかと握られている。
「……何じゃ」
「枇杷葉湯じゃわ。暑気中りにゃあこれじゃろう」
何と、食が進まぬと言うただけで丁度よく通り掛った枇杷葉湯売りを止めたらしい。嘉はおかしな顔をして、それでもその湯呑みを受け取るとそわそわとその表面を撫でた。
「ほれ、飲め」
「わたくしはこの味があまり好かん……」
渋い顔で言うと、藤衛門は「そう言われると困ると思ってな」ともう一つの湯呑みを指し示す。
「それを飲んだらこっちをやろう。冷や水じゃ」
つるりとした湯呑みの表面には水の玉が浮かんでは流れている。嘉はうんと声もなく頷くと、本当に嫌いな物を飲み込む態で手に持った湯呑みを一気に傾けた。そうして微妙な顔をしたまま、藤衛門の手にある冷や水を受け取ってちびちびと舐める。
「甘い。白玉も入っておる」
「お前さん、本当に枇杷葉湯が駄目なんか」
「どう言ったらええんじゃろ、あの微妙な味が好かん」
眉間に皺を寄せて冷や水を舐める嘉を、藤衛門はにこにこと眺めてから背を撫でて来る。
「まぁそうして飲めるんなら平気じゃろ。後は奥で涼しくしとけ」
優しい仕草に、最近の嘉は何だか落ち着かない気持ちになる。実はもう中っとるんかも知れんと思う体たらくだ。むず痒くなって、嘉は思い切って口を開いてみた。
「何や、藤衛門はわたくしの兄か何かの様じゃなぁ」
「お前本当に餓鬼じゃなぁ」
一拍と置かず、藤衛門は嘉の言葉を叩き落とした。
「何じゃその言い様!」
「何じゃはこっちの言い草じゃ惚け。夫婦で何で兄ィになるんじゃ」
「いや、そういう感じかと思うて」
己の横っ面を叩き出した藤衛門に、嘉は何だか腰を引きつつそう返す。
「乳母や以外、こないに尽くされた事もない。わたくしはどうしたらええんかわからん」
神妙な顔をして嘉は言う。
「お前さんの親父殿は、まぁあんまり構っとる感じじゃあなかったが、お袋殿はどうしたんだ」
「母上はわたくしにそうそう構われぬわ」
ぺいと今度は嘉が藤衛門の言葉を叩き落として、ゆっくりと冷や水を舐めた。
「わたくしは嘉。父上に、女子じゃから使い様があると拾われた、だからひろ。よう覚えておけと、母上はそれしか言わぬ」
言われ続けて巌の様に固まったそれを藤衛門に晒すと、何だか嘉の心はすっと晴れた様な気になった。
「じゃから藤衛門のところに来る事になった。父上も母上も本望じゃろう」
わたくしも、ようやっと離されて有難い。ちびちびと冷や水を舐め続ける嘉を、藤衛門は静かに見る。二人の眼前にはつたた、と瓦から伝う雨の滴が今以て庭の踏み石を一つ、絶える事なく濡らしていた。
「お前さんがそうじゃから、俺は甘やかさなァならん気になるんじゃわ」
ぽつりと、その滴に混ぜる様に藤衛門は言う。
「人形みたいになぁんも知らん、右に左に流されて当たり前じゃっちゅう顔しとるお前さんを、俺はでっぷり甘やかして、笑わせて、離れらんなくしてやりたいんや」
「わたくしは此処以外に何処にも行き様がなかろうが」
「そういうんでなくてやな」
はあぁと深い溜息を吐いて項垂れる藤衛門が不思議で、嘉は小首を傾げると庭先の池をついと眺めた。綺羅綺羅と日の光を浴びて光る其処が嘉の家の物であるとは、彼女は未だ思われぬ。嘉の中では自分は未だお客様で、つまり此処が終の住処であるという心積もりがまるでない。
けれど、けれど。
「まぁ、何やらわからんが、此処でよかったわ」
確かにそう思う。
「この音の方が、存外いいと思う様になるのやろ」
先程手首をしっとりと濡らした雨の滴は、今までの様に嘉の心を冷やすものではなくなる筈だ。逆に嘉の温まった心を丁度よく冷やす様な、そんなものになるのやも知れぬ。それは偏に二人のこれから次第であろう。
「此処に嫁いで、多分よかったぞ、藤衛門」
口の端を少しだけ上げて微笑む嘉に、藤衛門は再びの溜息を吐きながらそれでも笑い返した。
***
紀伊野屋の若旦那が己の御新造さんにべた惚れじゃというのは、天下の江戸っ子なら誰しもが知っている。
しかし。
「ひろひろぃ。表に水菓子売りに来とるが食うかい?」
「さっきお前様から煎餅を貰うたばかりじゃろ。わたくしに一体どれだけ食わす気か」
専ら餌付けに御執心な旦那様と慣れてしまった御新造さんが実は未だまっさらに綺麗な関係だというのは、お女中さんがこっそり知っておけばいいだけの話だ。
たた、つ、たた 安芸ひさ乃 @hisano_aki
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